第十章 使者

 鉄扉の外で蠢く気配があった。毛皮の擦れる音、固い床に鋭い爪が触れて鳴る軽い足音。特徴的な饐えた臭いが漂っている。いくつかの管狐の妖気も感じるから、狐たちの死体だろう。

 稲月家での騒動でも何匹も片付けたのに、まだ居るらしい。辟易した陽向は寝転んだままで壁に下げられた電球の明かりをぼんやり見遣る。


 後ろ手に固定された両手と、一纏めに縛られた両足はどれだけ藻掻いても外れそうになかった。それどころか火傷のある肩を無理に動かしたせいで痛みが悪化した。荒縄に擦れて手首にも痛みが広がっている。再び熱が上がっているのか、外の妖気までわかりにくくなっていた。辛うじて管狐が居るくらいはわかるが、何匹居るかまでは特定できない。

「う……」

少しでも痛みを逃がそうと身体を捻る。丁度いい体勢を探れば探るほど余計な痛みが増えていく気がするが、本能は身体を動かしたがっていた。

 天井付近に開けられた採光窓から陽光が差し込んでいる。光の色くらいしか判断材料はないが、昼過ぎくらいだろうか。陽向が気を失ってから、一晩明けていないと仮定するならばそれほど時間は経っていないと思われる。


 目が覚めた時にはこの状態だった。陰鬱だと思ったこの場所、実際に投獄されてみればその嫌悪感はやはり最悪である。本来管狐で採光するところを、陽向のために裸電球が釣り下がっているのが妙な手心だ。なければ暗闇に発狂してもおかしくないので、ありがたいのだが素直に感謝はしたくない。

 畳二畳敷きの独房。稲月家の地下にある狐憑きになった者を幽閉する牢獄である。

 稲月の屋敷は完全に燃え落ちて、管理局本部の応援により鎮火したと聞いていたが、地下であるこちらは燃え残ったらしい。どうせなら燃えてなくなってくれていれば、陽向がこうして囚われることもなかっただろうに。

 地面にじかに転がされるより遥かにマシだが、古い畳はささくれ立っていて体勢を変える度に皮膚を刺激してくるのは勘弁してほしい。一度誤って火傷の方の左肩をつけてしまって悶絶した。よって、今の陽向は寝返りすら許されない。


 背中を向けた鉄扉で金属音がした。鍵を開けたらしい。軋む蝶番の音と一緒に足音が入ってくる。

「やあ、生きています?」

頭を跨いで仁王立ちした稜樹が起き上がれない陽向を見下ろした。目に嘲笑の色が浮かんでいて、陽向は眉を寄せる。

「生きてますね。人質としては生きててくれないと困るわけですが。ああ、自害はダメですよ。あなたが自害したら生安課の人に仕込んだ管狐に自害を命じます。宿主がどうなるかは、お察しください」

舌を噛み千切るくらいしかできないが、それすら思い留まる理由ができてしまった。セリナに向けて言っていた人質が他にもいるというのはこのことだったのだろう。

「……セリナをどうするつもりだ」

「それを今から説明しようかと。贄が何も知らないようでは神の不興を買いますから」

陽向の前に腰を下ろして胡坐を組んだ稜樹は嗜虐的に嗤った。

「彼女は失った眷属の代わりにヌシに捧げます。貴方を手土産に」

「っ、生贄にするのは稲月弥樹じゃなかったのか?」

「方便ですよ」

稜樹が肩を竦める。

「馬鹿正直にセリナを狙っていると言って貴方たちが協力してくれるはずがないでしょう。本当は伯母さんをぶつけて捕らえるつもりでしたが、上手く行かないものですね」

陽向を見降ろす目に苛立ちが見えた。

「――最初の火事もセリナをおびき出すためか?」

脳裏で事件の裏側を組み立て始めた陽向に稜樹が仰け反った。

「よくわかりましたね」

「稲月弥樹は管狐を遣ってない。死体を操ってたのも、小火を起こしてたのも、全部お前だろ」

「正解です、すごいすごい」

わざとらしく拍手した稜樹に陽向は嘆息する。

 思えば最初から不自然だったのだ。小火の現場で目撃された小動物の死骸も、管狐の陰こそあれ妖化した火縁魔たる稲月弥樹の姿はない。稲月本家での襲撃からして正気を失っていた彼女に妖気を隠すなんて小難しい芸当ができるとは思えない。あれだけの妖気を駄菓子屋の火災の時点で陽向が見逃すはずがなかったのだ。

 広告代理店の防犯カメラに映った女も黒髪だった。稲月弥樹ではない。そして、稲月家で陽向が遭遇した彼女は管狐を容れた死体だった。

「黒髪の女は、お前の母親か?殺したのか?」

「あ?人聞きが悪いな」

仰け反った稜樹の片足が陽向の左肩の上に乗る。火傷を刺激されて食いしばった歯の隙間から呻きが漏れた。

「アレは勝手にくたばったんだ。霊力が高いって触れ込みで嫁いできたのに管狐を手懐けられなかった欠陥品だ。気に病んで、勝手に朽ちてったんだよ。最期に役立ててやったんだ」

「ぐっ……お前、自分の母親を……」

「母親?僕よりももらわれっ子を優先したあの女が?」

「うあっ」

乗せた脹脛で陽向を揺すぶって、稜樹は凄絶に嗤う。

「セリナはよかったでしょうねぇ。親を亡くしても新しい親ができたんだから。それも一瞬でしたけどね。あの女があいつを逃がしたから」

「……は?」

天井を仰いで見下ろす稜樹の白目が広がる。

「笑えるでしょ。あいつ、じい様があれを贄にしようとしてるのに気付いて逃がしたんですよ。その頃僕はその計画を知らなくてね。知ってたら絶対阻止したのに、残念ったらない」

時系列からしてセリナが管理局に保護された辺りに繋がっただろうか。裏で行われようとしていた悲惨な計画に陽向は今更慄く。稜樹の母親が奮起しなければ、陽向はセリナに出会うこともなかったかもしれない。それはひいては学校の異界で助けてもらえないだろう陽向の命にも直結する。

「それを、何で今になって……」

「じい様がね、父が狐憑きになったときに教えてくれたんです。何でもっと早くにって思いましたけど。あの人もあの人で希望的観測をしてたんでしょうね。自分が狐憑きにならずにあの歳まで生き延びたから。けど、父はそうじゃなかった。だから僕の身も案じたんでしょう。これ以上稲月の血を絶やさないために」

血縁とは、家とは、そこまで執着するべものなのだろうか。継ぐ家業もない陽向だからそう思うのかもしれないが、そうまでして存続させるべきものなのか、わからなかった。

「それで、セリナを探すことにしたんです。あの子の行方は隠蔽されていましたから。まさか隣の市に居るとは思わなかったですけど」

案外近くに居るものですね、と稜樹は目を細める。

「後は、君の予想通りだと思いますよ。じい様も協力してくれました。君を殺し損ねたのは誤算でしたが、セリナに対するいい人質ができた」

さて、と稜樹が手を打つ。

「経緯はご理解いただけましたか?できれば納得もしていただけると非常に助かるのですが。まあ、説明責任は果たしましたので、神格も手土産の贄にそこまでは求めないでしょうし。時間はありますのでよくお考えください。セリナは妖です。妖の世界に還してあげるのが彼女の幸せだと思いませんか?」

「……それは」

確かに今のセリナは力に振り回されている。すぐには否定できず口籠った陽向に、稜樹は「それでは念のため」と布紐を取り出した。中央に結び目を作る。

「ないとは思いますが自害されては困るので」

「んっ」

口の中に結び目を押し込まれて、頭の後ろで結ばれる。これで陽向の唯一の抵抗手段も奪われた。

「明朝迎えに上がります。それまでお元気で」

背後で扉の閉まる音に続いて施錠の音が重々しく響いた。

 稜樹の声が脳裏にこだまする。彼女の――セリナの幸せとは何だろうか。

「ん……」

言葉すら封じられて、抵抗の気力を失った陽向は瞼を閉ざす。暗闇が、訪れた。


   〇


 どのくらい経っただろうか。

 満足に動かせない身体はとうに弛緩して、感覚を失いつつある。縄に圧迫された手首から先が痺れて、指が何倍にも腫れあがったような錯覚に襲われる。

 水分を噛まされた布に吸われて口の中が乾ききっている。鼻でしか呼吸ができず苦しい。意識して酸素を取り込んではいるが、それも朦朧としてきた。


 セリナの母は稲生山のヌシの眷属だった。それは春日野から聞いた通りだ。セリナはヌシの眷属である狐妖怪と人間の男性の間に生まれた子供である。

 妖であり、人間でもある。

 彼女をどちらに位置付けるべきなのか、陽向にはわからない。妖気があるから、妖力を使えるから妖?人の血を引いているから人間?どちらを仮定しても疑問が残る。

 そもそも半妖がヌシの眷属になれるのかも疑問だ。

 ヌシの眷属と言えば陽向が視たことがあるのは学校で遭った鼠だ。半死半生で生安課に助けを求めに走った忠実なる臣下。もしくは将来ヌシの眷属が内定している狸妖怪のポコ。

 どちらも純粋な妖だろう。遥かご先祖まで遡れば一人くらい人間がいるかもしれないが、彼らは妖として生活している。人の血の濃いセリナを、仮にも神が自らの臣下として認めるだろうか。

 ――仮にもし、認めたら?

 そしてセリナがそれを望むのなら。陽向は彼女を喜んで送り出せるだろうか。


 「――てください。ねぇ、起きて。……ダメ?」

朦朧とする意識で半ば夢に沈んでいた陽向を揺さぶり起こしたのは小さな影だった。

「あ、起きました?しっ、静かに!気付かれてしまいます」

「……???」

目の前に立つ生き物の姿に、陽向の頭の上で疑問符がたくさん飛び回った。訊ねようとして口を塞がれていたことを思い出す。

「申し訳ないですが、寝返りを打っていただけますか?縛られているお手をこちらにしていただかないと、見張りから見えてしまいます故」

陽向の顔の前で、小さな白い狐が、しかも水干を着た二足歩行の背丈二十センチ程度の狐が、ぱたぱたと大きな袖を振っていた。


 「んっ!!」

指示に従って苦労しながら転がった左肩をささくれた畳が直撃して痛みが脳天を突き抜ける。

「急いで終わらせますので、どうかご容赦を……」

水揚げされた鮪みたいに身を跳ねさせた陽向に察したのか、後ろで狐が申し訳なさそうに言った。たぶん雰囲気からして頭を下げているのだろうが、そんなことはいいのでやるなら早く解いてほしい。

「んん……っ、ちょっと待った、俺今人質で……づっ!?」

「静かに!見つかってしまいます。小さな声ならどううにか誤魔化せますが、大きな声は聞こえますよし

外れた猿轡に懸念事項を指摘したら腕の縄がきつく締まった。解こうとしているのだろうが、引っ張りすぎである。

「それと、人質の件についてはご心配なく。貴方の影を残します故、見張りの管狐どもは誤魔化せましょう」

「……!」

鉄扉に備え付けられた覗き窓が持ち上げられるのが見えて、陽向は咄嗟に目を閉じる。薄目で確認していたら、覗き込む金色の目が見えた。やがてぱたんと閉じられる。

「……諦めたようですな。解くまではじっとしていてください。誤魔化しきれませぬ故」

小さいからだろうが、縄を解くのにかなり苦労している。そして乱暴である。もう少し配慮というものを、と思っている間にも傷が擦れて激痛は続く。せめて牢屋の外の見張りに悟られないように、陽向は悲鳴を必死に堪えた。


 足の縄を解くまでにかなりの時間を要して、――それは陽向の体感由来の可能性もあるが、ようやく陽向は身体の自由を手に入れる。少なくとも、外部の拘束だけは外れた。

「ささ、移動しますよ。どうぞこちらへ」

けれど、それで陽向が自在に動けるようになるかと言うとそうでもない。ちょこまかとからくり人形みたいなコミカルな動きで、ミニ水干狐は独房の奥、陽向から見て左側の角へ走っていく。それを追おうにも、畳についた腕すら痛いのが今の陽向である。

「待っ、めっちゃ痛い」

長時間同じ体勢でいたので、完全に関節が固まってしまっている。その上で縛られていた手足の感覚が痺れて曖昧だ。前に回した手首に擦り切れた赤黒い痕が目に入る。

「私に貴方を担ぐのは無理な由、どうぞ頑張ってこちらまでいらしてください」

「……マジか」

助けに来てくれたのだと信じたいが、全然優しくない。這う這うの体で痛む身体を引き摺るようにして部屋の奥、角まで到達する。

「では、行きましょう。ここでしたら異界の力が使えます」

「待って、どこに――」

有無を言わさず、息も絶え絶えの陽向の襟首を掴んで引き摺る。滑り込む壁の直前に、異界の気配を発熱した身体が辛うじて感じ取った。

「うあああああああああああ」

落下する浮遊感。掴まる場所などなく、臓腑が浮かび上がる実質的無重力と空気抵抗を感じながら、陽向は深くへ落ちて行った。


   〇


 「よっと、ほい」

耳元でぽんっと音がした。直後、ふわふわの毛皮に包まれる。

「毛皮を血で穢すのは不本意ですが、大切なお客様ですので致し方ありません」

しばらくの落下の後、柔らかい白銀の毛皮に受け止められてゆっくりとブレーキがかかった。かと思っていたら放り出された。幸いにもそこまでの高さはなく、床板の上に転がる程度で済んだ。反射的に火傷のある右掌で受け身を取ってしまって、陽向は涙目で寝転んだまま撃沈した。今回ばかりは反射神経で受け身をとってしまうレベルに仕上げた河野を恨む。

「……大切なお客様への対応じゃねえだろ、これぇ……」

痛い。もうどこが痛いのかもわからない。

 「おやまあ、酷い有様だこと」

涙で霞んだ床板に素足が見えた。豪奢な着物の裾を引き摺っている。聞こえてきたのは若い女性の声。

右近うこん、丁重にと言ったでしょうに」

「は?確かにお連れしましたが」

慇懃に答える狐が腹立たしい。助けてもらって何だが。

「これでは話もままならぬではないか。のう?」

「元々こんな感じでしたので。わたくし、責められる由はないかと」

確かに怪我の原因は右近とやらではないが、悪化したのはこの狐のせいである。縄を解くにしても乱暴だし時間はかかるし。

「はぁ。相手は生身の人間ぞ?もう少し人の子のことを学んではどうか?仮にも神格の側近が情けない」

「ははっ、精進いたしまする」

まったく反省の色が見えない謝罪がいっそ清々しい。もう喋る気力もないので黙って遣り取りを窺っていた陽向の頭にしゃがんだ女性が手を乗せた。

「やや、汚れますぞ」

「こんな状態で連れてくるお主が悪い。見苦しいどころの騒ぎではないわ」

絶対に陽向のせいではないのだが、確かに偉いひとのお目にかかる恰好ではないとは思う。そもそも、ここはヌシの屋敷なのではないか。ということは、自分を神格だと言ったこの女性が。

「喋れるくらいには回復してやろうぞ」

「っ」

急に身体が軽くなって、陽向は息を呑む。呼吸による動きさえ痛かったのが嘘のようだ。

「怪我が治ったわけではない。無理はほどほどにな」

「ありがとうございます……?」

ヌシに対してさすがに無礼がすぎるかと、正座しようとした陽向を女性が止めた。

「これ。無理をするなと言ったばかりに」

日本髪風に結ったかんざしだらけの黄金色の髪に、同じく黄金色の三角耳がまっすぐ立っていた。二つがぴくんと動いて、陽向は目を見張る。

「狐神だからの、当然当然」

女がおもしろそうに笑った。深紅の打掛の背中で複数ある尻尾が複雑に絡み合って踊る。

「驚いてるのう。楽にせい、楽に。誰もお主の非礼を咎めはせぬ」

「は、はあ」

そうは言っても狐耳の女性の隣に立った右近がすごい顔をしている。引き気味に返事した陽向に女性が満足そうに頷いた。

「それで。本題に入ってもよいかの?」

目を細めて小首を傾げた狐神の、後ろに残した長い黄金色の髪が一筋肩の前に落ちる。

「単刀直入に言おう。お主、われ名代みょうだいにならぬか」

「はい?」

何を言っているのか何ひとつわからなくて聞き返す。狐神の切れ長の目がさらに細くなった。目元に引かれた紅が強調される。

「早い話が、稲月への伝達役じゃ。吾が意思を稲月に伝えて欲しい」

「あの、何を……?」

胸を張った狐神が続きを言ってくれないので、仕方なく訊ねてみる。

「何じゃ、言わんとわからんか」

「主 《あるじ》殿、彼はただの人間です故」

不思議そうな顔をした狐神を右近が窘めた。さっき自分も同じことを言われていたが気にしている素振りはない。

「面倒じゃの、神意を弾くなど。まあ仕方ないから説明するが。お主、稲月がやろうとしておることは存じておるな」

「え?ああ、生贄の話」

稜樹が語った彼の目的。セリナを稲生山のヌシに捧げるという計画だろう。陽向が頷くと、狐神が「それじゃ」と細い指を向けた。

「要らん。そう伝えい」

「へ?」

あまりに短くて聞き間違えたかと思った。

「何じゃその呆けた顔は。大体、沙夜のことは吾が花嫁として送り出したのだぞ。それを今更、死んでしまったから代わりに娘を還すなどと。要らんわ」

不機嫌そうに顔を顰める狐神を見つめてしまう。

「娘ではあるが、出戻りみたいな戻し方、沙夜を娘と思うて送り出した吾が喜ぶとでも思うたか」

「あの、待って、待ってください」

「まったく。これだから最近の巫覡は。巫覡の契約が廃れる理由がようわかる。神意を受け取る器もないくせに、巫覡など名乗るでないわ」

「お願いします、待ってください!」

話が逸れ始めているので、陽向は慌てて止める。

「ん?何を悩むことがある。大方そのほうの思うところと大差ないであろう?」

「それは……!そうなんですけど……」

もごもごと口籠った陽向を狐神は不思議そうに見下ろした。腹の下辺りに渦巻いた不安が、言ってしまえと急かす。

「……もし」

深紅の瞳に覗き込まれて、陽向は蟠る考えを絞り出した。

「もし、仮にですけど、セリナが……沙夜さんの娘が、ここの眷属になりたいって言ったら……受け入れてもらえますか?」

狐神が瞬いた。紅い瞳が丸くなる。

「本人がそれを望むなら吾としては拒むことはせぬが……。よいのか?」

セリナ本人に確認したわけではない。だから、これは陽向の勝手な打診だ。けれど。

「そっちの方が、あいつにとってはいいんじゃないかって……」

セリナの幸せを考えろと言った稜樹の声が反響する。狐神は赤い瞳を左右に振ってから瞼を閉ざした。

「何とも言えんな。右近、お主はどうじゃ?」

話を振られた水干姿の狐が腕を組む。

「うーん、半妖の娘ですか。豊姫とよひめ様の意向でしたら私は従いますが、眷属全員となると保証しかねますなあ。表立って批判する者はおらんでしょうが」

「と、いうわけじゃな」

狐神――豊姫が両掌を肩の横で広げた。洋画みたいなしぐさを和服の美女がやると違和感がすごい。

「悪いようにはせん、と吾は言うが、総意となるとそうもいかん。吾の元には全国から野干が集うからな。総勢百名以上、その内幾名が陰口を叩いても吾のところには届かんじゃろうのう」

総じておすすめできる就職先ではない。相好を崩して豊姫は言い切った。

「それは人の世に居ても同じことだとは思うが。――何より、それはお主の望むところではなかろう?」

紅の瞳に映った陽向が目に見えて狼狽した。

「い、いや、俺はセリナがそう思うなら……」

「素直になればよいものを。――まあよい。あの子の幸せを願うはお主だけではないからの。吾のことは選択肢の一つとしてでも残しておけばよい。人の世に生きてみて、それからでも遅くはないぞ?吾は来る者は拒まぬ」

「そんなだから野干でいっぱいになっちゃうのですよ。面倒を見る我々の身にもなっていただきたく。まあ最近は何でか少ないですけどね」

「右近はお目付け役ではなかろう」

ここぞとばかりにすり寄った右近をばっさり切り捨てて、豊姫は口角を上げた。

「他に質問は?ああ、名代の証明じゃったら吾が烙印を押した書簡をくれてやる。お主はそれを読み上げるだけでよい」

問いかけられて考え込む。台詞を作ってくれるのはありがたい。陽向がいくら言い張ったところで証拠がなければ稜樹も信じないだろう。

「……あの、何で俺に?」

諮詢の末、陽向は問いかける。そもそも、陽向に声をかける理由が見当たらない。関係者であれば春日野や密草、それこそセリナでもよかったはずだ。右近が異界の真核を繋いで現れたのだから、対象の居場所は問わないだろう。何なら稜樹本人に直接伝えてもいい。稜樹も妖が視える人間だ。

「最初に言ったじゃろ。今の稲月に吾の声は届かぬ」

「豊姫様はこの辺りのヌシの中でも高位ですからな。単に妖が視える程度ではお姿を正しく認識することはできぬのです」

右近が訳知り顔でうんうん頷いている。

「同じ理由で生活安心課とやらの方々にも難しいでしょうな。私との会話くらいは可能でしょうが」

「それと、沙夜の娘……セリナと言ったか?できぬことはないが、難しいのう。ヌシとの明確な繋がりがないからの」

答えを脳内で整理して、いつもだったら頭の上か肩の上に貼り付いている小さい龍を思い出した。

「あ、もしかして子龍の関係?」

子龍はヌシの子供だ。一度ヌシの座を放棄したことによって資格は失っているらしいが、関係者であることは間違いない。そして、陽向はその巫覡である。

「……うむ。お主は関係者じゃ。あと、放っといたらお主が一番死にそうじゃったからの」

「ええ、ええ。私が行かなければお命危うかったかもしれません」

「うわ……」

死にかけている自覚はなかったが、危険な状態だったらしい。それにしては扱いが雑だったと思うが。

「それに、今の稲月に正しい生贄の捧げ方が遂行できるとも思えん。十中八九、儀式内で殺されておったわ」

生贄というくらいだから生きたままであろうことを陽向は想像していたが、想定が甘かったらしい。言われてみれば想像する生贄の儀式は形は違えど大半が人間界で命を奪われる。水に流したり、火炙りだったり、生き埋めだったりが典型的だ。そのどれを行われたとしても陽向は死ぬ。

 つまり、儀式が始まる前に救出する必要があったということだ。

「何というか、本当にありがとうございます」

豊姫に一生頭が上がらない。九死に一生とはまさにこのことだ。

「状況をご理解いただけて何よりにございます」

右近がけらけら笑った。豊姫も頬を緩ませる。

「それで?返事を聞いておらんぞ?吾が名代、少々役不足ではあるが、受けていただけるか?」

挑戦的に見下ろした深紅の瞳を真っ直ぐ見返して、陽向は精一杯真摯に応じた。

「――お願いします!」


   〇


 燃え落ちた稲月家の地下。天然の岩屋を繰り抜いて造られた牢獄は、複数の狐憑きを想定しているため当然一部屋ではない。

 陽向が捕らわれていた独房の、一部屋跨いだすぐ近くにセリナも居る。陽向が気付かなかったのは彼自身の不調と、独房に施された妖力封じの影響である。


 両手首を一纏めにする縄を見下ろして、セリナは肩を落とした。縄の隙間には護符が編みこまれており、彼女の妖力を封じている。独房にかけられた妖力封じは囚人の脱走を防ぐためのものだが、こちらは室内でもセリナに力を使わせることを許さない。

 固く結ばれた麻縄は少し藻掻いたくらいで外れるものではなかった。抵抗の証に残った幾筋の痣がそれを証明している。

 妖力封じによる全身の痛みと倦怠感に耐えられず、部屋の壁に寄りかかる。直接伝わる震動で、狐たちの足音が大きくなった気がした。


 ――いっそ、ずっと封じてくれればいいのに。

 明かり取りとしてほんのわずかに開けられた隙間から差し込む陽光が傷んだ畳に四角を刻む。それが徐々に移動していくのを眺めながらセリナは一人、思う。

 陽向は応えてくれようとしていると言ってくれたが、その実は怪しい。現にセリナが触れた彼の右手は爛れていた。口で言うのは簡単だが、少しでも拒絶する気持ちがあれば妖力は応じてしまう。どれだけ受け入れようと思っても、心のどこかでそれを否定する。

 どこの世界に重傷を負わせた相手に気を許す人間がいると言うのだろうか。セリナが暴走したことを教えたのは稜樹だ。敵に回った彼の発言を無条件に信じるのは躊躇うが、思い返してみても洞窟での陽向の言とは矛盾しなかった。

 セリナは陽向を傷つけた。伝えた稜樹に悪意があったのは確かだが、その事実だけは揺るがない。

 セリナが暴走して牙を剥いた相手は陽向だけではない。けれど、彼以外は対処法も身に着けていた。最初に預けられた稲月家では、管狐の操作を教えるノウハウがあった。生安課でも暴走危険性のある妖憑きの子供を育成していた。それぞれ教育方針こそ違えど、セリナが暴走する可能性を念頭に置いての訓練だった。

 命に関わる攻撃までしてしまったのは陽向が初めてだと思う。否、正確には両親を襲撃した際の稲月弥樹に向けた憎悪が最初か。

 ――お願い、無事でいて。

 考えるだけで目が熱くなる。皮肉にも、かけられた妖力封じがセリナに感情の発散を許していた。どれだけ怒ろうと、どれだけ悲しもうと、今なら妖力はセリナに応えない。


 この舌を噛み千切るくらい簡単だ。爪で首元を引き裂いてもいい。それができないのは、ここではないどこかで陽向が捕らわれているからだ。陽向だけではない。生安課の人たち、稜樹は誰にとは言わなかったが、彼らにも管狐が仕込まれている。

 セリナが稲生山のヌシの手に渡らないとわかった時点で彼らの命はない。あるいは心から妖になっていれば無情に切り捨てられたのだろうか。

 今の稜樹に稲月家は任せられない。管狐を心置きなく遣えるようになった稜樹を思えば、管理局としては防げと命じるだろう。そのくらいはセリナにも予想できる。そして、セリナにはそれができるのだ。

 ヌシへの捧げものがなくなればいい。弥樹では供物にはならないだろう。稜樹がヌシの赦しを得られると信じているのは、ヌシに弥樹が奪った眷属を還す方法だ。弥樹では果たせない。

 けれど、できない。


 生安課の安置室で、腐敗が始まった稲月朱莉いなつきあかりと対面した。変わり果てた顔でもすぐにわかった。セリナの又従兄はとこである稜樹、その母親。霊力の高さを買われて嫁入りし、血筋に反映できなかった出来損ない。

 稲月家で生活していた当時、彼女が浴びせられていた心無い言葉をセリナもいくつか耳にしている。耳を塞ぎたくなる冷笑の中、それでも朱莉はセリナには微笑みを見せてくれていた。

「大丈夫。あなたはきっと、幸せになれる」

知らず、どこかでも聞いた気がする言葉を口にして、いつものように微笑んだ彼女はセリナの背を押した。迎えた春日野と固い握手を交わして、朱莉は身を翻して車に乗り込んだ。それが、セリナが見た最後の朱莉の姿だ。


 もう、失うのはたくさんだ。

 セリナの周りで、大切な人たちはいなくなっていく。

 顔も名前も見知った生安課の人たち。陽向と知り合ったのはまだ一ヶ月だが、傷ついてなお手を差し伸べてくれた彼を死なせることなどセリナにはできない。


 「――誰か」

その声が届くことは、ない。


   〇


 「しかし、本当に何で彼だったんです?」

右近に怪我の治療を命じた豊姫に、もう一人の側近である左近が問いかける。右近よりも黒が強い銀褐色の毛並みをした狐だ。

「右近と彼は丸め込まれましたが、私は騙されませんよ」

陽向を連れて右近が退出した出入口を睨んで、左近がぼやく。先の説明中、結局豊姫は陽向を救った理由を明言しなかった。名代の人選として、選択肢が他に居ないのはわかる。それでもまだ、下級の眷属を名代に立てるという方法は残っていたはずだ。なぜわざわざ人間の若造などに。

「狐の妙薬まで差し上げてしまって……新狐しんじんへの示しが尽きませぬ」

不快感を隠そうともしない左近を見て、豊姫は愉しそうに笑う。

「何、大した理由ではあらぬよ」

独り言のように呟いて、豊姫は左近が注いだ酒をあおった。

「そうじゃの。古い馴染みへのよしみ、とでも言っておこうか。貸しを作っておくのも悪くなかろう」


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