第十二章 炎色の約束

 いくつか愛用している棍棒のうち、鋼鉄製のものを持ってきて正解だった。抜き身の刃を打ち返して火花を散らし、痩躯を弾かれた編み笠の妖が階下へと着地した。それを追いかけて、剣持も飛び降りる。

「油断するでないぞ」

隣に降り立った銀の毛並みの狐が言う。右近という名で、ここ稲生山のヌシの側近であるそうだ。剣持は陽向のように妖気を感じ取ることはできないが、それでもこの狐が纏う雰囲気が尋常の妖でないことは察せられた。そしてそれは対峙する剣士からも伝わってくる。

「見たところ、其方そなたたちの中で一番腕が立つのが其の方であるが、あれは軽く凌駕するぞ」

「承知」

短く応じた時にはすでに、目の前に刀が迫っていた。棍棒で受ける。

 剣持は純粋な妖ではない。それどころか血縁ですらない。ただの偶然で妖の力をその身に宿しただけの人間だ。対する編み笠の一つ目は陽向の観測によれば完全なる妖。それもヌシに匹敵する妖気を持つという。

「ふっ!」

避けるのが難しいとされる、胴を狙った横薙ぎの攻撃も上への跳躍一つで軽々と躱されてしまう。巧みな重心移動によって重力に従うよりも素早く地についた足が地スレスレを薙いだ。

 足を払われて崩れた体勢を、ついた片手で後方に下がって立て直す。追いかけようとした一つ目を右近の前足の爪が狙うのを避けて、一つ目も後退した。一時的に距離が開く。

 やはり戦力差は歴然だ。右近との共闘によってギリギリのところで拮抗している。だが、剣持は気が付いていた。それは同じ敵と切り結ぶ右近も同じ。

「あ奴め、まるで本気ではないな」

唾を吐き捨てた右近が最初に負った傷はもう塞がっている。交戦し始めて剣持が思う違和感は、ヌシの側近にたったものの数分で傷を負わせた相手の実力だ。一言で言えば、相応の手ごたえがない。

 のらりくらりと受け流されている、そんな印象。だが、本気になられたら剣持に勝ち目はない。一つ目が手を抜いている現状は、剣持たちに有利をもたらしている。

「それでいい。俺たちの役目は足止めだから」

「勝つ必要はない、と?懸命だな」

自然体にだらりと下げた手にした刀を揺らして一つ目の口が三日月形に歪む。地の底から響くような声だ。

「あんた、やる気ないだろ」

相手がどう動いても対応できる角度に棍棒を調整してから剣持も応じる。

「……目的が出てきてくれないから」

「む?察しておるか」

これまでの言動から予測しただけだが、一つ目からは意外だったようだ。剣持の耳はいい。まさか聞こえているとは思わなかったのだろう。

「ヌシは、出てこない」

剣持の言に反応して刀が跳ねた。それが答えだ。

「貴様、目的は豊受姫様か。不敬なり!」

右近の咆哮が周囲の空気を震わせた。ものともせず、一つ目の一瞬の動揺は収まっている。

「たかが稲荷神のいち神格ふぜいが、そこまで高尚なものでもあるまいに」

含み笑った一つ目に、剣持の隣で右近の背中の毛が逆立つ。

「右近殿、いけない」

即座に駆け出した右近が全力で踏みつけた床板が割れる。足元が崩れて、剣持は宙に浮いた破片を蹴って無事な床へと飛び乗った。間髪入れず、走る右近を追う。

 一つ目が掲げた刀に右近が噛みついて、大きな首を振る。その膂力にも関わらず、一つ目は微動だにしなかった。だた、折り曲げられた刀だけが折れる。

「これで……」

「右近殿!」

一歩遅れて飛び込んだ剣持には見えていた。がら空きになった一つ目の左手、その中に何もない空間が歪んで刀の形を造り出すのを。

「くっ!」

剣持の忠告が間に合って、身体を逸らした右近に躱された刃が空を突く。避け切れなかった剣圧が右近の毛を裂いて赤い血を散らした。

「やあっ!!」

空振った突きを好機と突き出した棍棒は、一つ目がいつの間にか右手に握っていた真新しい短刀に阻まれた。懐刀よりも刀身の短い小さな刀とは思えない力で押しとどめられている。

「退け、小僧!」

右近の叫びが聞こえて、剣持は押し返される棍棒の力を利用して後ろに跳んだ。割り込んで正面に立った右近の尾先が炎に包まれている。

「喰らえ!」

薙いだ巨大な尻尾が一つ目を直撃して吹き飛ばす。一瞬火の玉となった一つ目だったが、器用に一回転した風圧で身に纏った炎を振り払った。

「狐火を消すとは。其の方、何者か」

落ちた血液が点となって床板を汚す。目を細めた右近に対して、一つ目は飄々と口を開く。

「わからぬ」

「は?」

間抜けな声を出した右近を、剣持は責められない。剣持も開いた口が塞がらないから。一つ目は両手にした刀を振る。

「名など忘れた。そして、不要なり」

「其の方ほどの妖が、名を持たぬ……と?」

軽い足音と共に、一つ目が床板を蹴った。危ういところで剣持は棍棒で迫る刃を受ける。

「そら、もう一つ」

「くっ」

二刀は厄介だ。一方を止めても自由な一方が突き出されて、何とか逸らした顔を翳めて頬を切った。

「小僧!」

右近が燃える尻尾を振るう。

「小僧という年齢でもないのだが」

「たわけ、私からしたら其の方も充分小僧なり」

ヌシの側近に取り立てられるほどなのだから、この右近という狐も相当の歳月を重ねているのだろう。寿命数千年とも言われる狐妖怪からしたら、たしかに成人して数年の剣持であっても子供に等しい年齢である。

「得心した」

 右近に迫った刀を打ち払って、剣持は一つ目に棍棒を振るう。


   〇


 下層から聞こえる打撃音も、彼らの戦いの激しさを物語っている。剣持と右近が陽向の視る限りで最大戦力である一つ目を押さえている間に、こちらの決着をつけなけらばならない。

「この狐たち、死体だけじゃない!」

落合が放った拘束術式で床板を滑った狐の腹に豊姫からもらった刀を突き立てて陽向は叫ぶ。

「全く同じ妖気、勒白寺の異界に居た虎と同じ、コピー妖です!」

「報告にあった、アレか!管狐が居ないヤツも居るか、もしかして!?」

狐祓いをかけながら密草が怒鳴り声で応じた。

「けど、原理は管狐だと思います。器に寄生してるのは一緒!」

何かの原動力を容れて器を操る。その発生源を狙って、飛びかかった狐の腹を裂いた。豊姫の狐断ちの刀の効力もあり、なんの抵抗もなく切れる。こちらは妖気からして管狐だ。最後の足掻きとばかりに燃え上がった肉体に子龍が水をかけて叩き落す。

「やることは変わらないってことね!」

狐の奔流を結界で押しとどめた寺尾がわかりやすくまとめてくれた。

「発生源ごと、燃やす!」

素手で触れた方がやりやすいのだろう、太刀を腰に収めたまま、セリナが掴みかかった狐を片っ端から燃やしていく。

「ついでにだけど、セリナ。もうちょい炎を一か所に集めた方が燃焼効率よさそうだぞ」

「え?こ、こう?」

突然の指示に戸惑いながらも陽向の大雑把なアドバイスを的確に再現するのはさすがだ。

「わあ、私も今度術式操作視てもらおうかな」

「今それ言ってる場合か!?寺尾さん、前見て前!!」

目を輝かせる寺尾の目前に飛びかかってきた狐が落合の張った結界に阻まれる。

「寺尾さんはもう少し結界を薄く引き伸ばす感じにしても強度大丈夫かと」

「わ、ほんとだすごい」

「マジかよお前!?」

「陽向、僕も僕も!」

目を輝かせている春日野には悪いが、陽向はそれどころではない別の妖気を感じ取って総毛立つ。

「セリナ、下がれ!!」

「!」

一匹の狐を焼こうと手を伸ばしたセリナが飛び退いた丁度その場所に、押し寄せていた狐を巻き込んで炎弾が叩き込まれた。爆風は寺尾の結界が防いだが、大きく開いた穴へと狐が数匹落下して行った。

「稲月、弥樹……!!」

赤い髪をたなびかせて、黒い波の中に一人立つ。その女の名をセリナが呼んだ。

「彼女だけはあまり使いたくなかったのですが」

狐の波の中で稜樹が嗤う。

「管狐と違って言うことを聞いてくれませんから」

「沙夜、あの女……っ!」

稜樹が言っている傍から、弥樹は一点、セリナだけを凝視している。

「まだ、勘違いしてるの?」

鼻白んでセリナが太刀の柄に手をかけた。その妖気は陽向の思いの外落ち着いている。呟いた言葉にも憎しみの感情はない。

「陽向、大丈夫」

言外の心配が伝わったのか、セリナは弥樹を見たまま陽向に声をかけた。

「わかったから。絶対に帰る。だから、あの人は任せて」

「!……ああ、任せた!」

噛み締めて笑みを浮かべた陽向に一つ頷いて、セリナは抜刀して弥樹に向かって駆け出していく。


   〇


 色褪せた記憶。

 色褪せさせたのは、セリナ自身だ。

 思い出したくなかった。

 母の胸に突き立った白刃を、父の背中を裂いて噴いた血潮を。

 燃え上がった大切な人の遺体と、大好きだったばしょを。


 思い出したくなかったから、蓋をした。

 全ての記憶に。あの日見た夕陽も、父に手を引かれて帰った日の空も、笑い合った夕食も。楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、辛かったこと。

 あの日々の全てを、二度と戻れない日常を拒絶して、まとめて蓋をして心の奥底に封じ込めた。


 だから一緒に全部忘れていたのだ。忘れてはいけない約束まで。


 血だらけの手をセリナに伸ばして、炎に包まれる部屋で、今にも消えそうな命の火を懸命に燃やして、セリナの母、沙夜は微笑んだ。

 震える唇で、「生きて」と、そう言った。


   〇


 炎は全てを飲み込んでいく。

 人の世界で生活を始めるために、夫となったひとが揃えてくれた家具も、家族それぞれが好きな色を選んだ歯磨きセットも、セリナが生まれてから三つになった食器たちも、家族で囲んだダイニングテーブルも、三人で川の字を書いた布団も。

 共に生を歩もうと二人だけで誓い合った大切な人も。

 全てを包んで、炎は燃える。


 胸を一突きした刃物は心臓にも達している。只人であれば即死するであろう傷も、妖たる沙夜にはほんの少しの猶予が与えられた。

 燃える炎は床に沁みつけた血液の水分も蒸発させていく。這いずって辿り着いた部屋に、沙夜が愛した子が座り込んでいる。

 灼熱の地獄にありながら平然としているさまが、彼女も只人ではいられないことを証明していた。呆然と見開かれた瞳が自身と同じ赤に染まっていることに気が付いて、沙夜は自分の瞳から熱が溢れるのを止められなかった。

「そう、目覚めて、しまったの……」

願わくは、平穏な日々を歩んで欲しかった。夫、祐樹との間に生まれた、妖狐の血を引く子供。人として生を受ける半妖は、その力を顕在化させずに一生を終える者も多いと聞く。

 だから沙夜も祐樹も、一人娘を人として育てた。人の世で何ら苦労を与えぬように。一世代での半妖は管理局に必ず登録されるから、『あちら側』に関わることを沙夜には止められない。だが、顕在化さえしなければ管理局は定期的な監査だけで見逃してくれる。そう信じていたのに。

 火に焼かれても彼女の身体は綺麗なままだ。炙られる髪すら燃えない。その様子から、沙夜はこの部屋の火災が誰によるものなのかを察してしまう。

 外の部屋は祐樹の従妹いとこの力だが、この部屋に延焼するには距離がありすぎる。

「……大丈夫。貴女に、私を殺させない」

真っ赤な鮮血を口から吐き出して、沙夜は娘に聞こえないように小さく呟いた。この炎が沙夜を焼くより先に、彼女の命は燃え尽きるだろう。

 ――けれどその前に。

「セリナ、生きて」

ほとんど声は出なかった。けれど赤銅の瞳は沙夜を見たから、きっと聞こえている。

「誰が貴女を拒んでも」

人は、彼女を受け入れない。妖もとも相容れない。妖の力を発現させた彼女を、認めてくれる者は現れないかもしれない。

「諦めないで」

一緒に生きたかった。成長していく娘の姿を、夫と共に見守りたかった。その願いはもう叶わない。


 「生きて」


 別れの日は笑顔で。ずっと先の未来だと思いたかった。どこかで思っていた、避けられない別れの際には必ずと誓った、その日は思ったよりも早く訪れてしまったけれど。

 沙夜は笑顔で、セリナを送り出す。

 もう身体は、動かない。


   〇


 母の声が、両親の笑顔が、三人の笑い声が、しっかり聞こえる。

 はっきりと思い出せる。

 一度だけ、母が妖の力を見せてくれたことがあった。

 明かりの少ない暗い夜道に怯えるセリナを励まそうと、指の先に灯した小さな炎。あの時はわからなかったが、今ならば妖狐が操る狐火だと知っている。

 セリナは本物の狐火を見たことがある。火縁魔の怨嗟の炎ではない、暗闇を照らす茜色の炎を知っている。

「わかったよ、母さん」

あの時の炎は、とても綺麗だった。セリナが夕陽のような赤色を好きになったのは、あの炎を見たからだ。あの炎が、好きだったからだ。

「全部終わらせる。全部終わらせて、みんなのところに生きて帰る」

抜き放った太刀、その白銀の刀身を握った手から燃えた炎が包んだ。緋色の炎。セリナの愛する、母の炎。

「だからお願い。帰るために、私に力を使わせて」

迫った弥樹が、懐刀を抜いた。


   〇


 向かいの櫓の奥、現世うつしよへと繋がる岩屋の上で深紅と緋色の炎が激突する。

「あーあー、あんなに壊しよってからに」

ふわふわの手でひさしを作って激戦の様子を観戦する左近が呻る。

「右近も右近で、あの程度の妖一匹に何を手こずっておるのか……」

「仕方なかろう。アレは相当な猛者ぞ」

頬杖をついた豊姫からは、特に目を凝らさなくても櫓の様子はよく見てとれる。右近と管理局の男が一人相手取っている妖がそこらの矮小とは一線を画すことに彼女は気付いている。

「左様ですか……?」

左近は疑わしげだが、右近が苦戦している時点で相手の力量を測るべきであろう。

「もう少し右近を認めてやれ。吾とてその実力を認めたからこそ右近衛府に推したのだから」

「むう」

左近が右近をライバル視していることは知っている。実力を鑑みて抜擢したが、左近からしたらまだまだ若手である。それが己の地位を脅かしかねない二番手へと叩き上げでのし上がってきたのだから、危惧するのは当然だ。

「しかしながら、御目見えをそうまで拒まれる理由は何故ですか?私とて、これ以上神域が荒らされるのを看過するのは大変遺憾なのですが」

左近は渋い表情だが、答えは直前まで話していた内容と同じである。

「左近、今の地位を維持したいのであれば、相手の力量くらい正しく測れるよう努力せよ」

左近の毛に埋もれていた細い目が見開かれた。

「それは、どういう……」

「少なくとも、右近は察したぞ。実際に対峙したという有利はあれど、な」

剣を産み出す編み笠の妖との戦いに人間を加えさせているのがその証拠だ。妖の力を憑依させた人間のようだが、右近からしたら耐え難い屈辱だろうに共闘している。彼一匹では対処できないと判断したからに相違ない。

「何と……」

豊姫が未だ神域に留まるのも、編み笠妖の存在が故である。

「察しがいいのう、あの人間」

神域内であれば、そのあるじである豊姫の知らぬことはない。彼らの交わす会話の一つ一つを、彼女の耳は聞き取ることができる。

「彼奴の狙いは吾よ」

「何と!!」

戦場を眺めていた左近が驚きの声を上げて振り返った。

「あまりに畏れ多い。神域のヌシを狙うなどと」

しかして、左近の怒る方向性は間違っている。それは指摘せずに、豊姫は素早い動きの編み笠妖を視線で追いかけて目を細めた。

「ふむ、やはり吾が出て行くわけにはいかぬな」


 加勢してやりたい気持ちはある。

 沙夜は豊姫を頼って稲生山を訪れる数多の野干の一匹だった。

 妖狐の受け入れを信条としている豊姫だが、その実彼女は実務に関わっていない。例によって、豊姫は沙夜が稲生山にやってきた正確な時期を知らない。

 沙夜を見出したのは、彼女が人に化けられるようになって以降のこと。巧みに化ける妖狐であっても、人型に至る者はごく少数である。豊姫が目をみはるほどに精巧に妖艶な美女に成って見せた沙夜を側近として登用しない理由はなかった。


 結果として、稲月家に破滅をもたらしたのが沙夜であるという稜樹の見解は間違っていない。

 豊姫の神使しんしとして稲月家と接触した沙夜を、稲月家から逃れるために稲月祐樹が頼った。沙夜を通じて管狐遣いとしての力を返上すると訴え出た彼の願いを、豊姫は沙夜の泣き落としで受け入れることになる。

 あの時、必死に訴える眷属の瞳に、揺るがない決意を見てしまったから。

「前途多難じゃとは言うたが」

「?」

唐突に脈略なく呟いた豊姫を、左近が不思議そうに見上げる。

「まったく聞かなんだ」

そうして送り出した眷属は、死者となった。

「たまには帰れと、子供の顔も見せてくれなんだ。親不孝者め」

血縁はないが、豊姫にとって眷属の狐たちは我が子にも等しい。

「……子の顔は今になってようやく見れたが」

岩屋の上で燃える太刀を振るう少女。

「どうなることかと思うたが」

贄として支度された櫓の上で、彼女だけが豊姫を視認していた。すべての諦観を込めて豊姫を見上げる虚ろな赤銅の瞳。沙夜によく似た娘が浮かべるその表情は、豊姫の顔を顰めさせるのに充分な悲壮だった。

「それがどうして、いい顔になった」

深紅の炎を弾き返して火縁魔を戦場に縫い留める緋色の炎舞。少女は何ひとつ、諦めてはいない。

「吾の下へは、来ぬな」

「あの娘がですか?」

左近の問いかけに、豊姫は笑って頷いた。


   〇


 肉を焦がした炎が女の動きに取り残されて火の粉を散らす。焼けた皮膚を肉体が勝手に再生させる。

「ああ、沙夜……!」

弥樹からすべてを奪った女。何もかも、彼女に奪われた。最愛の人さえも。

「祐樹さんを、返して」

弥樹の必死の慟哭に対して、目の前の女は飄々と太刀を振りかざした。


 親の決めた婚約だった。

 相手は年の近い従兄いとこ。能力を維持するために近親での結婚が多い『こちら』の業界の例にもれず、弥樹にあてがわれたのは幼い頃から兄と慕うひとだった。

 兄妹同然に育った二人を結ぶことを、弥樹以上に母親が拒否していたのを思い出す。母が反対するのだから間違っているのかもしれないという疑念はあった。けれど弥樹自身に父親から切り出された彼との婚約話への嫌悪感はなかった。

 幼き日を共にした年上の男性のことを、弥樹はとっくに愛していたのだと思う。


 祐樹は弥樹の憧れだった。管理局の測定で高い霊力値を記録した祐樹は落ちぶれつつあった稲月家の希望であり、巫覡を正式に継承できる希少な人材であった。

 稲月家の現当主は弥樹の父、道樹みちきである。稲月の巫覡は他に候補がいない場合を除き、本家の男子が継承する倣いである。通例であれば弥樹の弟である紘樹ひろきが継承する流れであるが、弥樹は生まれた頃すでに本家を継ぐのが祐樹であることが既定路線となっていた。

 弥樹が婚約を持ちかけられたのは彼女が高校生になった時期だったが、二人の結婚自体は弥樹が本家に女児として生を受けた時に決められていた。


 弥樹にはヌシが視えない。

 ただの妖であれば視認できる。だが、高位のヌシを視ることはついに叶わなかった。ただ、神託の儀に同席した際に炎の揺らめきだけは視えた。美しい緋色は神々しくて、弥樹はその炎に魅了された。

 荘厳な社から炎を纏った神が櫓に降りて、巫覡として神託を受ける祐樹と対峙していた。美しい光景だった。祐樹には炎の中に居るであろうさぞ美しい神の姿がはっきり視えているのかと思うと羨ましくてたまらない。

 一度、神の姿を描いて欲しいと頼んでみたが、画力がないし不敬がすぎると苦笑されてしまった。

 力不足で形骸化した儀式を復活させた祐樹を尊敬するとともに、この人を支えて一緒に役目を果たしていく未来が輝かしく照らしていた。


 当然のように、自分と同じく快く受け入れてくれると思っていた祐樹の想いが弥樹と違っていたことに気付いたのはいつのことだっただろう。

 あるいは、最初は受け入れていたのかもしれない。弥樹の願望かもしれないことは重々承知の上で、表面上の祐樹は婚約した後も弥樹に変わらず接してくれていた。


 弥樹が異変に気付いたのは、祐樹が稲月家の巫覡を正式に継承してしばらく経った頃のことだ。

 祐樹はごく一般的な会社員でもあったから、旧来的な巫覡の役目とのギャップに悩んでいる節があることを当時の弥樹も知っていた。

 あの頃の祐樹には、巫覡の役目など因習もいいところだったのだろう。不機嫌そうに管狐の入った竹筒を振っていたこともある。弥樹と一緒のときにそういう話はしなかったから、直接聞いたことはない。今思えばその時点で問いただしておくべきだったのだろう。弥樹は選択を間違えた。


 その日、弥樹が父親から渡されたのは二通の手紙だった。

 呼ばれて入室した弥樹を待っていた父親の沈痛な面持ちに、よくない報せであることはすぐ察した。向かい合って座した座卓に並べて差し出された二通。シンプルな白い封筒に入った一通の手紙と、墨書きされた古風な書状。封筒の方には細いボールペンで丁寧に書かれた弥樹宛てを示す宛名。もう一通は達筆な筆で綴られた稲月家に宛てられたもの。

 無言で腕組みした父を窺ったら、やはり無言で頷かれた。

 封筒を手にする手が震えた。ひっくり返して見た裏書は祐樹のもの。表書きにも住所はなく、氏名だけが記されたシンプルな表記は、これが父に直接手渡されたものであることが知れた。


 開いた手紙を途中まで読んで、弥樹は泣き崩れた。

 それは、稲月祐樹からの決別。そしてその決別をヌシが認めたという、稲月の風習に心酔した弥樹を雁字搦めに縛る呪いだった。


 ヌシが巫覡に役目の返上を認めた以上、稲月家に異論を挟む余地はなかった。

 祐樹の出奔を認めること。代わりに力の足りない者が儀式を行ってもヌシは滞りなく応じることが約束された。

 ヌシの決定は稲月家にとっての絶対であり、反論するという人としての当たり前の選択肢すら許されない。声が枯れるまで訴えた弥樹を、父はすげなく切り捨てた。

 弥樹に、行方をくらませた祐樹の所在が伝えられることは決してなかった。探すことも、仮に見つけても接触することは禁止された。それもヌシの言葉である、と。今後一切、稲月祐樹への稲月の関係者の接触を禁ずる。

 墨書きされた書状に記されていたのは、あの日視た美しい炎からの拒絶であった。


 しばらくは、元の生活に戻った。弥樹の世界から祐樹が消えても、毎日会っていたわけではないので弥樹が思った以上には影響しなかった。ただ、ふとした瞬間に二度と会えないのだと寂しさが押し寄せる。

 高校を卒業して、普通の中小企業の事務職に就いた。仕事の忙しさもあり、祐樹を思い出す頻度も次第に減っていった。

 祐樹がいなくなったことで稲月家の巫覡は弥樹の弟が継承した。弟、紘樹の霊力値は平凡で、弥樹同様に普通の妖が視える程度の能力しかない。紘樹の力ではヌシどころか下級の神使しか呼べず、その声も満足に聞き取ることができなかった。

 それでも儀式が滞りなく行われている証として、稲月家の管狐の力は確かに高まった。

 弥樹が美しい炎を視ることもなくなった。それを残念だと思う一方、祐樹を奪ったヌシへの苛立ちも募る。


 弥樹が祐樹を見つけたのは、ほんの偶然だった。

 まさか同じ市内にいるとは思わなかった。夕暮れの街を、小さな女の子と手を繋いで、楽しそうに笑っていた。

 数年ぶりに見た彼は記憶にあるより大人になっていて、けれど弥樹が憶えている彼の面影をはっきり留めていた。


 ダメだと思ったのに、身体は勝手に二人の後を追っていた。

 ボロボロの小さなアパートの階段を登っていく二人は幸せな親子そのもので、そこに弥樹の居場所はなかった。

 遠目に見守る弥樹の目が、開けられた玄関扉の奥に知った炎を視た。

 もう一度だけでも視たいと思っていた美しい炎が、祐樹を迎え入れていた。

 小さな少女が炎の形をした人影に抱きつくしぐさをする。その頭を祐樹が撫でて、炎に向かって白い箱を差し出した。聞き取れないけれど、祐樹の口元が綻んでいるのだけは見える。

「アレは、何」

声にしてしまえば、疑問は止まらなかった。

 帰宅してすぐ、父を問い詰めた。十年の月日を経てかびだらけになったヌシの書状を開く。あの時は放心状態でまともに読み込まなかったことを後悔した。


 この日、弥樹は自身の最愛の人を奪ったのが、神使として祐樹の前に立っていた美しい炎であることを知った。


 口を割った絶叫が自分の声と信じられず喉を掻き毟った。

 気が付けば、地下への扉を開いていた。

 明かりもない階段を自分でも理解できない何かを叫びながら駆け下りる。階下の鉄扉に体当たりしてノブに食らいついた。

 今は使われていない牢が並ぶ岩屋を走り抜けて、もう一つ奥の鉄扉へと肩からぶつかる。めちゃめちゃに吠えて降ろそうとした引手はびくともしなかった。

 ――拒まれている。

 直観的にそう思った。誰が拒んでいるのか。簡単だ、ヌシに決まっている。弥樹にこの扉を越える資格はないと、動かない扉が語っていた。

 指を立てて縋りついた扉を掻いて、爪が割れる。赤の線を扉に描いてから、弥樹は血塗れの拳を叩きつけた。開けろと叫んだ声は思った通りの音声を再現せず、獣のような咆哮が喉を震わせただけだった。

 指の骨が折れるのも構わずに髪を振り乱して扉を殴り続けた。

 どのくらい経っただろう。

 扉に寄りかかった弥樹の腕は動かなくなっていた。腕だけではない。もう一歩も動けない。脳は動けと命令するのに、身体はそれを拒否した。

 この熱はまだ燃えているというのに。

 怒り狂った頭が急激に冴えていく。弥樹がこの怒りを向ける対象はヌシではなかったのではないか。衝動的にここまで走ってきてしまったが、それより先にすべきことがあるのではないか。

 どうして身体が動かないのだろう。弥樹にはまだやることがあるのに。

 正しい矛先を認識した瞬間、腹の底で何かが渦巻いた。何かが殻を破りたがっている。

「ぐっ……」

家にいるときの習慣で腰に括っていた管狐の竹筒が目に入った。手に取ろうとして失敗する。五指すべてがおかしな方向へ捻じ曲がっていた。

「っああああ!!」

身体を折り曲げて、歯で竹筒の栓へとかぶりつく。動かない手を乗せて抑えて、栓を引き抜いた。

「出て来い!」

弥樹の命令に従って管狐が顔を出す。すべての管狐を束ねる、弥樹が一番最初に使役した管狐だ。

「があっ!!」

その小さな頭を食らった。

 暴れる胴体を無視して、毛が逆立った肉へと歯を立てる。血の味がした。力任せに骨ごと親指ほどの頭蓋を噛み砕く。舌を刺す骨の破片に耐えて咀嚼を繰り返し、無理やり喉の奥へと嚥下した。


 夜道を走る。街灯が飛ぶように過ぎ去っていく。

 燃え盛る炎を纏って、弥樹は目的地へ向けて閑静な住宅街を疾走している。走る車を追い抜いて、真っ直ぐあの場所へ。


 大好きだった人が作った、弥樹のいない幸せな場所へ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る