第十三章 灯火
「数が多すぎて埒が明かん!陽向、何か方法はないか!?」
狐祓いで硬直した狐を蹴り飛ばして、密草が叫ぶ。乱入した弥樹をセリナが引き離したことで純粋に狐の大群とだけの戦いになる。弥樹を気にする必要はない。
「コピーも中身は管狐だから、結局稜樹さんを叩くしかないですね!」
押し寄せる狐一匹一匹の戦力は高くない。生きている獣より動きも鈍い。故に、術師しか対峙していない現状でも何とか支えられている。それでも長引けば不利になる。
「稜樹をって言ったって、あいつ狐の向こうだぞ!?」
落合の嘆きは当然で、稜樹に近づくためには狐を何とかしなければいけない。けれど拮抗しているだけで押し返せない。
「……一点突破?」
「できるわけねえだろ、馬鹿!」
思い付いた強硬手段を呟いた陽向を落合が一蹴する。
「いや、道を作るだけなら何とかなるかもしれない」
振り向いた春日野は、陽向の肩に乗る子龍を見ていた。
「そうだ、子龍!」
「ぴ!?」
何をさせられるか気付いた子龍が慌てて首を振った。最近は意思疎通が随分やりやすくなったと思う。少なくとも「はい」と「いいえ」を間違えることはない。
「ダメじゃない、やるぞ!」
「ぴぃい!!」
子龍が拒む理由は簡単で、陽向の力の残量を気にしている。自分の力量を感知できない陽向に不安がないわけではない。さっきから結界術やら拘束術やら連発しているし、刀に施された狐断ちの術式も発動しっぱなしだ。こちらの動力源も陽向である。
「今のところ不調はねえ、やれる!」
身体はまだ動く。みんなが頑張っているのだ、陽向だけ怠けるわけにはいかない。
「命くらい、賭けてやるってんだ」
「それはセーブして欲しいよ、上司としては」
春日野の嘆息が聞こえたが、彼だって体を張っているではないか。
「待って。子龍が狐の波に穴を開けられるとして、その後陽向君は走れるの?」
寺尾が真顔で言う。狐断ち、すなわち管狐の術式を断つ刀を授かっているのは陽向だ。陽向本人が稜樹のところまでたどり着かなくては意味がない。
「……が、頑張ります!」
「根性論も大概にしろよ!!」
落合が頭を抱えそうな勢いで叫ぶけれど、他に案があるなら出して欲しい。
「あるわけねえだろ、ちくしょう!」
吐き捨てた落合を放置して、陽向は子龍を小脇に抱えた。
「行きます!」
「できるだけ援護するわね」
寺尾がにやりと笑って護符を構えた。
〇
希望が潰えていることは理解している。
岩屋の奥、牢獄で飼っていた狐を模した妖は稜樹の背後から無尽蔵に湧き出す。新技術の実験だとの説明だったたが、現時点で充分に完成されているように思える。
狐祓いに追い出された管狐が完全に消滅する前に呼び戻す。稜樹の指を舐めてから竹筒へと入っていく。すぐにもう一度呼び出して岩屋へと返す。保存した狐の死体はいくらでもある。
こんなにたくさんの管狐を扱ったのは初めてだ。制御はギリギリのところで持ち堪えているが、いつ崩壊してもおかしくない。それが稜樹の死ぬ時だ。
「あと少し、あちらもそろそろ限界なはず……」
彼らを殺したところで、ヌシが振り向いてくれるとは思えない。稜樹にヌシの姿を視ることは叶わないだろう。一つ目は彼らの嘘を断じたが、それが都合のいい讒言であることに稜樹は気が付いている。
それでも、辞められないのだ。
稲生山のヌシを頼って現れた妖狐をたくさん狩った。実際に狩ったのは稜樹ではないが、実験への協力を持ちかけられて同意したから同罪だ。
どうかしていたのだと思う。ヌシに振り向いて欲しくて、管狐を操る正しい力を得たくて、狐憑きになって死にたくなくて、最後の希望に縋った。
どこからか連れてこられる妖狐たちがヌシの眷属になりに訪れたモノたちであることには薄々勘付いていたが、差し伸べられた救いを振り切ることはできなかった。
狐たちはまだヌシの下へ行ってはいない。ヌシは彼らのことを認識すらしていないのだ。彼らがヌシと接触する前に捕獲してしまえば、そのことを咎められる心配はないと踏んだ。
だが、少し考えればわかったはずだ。稜樹たち稲月家は、ヌシから大切なものを奪いすぎている。
赦しなど、請うべくもない。
最早流れ作業のごとく狐の死体を送り続ける稜樹の正面に、紫色の小さな龍を肩に乗せた少年が立つ。
畏れ多くもヌシの名代を名乗った不届き者である。どうやってヌシと接触したのか、そもそも彼にはヌシを視ることができたのか、稜樹は首を捻る。
何故、世代を超えてヌシに散々尽くしてきた稲月家の末裔たる稜樹ではなく、あのような少年がヌシに呼ばれるのか。稜樹には到底、理解できそうにない。
〇
弥樹がどれほど炎を放とうとも振り払われる。
弥樹の炎は血のように紅い。対する少女の炎は、あの日視た美しい炎だった。やっと正体を現したか、と弥樹は上下の歯を割れんばかりに擦り合わせる。
弥樹を嘲うように紅い炎を真似ていた狐が、ついに神意としての炎を見せた。振るわれる刀に合わせて靡く火は弥樹の憧憬と重なる。
羨ましいと思った。あの炎が美しかったから、祐樹も彼女に惹かれたのだろう。だから弥樹も炎を望んだ。炎を望んで、幼き日に契約を交わした管狐をも喰らった。
そこまでしても、弥樹が手に入れた炎は美しさとかけ離れている。
飛ばした数個の炎弾を長く尾を引く緋炎がひと薙ぎで吹き消す。
「どうしたの!?全然近付いてこないじゃない!」
先程から、少女は遠巻きに小刻みな移動を繰り返しながら弥樹の攻撃を受け流している。弥樹が接近したときのみ応戦するが、すぐに距離をとろうとしている。
「近付いてこなきゃ、私は殺せないわよ!?」
その姿がひどく消極的に見えて、弥樹は苛立ちを隠せない。
〇
自分でも驚くほどに落ち着いていた。
目の前に居るのはセリナから両親を奪った女で、その事実に対する憎悪は未だに心の内に燻っている。今すぐ懐に飛び込んで、脳天から炎を叩き込んでやりたい気持ちがないと言えば嘘になる。
だが、それ以上に。
「父さんは、貴女を止めようとしていた」
記憶に残る、深夜に自宅を訪れた見知らぬ女と父の会話。
「今ならわかる。父さんは、貴女のことも助けたかったんだと思う」
言い争う二人の声が蘇る。
「父さん、必死に呼びかけてた」
独り言程度に呟くセリナの言葉がどこまで弥樹に届いているかはわからない。セリナの、或いは沙夜の声など聞かないと、耳を閉ざしているのかもしれない。先刻から、弥樹は距離をとってばかりのセリナを煽る暴言を吐き続けている。
「殺したいんでしょう、私を!」
絶叫した弥樹が突進してきて、短刀の切っ先を受け流す。刹那交差した耳元で、セリナは問うた。
「何故?」
「はあ!?恨んでないわけないでしょう!?私を誰だと思ってるの!!」
――届いた。薄く吐息して、セリナは再び弥樹から離れる。
「ねえ、本当はわかってるんでしょ?」
動きを止めたセリナに呼応して、弥樹が前傾姿勢のままで静止する。深紅に燃える毛先が風に舞って火の粉を散らした。
「私が、違うって」
少なくとも、弥樹の思う世界の中では、沙夜が弥樹を恨む理由など存在しないのだ。だって、弥樹の中で沙夜も祐樹もまだ生きているのだから。
弥樹はまだ何も奪っていない。そんな彼女の世界において、彼女を殺したいほどに恨む者などいない。彼女はただ男に選ばれなかっただけだ。
ならば、彼女が自身を殺せと煽るセリナは何者なのか。
「貴女は気付いてる。貴女は、私の父と母を、稲月祐樹と沙夜を、――殺した」
「あ……」
「だから、恨まれてると思ってる。二人の娘である、私に」
「あ、ああ……」
酸素を求めて動いた口から意味のある言葉は紡がれない。後退って震える両手が頭部に乗った。何事か叫びながら頭皮に爪を立てる。
セリナだって、今まで目を逸らしていた。もし、あの時止まれなかったらと思うと、他人事とは思えない。
「あははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」
絶叫が喉を震わせる哄笑に変わり、天を仰いだ首ががくんと落ちた。
「恨まない、わけない。あんたが、私を恨まないわけない……」
「うん、恨まないわけない」
膝下をばねのように伸縮させて、セリナは弥樹との距離を一瞬で詰める。右手にあった太刀を左手に渡して、空いた右拳を爪が食い込むくらい握り締める。
「だから」
顔を上げた弥樹の虚ろな瞳に映り込んだ自分が酷く滑稽に見えた。
「二度と私の前に現れるなっ!!!!」
肩から振り抜いた拳を、呆けた弥樹の頬に叩き込む。指の骨が歯に当たって軋む。吹き飛ばされた弥樹は何回かバウンドして滑りながら止まった。
「けど、何でだろ、殺したいとは思わない」
我ながら野蛮だとも思うけれど、ちょっとすっきりした。拳を開いて手を振って、セリナは太刀を構えなおす。髪から炎を吹きながら、弥樹が起き上がろうとしていた。
「私は、妖生活安心課所属、稲月セリナ」
切っ先と重ねて立ち上がった弥樹を見据えて、セリナは握った太刀の刃を上に向ける。
「稲月弥樹。妖力濫用、放火、殺人の容疑により、貴女を捕縛します」
刃を包んでいた緋色の炎が空気に溶けるように消えた。踏み込んだ先で弥樹が目を見開く。
「大人しく、捕まりなさいっ!!」
無防備な鳩尾に、太刀の峰が吸い込まれる。刃を返した太刀は鈍器と同じだ。切り裂かれず、くの字に折れ曲がる弥樹の身体の向こうに、櫓の上で散り散りになる黒い狐の波とその中心で燃える赤い炎が見えた。
〇
「子龍、やれ!!」
「ぴっ!!」
どうなっても知らないよ、と一度陽向を見上げて子龍が最大級の勢いで水を放出する。消防の放水よろしく高水圧で飛び出した水はレーザービームのごとく黒い狐たちを弾き飛ばした。
「だいぶやけくそ感あったな……」
密草の呟きを聞き流して、陽向は床板を蹴って走り出す。管狐の操る狐の死体も、複製された妖狐も攻撃を避けようとはしない。痛覚も危機感もないのか、物理的に肉体が動かなくなるまで動き続ける。
彼らは豊姫を頼って集うという狐たちなのだろう。いずれは右近のように神使となったかもしれない狐たちだ。それがこんなところで命を失い、あまつさえ死体を辱められている。
無念だろうと、思う。空いた穴を埋めるために動いた一匹をすり抜けて、飛びかかったもう一匹は落合の結界に阻まれた。
「道を維持するわ、行きなさい!」
子龍の水が割った道を境にして、寺尾の結界が立ち上がる。陽向が進むべき道を明確に指し示す。
「寺尾さん、すげえ」
距離にして十メートル、一メートルほどの距離を開けて立つ双璧は、今まで見てきたせいぜい五メートル四方の壁を作る結界とは一線を画す規模だ。両脇の結界の二つともが寺尾一人が展開する術だ。
「上から越えられるわ。春日野君、密草君」
「はいよっ!」
「うん、了解」
いつの間にか陽向の後ろについてきていたらしい春日野と密草が狐祓いの術を撃つ。網状に狐の身体をすり抜けた術式に絡めとられた管狐が視えた。
「稜樹さん!」
「く、来るな!」
稜樹が振った腕の動きに呼応して狐が一匹躍り出る。
「俺の、名代としての仕事は終わってない」
身体を捻って避けた狐が密草の拘束術式に囚われた気配を感じた。
「稜樹さん、豊姫様……稲生山のヌシ殿より、伝言があります」
「嘘を言うな、何でお前なんかがヌシ様に!!」
「それはごもっともなんですけど!!」
豊姫が呼んだのが陽向だったからだ。
「けど、聞いてください、ヌシ殿は、稲月家から――ひっ!?」
稜樹が開けた竹筒から飛び出してきた管狐が一匹顔の前で燃えて、後ろにたたらを踏む。眩んだ視界にずらりと並んだ白い牙が見えた。
「ヤバっ……」
鬱血して青黒く変色した舌が風圧に逆らわずに巻かれている。直角に開いていた口が、突然消えた。
「え」
「ぼさっとすんな!」
狐の腹に巻き付いた拘束術式を引っ張り上げて、一本釣りのごとく黒い狐が宙を舞う。
「陽向、もう言っても無駄だから実力行使しろ!」
「ええ……」
「もう結界が持たない、急げ!」
「先に狐を止めてくれた方が助かるね、僕らとしては」
説得が通じるならそれに越したことはない。恐らく、稜樹の求めるものと豊姫の考えにそう大きな乖離はない。稜樹が応じてくれさえすればやることは変わらないのだ。
「チャンスは、もう作れないよ」
春日野が言い聞かせる。狐たちが結界を割ろうと体当たりをしている。何匹かは飛び越えて春日野や密草に襲いかかっている。自分の体力の消耗を自覚して、子龍による放水も二度目はないことを飲み込んで、陽向はもう一度稜樹と向き直った。
「――、後で全部説明しますんで!」
稜樹の足運びを見れば、彼に体捌きの心得がないことなどすぐにわかる。河野に仕込まれた戦闘技術、妖相手ならともかく、管狐を使役しているだけの人間ならば、陽向の相手ではない。
春日野が落とした狐の脇をすり抜けて、迷わず一気に稜樹の間合いへと飛び来む。反射的に顔を庇った左手を掴んで固定、逃げ場を失くした横面を狙って、刀の柄の先端、頭を打ち付ける。
すばやく重心を移動させ、見据えた目標である稜樹の右手に黒ずんだ細い両手が絡みついた。
「あ……」
靡いた長い黒髪が視界に入って、陽向は息を呑む。同じ管狐だから、妖気では気が付かなかった。
倒れる稜樹を支える細腕は、稜樹の抵抗を後押しするためかと身構えた陽向はすぐにその考えを否定した。
陽向が狙う、稜樹と管狐を従える竹筒を繋ぐ紐が、彼女の腕によって丁度狙いやすい位置に調整されていた。
「っ!!」
迷う必要は、なかった。踏み込んだ足に体重を乗せて、刀が鋭く風を切る。切っ先が、狐断ちの術式がかけられた刃が、管狐との契約を一瞬で両断した。
稜樹が支えを失って倒れていくのがスローモーションのように間延びして見えた。稜樹の腕を離れた両手が炎に包まれる。
管狐の、最期の炎だ。
器であるその身を焼きながら、黒髪が上昇気流に乗って舞い上がる。露出した女の顔は、稜樹を見下ろして穏やかに微笑んでいた。それもすぐに炎に包まれる。
刀を振り切った勢いそのままに、陽向は目を逸らして切り抜けた。
繋がりを失った竹筒が、櫓の床板に落下した。
狐たちがバタバタと倒れていく。身体から抜け出した管狐たちが急いだ様子で主を失った竹筒の中へ吸い込まれていった。逃げ出し始めたのはコピー妖だ。
その様を油断なく見渡していた陽向の目の前に何かが飛んできて、床板に激突して爆発した。
いや、爆発したように見えただけだ。それくらい激しい衝突だった。土埃に咽ている間に、少しだけ変化した見知った妖気が着地する。
「もしかして……やりすぎた……?」
櫓の床板に開いた大穴を見下ろして、セリナがオロオロしていた。
「ど、どうしよう、死んじゃってたら……」
「あー、そっちはたぶん大丈夫だと思う」
大穴の下からの妖気は弱っていても健在だ。それくらいは陽向が保証する。
「あの、稜樹さんの方は……」
むしろ陽向が緊張しているのはこちらだ。一度動きを止めなければ竹筒に触らせてくれそうになかったので攻撃してしまったが、人を本気で殴打したのはこれが初めてである。
「ん。脳震盪だろうが、大丈夫だ。ほっといてもその内起きるだろ」
気絶した稜樹は密草が介抱しながら縛り上げている。瞼を持ち上げたりしているから、医師としての彼の診断を信じることにする。
「稲月弥樹を拘束しないとね。そっちは僕が行こう。セリナ、一緒に来てくれる?」
「はい!」
下の階までは普通に通常の建物の一階分の高さがある。にも関わらず、春日野は大穴に身を躍らせた。直後、大きな音と春日野の小さな「ぐえ」という声が聞こえる。
「か、春日野さん、大丈夫ですか!?」
続いて飛び降りたセリナは問題ないだろうが、何故春日野が飛び降りたのか理解できない。
呆れ目を向ける陽向の背後で、嫌な気配が蠢動した。
振り向いたその場に異変はない。いや、違う。さっきまでそこに落ちていたはずの、管狐の竹筒がない。
「春日野さん!セリナ!」
慌てて呼びかける。すぐ近くに感じる妖気、近すぎて判定が狂いかけているが、これは上下の間がある。一階層下、セリナと春日野が降りて行った櫓の下だ。
「一つ目が――」
駆け寄った大穴から下の様子を見下ろす。
立ち上がった稲月弥樹の後背から、一つ目の刃が彼女の胸を貫いていた。
「――は?」
理解が追いつかず、口が勝手に吐き出した息が辛うじて音を紡ぐ。口から鮮血を吐いた弥樹の、胸から飛び出した白銀が徐々に少なくなっていく。
実際にはそこまで時間がかかっていない。引き抜かれた胸元から盛大に血を吹いて、弥樹の身体が崩れ落ちた。
「二人とも、しっかりしろ!」
春日野とセリナを叱責して割り込んだ剣持は、一つ目の剣撃を棍棒で受け止めていた。
「何のつもりだ!」
飛び退いて距離を取った一つ目に剣持が普段とは打って変わった怒声を浴びせる。
「別に、ここらが潮時だと思ったのみ」
一つ目の返事は冷たい。剣持の空気を震わせる凄みすら受け流して、自然体に佇んでいる。
「すべてを消し去って戻ろうかと」
陽向の背筋に氷水を注がれたかのような悪寒が走った。その出所に気付いて、陽向は振り返る。
位置と角度は剣持とセリナの背中を向いていた。まだ誰も気付いていない。今からでは声で指摘しても間に合わない。
空中で形成される妖気の射線上に、陽向は自らの身体を滑り込ませる。すでに目の前に切っ先があった。
「!!」
声も出せず、必死に持ち上げた刀身に飛んできた短刀の切っ先が当たる。激しい金属音の直後、左腕に感じた衝撃に縺れた足が身体を一回転させた。
「陽向君、だめ!」
寺尾が手を伸ばしてくれたけれど、届く距離ではない。
よろめいた足の降りる先、そこに櫓の床板はない。
身体が、つかの間の無重力を感じた。
絶対に死んだと思った、落下が衝撃と共に止まる。恐る恐る開いた眼下に所在なく揺れる自分の足と白く霞む靄が見えた。
「っ陽向、手を……!」
頭上から降ってきた少女の声が陽向を現実に引き戻す。見上げれば、陽向の右手を掴んで櫓から身を乗り出したセリナの顔があった。
セリナの上に一つ目の妖気の塊を見つけて、陽向は慌てて叫ぶ。
「セリナ、上っ!!」
「え?」
目を見開いたセリナを跨いで、剣持が立つ。振ってきた短刀を払った。
「早く、引き揚げろ!」
「陽向、そのまま動かないで」
剣持がセリナの腰帯を掴む。動かないでも何も、動けないが正しい。セリナが掴んだ右手以外に、今陽向がどこかに掴まる場所はない。
さっきちらっと見てから見なかったことにして平静を保っているが、左腕に短刀が突き刺さっている。この深さと痛みは恐らく貫通している。手を濡らした血の感触はあるから、神経は大丈夫だと思いたいが。これ以上気にすると意識が遠のきそうなので必死に頭の隅へ追いやった。
「んっ!えい!」
ぐわっと、力が加わって身体が上昇する。置いていかれた内臓が慣性に従って下がる。
セリナの腕力は妖のそれであり、一般的な人間を凌駕している。だから、剣持の助けで一度踏ん張りの効く体勢を作れれば陽向一人を持ち上げるくらい造作もない。
足裏が櫓の床板に乗った感覚はあったものの、平衡感覚がなくなっていた。
「え、ちょ、陽向!?」
耳元でセリナの焦る声が聞こえる。
救い上げた途端に倒れかかってきた脇に咄嗟に手を入れてしまった。今更突き放すわけにもいかず、支える方を選ぶ。背中に触れた手が震えた。
「っ、すまん」
セリナの肩に掴まって、全身で寄りかかっていた陽向の体重が少し軽くなる。まだ意識を失うまでには至っていないらしい。
それでも立っているのがやっとな様子の陽向から手を放すことはできない。彼の腕に刺さった短刀の存在はセリナも気が付いている。
支えた背の後ろ、セリナの正面の何もない空中に無数の刀身が浮かび上がるのが目に入った。そのすべての切っ先がこちらを狙っている。
「ここで全員、死んでおけ」
一つ目の声がした。声が心なしか苦しそうに聞こえたのはセリナの気のせいではなかろう。
十や二十どころではない。この階にいる春日野たちはもちろん、上階の寺尾たちまで射程範囲だ。
片手を前に翳したのは、本能的な防衛行動だ。
ただ、何とかしなければいけないと思った。
あの刀たちを防がなければいけない。あの量だ。春日野たちが張る結界術だけでは持ち堪えられない。
伸ばした掌が、熱く燃えた。
炎の壁が一帯を包む。セリナの意思を汲んで、緋色の炎が刀剣の連射を飲み込んでいく。
妖力の意思を持った刀たちは、ただ必殺の念を以って防がれようとも直進をやめない。正面から炎に突っ込み、鉄を灼熱に発光させながら迫る。
「負けて、たまるか……!」
歯を食いしばるセリナの背を剣持が支えてくれる。陽向を支える左手にも力を込めて、セリナは足裏へとさらに重心を乗せた。
「もう二度と、奪われてたまるか!!」
やっと見つけた帰る場所を、簡単に諦めることなどできない。
火勢が増した。絶対に通さない、その少女の信念を受けて、炎は鉄をも溶かす灼熱となる。
一つ目が櫓にかかった橋を渡って岩屋の方へ向かって行くのがちらりと見えた。
眩く燃えた炎の壁が消失したとき、そこに残る刀剣は一振りとして残っていなかった。
「……何とか、なった?」
向けられた殺意がすべて消えたことを確認した瞬間、足の力が抜けた。
「おっと」
後ろから剣持が支えてくれる。セリナもセリナで陽向を抱えているので二人纏めて剣持が預かる形となった。剣持が手伝って、ゆっくりと腰を下ろす。
「あいつ……一つ目、居なくなりましたね」
「陽向!大丈夫!?」
どうやらまだ意識があったらしい。座ったことでセリナの支えから離れて陽向が自力で座りなおす。
「まだ妖気わかるから大丈夫なんじゃね?」
大きく溜息を吐いた陽向だが、顔色は悪い。セリナは陽向の左手に掴みかかった。
「大丈夫!?火傷してない!?」
陽向から「そっち?」という声が上がるが、セリナはそれどころではない。落ちたときに掴んだ部分は赤くなっているが火傷という感じではなさそうだ。
「背中は!?」
「あー、たぶん大丈夫」
そっちは、と付け加えて陽向が遠い目をした。
「火傷、してない……」
「ん。言ったろ、大丈夫だって」
「大丈夫じゃねえわ、この馬鹿!!」
割り込んだ密草が陽向の頭をはたく。突然の出来事にセリナが目を丸くしているのもつかの間、密草が強制的に陽向の首を横へ回した。
「こっち見るな、絶対に見るなよ!」
「やっぱヤバいことになってます?」
「見るなつってんだろうが。あえて答えてやらん」
「それはそれで怖いんですけど」
二人のやりとりに、陽向の腕に突き刺さった刀を思い出して、セリナの血の気が引く。自分がやってしまったかもしれない火傷の心配をしている場合ではなかった。
「毒は、ねえな。よし」
セリナには判別のつかない術式を操作して、密草が独り言ちる。
「おし、陽向。このまま市立病院行くぞ」
「え?医院ではなく?」
市立病院と言えば、この付近では一番大規模な病院である。課員である密草が経営する密草医院ではなく、そちらを指定した。
「馬鹿言え、
「これ一般の病院に持ってったら大騒動になりません!?」
具体的には警察とか。
「事情知ってる医者がいるからその辺は気にすんな。剣持!」
「はい。セリナ、悪いけどちょっとどいてくれ」
「は、はい」
セリナが陽向の正面を譲ると、剣持がしゃがんで陽向に背を向けた。
「だっこの方がいいか?」
「おんぶでお願いします!」
密草の助けで陽向を背負った剣持の口角がほんの少し上がる。その表情を、セリナは意外な思いで見上げた。普段表情を動かさない剣持が、笑っている。
「セリナじゃなくて悪いな」
「いや、それはさすがに。――剣持さんでも冗談とか言うんですね」
苦笑いで受け答えた陽向に対して剣持が肯定を込めてふっと微笑む。セリナはようやく剣持が揶揄っていたことを悟った。
「ちょうどいいわね。剣持君、そのまま陽向君の気を逸らしておいてね」
表情だけは柔和に笑いながら、寺尾が付き添う。
「そんだけ喋れりゃ大丈夫だろ」
その後ろから落合が立ったままのセリナを追い抜いて行った。
「沙夜の御息女殿」
「!」
陽向が背負われたままで異界を繋ぐ術式を作動させるのをぼんやり見ていたら、背後から声をかけられた。腰を下ろした狐が尻尾を振っている。確か、右近と呼ばれていた稲生山のヌシの眷属だ。
「最後にお返事を頂いておこうかと。聞かずともわかりますがな」
切れ長の目がセリナを見つめていた。
「我が主、豊姫様の眷属になる気は?」
目を瞬いて、一度驚いたセリナだったが、すぐに答えは出た。
「――すみません。眷属には、なりません」
みんながが呼んでいる。
「今は、帰るところがあるから」
狐の顔なのに笑顔になって、右近は「でしょうな」と一言言った。
「遠い未来、もし居場所がなくなったならば、いつでもいらっしゃい」
「ありがとうございます」
右近がセリナを案じてくれているのが伝わってきて、セリナは最大限丁寧に頭を下げた。顔を上げずにしばらくいると、右近が「それと」と発した。
「眷属云々は関係なく、そのうち遊びにいらっしゃい。豊姫様が貴女の顔が見たいとおっしゃるので。もちろん、陽向殿や生活安心課の皆さんもご一緒に。歓迎しますよ」
自然、頬が綻ぶ。顔がこの動きをするのが久しぶりすぎて、少しぎこちないかもしれない。
「はい!」
「セリナ、行くよ~!」
右近に返事をしたセリナを、春日野が呼んだ。
「お行きなさい」
軽く会釈して踵を返す。右近に背を押されるように、セリナはみんなのところへ駆け出した。
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