第七章 憤怒の果てに
思えば、何かを忘れている気がした。
林の中に現れた妖気。これまで幾度となく探知した管狐の気配が間近にある。陽向はその方向に目を遣って、一人の人影を見つけた。
管狐の妖気は一匹分だ。ついさっき数えきれない大集団に襲われただけあって、ひどく物足りなく感じた。
木々の間に垣間見える人影は覚束ない足取りで陽向たちの少し上の斜面を横断している。結構な斜度のある斜面だ。あそこに道があるのかはここからではわからないが、フラフラと歩む人影の動きは不安定ですぐに転びそうだ。このままでは遠からず滑落する。
助けに行こうかと踏み出しかけて我に返る。管狐の妖気はあの人物から出ている。今のところこちらには気付いていない様子だ。どうしたものかと陽向は思案して。
「あの、近くに人影が。管狐の妖気がするんですけど」
素直に密草に相談した。と、同時に消息不明のもう一人の関係者を思い出す。
「密草さん、稜樹さんのお母さんは……?」
確か黒髪だと言っていなかったか。よく見れば斜面の上の人物も頭部は黒い。華奢な体格も女性だと言われれば納得する。
『回れるだけ屋敷の中は見て回ったがいなかった。残念ながら、な』
電話で回答する密草に苦渋が滲んでいて、彼が本当に火災の中を駆けまわったのを雄弁に語っている。
「もしかしたら、見つけたかも……っ、唵!」
電話と女に気を取られていて探知を怠った。首筋を襲った怖気に従って結界を張れば黒い影が突撃して弾かれる。
「ああもう、狐の死体です、密草さん!唵!」
スマホを肩と頬で挟んで、陽向は拘束術式を放つ。切実にインカムが欲しい。
『何だと!?』
光る紐に縛られて地面に転がった狐の死体を確認して、陽向は密草が叫ぶスマホを放り投げた。軽く放物戦を描いて稜樹の手の中へ。
「稜樹さん、スピーカーにして!」
転がった狐に抜刀した切っ先を突き立てながら陽向は叫ぶ。足元で狐の死体が炎上した。
『陽向、無事か!?』
「今のとこは!いっぱい向かってきてますけど」
接近した死体は一匹だった。稜樹の操作でスピーカーモードになったスマホから大音量で密草の安否を問う声がする。――まだ姿は見えないが、管狐の集団が近づいてきている。頭数からして死体の軍団だ。
斜面の上の女はまだ揺らぎながら歩みを進めていた。すぐにでも倒れそうなのに思ったよりしっかり歩いているらしい。その向かう先に見知った妖気ともう一つの強大な妖気を見つけて、陽向に戦慄が走った。
「セリナの方か!?」
近づいたり遠ざかったりを繰り返しながら移動している二つの妖気。一つはセリナで、もう一つはさっき遭遇した赤い髪の女だ。
――赤い髪?
不意に過った疑問は陽向の視線を斜面の上に引き付ける。相変わらずふらふらと女はまるで何かに引っ張られるように真っ直ぐ激しいぶつかり合いへと向かっている。その揺れる長い黒髪と白い襦袢が、かつて話を聞いたときに陽向が思い浮かべた亡霊の姿と重なった。
そうだ。あのとき春日野は何と言った?
剣持に重症を負わせた女との邂逅。その女の特徴を、彼は何と説明した。
然る広告代理店を襲った火災を引き起こした、防犯カメラに映った女の後ろ姿を思い出す。白黒コピーだったからその確かな色はわからない。だが、それが濃い髪色だったのはわかる。
決して、火災に見舞われた稲月家の前庭で襲いかかってきた女の燃えるような赤髪ではなかった。
「あれは……誰――?」
「急々如律令!!」
思考に沈んでいた陽向を密草の呪言が引き摺り戻す。真横で結界に阻まれた狐の赤い口が見えた。
「っ、唵!」
慌てて拘束術式を打ち出す。密草が蟹股で走ってきた。
「陽向、無事か!?」
「な、何とか!」
戦場真っただ中でぼーっとしていたなどとは言えない。取り繕って答えた陽向を半目で睨んで密草が護符を構える。
「嘘こけ、隙だらけの表情しやがってからに」
バレていた。
「密草、陽向、大丈夫かい!?」
続けて山の少し上から声が降ってきた。いつもより切羽詰まっている春日野がほとんど滑り落ちるようにして斜面を降ってくる。
「おう、どうにかな。唵!」
「春日野さん、密草さん!」
密草が拘束術式で転がした狐の中身に止めを刺してから陽向は二人に呼びかける。
「あそこの女、春日野さんと剣持さんを襲った奴じゃないですか!?」
指さした陽向に釣られて春日野と密草が首を回す。女はだいぶ遠くまで進んでいた。
「遠目だから自信ないけど、たぶんそうだと思う!……あれ?じゃああの女は……?」
陽向と同じ結論に至ったらしい春日野に向かって、陽向はさらに緊迫している事態を吠える。
「セリナの方に向かってます、あいつ!!」
「「何だって!?」」
春日野と密草が綺麗にハモった。その間にも狐を拘束しているからさすがである。
「くそ、数が多い!」
「稜樹さんを守りながらだと手が離せないね……仕方ない!」
春日野が飛びかかった狐をすれ違いざまに縛って、陽向に目配せした。
「陽向、行って!確実に追いかけられるのは君だけだ!けど、実際の戦闘はセリナに任せること!いいね、絶対だからね!!」
その約束はできかねる。嘘はつきたくない。
「返事しないなら行かせないよ!?」
「はい!!」
背に腹は代えられない。叩きつけるように返事をしてから陽向は身を翻す。
「絶対無茶しちゃダメだからね!」
「無茶しやがったら破門するぞ、馬鹿弟子!」
まだ何もしていないのに馬鹿とは言い過ぎではないだろうか。けれど破門は困る。春日野と密草の心配性な声に送り出されて、陽向は急斜面に足をかけた。この角度なら頑張れば登れる。子龍を肩に乗せて、斜面に生えた結果幹が大きく湾曲した木を掴む。
「無茶すんなって言ってる傍からあいつ!」
密草の悪態が背後から聞こえたが、この程度なら無茶でも何でもない。女が歩いたであろう少し平らになった獣道まで登攀して陽向は全力で駆け出す。
〇
陽向はセリナの戦場における強さを疑ってはいない。
そしてそれは春日野や密草も同様である。そうでなければ、素人に毛が生えた程度の陽向一人を激戦地へ送り出しはしない。陽向に課せられた使命は伝達役として敵が一人でないことを申し送るだけだ。
余程の不測の事態さえなければ。そして、セリナ自身が生安課に所属して以降の三年間に築いた功績が、周囲に過信をもたらす。
誰も、セリナの勝利を疑ってはいなかった。
〇
前を行く長い黒髪は、そのスピードこそ速くはないが全くと言っていいほどに一向に距離が縮まらない。陽向だって全力疾走に近い速度で走っているはずだが、足元の覚束ないような歩き方をする女にこうも追いつけないとは思わなかった。
「もしかして、飛んでねぇ……?」
思わず疑いたくなってしまう。それもそのばず、通った道を追いかけているのにとんでもない悪路なのだ。セリナたちが切り結ぶ戦場へ一直線に山の中を進んでいる。その意味するところは道なき道をお構いなしに移動しているということ。一応、大木などを躱している様子は見えるから、実体がないなどという恐ろしい存在ではないのが救いか。
倒木を跨いで、道を塞ぐ枝を避けて、陽向は黒髪の女を追う。
セリナに彼女の存在を伝えるならば先回りくらいしたいものだが、彼女が最短距離を進んでいる以上後を追うくらいしかできることはない。陽向がこの山の地形に通じていれば、このような悪路ではなく走りやすい道で迂回路ではあっても先手を取れる経路を見出せたかもしれない。だが、残念ながら隣町の市境で陽向の生活圏からは外れている。存在は知っていても実際の入山はこれが初めてだ。
そもそも稲荷社があるという陽向にとっては地雷原みたいな場所に好き好んで立ち入りはしない。
などと考えていたら突然開けた場所に出た。目に入った朱色に身構えるが、それが無機質な人工物であるとすぐに気付く。立ち並ぶ無数の鳥居。その奥に鎮座する小さなお堂。小規模ながら綺麗に整備されていて、鳥居や社も最近塗り直されたばかりの鮮やかな朱色を連ねていた。
どこをどう走ったのか定かではないが、稲生稲荷本社の参道側面にかち合ったらしい。
正式な参道は石畳で、陽向が今立っている向きと垂直に走っている。本殿の反対側は石段になっているようだ。
上がり切った息はなかなか収まらない。心臓が早鐘を打っているのはここまで走り続けたからだけではない。
問題はここからだ、と陽向は周囲の気配に神経を研ぎ澄ませる。主戦場はこの付近だ。それは妖気からわかっている。だが、その妖気は縦横無尽に駆け回っているのだ。自動車並みのスピードで移動する二つの妖気は特定の場所を得ない。さっきから稲荷社の隣で立ち止まってきょろきょろしている黒髪の女が証左だ。彼女もどこへ向かうべきかを決めあぐねている。
ここに来て、陽向に先手を奪える芽が出てきた。
黒髪の女は行き先を判定できずに迷っている。それは現状陽向も同じだが、何とかして移動する妖気を先読みできれば。
当然規則性などない。土地勘もない。それでも。――一か八か。
黒髪の中の管狐の妖気を感覚に刻み付けて背を向ける。管狐たちの妖気はよく似ているが、個体差がないわけではない。大丈夫だ、判別できる。あまり離れたくはないが、セリナに情報を伝えるのが先だと判断する。
円を描いて移動する二つの妖気に気を配り、その到着点を探る。一瞬でいい。一瞬だけセリナと接触できれば伝えられる。来る敵に備えられるかで大きく有利に傾くことは陽向が身をもって知っている。だから何としてでも伝えるのだ。
背後で彷徨う管狐の小さな妖気を見失わないように注意しながら石段を駆け降る。遠くで金属がぶつかり合う高音が聞こえた。それが次第に大きくなって、陽向は自分の判断が誤りでない確信を得る。
「来る!」
巻き込まれたとき用に結界の護符を握り締めて、石段の中腹で待ち構える。このまま向かって来れば丁度陽向の眼下を通過するはず、
「え?」
だったのに、急激に方向転換した一つの妖気に陽向の反応が鈍る。さっきまでの移動速度とは全く異なる猛スピードでこちらに飛んできて。
視界を覆った見知った緋色が、彼女を弾くであろう結界を張ることを躊躇させた。
「――がっ!?」
小柄な体躯を生身で受け止めて、諸共に吹き飛ばされる。地面に強かに叩きつけられて、視界が明滅した。反射的に受け身を取った右手がじんじんしている。
数メートルは飛んだと思う。石段ではなく土の地面に落ちたのは不幸中の幸いだ。茂った草がクッションになって、あの場で倒れるより遥かにダメージは少ない。されど。
「何が……――っセリナ!?」
吹き飛んできて陽向を巻き込んだ少女は、身じろぎ一つしない。安否を確かめるために肩に触れた手が生温かい液体に触れて、焦燥に駆られながら掌を確認する。べったりと貼り付いた赤。かぶりを振って逸る気持ちを宥めながら抱き起す。腹に力なく乗った腕が目に入った瞬間、陽向の中で何かが決壊した。
「セ……リナ……?」
意識のない彼女を起こすことも忘れて呆然と名を呼ぶ。感情を押し殺す無表情しか見たことのない頬にも血がこべりついていた。瞼はわずかに痙攣していて、命が失われていないことだけは知れる。だが。
小刻みに上下する腹の上に垂れた白い腕。その肘から下が、あるべきものが、存在しなかった。
「あら」
血濡れた切り口を凝視していた陽向に頭上から女性の声が降ってくる。まるで偶然知り合いに出くわしたかのような軽い口調だったが、その後ろに冷や水のごとき鋭利さを見出してしまう。錆びついてしまった動きで何とか顔を上げれば、燃えるような赤髪が目に入った。
〇
その赤髪を見た瞬間、血液が沸騰するのを確かに感じた。
極限の怒り。抱くたびに叱責を食らうその感情を、此度だけは抑えることができなかった。
誰に指示されるより先に、自らの意識より先に、身体が地を蹴った。
一個の弾丸のごとく一直線に吶喊しながら抜刀した刀身が、本能のままに風切り音を唸らせる。手ごたえはほとんどなかった。慣れ親しんだ刃が真っ直ぐ伸びた枯れ枝のような細い枝を容赦なく切断する。
「ぐ、あああああああああああああああ!!!!」
耳障りな叫びが耳朶を打つ。声を発する間もなく、返す刀を無防備な上体に向かって振り下ろす。
「ああっ」
ふらつきながら後退した女に尚も追い縋る。絶対に、こいつだけは。
「逃がさないっ!!」
それが自分の喉から出た声だとは到底思えなかった。自身の深層にまだこれだけの怒りが沈殿していたことにほかならぬセリナが冷静に驚いている。
「くぅ」
女が裸足で踏みつけた庭の玉砂利が抉れる。振り下ろした三撃目には手ごたえがない。切っ先スレスレが鼻先を通過して、勢い余って庭石を打ち付けた。火花が舞い飛ぶ。
「唵!」
勢いを殺さずに後退する女に、セリナの脇をすり抜けて光る紐が迫る。それを放ったのが誰かを考える余裕も今のセリナにはない。
女の周囲を三週ほどして、淡く光る紐が締め上げられる直前。ほんの一瞬の猶予しかなかったはずが、女は真上に大きく跳躍した。その様子をしかと目で追えたのはセリナだけだろう。只人を超越した動体視力が瞬時にしゃがみ込んだ反動で上方へ逃れるのを、彼女だけが的確に目視していた。
「やあっ!」
だから、迷わず踏み切った。
空中で一回転して着地する女。逆立った赤い髪が燃える炎を思わせてセリナの逆鱗を逆撫でする。
膝を折って衝撃を殺した赤い髪に向けて、四度の斬撃を振るう。だが、それも女を捕えられない。驚異的な反射速度をもって、女は折り曲げた足を器用に使って飛び退る。空振った刀身が地面を打って、衝撃が腕の筋肉を震わせる。
「この……!」
刃こぼれしかねない挙動にセリナは思わず舌を打つ。そも、地に刀を接触させるなど普段のセリナではありえない暴挙だ。冷静になれと訴える内心の声はけれど、燃え滾る怒りに塗りつぶされる。
「やっ!はっ!――っ!」
まともに攻撃を加えたのは最初だけだ。どこから切り替えたのか、女はセリナが縦横無尽に振るう太刀を躱し続ける。舞い散る木の葉を追いかけているようだ。いや、落ちる木の葉程度ならセリナになら捉えられる。故に、苛立ちも募る。
女を追いながら、援護に入っていた春日野を遥か後方に置き去って、知らず山の奥へ進んでいる。
稲生山はお椀をひっくり返した形状に例えられるこんもりとした低山だ。登山道を除いても平均斜度はそれほど急ではない。現に、セリナの身体能力であれば平地と大差ない感覚で移動できている。それでも前を行く女には追い付けなかった。
――それが、誘い込まれているなどと思いもせずに。
突然、女を見失った。
立ち止まって周囲を見渡す。あれだけ目立つ赤髪だ。新緑の中にあれば必ず見えるだろうに。少しだけ乱れた呼吸を整えて、セリナは三百六十度隈なく目を凝らした。赤はない。となれば。
「――上!」
振ってきた赤を、刀身を前に受け止める体勢をとる。相手は生身だ。上空から、回避もできない奇襲など通用しない。このまま真っ二つに――。
振り抜こうとした太刀が不自然に止められた。生身の人間ではありえない金属音。間近に散った火花に視界を乱されて、セリナは一瞬硬直する。太刀を受け止めたのは懐刀。体重を受けて一度押し込まれ、落下する女の足が屈んだセリナの鳩尾に届く。
全体重と落下に任せた重力が合わさった重い蹴りが突き刺さって臓腑が蠢いた。斜度が軽微であれ、山は山。踏ん張る足場などなく、斜面を墜ちる。
滑落こそ免れた代わりに、途中生えていた大木に叩きつけられて肺の空気が全て押し出された。
「――かっ!?」
反射的に丸めかけた身体を叱咤して立とうとした足が萎えた。直後、せり上がった不快感を一緒に口から吐き出す。
「がっ……は」
嘔吐のつもりが、出てきたのは黒々とした血液だった。少なくない量が下草にぶちまけられる。胃液の刺激臭と混ざりあった鉄錆の臭いが鼻を突いて、再び嘔吐感に襲われる。
「あっけないわね。嫌よ、宿敵がその程度で死んじゃうなんて」
再度血が大部分を占める吐瀉物を吐き捨てて、やっと顔を上げたセリナの前に幽鬼のようにふらりと赤が揺れた。ボサボサの長い赤髪を掻き上げて、稲月弥樹が酷薄に見下ろしていた。
「見てたわよぉ、狐たちとの小競り合い。あなたともあろう人が私の真似しかしないなんて失望だわ。腕が落ちたんじゃないの?あはは」
大振りに振った懐刀を握るのは右手。ついさっき、セリナが切り落としたはずの右手が、何事もなかったかのようにそこに在った。
「な……回復……?」
稲月家の庭で彼女の出現に最初に気付いたのは陽向だった。彼は何で弥樹の接近を知ったのか。決まっている。彼女には妖気がある。
妖の回復力は人間の比ではない。心臓や脳など、致命的な臓器は無論存在するが、粗方の負傷であれば個体差はあれど回復する。現状恐らく内臓に軽くない傷を負っているセリナが比較的冷静でいるのはその驚異的な回復力によるところが大きい。
即ち、腕くらい生えてきてもおかしくはない。
ひび割れた唇が吊り上がって歪んだ三日月を描き出す。見た目だけは上品に片手を添えて嗤った弥樹は眼下の宿敵の名を呼んだ。
「ねぇ、沙夜?」
違う、と否定した言葉は辛うじて発声できたが、弥樹は怪訝そうに首を傾げただけだった。
「そんなわけないでしょう。見間違えるわけないでしょ、その赤茶色の髪を。ムカつく真っ赤な目を」
口の中一杯に広がった鉄臭い金属系の味を粘つく唾液と共に吐き出して、セリナは意地で手放さなかった太刀を構えなおす。
「人違い。私は沙夜の娘」
その母はすでにこの世にない。他でもない、目の前の女が刺殺したというのに。セリナを庇って立ち塞がった彼女の背に刃を突き立てた光景を、忘れたなどとは言わせない。
軋む身体が即座に飛びかかることを許してくれない。痛みに歯噛みするセリナをまじまじと弥樹が覗き込んだ。
「うーん。ダメ。そんな嘘言っても逃がしてなんかあげません。第一、沙夜のガキがこんなに大きいわけないじゃない」
「――は?」
口が勝手に息を吐いていた。全身の激痛を湧きあがった怒りが上書きしていく。
気付いたときには掴みかかっていた。弥樹が驚愕に目を見開くのに少なからず快感を得ながら、セリナは襦袢に包まれた彼女の腕を握る。怒りに任せた流れた妖気の奔流が掌から溢れ出した。
「ぎあっ!?」
炎の形をとった妖気がゼロ距離で密着する弥樹の腕を焼く。代わりに振られた懐刀を一度退くことで回避する。切っ先が頬を翳めて熱を刻んだが、構わず踏み込んで懐刀を握る腕に手を伸ばした。
瞬く間に中ほどで色の違う肌が炎に包まれる。抵抗を試みた見かけからは想像できない妖の腕力で振り払われる。最初のダメージが大きいのか、痛みはもう感じないがあっさりと振りほどかれて土の上に転がる。
受け身の要領で立ち上がって体勢を整えたセリナは太刀を晴眼に構えた。
痙攣を隠せない切っ先の向こうで、弥樹が悶える。身をくねらせている間に、見る間に焼け爛れた肌が白さを取り戻していく。
回復の隙は可能な限り与えない。
超回復を持つ敵との定石は攻撃を絶やさないことだ。回復力を上回る損傷を与え続ける。回復の源は妖気だ。妖気が尽きるまで回復させて、押し勝つしかない。
「やあっ!!」
手痛い損害を食らったが、闘志は枯れていない。
足も手も、止める必要などない。どれだけ痛がろうと、どれだけ悲痛な苦悶の表情を浮かべようとも、どれだけ耳障りな悲鳴を奏でようとも。
そんなことで仇敵に対する怒りが静まるなどと、思ってもらっては困る。
「このっ……あっ!」
伸ばした左手に対抗して構えられた懐刀の刀身を掴みとる。予想外の行動に弥樹が狼狽えた。その隙を見逃さない。
「――っ!」
強引に引っ張られた懐刀を手放さなかった、伸びきった細腕目がけて一閃。
「ぎゃっ!」
手首から先をぶら下げたままの懐刀をよろめいた弥樹の顔面に向かって投げつける。
「ひいっ」
眉間を捕えるはずだった切っ先を、不自然に身を捻って避ける。逸れた狙いはそれでも弥樹の左肩を穿った。
失くした右手が刺さった短刀の柄を得ようとして空振る。代わりに持ち上げた左腕に、セリナは真横から太刀を叩きつけた。
「がっああああああああ!!」
「っあああああああああ!!」
半分近くを埋めた刀身を、極限まで収縮した筋肉が押し留める。それを力任せに押し込んで細首まで刃を届かせんとするセリナの吶喊が空気を震わせた。
「うああっ!!」
いくら妖の筋力をもってしても、鋭利な刃物に対抗するには力不足だった。が、骨を断つ、その一瞬が弥樹に猶予を生む。
「ちっ」
寸でのところで首を落とし損ねたセリナが舌を鳴らした。切っ先が掠めた喉から鮮血を流して、弥樹が凄絶に嗤う。それは決定的な局面で獲物を仕留め損ねた猛獣への嘲笑。
「――今度はこちらから行くわ」
セリナが駆け寄る間に右腕の切断面が盛り上がった。あっという間に五指を備えた掌が再生する。
「
その赤瞳に映る少女に宿敵の幻想を描きながら、左肩に刺さった懐刀を抜き取る。
「あなたみたいに、中途半端なことはしないわ」
正面から突撃するセリナを、胸の前に構えた懐刀で迎え撃つ。先程と寸分違わぬ形勢に、憤怒に燃えるセリナは本能的に最善手を選び取る。即ち、何も持たない左手を伸ばして――。
「甘いっての」
突如、目前から敵が消失した。弥樹がその場に膝を折っただけの結果なのだとしても、コンマ数秒敵を見失ったセリナに致命的な隙が生じる。
「お返しよ」
肘の少し下に入り込んだ銀の刀身が消えた。音速で振り上げられた刃物は妖の剛腕を合わせて少女の細腕など何の抵抗もなく切り飛ばした。
思ったより近くで肉の落下する重たい音が鳴る。直後傷口から噴き出した鮮血と沸騰した灼熱の痛みが脳を焼いた。
「あっ……ああああああああああああああああ!!!?」
溢れ出る血液に堪らず太刀を手放して断面の少し上を握り締める。落命を阻止するための本能的な行い。霞んだ視界の向こうで、弥樹が愉しそうな笑みを浮かべて右手の人差し指を向けた。
「痛いでしょう、止血してあげましょうか?」
「やめ――」
「触れなきゃ燃やせない欠陥品が。違いを見せてあげる」
目の前で炎が――、六年前、セリナの全てを奪った炎が、再び少女の世界を焼き尽くす。
絶叫が喉から迸った。
〇
草木全てが行く手を阻んでいるようだった。
駆ける足元で草が爆ぜ、セリナはバランスを崩して倒れ込む。
普段なら容易に立て直せるはずの僅かな躓きでさえ、失った片腕が彼女の重心を狂わせる。
何とか顔を起こして見上げた先で燃え盛る赤髪の女が指先を向けた。片手で全体重を支えて横へ転がった矢先、地面が火を噴いた。
――弄ばれている。
「簡単に死なせたりしないわ」
すぐ脇に降り立つ赤髪、稲月弥樹が嗜虐的に嗤う。弥樹が向ける指の先はセリナからほんの僅かに逸らされている。直撃すれば少なくとも重症を免れない攻撃ではあるが、それを当てるつもりが一切ないことをセリナの卓越した戦闘センスが教えてくれる。
そして、それがわかるが故に、セリナの中で怒りが燃え上がる。
打ち出された炎を飛び退いて避ける。直撃しなくても掠っただけで少なからず影響を及ぼす妖術だ。これ以上のダメージを蓄積するわけにはいかない。
まだ彼女がそこに居るから。
彼女がセリナの前で動いている。それだけが、今のセリナを動かす源だ。
「妖のくせに、回復が遅いわね。やっぱり昔より弱くなってない、あなた」
「だから、人違い――っ!」
降り注ぐ炎弾がセリナの真っ当な抗弁を中断させる。弥樹に話を聞く気は全くないようだ。あるいは敢えて拒んでいるとも思える。
「そうまでして、憎いの……?」
憎悪に燃える赤い瞳と視線がかち合って、セリナは独り言つ。弥樹はセリナを通して別人を見ている。その人を、セリナはあまりうまく記憶していない。
お母さんにそっくりだね、とは誰の言葉だったか。
あの頃のことを、セリナはよく思い出せない。思い出すにはあまりに輝かしすぎて、それでいて二度と手に入らないことを突きつけられるから。
だから、その人のことも知っているとは言い難い。それでも。
「平和ボケしてんじゃないわよ、女狐がっ!!」
それでも、ここまで憎悪を向けられる謂れが、自身の母にあるとは思いたくない。
同じ場所をぐるぐる周回しているのは、逃げ回るセリナが意図してそう移動しているためだ。
弥樹を稲月の屋敷で行われているであろう戦闘に加えるわけにはいかない。セリナの援護に入ったものの妖同士の戦闘速度についてこれずに早々に脱落した春日野もそちらに合流しただろう。密草も陽向もいる。
――彼らに、邪魔はされたくない。稲月弥樹は、セリナの獲物だ。渡さない。
「あった!」
同時に、もう一つ目的があった。腕を落とされたときに手放してしまった太刀の回収だ。木の根元に転がっていた太刀の柄を、炎を回避しながら掴み取る。
「あら、そちらを選ぶの?」
真上から切り降ろされた懐刀を受け止めて弾く。片腕がない今、太刀を持った手では炎を扱えない。だが、セリナは武器を手にした。その理由が。
「これで、近づけるから」
大きく踏み込んで、懐刀へ切っ先を搦めて弥樹までの道をこじ開ける。触れるのは、別に掌でなくても構わない。炭化した腕だったものを弥樹の柔らかな胸に押し当てる。目前に迫った灼熱の瞳が見開かれた。
「がぁっ!!!!」
「っ!!」
自分の炎の光が目を焼いて、セリナは瞼を細める。自分の炎にも熱はある。それが決して己が身を焼かないと知りながら、セリナの足が土を強く踏みつけた。脇で鍔迫り合いを続ける太刀と懐刀がカチカチと金属音を鳴らす。
二人を燃やす炎の中で、弥樹の空いた手がセリナの肩を掴んだ。
「放しなさいよ、中途半端にモノマネしかできないくせに!!」
耐えようとした、けれど弥樹の剛腕の方が上回った。細い女の片腕とは思えない力でセリナの両足が土から離れる。
「らあっ!」
ボールでも投げる動きだった。横薙ぎに振った腕から身体が浮いて、一瞬の浮遊感の後に背中に強い衝撃。大樹に叩きつけられたのだとセリナが理解したときには目の前に弥樹が駆け寄っていた。
「飛べよ」
撓る細い足がこめかみを打って、セリナの意識は断絶する――。
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