第52話 母
広央が7歳の時。
単なる知恵熱だったのか、それとも悪性の風邪だったのか。
高熱を出して布団の中で縮こまっていた。
喉が腫れて頭がズキズキする。
小春は買い物で、ユキは山での訓練に参加。
広央は家に母親と二人きりだ。
母が子供部屋に入ってきた。
一瞬、看病しに来てくれたのかと思って嬉しくなった。
「母さ…」
「美容院に行ってくるわね」
そう言って母は出掛けた。
寝込んでいる広央に対し、なんの感情もない表情で。
広央は玄関が閉まる音を熱のこもった耳の奥で聞いていた。
彼は早く小春おばさんやキヨおじさんやユキが帰ってくればいいのにと、ただそう願った。
広央に対する母親の対応はいつも通りで、何ら変わりがない。
彼も母親とはこういうものだと思っていた。
子供が病気でも母親は出掛けるものだと…。
けれど心にぽっかりと穴が開いたような気持になった。
これが“淋しさ”だったと広央気付くのは、だいぶ後になってからだった。
◇◇◇
空が日に日に青く深く澄んできている。
夏が来たのだ。
海面は太陽の光を受けてきらきらと光っている。
海水温度はまだそれほど高くないので、海水浴客はまばら。
浜辺の砂はほんのりと熱を帯びている。
広央とイサは並んで歩いていたが、イサが急に駆け出し数メートル先にしゃがみ込んだ。
「ヒロちゃーん、カニいた、カニ」
嬉しそうに広央に報告する。
10歳になったイサは背も随分伸びた。
腰のあたりまである白い髪は、さっきから汐風にぶわっと吹き上げられては舞っている。
白い髪が光を反射してきらきらしている。
眩しすぎて目が痛いくなるくらいで、広央は目を細めながらそんなイサを見つめる。
笑った顔が可愛らしかった。
オメガの子の特徴的な外貌。漂白されたように白い肌、白い髪、それに色素の薄い目の色。
それが薄気味が悪いと嫌う人もいる。
けれど広央にはただただ可愛いかった。
イサの笑った顔が好きだった。
『イサは女の子なんだな…』
最近、広央はそんな事を頻繁に思っていた。
出会った時イサはまだたったの3歳で、女の子だなんて全く意識してなかったけれど。
“広央ももう15歳よね、ラット検査受けさせなくていいの?”
家を出る前の、小春おばさんと母の会話が頭をよぎる。
性誘因耐性検査。通称“ラット検査” オメガの発情期のフェロモンに、どれだけ耐性があるかを確認する検査だ。
あらかじめ耐性がどれくらいあるかを測っておけば、強制番や性加害を犯す危険が防げる。
保険も適用される検査だ。
最も社会的高位者の多いアルファが、反対に社会的地位の低いオメガに何か危害を加えたとしても大して問題はないと世間は考える。
オメガがアルファの性加害を訴えても、“被害者にも落ち度があった”と非難の矛先はオメガに向かうのが常だ。
『そんな検査受けなくてもいいだろ。イサの発情期が来るのはまだ先だろうし、だいたい街でオメガの子を見ても、なんとも思わねえもん…俺は誰の事も襲ったりしないっつーの…』
検査を受けたくない理由は他にあったのだが、広央はあえてそこには目を向けないようにしていた。
母はいつもの通り自分には無関心だ、検査を強いる事もないだろう。
この話題はスルー出来るはず。
広央はそんな事を考えながら、砂浜に腰を下ろした。
空を見上げると、遠くに一羽の大きな鳥。
コアジサシだろうか…
山狩りからもう3年、広央は15歳になっていた。
もう子供の波兎組はとっくに卒業。この島を守る警察と軍を兼ねた猪狩隊の隊員だ。
とはいっても学校に行っている身分。
主に放課後と休日を使って大人たちに交じって訓練に参加している。
今は体力増強のための、障害走や体力調整などの基本訓練がメインだ。
これから迎える夏休みに、より本格的な訓練を行う。
ロープ(結作)訓練に、山地で生き延びるための生存自活訓練。
『ヘビとかカエルとか調理して食べるんだよな~お腹大丈夫かな…俺』
ふと見ると、いつのまにかイサが膝あたりまで海に入って、バシャバシャと水しぶきを上げていた。
スカートの裾をたくし上げて、無心に遊んでいる。
「イサ、危ないよ!」
どんどん沖の方に行くイサに向かって叫ぶ。
「だいじょうぶだもん!」
イサはますます沖の方に進んでしまう。
「待って!」
広央も海に入ってイサを追いかける。
歓声を上げながら、2人して波間で無邪気に戯れた。
それは二人の間に決定的な亀裂が入る“あの事”の、たった1ヶ月ほど前の事だった。
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