幕間 紅蓮の記憶
――赤く、赤く。炎はセリナの世界から全てを奪い去った。
夕陽の中で長く伸びた影。途中で手を振りあってそれぞれの帰路に就く。
運動は得意だった。走るのが好きだった。小走りに駆けてもずっと疲れなくて、長距離走に根を上げている同年代の友人が不思議でならなかった。
だから、少女は全力で夕暮れの街を駆ける。
背中でそこそこの付き合いになった赤いランドセルがリズムに合わせて跳ねる。ありふれた色だけど、一番好きな色だった。色とりどりのランドセルが並ぶ中、真っ先に古風な赤のランドセルを選んだのは正直に綺麗だと思ったからだ。
今、目指す方向に沈みゆく太陽の色。太陽が染め上げる空の色。この色が、少女の好きな色だ。
「ただいまー!」
子供心にも
「カレーだ!」
「おかえり。先に手を洗ってきてね」
奥の台所に居るから姿は見えないけれど、笑みを含んだ答えに少女の心は湧きあがる。短い廊下にランドセルを放って、少女は洗面台に急いだ。
黄色とピンクと赤。並んだ三つの歯ブラシとコップは家族三人それぞれの好きな色だ。もちろん赤くてほかよりちょっと小さいのが少女のもの。同年の平均身長よりも小さい少女でも手が届くように備え付けの棚ではなく洗面台の淵に置かれている。
それを見た笑顔が鏡に映っていて、すぐに気恥ずかしくはにかんだ。それがまた可笑しくて、少女は石鹸を泡立てる。
匂いでメニューはわかってしまったけれど、楽しみは倍増した。カレーは父親の好物であり、食卓に並ぶ日は彼の帰りが早いことを意味する。
軽い足取りでダイニングを兼ねたリビングの入口にかけられた暖簾を潜ったら、台所に揺れる小麦色の長い髪が見えた。
「改めて、おかえり」
振り向いた母親の瞳は家路を急いだ夕陽の色をしている。少女の一番好きな色だ。
「ただいま!ね、今日カレー?カレーでしょ!?」
「お、匂いでわかっちゃった?」
鍋を菜箸でかき混ぜながら、母は悪戯っぽく微笑む。
「うん!玄関開けたらすぐわかったよ」
「うー、悔しい。って言いたいところだけど、カレーだしね。匂いだけは誤魔化せないわ」
菜箸は止まることなく鍋を回っているのに、空いている左手はとても自由に母の感情を表現する。宙を踊った人差し指を下唇に添えて、母はわざとらしく「うーん」と首を傾げる。右上を向いた緋色の瞳は壁掛け時計を見ていた。
「四時半かー。ごはんにはまだ早いね」
「だねー」
少女もつられて体ごと傾いた。母の傾きも増す。
「父さん、六時くらいに帰ってくると思うんだー」
母が何を言いたいか察して、少女の頬が膨らんだ。
「……もー。わかった。わかりましたー。宿題やりますぅーだ」
「うん、よろしい」
片手を腰に添えて満足そうに破顔する母を半目で睨んで少女は寝室を含めたこの家唯一の部屋へと移動する。
襖を開ければ真っ赤な空が広がっていた。
カーテンを引き忘れていたのか、ベランダに出る掃出し窓が露わになっている。数分前だったら相当眩しかっただろうが、太陽そのものはすでに地平に沈んでいる。薄赤に染まった雲が風に流れていた。
「わぁ……」
美しい景色に息を呑む。毎日見ている部屋が全く違って見えて、少女は窓辺に引き寄せられた。鍵を開けてベランダに出る。
初夏の夕暮れはまだ肌寒くて長袖の両腕を抱えた。それでもこの景色をもう少し近くで見たかった。
「綺麗……」
息を吸えば涼しい空気が喉を通って肺を満たした。風が優しく髪を揺らす。母よりくすんだ薄茶の髪。光の加減なのか、時折この夕空みたいな色に見えるときがある。それが嬉しくて、どうやったらその色に見えるのか研究した時期もあった。
けれど一度もその色を意図的に再現できたことはない。あるとき突然、目に入る毛先が夕陽に染まった雲のように緋色に見えるのだ。それはきっと素敵なことだと、少女は思っている。
玄関の開いた音がして、少女は赤い柄をした鉛筆をノートの上に投げ出した。机の上の小さな置時計の針は上下に真っ直ぐ伸びている。
退屈な漢字の書き取りはおしまいだ。まだ宿題である二ページ分は埋まっていないけれど、残りは夕食後でも遅くない。少女は浮足立つ気持ちを抑えて立ち上がる。
「おかえりなさい!」
襖を開ければ予想した通りの人物がいた。ぱっちりした焦げ茶の目に、短く刈った茶髪。四角い顔が優しく笑って少女に手を振った。
「ただいま。そして、お待たせ。お腹空いただろう?ごはんにしてもらおう」
「うん!」
「その前に父さんは着替えてきてね。スーツにカレーつけられたら堪んない」
「ああ、もちろん」
いそいそと、少女が去年の父の日に選んだ赤色のネクタイを緩めながら父が居室に入っていく。
「あんたも、部屋そのままだろ。片付けておいでね」
「はぁい」
本当は宿題も途中なので再開しなければいけない。片付けると二度手間なので億劫だが、父が着替えをしている居室は少女が宿題をしていた部屋と同一だ。片付けなければすぐにバレてしまう。
渋々部屋に戻ると、父はもう着替えを終えていた。Tシャツにジャージと、ラフな格好で窓のカーテンを引いている。
「お。ちゃんと片付けに来たな。偉いぞ」
少しでも夕陽を見ていたかったからカーテンを閉めなかった。いつの間にかすっかり日は落ちて、外は真っ暗だ。外に出れば近くの街灯は見えるだろうし、見上げれば星の一つくらい見つかるだろう。けれどカーテンの隙間から見えるガラス窓は漆黒の闇に沈んでいて、部屋の明かりが落ちたベランダだけが白く浮かび上がっていた。
家のカレーは父の要望により大振りの野菜が大量にごろごろ入っている。一つ一つはとても大きいが、時間をかけて煮込んでいるのでどれもすごく柔らかい。
ほくほくのじゃがいももにんじんも、スプーンがするりと入っていく。抵抗なく切れて気持ちがいい。
両親二人は中辛で、少女のものは甘口。まだまだ辛いものが苦手な少女のために、鍋を二つに分けて作ってくれる。両方の味におかわりが用意されているのもいつものことで、早々に食べ終わった少女は習慣に従って空の皿を持って立ち上がる。
「ほどほどにしときなよ」
言っても無駄なのに、母が形式的な忠告をするのもいつものこと。
「まあまあ。育ち盛りなんだから食べられるだけ食べなきゃ」
決まりきった擁護をする父もいつも通りだ。
お世辞にも裕福な家庭ではない。
共働きも珍しくなくなってきた時勢に逆らって母は専業主婦だし、暮らし向きからして父の収入に余裕があるとも思えない。
母が少女に見えないように内職をしているのも知っている。狭い家だ。偶然見つけてしまった段ボールは見てはいけないものを見てしまった罪悪感に押しつぶされそうになった。
旅行にも外食にも行かない。母は極力家から出ない。買い物も週に一度、父がまとめて買い置きをする。一時は母の具合が悪いのかとも疑ったが、結局少女がその理由を知ることはなかった。
問題がなかったわけでは決してない。不満がなかったわけでも決してない。
それでも、幸せな日々だったと胸を張って言える。
同級生と比べられたって、何故か担任に父親と一緒に呼び出されたって、誰が何と言おうと、少女は幸せだった。
担任の中で母がいない子供になっていたのには納得できなかったが、学校からは父と手を繋いで歩いて帰った。父はばつが悪そうな顔をして、少女を連れてケーキ屋に立ち寄った。
ショーケースに並んだ宝石みたいなケーキを前に、父は頬を掻きながら好きなのを選んでいいと言った。
「母さんの好きなのがどれかも考えてくれないか?」
そう言って苦笑する父が可哀想で、必死に母の好みを思い出した。この手の甘味に馴染みがなさ過ぎて、一向に母の好みが思い当たらず泣きそうになっていたら、女性店員がショーケースの内側から出てきた。そこからは彼女ともう一人の従業員も参戦して、四人であれこれ頭を悩ませた。
結局、母の好きな色であるピンクから白桃のタルトに落ち着いた。白とピンクが複雑に混ざりあった柔らかそうな果実を透明なゼリーが包んで煌めいている。ショーケースから取り出されるそれが店内のクラシックな照明を反射して輝いていた。
「こちらでお間違いありませんか?」
薄いピンク色の隣に並ぶ、真っ赤な粒がぎっしり詰まったイチゴタルトとつるつるの黒檀のようなチョコレートにコーティングされたガトーショコラ。店員がわざわざ少女にも見えるように低い位置まで降ろしてくれた。
見慣れた家族の色が小さな宝箱みたいに見えた。頷いた少女に、一緒に選んでくれた店員も笑顔を見せてくれた。
帰り道、絶対に落とさないように父が持った箱からひと時も目を離さなかった。それを見降ろして父が苦笑していたことを家の前で出迎えた母に聞いた。
三人で小さな卓袱台で、一口ずつ交換しながら食べたケーキは家族の笑顔になった。
〇
この日々が永遠に続くなどと、幼い少女であろうと思っていたわけではない。
人には人生の段階というものがあり、成長するに従ってその生きる場所を変えていく。
少女だって、いずれはこの家から巣立つ日が来るのかもしれないと思っていた。積極的に離れたいとは思わないが、いつまでもずっとは絶対に叶わない願いである。
誰であれ、いつかは避けられないお別れは訪れる。
どれだけ抗おうとも必ずその時はやってくる。
――でも。
何も、こんなに早く来なくてもよいではないか。
もっと時間をかけて、数十年という歳月を経て、ようやく受け入れられるべきものではないのか。
深夜出火した炎は同アパートの全室に燃え広がり、通報が遅れたこともあり消火活動は難航した。
ようやく消し止められたのは翌日の明け方で、必死の消火も虚しく、築三十年を超えた小さなアパートは全焼した。
当時の入居者は大家一家を含めた二世帯であり、大家は出火元から離れた部屋だったために避難が間に合い家族全員が喉の痛みを訴える程度の軽傷だった。
出火元は入居していた夫婦と小学生の娘一人の三人家族の部屋で、逃げ遅れた夫婦二人が焼死した。現場から救助された娘は火傷を負っており、すぐに病院へと搬送された。
出火原因は放火である。死亡した夫婦に恨みを持つ知り合いの犯行と見られ、容疑者は依然として行方不明である。
焼け落ちた漆黒の中。周囲のすべてが炭化していた。
逃げ込んだ押入れの柱だけが朽ちずに残り、廃墟の祭壇のように傾いでいる。
その中央で、少女は座り込んで動かない。
立ち上がろうとして、足の痛みに気が付いた。騒動の折、燃える赤髪の女に掴まれた足首だ。脛や脹脛が真っ赤に変色している。靴下の燃え残りが貼り付いた隙間から白いぶつぶつが見えた。
あの時、少女の足を掴んだ見知らぬ女の手が炎上した。それを振り払って母が絶叫する。転がった少女を抱きかかえたのは父で、少女を隣の部屋へ移動させると母の元へ戻って行った。
父はそのまま戻らなかった。代わりに額から流した赤い液体に顔を汚した母が部屋に入ってきた。何事か叫んで、少女を抱えて奥の押入れの隙間へと入れられた。
最初は拒んだけれど、母の笑顔を見て頭が真っ白になった。
何かを言われた気がしたけれど、よく思い出せない。
ふいに足の火傷が痛みを訴える。少女の心に火が灯った。――火だ。この痛みを生む火ならば、きっと悪い奴を追い払ってくれる。
湧いた感情に従って、少女は押入れの襖を開けた。
そこから先のことはよく覚えていない。
――気が付いたら少女の世界は炎に包まれていた。
この炎は少女のものだ。
故にこそ、少女だけは傷つけない。
母の手が少女の頬に触れた。
優しく撫でるその手が暖かく濡れている。少女の目下、いつもなら彼女を見下ろしている赤い瞳が揺らめく炎を映して光を失っていく。
柔らかい手が床に落ちて、かすかに上下していた肩が動きを止めた。
母が少女の呼びかけに応えることは二度とない。
大好きだった赤が、大好きな人を、大好きな場所を塗りつぶした。
〇
暗い夜道に怯える少女を見下ろして、母が微笑む。
内緒だよ、と立てた人差し指の上に蝋燭みたいに火が灯る。暖かい光が少女に降り注ぐ。
これは、二度と戻れない記憶。
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