第十一章 払暁
明け方。異界の時間も元の世界の時刻と同期している。外の空が白んでくるのと同様、異界内の山際も霞み始めた。
誰もいない独房を眼下に、稜樹は独り言つ。
「脱走とは、やってくれる。生安課の方の管狐も見つかったと思ったが彼の仕業か」
古い畳の上に血の滲んだ縄だけが残されている。どうやって脱出したのかわからないが、してやられた。
「何、セリナに知られなければ問題ないでしょう」
セリナには一切の接触を断っている。陽向が逃げたことも、生安課の管狐に対処が為されたことも、彼女は知らないはずだ。姿を見せなければ人質は依然として健在同然である。
「手土産なしは気が引けますが、彼女さえヌシに差し出せれば」
親指の爪を噛んで、稜樹は空の独房を後にした。
〇
白み始めた山頂を正面に、櫓が組まれている。
異界の外殻に設けられた、ヌシの言葉を授かるための儀式台である。いつからあるのかを稜樹は知らない。言い伝えでは太古の昔からと云われている。ただ丸木の柱を立てて板を渡しただけの簡素な造りは、古代の遺跡を再現した建築物を思わせる。
単純な構造に対して、その高さは異様の一言だろう。牢のある岩屋の奥を抜けた先から櫓まで橋が渡されているが、下は霧に包まれていて見えない。橋といっても欄干もない平らな渡しであり、吹き抜ける風が足元の霧を渦巻かせているのが見えた。
いつ建てられたとも知れない建造物だが、木製であるにも関わらず経年劣化は一切ない。昨日建てられたと言われても疑わない新築同然だ。数段ある階層に壁はなく、それぞれを繋ぐ梯子が交互にかかっているのが見えた。
更に異様なのはその正面に鎮座する建物だ。投げ込み堂のような張り出した縁台が、手前の櫓の遥か頭上に突き出している。稜樹が聞いた話では、あそこからのヌシのお声を巫覡が聞き取るのだと云う。
人の立ち入りが許されるのは櫓の頂上まで。そこから先は神域だ。
梯子に手をかけて、櫓の頂上を目指す。漆黒に近い濃藍の袴を風に靡かせて、編み笠の痩身が待っていた。最後の一段は彼の手を借りた。
朝日が昇り来る山を背にした社に向かって座った背で赤銅色の長い髪が風に揺れている。清めた純白の襦袢に緋色がよく映えた。
歩み寄った稜樹は彼女の後ろに立つ。覗き込んだ表情からは何の感情も読み取れない。ただ、手首を括られた両の拳をきつく握り締めている。元から白い肌が青ざめて見えた。
「いい景色だな、セリナ」
青白くなっていく空は美しい。本心からの雑談だったが、少女は反応しなかった。
「……これは、お前の幸せも考えてのことなんだ」
セリナは真っ直ぐ正面の荘厳な社を見つめて微動だにしない。
「きっと向こうに行った方が幸せになれる。人に気を遣うより気楽だろう?」
稜樹は嘘と思っていない。社の中に姿が見えない狐がたくさん居て、かつての同胞だった沙夜の娘を歓迎してくれる。そう信じて送り出す。
「僕は君のこと、一時は妹だと思おうと決意したんだよ」
初めて、セリナが顔を上げた。見上げた赤銅の瞳は虚ろだが、稜樹の言葉に耳を傾ける意志は感じられた。
「君が初めて
両親を失った、顕在化直後の半妖。厳重な妖力封じをかけられて稲月家にやってきた少女を迎えたとき、同情より面倒が先に立った。セリナを甲斐甲斐しく世話したのは母である朱莉だった。実子である稜樹が嫉妬心を抱くほど、新たな家族として迎え入れていた。
「君も自分らしく生きられる。僕も正式な管狐遣いになれる。お互いに利があると思うんだ」
神に捧げる贄としての白装束。簡素だが、稜樹からは花嫁衣裳にも見えた。
「兄として、妹の門出を祝いたい。――彼は無事だよ。君を置いて逃げ出したからね」
「!」
もう彼女に人質は必要ない。社を見る無気力な目からそう判断して稜樹は告げる。赤銅の瞳が見開かれて、歪んだ。
「薄情だよね。てっきり救出に来るかと思ったけど」
無事に儀式の時間を迎えてしまった。稜樹は肩を竦める。結局、セリナより生安課に仕込んだ管狐を選んだのだろう。
「――よかった」
だが、セリナは淡い笑みを浮かべてそう呟いた。
先ほどの表情は幻だったのではないか。稜樹は自身の目を疑う。見下ろした彼女はすでに虚ろな表情に戻っていた。
「……時間だ。そろそろいらっしゃるだろう」
一度瞑目してから社を見上げる。稲月家に伝わるヌシを呼び出す術式。その復刻に協力してくれたのは編み笠の妖だ。何故妖が術の知識を持っているのかは終ぞわからなかったが、古い文献に遺された情報の破片とも一致している。儀式は間違っていない。
櫓の頂上を囲うように設置した若竹と幣が薄く発光する。セリナを中心として術式陣を描き出す。同時に社にかかる靄が濃くなった。
自分が心から安堵していることに驚きつつ、セリナは無言で靄に包まれていく社を見上げる。ヌシを呼び出す術式はセリナの妖力を使っているようで、身体から力が抜ける感覚に襲われた。妖力封じはかけられたままだ。倦怠感は眠気となって意識を遠ざける。
このまま、すべての妖力を使い切ってはくれないだろうか。
社の中で忙しそうに右往左往する無数の狐たち。その内の幾匹かがセリナを指さして何かを囁き合っている。声は届かないが、その表情を見れば歓迎する内容でないことは見てとれた。
あちらに行けば幸せになれると稜樹は言う。稜樹は信じているが、彼には狐たちの姿が視えていないのだろうか。彼らの様子を見れば、それが間違いであることは明白である。
どちらにも迎え入れてもらえないのなら。どちらにも居場所などないのなら。
座らされた櫓の頂点、正座した膝の数センチ先は深い霧が渦巻く谷間への空間だ。このまま眠気に逆らわず前のめりに倒れれば、すべてを終わらせることができる。
それを証明するように、頬を一筋流れた水滴が落下して行った。
『――生きて』
ふいに耳の奥に響いた懐かしい声に、セリナは重たい頭を上げた。忘れかけていた声色は記憶の底の蓋を容赦なく開く。
「い、嫌……」
正面の社、その迫り出した縁台で巻き立った炎が記憶の中の火と重なる。
「おお、いらっしゃったぞ!」
興奮した稜樹の声が、かろうじてセリナを現在に呼び止めた。背後で濃口を切る金属音が鳴る。セリナの脇へと濃藍の袴が進み出た。
「……違う」
地の底から響く声は編み笠の妖のもの。意味を測りかねて見上げた先で、渦巻いていた炎が次第に収まりながら大きな狐の姿を形どっていく。銀の毛並みが美しい狐だ。
その隣に控える人影を見て、セリナは目を擦ろうとして手を括られていることを思い出した。
「――何で」
人の立ち入りなど許されないはずの神域で、見知った青みがかった黒髪を風が掬う。深い夜空のような濃紺の瞳がセリナを真っ直ぐ見据えていた。
「聞けい!!」
先に口を開いたのは大きな銀狐だ。ずらりと牙の並んだ獣の口から快活な人語が谷間を揺らす。
「そこなる者共に
陽向は緊張の面持ちで書簡を広げる。定位置である肩に乗った子龍が首を伸ばして覗き込んだ。
「豊受姫様が名代、上名陽向が此処に告げる!」
墨書きされた文言は古風だが、読む文章自体はそれほど長くない。通常であればどれだけ声を張ったところで届かない距離だが、陽向の声は思いのほか大きく木霊した。
「稲月家の所業、目に余れり。我が眷属の殺害に飽き足らず、此度、吾を頼みに訪れし同胞への所業、赦されるところに在らず。依って、稲月家の巫覡の任、永劫に戻らず。管狐も剥奪せん。贄も不要なり。この書面の燃焼を以って、吾が言葉の証明とす。以上!!」
要約すれば、セリナを差し出しても巫覡には戻さないし管狐も還せ、となる。
事前に聞いてた通り、書簡の最後に押された朱の印章が発火した。わかっていても実際に目の前で炎上されると肩の火傷が疼く。この炎が陽向の手を焼くことはないが、それでも反射的に手放した。完全に炎に包まれた書簡は風に攫われて火の粉となって舞い上がる。
今にも泣きそうに顔を歪めたセリナを見下ろして、陽向は声を振り絞った。
「ってなわけで、セリナは返してもらうぞこの野郎!!」
「な、な……!?」
稜樹が口をぱくぱくさせている。
「何故、彼が……?いや、それよりも、ヌシ様は本当に……?」
「迷っている場合ではなかろう」
至極冷静に編み笠の妖が言い放つ。一つ目が縁台を見上げた。
「あちらの言がまことであるか、その保証など何処にもない」
「そ、そうだ!その通りだ!」
陽向が持っていた書簡は彼の宣言通り燃えたが、そんなもの妖力がなくてもどうとでもなる。都合がいいように読み替えた可能性も捨てきれない。
見出した希望に縋って、稜樹も立ち上がる。管狐を容れた竹筒の紐を手首に巻き付けた。
「兎角、どちらにせよこの娘、死なすつもりはないと見える」
一つしかない眼球が蠢いて、セリナを映した。
「ならば、出てくるだろうよ」
呆けたセリナの背を蹴る。彼女が座るのは手摺もない櫓の端。一度傾いた体勢を整え直すことはできなかった。
「――あ」
括られた両手が宙を掻いて、セリナの視界一杯に深い霧が広がった。
「お乗りなされ!」
言うが早いが、右近が縁台から飛び降りる。
「失礼します!」
下で猶予を作ってくれた右近を信頼して、陽向も中空へと身を躍らせた。すぐに暖かな毛並みが迎え入れてくれる。
「かの妖、私が。貴方は沙夜の娘を」
「え?」
右近の背に乗った陽向の胴に巻き付いたものが銀狐の尻尾であることに気付いたのもつかの間、櫓まで数メートルを残した距離で右近は陽向を投げ飛ばす。
「わああああああああああ!?」
吹き飛ばされて風を切る先に靡く緋色が目に入って、陽向は右近を信じて両手を伸ばした。
抱き留めた、というよりも体当たりした、が正しい。
細い胴に組み付いて、空中でタックルをかました陽向はセリナ諸共櫓の下段に縺れこむ。床板に足をつけられたのは奇跡的で、それでも衝撃を殺しきれずに滑った先の柱に背を打ち付ける。
「づっ!?」
息が詰まって暗くなった目の前に縛られた両手が見えた。
「……陽向!?大丈夫、陽向!?」
「――何とか……」
もぞもぞ起き上がれば、セリナの赤銅の瞳が揺れていた。
「お前こそ、無事か?」
伸ばした手が頬に触れる。今度は迷いなく。頬を伝った涙が手を濡らした。
「何で……」
触れた手がセリナの震えを教えてくれた。
「何で、助けに……」
「だって、助けてくれただろ」
固く握った左手を開いて、括られた両手に重ねる。
「それに、来たのは俺だけじゃねえぞ?」
思い切り口角を上げて、陽向は豊姫から授かったもう一つの書簡を懐から取り出す。
「急々如律令」
最早慣れしたんだ呪言を合図に、書簡に力を流し込む。浮かび上がった術式陣は床板と垂直に円を描き、空間に穴を穿った。
「春日野さん、こっちです」
「やあ、大成功だね!」
ぽっかり空いた穴の向こうから春日野が顔を出した。生安課事務所の奥にある異界の青々とした草原が向こう側に見えていた。
「マジで繋がってやがる……」
「すっげえな、ヌシの力!」
「はいはい。密草さんも落合君も、後ろが
「来た」
最後に現れた剣持を見て、陽向は思わず破顔した。
「剣持さん、怪我は!?」
「治った」
相変わらずの無表情だが、棍棒を携えた剣持は力強く親指を立てた。
「よかったです。落合さんも」
「あたりめーだ、鍛えてんだよこっちは」
落合も力こぶを作ってみせる。その腕に巻かれた包帯は痛々しいが、今の陽向も似たようなものなのでこれ以上は言うまい。
「神域を穢す許可、こちらのヌシ様から快く頂いています。存分にやれ、と」
春日野に向き直って、陽向は豊姫の言葉を伝える。
「ヌシの名代って聞いた時にはひっくり返ったけど、その許可までもぎ取ってきてくれるのは心強いにもほどがあるね」
この許可は豊姫の方から申し出てくれたものだが、あるのとないでは配慮の仕方が全く違うのだという。
「ちょっとなら壊してもいいよって許可だしね」
戦闘行為がある以上、破壊行為は敵対する人や妖だけに留まらない。周囲への被害は必ず出る。それを抑えなければならない場合、どうしても行動は制限される。
「セリナ、これを」
座り込んだまま硬直しているセリナの前にしゃがんで、春日野が背負っていた太刀を置いた。
「忘れものだよ。妖力封じは陽向に解除してもらいなさい」
「あの、私は――」
「おいでなすったぜ?」
何か言いかけたセリナを遮って、密草が親指を肩越しに向けた。着地したのは丁度岩屋との間を繋ぐ橋がある階層だったらしい。爪の音を響かせて、黒ずんだ毛皮の波が押し寄せる。その一番前に、梯子を下りてきた稜樹が立った。
「編み笠め、結局奴らの手に渡っているではないか」
手首に括りつけた紐を伝って竹筒が揺れる。その動きに合わせて黒い毛皮が波打った。
「仕方あるまい。まさかこの期に及んでヌシ
白銀の刀身を自然体に握って濃藍の袴が木の葉のように降り立つ。丁度左右を挟まれた形だ。
「私たちで充分とのご判断でしょうな」
ゆらりと佇む一つ目に立ち塞がって、銀の毛並みが陽向の視界を覆った。
「右近さん!」
「申し訳なく存ずるが、こちら抜いていただけませぬか?」
その煌めく銀の波の中、腹部に突き立った鍔も柄もない日本刀を見て陽向の血の気が引く。慌てて近寄って剥き出しの鉄に手をかけた。
「待った。俺がやろう。触れる許可を頂きたい。これでも妖怪医です」
焦る陽向を止めて、密草が進み出た。
「急げ。あれは待ってくれぬぞ」
言うが早いが、一つ目が動いた。反応の遅れた陽向の横を風となって駆け抜けていく。
「っ、セリナ!」
狙いがセリナであることは明白だ。振り向いた陽向の肩越しに、振るわれた刀を棍棒で受け止める剣持が見えた。
「っ!」
「よく反応した。だが」
手首を返した刀の動きに攫われて、棍棒が跳ね上げられる。返す刀で胴を狙った刀身を、高速で一回転した棍棒が打ち返した。
「おっと」
その間に右近が割り込んで、一つ目が後退する。
「奴は私が引き付けます。貴方は遂行なされよ」
「お願いします!」
陽向は迷いなく叫ぶ。一つ目の強さは本物だ。それはヌシの側近である右近に傷を負わせた実力が証明している。
「俺も」
名乗り出た剣持も棍棒を構えた。
「戦力的にはこっちの相手して欲しいけど、そうもいかないみたいだから頼むね」
事前に行われた打合せでは、剣持がどちらに参戦するかは状況次第としていた。一つ目が右近だけで抑えられるかが焦点だったが、彼の強さは予想を遥かに上回った。
「全員、打合せ通りに!」
一つ目と立ち会う右近と剣持と背中合わせに、春日野は稜樹に視線を定める。
「寺尾と落合で狐を拘束、僕と密草で狐祓いをかける。陽向はセリナを。できるね?」
「はい!」
「よろしい!総員、行くぞ!」
「「「了解!!」」」
三人の声が重なり、腐敗臭の漂う狐たちが床板を蹴る。黒い波が、一斉に押し寄せた。
目の前にあるのは黒塗りの鞘に納められた大太刀。打刀より強い曲線がセリナを背に庇って立つ陽向との間に線を描いていた。
「セリナ、手出せ」
その際に膝をついて、陽向が自身の刀を抜く。つうが与えた管理局で生産している打刀で、見慣れぬもう一振りが腰に残っている。通常は大小を帯刀するものだから妙にちぐはぐである。
「い、嫌っ!」
縄で結ばれた両手に触れた手を思わず振り払う。呆気にとられて瞠目する陽向を前に、セリナはまた目が熱くなった。
「いい。もういいの。このままで、いい」
「よくはないだろ。……春日野さんから聞いてる。痛いんだろ、それ?」
自分の痛みでもあるまいに、濃紺の瞳が苦痛に細められた。
「痛みくらい。私がさせた怪我に比べたら、私の痛みくらい……!」
首を振ったら涙が雫となって散った。こんな不安定な心境で妖力封じを解かれては、セリナが真っ先に焼き尽くすだろうは陽向だ。
「ダメ、ダメなの!これが解けたら、私はまた陽向を傷付ける!それだけは……!」
握った拳の上に水滴が落ちた。止めなければと思えば思うほど止まらない。ふと目に入ったのは、目の前に置かれた太刀。幾度となく妖を切った、愛刀。
「っ!」
「セリナ!?」
足で踏みつけて鞘を押さえて抜き放つ。縛られたままだったが存外上手く行った。
「セリナ、やめろ。ダメだ」
顔を顰めた陽向が伸ばす手から逃れるために後ろに下がる。首筋に触れた刀身が冷たさを伝えた。
「ごめんなさい……私は――」
押し付けた刃が食い込んで、皮膚を破った。目を閉じてひと思いに引こうとした手に、力強い手が重なった。火照った気持ちを鎮める、冷たい手だった。
「セリナ、ダメだ。それだけは、ダメだ」
妖力を封じられているから、いつものような膂力はない。僅かに切れて一筋伝った血液の量は、まだ間に合うことを陽向に教えてくれる。柄を握り込んだ手ごと掴んで、力任せに引き離した。
「何で……」
幾度目か数えきれない問いかけを呟くセリナに、陽向は訴える。
「人の世界に居たくないなら、豊姫様のところへ行けばいい。少なくとも、ここのヌシ様は受け入れてくれる。右近さんもだ」
豊姫から直々にもらった許しだ。悪い扱いではないだろう。
「けど、やっぱり嫌な思いはすると思う」
「だったら――!」
「――けど!」
なおも力の籠る太刀を握った手を押さえつけて、陽向は真っ直ぐ赤銅の瞳を覗き込んだ。
「死ぬのだけは許さねえ!どっちでもいい。人でも妖でも、お前が生きたい方で生きればいい。豊姫様も、右近さんも、生安課のみんなも、俺も、お前がどっち選んでも受けれ入れてくれる。だから」
揺らぐセリナの手から太刀が落ちる音がした。熱い両手を握り込む。
「生きろ」
『――生きて』
目の前の少年に、懐かしい声が重なった。縋った手を握るひんやりした手は、思い出にあるその人とは違うけれど。
「死ぬのだけは絶対に許さねえ!絶対だ!」
どうして、そこまでこだわるのだろう。セリナと陽向は、出会ってまだ一月も経っていない。陽向は助けてくれたと言うけれど、そこまでのことをしたとは到底思えない。高校の異界でのことを言っているのだと思うのだが、あの時のセリナはただ、異界で暴れていた妖を討伐しただけだ。結果的に彼を救うことになっただけであって、セリナがそれを目的としたわけではない。それなのに。
「どうして」
「俺が、嫌だ!!」
口にして初めて、ようやく自覚する。これは、陽向の我儘だ。
「俺が、お前に死なれると嫌だからだ!!どっちの世界でもいい、お前に生きてて欲しい!!」
あるいは、セリナが選ぼうとした選択肢は彼女にとっての救いなのかもしれない。死後の世界など、その存在そのものすら誰も知らない。それならば幸せな世界である可能性だってある。ここで引き留めることこそ、ただのエゴなのかもしれない。
それでも陽向は、彼女の頬を止めどなく伝う涙を拭う。
「そんな顔で選ぶ場所に、行かせるわけねえだろ」
泣く子をあやすように、抱き寄せた痩身は暖かい。生きている人間の体温だ。燃え盛る炎ではない。
「だって、ダメだったじゃない」
セリナが今素直に身を預けているのは妖力封じがあるからだ。
「差し伸べてくれた手を、結局傷付けて。陽向は拒むなって言ったけど、やっぱり無理だった。怪我させたくない。だから触らないで欲しい。そう思わないのは、無理」
「そりゃ、ずっとそう思ってきたんだから、いきなりは無理だろ」
「え?」
拒み続けた言い訳を初めて肯定して、陽向はそっと語りかける。
「だからさ、練習しよう」
「練、習?」
腕の中で戸惑いがちに復唱したセリナが顔を上げた。腕の力を緩めて笑いかける。
「そ。練習。練習してさ、コントロールできるようになろう。俺も手伝うから。それくらいは手伝わせてくれ」
「今までずっと、できなかったのに?」
再び泣きそうになったセリナの肩に手を乗せて、陽向はセリナの妖気を読む。
「できるよ。絶対できる。俺が保証する」
「陽向に何がわかるって言うの」
最初に逢った時に抱いた印象は、今も変わっていない。封じられて尚、変わらずここにある。
「わかるさ。最初に言っただろ、お前の妖気、わかりやすいんだよ」
暗闇の中、目印のように煌めく炎のような。
「はっきりしてて、素直でわかりやすい、綺麗な妖気だ」
陽向が持ち直した刀が腕を縛る縄に添えられて、セリナは手を引こうとして失敗する。手首はすでに掴まれていた。
「逃げんな。とりあえずこれは解くぞ」
「だから――」
何度言えばわかってくれるのだろう。ここで妖力が解放されればセリナはまた陽向を怪我させてしまう。それだけは、阻止しなければ。
「大丈夫だって」
妖力を封じられているせいで、いつもの腕力がでない。普段なら簡単に振り切れるだろう陽向の手からも逃げられない。
「ちょっとはダメかもしれねえけど、お前が俺を殺すほど焼くことはないから。それだけは、絶対にない。あと、ちょっとくらい焼かれても怒らねえから気にすんな」
「ちょっとだけでも嫌なの……あっ」
ダメだと言っているのに、術式陣を浮かべた刀が縄を通過する。押さえつけられていた妖力が風船のように膨れ上がった。
「あっつっ!」
「あ!」
手首を握っていた陽向が勢いよく手を放して、セリナは血の気が引く。渦巻く妖力がすっと引いていった。
「だ、大丈夫!ほら、焼けてない!」
広げて見せた左手は、手首から巻かれた包帯を含めて確かに無事だった。焦げ跡や赤みもない。
「ほらな?」
火傷までいかないくらいに早く手放したためだけだと思うが、陽向は得意げに笑う。
「前より抑えるのも早くなってるし。練習すればたぶん何とかなるって」
それでも、抑えられた。セリナは今、それを実感している。溢れさせてはいけないと叫んだ心に、妖力は応えてくれた。
「――すまん、そっち行った!」
密草の声に我に返る。陽向の背に向かって駆けてきた一匹の狐に、陽向の脇から手を伸ばす。
動かないで、と言ったセリナに従って、身体を硬直させる。振り返ろうとして途中で止まった陽向の脇から回り込むように伸ばした手が迫る狐の頭を掴んだ。直後、燃え上がる。
「……できるじゃねえか」
すぐそばにいた陽向に被害は全くない。強いていうなら至近距離で炎の熱を感じたくらいだが、火に当たる程度だ。焼き尽くされた狐の死体が跡形もなく灰になっていく。自然界であればこの距離で感じる温度の炎が出せる威力ではない。
「下がってて、って言っても無駄?」
困ったように眉を下げて、それに反して口元は微笑んだセリナに陽向も苦笑を返す。
「おう。まだやることあるからな」
豊姫に託された名代としての仕事はまだ残っている。太刀を拾って立ち上がったセリナは正面、狐の波と交戦する春日野たちの背中を見据えた。
「セリナ、帰ろう。全部終わらせて、みんなと一緒に」
隣に立った陽向は切っ先を狐の波の湧き出す中心にいる稜樹に向ける。
「一回帰って、それからちゃんと選べ」
どちらで生きるか。落ち着いてゆっくり帰ってからでも遅くはない。
「うん」
答えた口調は、もう結論を決めているように聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます