第九章 龍穴にて

 目が覚めるとベッドの上だった。

 真っ先に声をかけたのは医師である密草で、加減を窺う決まり文句だった。

 あれから一日が経過していること、失った左腕は正常に再生していること、他の課員も多少の怪我はあったが概ね無事であることなどが伝えられる。事務的ではあったが、丁寧な説明だった。

 課員の多少の怪我については気になるけれど、訊ねるより先につい最近できた同い年の後輩が駆け込んできた。


 稲月の屋敷で稲月弥樹と戦った記憶は曖昧だ。途中までは思い出せる。けれど後半になるにつれて断片的になり、最後は真っ暗になる。

 暗闇の中でただ炎だけが燃えていた。


 病室の扉を荒々しく開けた陽向が、足を縺れさせてセリナが上体を起こしたベッドの柵にしがみつく。彼の正面に露わになった左手を咄嗟に布団の下につっこんだ。

 包帯の巻かれた腕に布団の重みが触れて少しの痛みが走る。何故こんなことをしたのか内心狼狽えて、理解した。陽向には見てほしくなかったのだ。

 セリナが人でない証。人ならざる回復力。失った肉体すら蘇らせる、怪物の力を。

「大丈夫か?」

眉間に皺を寄せて、濃紺の瞳がセリナの顔を覗き込んでいた。左腕を三角巾で吊っているし、頬にはガーゼが貼り付いている。彼も怪我をしたのだろう。

「う、うん」

真剣さに押されて困惑気味に答える。セリナの短い返事を受けて陽向の視線が探るように動いた。布団の下に隠した左腕を窺っていることに気付いて、迷う。

「あー、その……左手、とか」

迷っていたら先に陽向が遠慮がちに触れた。一度目を閉じて、セリナは決意する。

「ん。大丈夫。――治った」

観念して布団から出した左手を見た陽向が息を呑んだのがわかって、セリナは密かに嘆息する。目を見張って陽向が手を伸ばす。触れる直前、わずかに指を跳ねさせてから、陽向は手を引っ込めた。

「ほんとに?問題なく動くのか?その……後遺症とか」

「大丈夫」

指を開閉して見せる。まだ筋肉痛みたいな痛みはあるけれど、悟られないくらいには動いている。それを心配そうに見ていた陽向の顔が、柵に右手を置いたままするすると下がっていった。しゃがんだらしい。

 青みがかった癖のある黒髪がもぞもぞしている。この後何を言われるだろうか。

 セリナは目を逸らす。セリナの立ち位置は不安定だ。人であり妖でもあり、そのどちらでもない。だから心配してくれなくても構わない。怖がるのも真っ当な反応だと思う。見なかったことにして無理して笑った人もいた。

 予想できる今後をいくつも並び立てる。それに対するセリナの答えも決まっている。

「……本当に、大丈夫なんだな?」

顔を上げた陽向が眉根を下げて問いかける。ああ、この疑問はどちらだろうか。深い夜空を思わせる瞳は真っ直ぐセリナを見ていて、どの答えを望んでいるのかは読み取れない。

 目を見れば感情がわかるなんて言うけれど、そんなわけないとセリナは思う。あるいはセリナが特別苦手なだけだろうか。

 この陽向の表情はどちらだろう。セリナを妖として見たいと思っているならば問題ないと答えるべきだ。少しでも人の範疇に留まっていると思いたいのなら治り切っていないとの返答が彼の望むものである。

「やっぱり痛いのか?」

黙って悩んでいたから陽向の顔が不安に歪んだ。何故だか罪悪感を刺激されて、セリナは思わず正直に口を開いた。

「あ……ちょっと痛いけど、ちゃんと治ると、思う」

どうしてこんな中途半端な返事をしてしまったのかと、どうやって取り繕うか考えている間に話は進んでいく。

「治るんだな?ほんとのほんとに」

食い気味に身を乗り出した陽向に混乱して、周囲に助けを求めるべく彷徨った視線がくたびれた白衣を見つける。白髪交じりの短髪をガシガシ掻いて、至極めんどくさそうに密草が陽向を窘めた。

「ちゃんと完治すっから安心しろ。それは妖怪医として俺が保証してやる。ってかさっきも説明しただろうが」

「それは……そうなんですけど、本人にも確認しときたいじゃないですか」

「本人に確認しても疑ってるじゃねえか」

「うっ……」

不毛な言い合いは密草が勝利を収めたようだ。言葉に詰まった陽向がまだ不満げな仏頂面で斜め上を見る。何かを言いたそうに視線を泳がせた後、陽向は大きく溜息を吐いた。

「大丈夫なんだな」

「だからそう言ってるって。何度言わせる気だ」

ベッドの柵を折りそうな勢いで握り締めていた右手の力が抜けたのが見えた。逃げ出したい沈黙の中、強張っていた表情筋を緩めた陽向は、

「――よかった」

と、小さく呟いた。


   〇


 しつこいくらいにセリナの安否を確かめていた陽向はやっと納得したようだ。密草は凝り固まった首をぐるりと回す。関節がぱきぱき鳴った。

 陽向の放った一言はセリナの予想した範疇に無かったのだろう。思わぬ不意打ちを食らって見事に面食らっている。意図的に感情を抑制してるセリナの驚いた表情は非常に珍しくて、申し訳ないがちょっとすっきりした。

「あ、まだ痛いなら休んだ方がいいよな。じゃあ俺ちょっとやることあるから、また後で様子見に来るな!」

セリナが何か言うより先に、陽向は忙しなく病室から出て行く。途中躓いたがドアに縋りついて耐えていた。脱兎のごとき退室にセリナが呆然としている。まだ衝撃から回復していない。

「あー、セリナ。とりあえず痛み止めはここに置いとくから適当に飲めな。一回二錠な。後は寝てろ。お前は大人しくしてりゃちゃんと治る」

未だ固まっているセリナの頭をそっと撫でる。小さな返事があった。こちらは大丈夫だ。

 もう一つ、二錠をセットにした鎮痛剤を握った手を白衣のポケットに突っ込んで、白湯を汲んだコップを片手に密草は病室を出る。行儀は悪いが、足でドアを開けた。


 「あーあー」

案の定、セリナの病室を出てすぐの長椅子で陽向が伸びていた。座っているのも困難だったのだろう。足は下ろしたままで横になっている。

「見栄っ張りも結構だが、医者としてはちゃんと養生しやがれっつっとくぞ馬鹿野郎」

無理な体勢は身体に悪い。一刻も早くちゃんとした寝床に行ってほしいところだが。

「――動けそうには、ねえな」

「……すんません、無理っす」

弱々しい返答があった。半開きの口の中に無理やり鎮痛剤を放り込む。苦かったのか自力で起き上がって水を要求してきた。

「解熱剤も入ってるから、動けるようになったら部屋に帰れ」

再び転がった陽向に白衣をかけて、密草も一つ隣の長椅子に腰を下ろす。様子を見ていた方がいいだろう。

「セリナ、大丈夫なんですよね」

「大概しつけえな、お前も。ちょっとは医者の言うことを信用しやがれってんだ」

「……」

密草を見上げる陽向はまだ不安そうだ。頬が上気している。熱が上がってきているのだろう。

「……妖気」

「あ?」

ぽつり、と陽向が呟いて密草は肩眉を上げた。

「わかんないんですよ。昔っからなんですけど。熱あると、妖気わかりづらくて」

一言ずつ区切って確かめるように話すのは朦朧としているからだろう。

「だから、本当に回復してるのか、わからなくて。妖封じ、使ったから……。それでうまく回復できてなかったら、どうしようって……」

セリナの容態を必要以上に心配していたのはそれが理由か。得心がいって、密草は両目を指で揉んだ。普段から妖気である程度の体調を確認していたのなら、重症を負った現状でそれがわからないのは不安になって当然だろう。

「セリナは大丈夫だ。医者として俺が保証する。むしろヤバいのはお前だ。もう診察室のベッドでいいからそっち行くぞ」

支えて何とか歩かせて、診察室の簡易ベッドへと放り込んだ。毛布しかないが、ないよりマシである。傷のある左肩が触れないように、横向きに寝かせた。

 一通りの処置をして、密草は脇のパイプ椅子に座る。

「セリナにそのザマ見せなかったことだけは褒めてやるよ、馬鹿が」

自信の治療中にセリナの手当を優先するように訴える陽向を黙らせるために、苦肉の策で吠えた約束を律儀に覚えていたらしい。無理して見舞いに訪れてまで貫き通した根性を、師匠として密草は少しだけ見直した。

「医者としては怒るとこだからな、言っとくけど」

陽向の口元が緩んでいることにイラついて、密草は陽向の額を軽く小突いた。

「――だが、よくやった。セリナを止めてくれてありがとう」

紛れもない本心を口にした密草を見上げて、陽向が微睡んでいた目を見開いた。

「そんなに驚くこたぁねえだろ。……あの子の保護者の一人として言ってる。留めてくれて、ありがとな、陽向」

「……俺が、させたくなかったんです」

毛布に顔を埋めて、陽向が答えた。


 稲月弥樹は生安課の地下室に捕らえてある。

 ダメージが大きく未だに意識が戻らない。念のため拘束はしているが、術式での判定によると完全回復にはまだ時間がかかりそうだ。

 現場での状況を、密草は陽向からの伝聞でしか知らない。それも意識が朦朧とした状態だったから断片的だ。

 けれど、あの時のセリナが暴走状態にあったのは確かだろう。妖としての性質が全面に現れた状態であり、力に振り回されていたと推測できる。

 そのまま稲月弥樹を殺めていたら、恐らく彼女は戻れなかった。

 陽向は直観的な嫌悪感に従って制止したらしいが、その行動は正解だ。仮に正気に戻ったとしても、精神的に疲弊するのは必定。最悪、暴走した妖として相応の処分が下っただろう。人の世に危害を与える可能性のある妖を生かしておくほど管理局は優しくはない。

「お前がどう思ってたかは知らん。どっちにしても、結果的には万々歳だ」

弥樹は拘束できたし、無傷とはいかなかったが課員も全員命に別状なし。事件解決としてはこれ以上ない功績も得た。

「だからな、お前が生安課うちに入ってくれてマジで感謝してる」

「密草さんが素直だ」

「お前な……!どういう意味だコラ」

こめかみを指でぐりぐり押す。変な声が聞こえるが、気にしない。

「もう寝ろ。お前が元気にならんとセリナが泣く」

「それは……嫌だ……」

我儘な返事が戻ってきたけれど、それきり密草は沈黙した。しばらくして寝息に変わる。

「――やっと寝たか」

発熱しているから寝つきが悪かったのだろう。だが疲労はあるから、恐らく一度寝てしまえばしばらくは起きない。額の汗を起こさないようにそっと拭う。

 今回の事件は生安課にもかなりの打撃だった。前衛を担当する剣持とセリナの負傷が重症度で言えば一番だが、彼らは妖の力を持っている。

 その点で、実際のところ一番深刻なのが陽向だ。火傷に加えての、狐の死体と交戦した際の負傷からと見られる敗血症。敗血症に関しては軽度ではある。だが、彼の肉体は人間のものだ。予断は許されない。

「ぴぃ」

時折苦しそうに寄る眉間の皺を眺めていたら、診察室を仕切るカーテンから子龍が顔を出した。

「よお。丁度いいとこに来たな」

陽向がいつもそうしているように、紫の鬣を撫でてやると猫みたいにすり寄ってきた。

「ご主人の様子見ててやってくれ。ついててやりたいのは山々だが、患者はこいつだけじゃないんでね」

峠は越えたと言ってもセリナや剣持、果ては稲月弥樹の様子も見なくてはいけない。弥樹の身柄を本部に引き渡すのは明日の午後だ。それまでは密草が医療面の責任者である。

「ぴっ!」

眠る陽向の脇に長い身体を丸めて子龍が鳴く。

「一丁前に任せろってか。案外伝わるもんだな」

陽向が当たり前のように意思疎通しているのが不思議でならなかったが、こうして話しかけてみると確かに通じているように思う。

「そんじゃ、ご主人のこと任せたぜ。おっと、巫覡だからお前さんの方がご主人か」

「ぴぃい」

困った従者だと言った、と密草は勝手に解釈した。

 稲月家での騒動で、意識を失った陽向とセリナ、稲月弥樹の居場所を報せてくれた龍だ。言葉は通じなくても大事な役目は果たしてくれるだろう。

 そう信じて、密草は稲月弥樹が眠る地下へと足を向けた。


   〇


 どれだけ眠ったかはわからない。正直、セリナの病室前で力尽きてから場所が移動していることにすら記憶が曖昧である。

 ようやく解熱した頭を必死に働かせて、陽向は寝台の上で寝返りを打つ。

っ!?」

仰向けになった瞬間、忘れていた痛みが脳まで突き抜けた。左肩から背中の中ほどに至るまでの火傷の存在を完全に失念していた。

「っ~~~~~~」

ひとしきり悶えてから、いっそのことと身体を起こす。室内の電気は付けっぱなしだが、カーテンの引かれた窓は明るい。とっくに朝になっていたようだ。

 薬が効いているだけかもしれないが、まだ薄ぼんやりしている頭を振って眠気を払う。周囲を窺えば、見知った診察室だった。廊下に出てすぐが病室であり、セリナが居るはずである。

「……運んでもらったんだっけ?」

靄のかかった記憶を掻き分けて、密草と話したことを思い出した。話の内容は覚えていないけれど。

「痛てぇ」

ちょっと動かしただけなのに肩の皮膚が引き攣れた。触ると余計に痛いので擦ることもできない。

「あー、明日から学校じゃねぇか。どうしようこれ。その前に何て説明すりゃいいんだ」

痛みを誤魔化すためにぶつぶつ呟きながら診察室をうろつく。密草の姿を探したが見当たらない。

「バイト辞めろだけは避けたい……。もういっそ誰か幻術とか使えないか――ん?」

家族に何と言い訳しようか悩んでいたら、診察室のドアの隙間から廊下に人影が見えた。

「稜樹さん?」

「うわ!」

声をかけたら予想以上に驚かれてしまって、こちらの心臓が縮み上がった。

「あ、何だ……えっと、上名さん、でしたっけ?こちらにいたんですか……」

廊下には稜樹の他に誰もいない。しどろもどろな稜樹に首を捻りつつ、陽向は問いかける。

「あの、他のみんなは……?」

本家が燃え落ちたため、あれから稜樹は生安課の事務所で生活している。事務仕事の手伝いなどもしているようだ。

「みなさん出かけていますよ。伯母の護送だと思いますが」

「え?今日の午後じゃなくて?」

予定が早まったのだろうか。それも全員で?疑問は残るが、本部とのやり取りだし、弥樹の所業は凶悪犯そのものだから厳重になるのはわかる。

「稜樹さんは同行しなくてよかったんですか?」

犯罪者とはいえ身内だ。ここに残っていていいのだろうか。

「管理局の裁判は非公開ですから。同行しても僕のすることはないです」

その言い方は随分とそっけなくて、肉親に対するものとは思えない。

「それより、さっきセリナが部屋を出て行くのを見ましたよ」

「え?」

突然話題が変わって陽向は視線をセリナの病室に向ける。確かに扉が開けっ放しになっている。

「用足しかとも思いましたが、別方向だったので少し気になって。あちらの方へ」

稜樹が指し示したのは医院と繋がる事務所の方角だ。

「差し出がましいかと思いましたが、後を付けました。一階の一番奥の扉に入って行きましたよ。僕は立ち入りを禁止されているのでそれ以上は追いませんでしたが」

それならば、生安課の事務所がある異界の真核への扉だ。入室は陽向も禁じられている。ヌシの棲み処への入口の一つで、セリナたち力を持て余した妖の発散場所だ。

 ここのヌシは管理局に協力的で、暴走しかけた際の緊急退避所として提供してくれているのだと、つうが話していた。

 もしかして、と陽向は病室でのやり取りを思い出す。

 セリナが陽向の負傷を気に病むのは避けられない。治療をしながら密草は陽向にそう語った。それでも、できれば変わらず接してほしいと密草は懇願した。朦朧としていたが、それだけははっきり覚えている。

 具合が悪いのを悟られただろうか。もしくは、彼女の手に触れるのを恐怖して思いとどまってしまったことに気付かれただろうか。

 昨日の失態が次々思い当たって、陽向は血の気が引く。セリナの精神が不安定になる要素はいくらでもあったし、その大半が陽向に関わることだ。

「……教えてくれて、ありがとうございます」

稜樹に礼を言って、事務所の方へ向かう。走ろうとしたけれど、身体が付いてこなかった。仕方ないのでできるだけ急いで移動する。


 現代的な事務所の建物は異界の外殻だ。多くの異界がそうであるように、外の世界の建物を反映した空間が展開される。

 人目につくことを避けなければならない管理局の出先事務所としてはこれ以上ない物件だ。始終漂う異界の気配だけはいかんともしがたいが、それを問題視するのは陽向だけだろう。他の者には妖気同様この空気感も理解できないようだから。

 昨日より遥かに感覚が冴えている。熱が下がったのだろう。奥の扉から漏れ出す別の異界の空気をしっかりと感じ取れる。

 ひんやりとした冷気だ。他は引き戸なのに、ここだけ片開きのドアである。ノブに触れれば鍵はかかっていなかった。一呼吸おいてから、陽向は扉を開いた。


 密草たちがセリナに陽向の負傷の原因を伝えたかは定かでない。けれど彼女が覚えていないという保証はないし、周囲の様子から勘づいたとしても不思議ではない。

 前回、セリナの発散に行くなと言われた。そのときの要因は陽向ではなかった。思えばあのとき、彼女は今回の事件と自身の繋がりに気付いたのだろう。両親の死の原因ともあれば、暴走するほどに怒りを募らせても誰も責められない。

 だから放っておけと言われて陽向も従った。けれど今度は違う。

 今、セリナが気に病んでいるであろう事柄の大半は他ならぬ陽向のことだ。無論弥樹のこともあるだろうが、少しでも彼女の精神に影響してしまっているならば陽向は否定しなければいけない。気にする必要はないのだと。むしろ謝らなければいけないのは自分なのだと。


 扉を抜けた向こう側は草原だった。振り返れば建物の外壁と開けっ放しの扉がある。そっと閉めても扉が消えなかったことに安心して、陽向は再び草原へと目を向けた。

 青々とした草地を風が通り抜けていく。その向こうに岩屋が見えた。風はそこから吹いているようだ。そして、セリナの妖気もそちらに在る。

 意を決して、草の中の獣道を行く。多少の蛇行を経て、岩屋が近づいてきた。

 巨大な洞窟の入口だった。高さはあるが、自然そのままだ。巨大な岩が階段状に奥まで下っている。吹き付ける風に髪が揺れた。

「……セリナ?」

呼びかけても返事はない。妖気は奥から感じる。声が届かないのかもしれない。

 妖気の発散をしているなら、いつここから炎が噴き出してもおかしくはない。自身の肉体を焼いた痛みを思い出して、陽向は瞬時躊躇する。横幅はあっても逃げ場はない。

「……けど」

念のため結界用の護符を握りしめて、一歩。踏み出してしまえば簡単だ。苔むした岩を足を滑らせないように慎重に降りていく。

 洞窟の奥の奥。セリナが居るよりも遥か奥から吹いてくる風に強い妖気が乗っている。ここのヌシのものだろう。敵意がないことは頬を撫でる風が教えてくれた。何なら呼ばれている気さえする。


 しばらくして、水の音が聞こえた。


 開けた場所に出て、陽向は声を失う。

 洞窟全体が淡く発光していた。ヒカリゴケという種類の苔の存在を聞いたことがあるが、それだろうか。照明でも点灯したみたいに、薄青く岩壁を彩る。

 時折輝く強い光が星空のようで、地底にできた湖に映り込んでいた。

 足音すら無粋に思えて、陽向は音を殺して湖畔へと降りる。

 流れがあるのか、湖面は静かに波紋を揺らしていた。

 島のように浮き出た岩々の中で、見慣れた赤銅色の髪から水が滴っていた。

「――セリナ」

呼びかければ振り返る。それもいつも通り。けれど陽向を見た赤銅の瞳は震えていた。静かに激しい拒絶が陽向を射抜く。

「……何しに、来たの」

膝下を水に沈めて、セリナが問う。

「危ないから、帰って」

彼女の身体全体が薄っすらと炎に包まれている。妖力を発散するというのは文字通りのようだ。

「謝りに」

圧倒されて、それだけ言うのが精一杯だった。セリナが目を細める。

「何で、陽向が?謝るのは私。でも、今は待って。お願い」

彼女が纏う炎が少し濃くなった。やはり、セリナは陽向の負傷の原因を覚えている。

「……俺の怪我のことなら、気にしなくていい。大したことねぇし、むしろちゃんと止められないのに割り込んだ自業自得だ。だから――」

「嘘」

陽向の言を遮ってセリナがかぶりを振る。

「大したことないなんて、嘘!だって、火傷が痛くないわけなんかない!私が焼いたんだ、知らないわけないでしょ!?」

叩きつけるように叫んだセリナは自身の両腕で身体を抱え込む。溢れそうな妖気を押さえつけているのがわかって、陽向は後悔を募らせる。

「それはっ……!――ごめん。けど、悪いと思ってるのは本当だから」

どう言い繕っても無駄な気がした。

「嘘っ!怒ってないわけない!たぶん痕だって残る!もしかした後遺症だって!」

水の中へ服が濡れるのも構わず座り込んで、セリナが吠える。

「怒ってねえ!!絶対お前に対しては怒ってねえから!それだけは絶対だ!!」

この件で陽向が怒りを向けるとしたら陽向自身にだ。暴走を止める代償にここまで気に病ませてしまったのは陽向の失態だ。もっとうまい方法がいくらでもあったはずなのに、それができなかったのは陽向の未熟さ故だ。それをセリナに責任転嫁するなど、ありえない。

「もうだ……」

けれどセリナは頭を抱えて蹲る。

「嫌い。こんな力、いらない!何で、何で私だったの!?」

駄々っ子のように髪を振り乱して、伝った涙が湖面に落ちた。

「感情を隠すの下手で!すぐに暴走させて!傷つけて!怒っちゃダメって、あんなに、あんなに言われてたのに……!」

妖力は感情に大きく左右される。その理屈はこれまで幾名かの妖を視てきた陽向にもわかる。だからこそ、怒りという感情は厄介だ。思いのままに妖力を振り撒けば被害は計り知れない。は、わかっているのだけれど。

 「怒らないわけないだろうが!!」

喉を震わせた絶叫が洞窟に反響して、セリナが顔を上げる。歪んだ頬を濡らして、燃える炎の瞳が潤んでいた。

「親を――親を殺した奴だろ、怒らないわけねえだろうが!そんなん怒るなって方が無理だ!怒るななんて言う奴の方が馬鹿野郎だ!!」

「……陽向」

「そんなもん、誰だって怒る!妖だろうが、人間だろうが、怒るに決まってんだろうが!恨むに決まってんだろうが!!」

感情のままに吠えながら、陽向は湖へと足を踏み入れる。足首が水の抵抗を感じて、セリナまで妙に遠く思えた。

「こ、来ないで!今近づいたら……!」

セリナが立ち上がって湖の奥へ進んでいく。彼女が深みに嵌まりそうで、陽向は足を止めた。

「セリナ、大丈夫だ」

手を差し出す。無事な方の右手を。

「お前の妖力は、ちゃんとお前に応えてる。素直だよ、すげえ素直だ」

肩に掴みかかって炎上した瞬間を思い出す。あの時、セリナは嫌だと叫んだ。収束した妖力を、陽向ははっきり覚えている。

「嫌だって、思っただろ。俺を傷つけるの、嫌だって思ってくれただろ」

怯えるセリナに向かって、そっと一歩。

「あの時、お前の妖力はお前の気持ちに応えた。じゃなかったら、今頃俺は生きてないよ」

セリナがあの時妖力を止める意志を持たなかったら、陽向は焼死体になっていたはずだ。そうならなかったのは、セリナが願ったからだ。

「思っていいんだよ、嫌だって」

拒みたいものは拒んでいい。嫌だと思うなら、思っていい。

「セリナ」

一歩一歩、様子を窺いながら慎重に近づく。

「俺のこと、嫌いか?」

千切れそうなくらい首を横に振られて、陽向は思わず微笑みを零した。

「嫌いじゃないから、来ないで」

顔を歪ませて、セリナが願う。

「傷つけたくない。死なせたくない。だから、来ないで」

その願いは、聞いてあげられない。こんなところで、引き下がれない。

「セリナ、頼む」

手を伸ばせば届く距離。差し伸べた掌を赤銅の瞳が見つめていた。

「俺を、拒まないでくれ」

セリナが息を呑む。

「傷つけたくないって、思うなら。思ってくれるなら、俺を拒むな。来るなって思うから妖力がそれに応えるんだ。それに応えて、俺を遠ざけようとする。それじゃダメなんだよ」

胸の前で自分の左手を頑なに握りしめていた右手が静かに離れた。

「セリナ、拒絶するな。受け入れてくれ」

躊躇って行き場を失った右手を掴みとる。セリナがきつく目を閉じた。走った恐怖に負けじと引き寄せる。

「――な?大丈夫だろ」

恐る恐る瞼を開けた赤銅の瞳に向けて、陽向は精一杯得意げに笑って見せた。顔の前に持ち上げた繋いだ手は燃えていない。

「あ……」

セリナが目を見張った。吹き抜けた風が火照った頬に涼しい。


   〇


 セリナが炎を出し切るのを湖畔で静かに見守った。

 感情は抑制しなくてもいいと陽向は思うが、それと怒りの発散はまた別の話である。要は向ける方向を考えればいいのである。

「思いっ切りやればいい」

そう言われて驚いていたセリナだったが、結局は洞窟の奥に向かって火炎放射した。ストレスの発散は誰にだって必要だ。

 やりきってすっきりした表情のセリナを迎えて、二人で洞窟の外へ向かう。日の光に目を細めて、緑の草原が二人を包んだ。

 安堵したのか、大きく息を吐いたセリナの口角がほんの少しだけれど上がっている。やはり意図的に押し込めていただけで、本来は表情豊かなのかもしれない。

「陽向、その……ありがとう」

洞窟から吹いてくる風が緋色の毛先を攫う。燃える炎の色合いが綺麗だ。

「けど、やっぱりごめんなさい」

その頭が急に下げられて、陽向は面食らう。

「え、いや、だから――」

「謝らなくていいって言われた。それはわかってる。でも、私が謝りたい」

頭を下げたままでセリナが言う。反論しようとした口を、陽向は噤んだ。

「怪我させたのは本当だから。もし、何か生活に支障が出るようだったら責任取る」

「え!?いや、そこまでは……」

思わず顔の前でバタバタと振った手を慌てて引っ込める。セリナが顔を上げるまでには間に合った。

「けど……」

「いいったらいいの。さ、事務所戻ろうぜ。食堂でも行こうか。朝飯まだだし」

話題を変えて、扉のついた建物に歩を向けようと振り向いた。その視界に、黒が飛び込んできた。

「え――」

「陽向っ!!」

「動くな」

セリナの悲鳴のような呼び声と、地の底から響く低い声が重なった。首筋に触れた冷たい感触と、顔の横に伸びる白銀の一振り。

「な、お前――!?」

「動くなと、そう言ったはずだ」

「っ」

鋭い痛みが首筋に走って、陽向は喉を鳴らす。研ぎ澄ませた刃のような鋭利な妖気。この妖気には覚えがある。

「……一つ目?」

「呼び名は勝手だが、まあいい。真の名などないからな」

姿は見えないけれど、身体の前に回された太い腕にも見覚えがありすぎる。接近するまで妖気探知を許さない謎の妖。編み笠の一つ目だ。

「娘、少し下がれ」

「っ」

「人質はこの小僧だけではないぞ」

「な!?」

驚きに叫んだのはセリナではなく陽向だ。首に冷たいものが触れて身が強張る。一つ目の後ろからもう一つ足音が聞こえて、その正体を見たセリナが刮目した。

「――え?」

「まったく、妖気がわかるなんて厄介な能力ですね。あの時殺し損ねたのが惜しまれる」

「稜樹さん!?」

一つ目の脇を通り抜けてセリナに向かう人物を認識して、陽向も目を剥いた。小麦色の短髪。稲月稜樹が煩わしそうに前髪を掻き上げる。

「生安課の何名かに管狐を仕込ませていただきました。上名さんがいない隙がなかなかなくて苦労しましたが」

セリナの正面に立つ稜樹の表情は陽向からは見えない。けれど禄でもない顔をしているのは容易に想像できる。

「セリナ、僕の言うことに従ってもらうよ」

「……っ」

セリナの狼狽した目が陽向とぶつかる。だが、打開策はない。セリナが何かするより先に、確実に陽向の首が落ちる。

「うーん、まだ反抗的なのはちょっと彼に救われたからかな。洞窟での啖呵はなかなかの見ものだった。けど――」

陽向に向き直った稜樹の口が半月型に歪んだ。

「やせ我慢はよくないよ?」

「っやめ――!」

全て、見られていた。拒んだ陽向に構わず稜樹が右手を掴んで引き摺り出す。

「ほら、指を開きなよ」

っ!」

抵抗を試みた指を無理やりこじ開けて、セリナの眼前に掌が露わになる。白濁した水膨れが連なり、そのいくつかが爆ぜて赤い表皮を覗かせた掌が。

「――っ、セリナ、諦めんな!!」

首元に刃が食い込んだが、陽向は厭わず叫んだ。動揺する瞳に、無理してでも今言っておかなければと心から慟哭する。

「絶対諦めんな!あの時よりできるようになってる!だから!!」

「煩い」

稜樹の呟きと一緒に開いた口の中に何かが入り込んできた。いつの間にか稜樹が手にした竹筒の蓋を開けている。

「――が!?」

その妖気が管狐であることに気付いたが、えずく喉の奥をこじ開けて侵入していく。

「死体と違って意志のある人間は操りにくいんですが……意識を奪うくらいなら容易に」

「陽向ぁ!!」

泣きそうなセリナの悲鳴を聞きながら、全身の力が抜けるのを感じた。

「おや?……まさか管狐に耐性があるんですか?つくづく厄介な……」

面倒さを隠しもしない稜樹の声が遠くに聞こえた。

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