第六章 狐憑き

 「紹介と言われても……」

春日野からの命令に近い提案に、稜樹は見るからに動揺した。初対面以来おどおどした印象の絶えない青年だが、今まで一番動揺しているのではないだろうか。

「何か問題でも?」

問いかける春日野の声は厳しい。ただ、火災を起こした容疑者である稲月弥樹の逃走を手引きした者が家中にいるとあっては責めざるを得ない。春日野が警戒感を隠さないのも理解できる。

「……いえ。ただ、今我が家には僕ともう二人しかいませんので……」

言ってから稜樹は視線を彷徨わせる。それが一瞬だけ陽向とかち合った。揺らぐ視線が妙に真っ直ぐぶつかった気がして、それに稜樹も気付いたのかすぐに逸らされる。

「祖父と、母なのですが」

忙しなく動く瞳と同様に、話の歯切れも悪い。

「母はその……祖父の介護疲れでおかしくなってしまっていて。とても皆さんとお話しできる状態では」

「それは、こちらで言う『狐憑き』とは異なりますか?」

言われて陽向は思わず他の部屋の妖気を探る。少なからぬ残滓はあるが、動いている妖気は見当たらない。今現在、他に幽閉されている狐憑きの人はいないようだ。それを裏付けるように稜樹が答える。

「はい。そもそも母は嫁に来た身ですから。管狐は与えられません」

管狐は真の血族のみで受け継がれるものだと稜樹は言う。

「では、おじいさまは。少しでもお話を聞いておきたいところですが」

「……僕から訊ねてみて、その返答をという形では駄目でしょうか」

稜樹が上目遣いに春日野を見上げる。

「残念ですが、稜樹さん。貴方も犯人候補の一人です」

「そんな」

稜樹は驚いているが、何を以って自分が容疑者から外れると思っていたのだろうか。むしろ一番怪しいとさえ陽向は思う。介護が必要な祖父と、その介護で病んだ母親。二人に比べて、自由に動けるのは稜樹だけだ。

「……では、祖父に話を通してきます。上の客間で少々お待ちいただけますか」

三人からの疑いの目を向けられた稜樹は、大きな溜息をこれ見よがしに落とした。


   〇


 地下から屋敷に戻って数刻。稜樹が持ってきた湯呑と茶請けには誰も手を伸ばさない。

 春日野は羽織の袖に両腕を沈めて何か思案しているし、密草はスマホを弄っていた。メッセージアプリがしきりに動いているところを見るに、寺尾との現状報告だろうか。

 剣呑な二人の向かいに座った陽向の居心地は非常に悪い。隣にセリナがいて、膝の上に子龍がいるのが多少の救いだ。

「なあ、どう思う」

長い長い沈黙を経て、ようやく密草が口を開いた。

「何をだい?」

春日野が密草を見ずに訊ね返した。陽向の正面なので、眉間に寄った皺がよく見える。

「あいつだよ。稲月稜樹。ぶっちゃけ手引きしたのあいつだろ」

「断定するのはまだ早いと思うけどね」

だが、稜樹が黒だと睨んでいるのは春日野も同じなのだろう。だからこそ、出されたお茶に手を出さないのだろうし。

「それに、正直ちょっと混乱してる」

腕組みのまま春日野は天井を仰いだ。

「確かに、問題がとっちらかってるよなぁ」

密草が項垂れた。陽向も考え込む。密草が指折り数え始めた。

「小火騒ぎだろ、一人が焼死した火事。死体を依り代にしていた管狐。脱走した稲月弥樹と、それを手引きしたかもしれない誰か。それと、……過去の事件」

密草が最後を濁したのはセリナと目が合ったからだろう。

「陽向はどう?君の感覚で、何か違和感とかないかい?」

突然春日野から話を振られて、陽向は姿勢を正す。かといって思い当たる節はない。強いて言えば。

「そう言えば、剣持さんたちが襲われたときの状況……まだ聞いてなかったなって」

「俺も詳しく聞いてねえな、それ」

ごたごたしていたから聞く機会を逃していた。治療に当たっていた密草も同様らしい。

「ああ、あのまま現場の話になちゃったから報告まだだったね」

春日野が苦笑を浮かべた。陽向の隣でセリナが顔を逸らした気配を感じ取る。あのとき、最初の現場のことを持ち出したのはセリナだった。

「けど、あの現場からこの家に繋がったんだからそれはそれ、ですよね」

話を振ったのが自分な手前、気まずいので頼むから同意してくれという陽向の願いが通じたのか、春日野が柔和に頷いた。

「うん。それはそう」

春日野はすぐに表情を引き締める。

「それで。剣持と僕が襲撃されたときの状況だけど。その前に被害が出た現場の話からした方がいいかな」

そう言って春日野は陽向が同行しなかった焼死現場での出来事を教えてくれた。


 「ここでの被害は大したことなかったんだよ」

剣持のすぐ治る火傷を大したことないと言い切って、一度話を閉める。

「小動物ってことは、そのときの襲撃も管狐ですか?」

剣持が仕留めたという炎の中の小動物。春日野は鼬のようだったと言ったが。

「今思えば、そうだったんだろうね。大きさは昨日の公園に居たのより大きかったけど、細長かった。黒焦げだったから確かめようもないんだけど」

と、いうことは彼らを襲ったのは剥き出しの管狐だったことになる。

「……死体じゃなかったんですね」

ぽつりと溢した陽向を見据えて春日野が考え込んだ。

「うーん。それはちょっと、何とも言えないなあ。何せ僕らが見たのは火の玉で、その中に居たと思われる黒焦げの動物の死体だからね。その中に管狐が潜んでいたと言われても否定はできないよ」

「鼬かなんかの死体を依り代にした管狐だった、って可能性か」

密草も呻る。

「陽向、もしかして何か引っかかってる?」

春日野が促すので陽向は脳内に漠然と浮かぶ疑問を整理する。

「えーっと。小火騒ぎを含めた火災が管狐の仕業だったとして」

寺尾に見せてもらった報告書。小火の内一件の近所の女性が、出火元のゴミの中に動物の焼死体を目撃していた記述を思い出す。

「広告代理店の火事は女の人が何かしてるんですよね」

「「!」」

春日野と密草二人が身を乗り出してきて、むしろ陽向の方が驚いた。

「確かに、あの女――暫定的には稲月弥樹である可能性が濃厚だが、あれが管狐遣いだとしたら、なんでわざわざ本人が出てきたんだ?死体に仕込んだ管狐を遣ってたなら、同じように動物でよかったはずだ」

密草が勝手に思考の海に沈んでいく。陽向自身、どう言っていいかもやもやしていた謎を言語化してくれたのは助かるが、置いていかないで欲しい。

「密草、先に僕の話を聞いておくれ」

ぶつぶつ呟きながら一人で思考を進めていく密草を春日野が止める。

「その後、被害者の同僚っていう人に話を聞きに行く途中、僕たちと特殊係の二人の前に現れたのがあの女だったんだ」

「はぁ!?」

密草が目を剥く。

「お前、そういう大事なことは早く言いやがれ!すでに犯人に遭遇してんじゃねえか!」

「声が大きいよ、密草」

春日野が慌てて窘めた。稜樹は席を外して戻らないが、敵地のど真ん中でもおかしくない場所である。

「……一応、近くに管狐は居ません。たぶん」

閉ざされた和室を見渡して、陽向は告げる。あくまで索敵範囲内においては、だ。管狐の妖気は小さくてわかりにくいので自信はない。

「けど、真人間が立ち聞きしてる可能性はある。でしょ、陽向」

春日野の確認に同意する。陽向にわかるのは妖気だけだ。例えば襖の向こうで稜樹が耳をそばだてていたとしても気付かない。

「……それで、会ってみた結果どうだよ。稲月家の人間だったのか?」

密草が声を潜めたので、春日野も羽織を払って座りなおす。

「それがなんとも。長くて黒い髪が相当乱れていてね。正直、相対しても顔がよく見えなかったんだ。白い襦袢姿だったとしか言えないよ」

春日野が両掌を天井に向けて広げた。その証言だと陽向が想像するのは某有名ホラー映画の悪霊なのだが、たぶん間違っていない気がする。

「異様な風体だったから、事件に関係あってもなくても放置したら拙いと思って車を停めたんだ。剣持も危険な気配だと言っていたし」

「え、剣持さんって妖気わかるんですか?」

不躾だとは思ったが、陽向は割り込ませてもらう。もしかして同類がいるかもとの期待は、けれどあっさり断ち切られた。

「期待を裏切って悪いけど、剣持が感じ取ったのは殺気とかそっちだと思うよ。あとは雰囲気かな」

以前セリナも殺気がどうのこうの言っていた気がする。達人的な直観なのだそうだ。

「えー、こほん。車を降りた路上で僕たちは例の女と対峙したわけなんだけど」

どこかに妖気の感覚を共有できる人はいないのか。などと陽向の個人的な悩みに拘っている場合ではない。

「火の玉を飛ばしてきてね」

「?」

話が突然飛んだような気がして、陽向は密草を盗み見る。彼も首を捻っていた。

「火の玉?いきなり仕掛けてきたってのか」

「うん。すっごい速かった。目にも止まらぬってああいうのを言うんだろうね。僕より特殊係の遠藤さんの方が反応が速かったのが悔しいんだけど、遠藤さんが結界を張ったんだ。けど、突破された」

圧倒的だったと言う。遠藤の霊力値はそこまで高くないから、結界の強度も春日野に劣る。だが、あの状況で即座に結界を展開した対応力はさすが現場たたき上げの警部殿、と春日野が絶賛する。

「でも、遠藤さんが結界を張ってくれたから一瞬の間ができた。剣持が割って入る間がね」

春日野と特殊係、三人と迫る炎の間に、剣持は迷わず飛び込んだ。

「だ、大丈夫だったんですか……?」

剣持の命が救われたのは陽向も知っているが、訊ねずにはいられなかった。医院に運び込まれてからの剣持と陽向は面会していない。どの程度の怪我かも聞かされていないのだ。

「結果的には大丈夫だった。剣持はアレで妖憑きだからね。普通の人間よりは遥かに頑丈だ。……すぐに回復する」

春日野の説明はぼかされている。詳しく訊ねてくれるなと、苦い表情が訴えていた。陽向に語れないほどに、当初受けた傷は大きかったのだろうと思う。

「それで、炎が収まったら女も姿を消していてね。追跡どころじゃなかったから、僕からの報告は以上だ」

女がそれ以上追撃しなかった理由は不明だ。負傷した特殊係の二人と剣持を車に担ぎ込んで、密草医院に向かった、と春日野は話を締めくくった。

「そのときは管狐じゃなかったんですね」

「ああ、僕が見ていた限りだけど、彼女が使う炎の中にも居なかったと思う。何より、火力が全然違った。あの炎を使い方は――」

春日野が一瞬だけ視線をセリナに向けたのを、陽向は見逃さなかった。苛烈に迫る炎が容易に想像できしまって怖気が襲う。セリナが使う炎を陽向も何度か目にしているが、あれを敵として迎え撃つと思うと戦慄する。


 「それはそうと、戻ってこねえな稜樹の奴」

密草が話題をぶった切った。丁度脱線しかけていたし、空気もよろしくなくなる話題なのでむしろありがたい。

 家族に交渉してくると、稜樹が退室してから相当の時間が経っている。事件の捜査会議まで話が膨らんでいたくらいだ。稜樹が姿を消した襖をひと睨みして、密草は口元に手を添える。

「捜査会議の続きは戻ってからにしようぜ。ここで話す話じゃねえだろ」

周囲に管狐の気配はない。それは先ほど陽向が確認してから変わりない。けれど現状、稲月家の者たちが信用できない以上、万が一にも事件の核心に触れるかもしれない内容は控えるべきだ。

「それもそうだね。……どうしようか。人のお家を勝手に見分するのも気が引けるけど」

とはいえ、事件についての話をしないとなると途端に手持無沙汰になる。

 さてどうしようかと黙した三人の静寂を破って、セリナがそっと手を挙げた。

「……あの」

「?なんだい?」

のんびりと聞く体勢を整えた春日野に、セリナの掌が向けられる。犬にやる待てみたいだ、と暢気に思ったのもつかの間、セリナは険しい顔で周囲に視線を走らせた。もう片方の手が人差し指を立てて唇に添えられた。

「何か、来る」

吐息の中にそっと宣言して、春日野を制した左手が足元に置いた太刀に伸びる。陽向も音を立てないように注意しながら刀を手元に寄せた。妖気はない。

 和室の中に変化はない。

 物音もしない。


 つんとした刺激臭が鼻を突いた。


 「伏せて!」

セリナが親指で太刀の柄を弾いた。土下座のごとく頭を振り下ろした陽向の頭上を、抜き放った太刀が通過する。その切っ先が背から飛びかかる妖気に届いたことを知る。

「っく!」

横に転がって道を譲れば、セリナが大きく一歩を踏み出した。踏み抜かれた畳が軋む。

「やっ!」

鋭い掛け声と共に振るわれた二撃目を空中で体を捻った黒い毛皮が躱した。細い足が卓袱台に乗って、木の葉のようにひらりと舞った。

 着地して呻る狐と陽向の間に割り込んだセリナが目を離さずに問う。

「陽向、アレにも居る?」

「ああ、胴体の方!」

「わかった」

返事と同時に駆け出したセリナに向かって、狐大きく跳躍する。ずらりと並んだ牙を姿勢を低くして躱す。中段に構えた刀身が振るわれて、こちらに飛んできた狐を陽向は慌てて避けた。

「おわっ!?」

だが、狐は着地できずに畳の上に転がった。どす黒い血が周囲を汚す。仰向けに藻掻く獣には足がなかった。喉を鳴らした陽向の目の前で、飛びかかったセリナが晒された腹部に太刀を突き立てた。

「燃えろ」

尚も暴れる喉を掴んだ瞬間、黒い毛皮が紅の炎に包まれた。

 暫時燃え盛った炎はすぐに鎮火した。

 跡には少々黒ずんだ畳と少量の灰が残される。

「何でまた急に……」

春日野が灰に近づく後ろで、セリナは開いた襖の向こうを睨んでいた。昼間だというのに暗がりに落ちる廊下に、陽向も異変を察知する。

 妖気センサーに引っかかった多すぎる妖気に総毛立つ。

「春日野さん、妖が!すっごい大量に!」

「大量、どれくらい?」

春日野は存外暢気だった。

「二十……いや、もっと?とにかく、こっちに向かってきます!」

最早数えきれない。ごちゃっとしていて正確な数などわからない。

「これ持っとけ陽向!」

密草が束になった護符を押し付けてくる。

「術式を一から教えてる暇はねえ。拘束術式だ。動きが止まればなんとかなるだろ、お前なら!」

せまる妖気の大群が管狐なのは確かだが、いつの間にか戦力に数えられている。

「自力で倒せと!?」

「おう、がんばれ!」

叩きつけるように叫んで、密草も護符を手にする。

「陽向、大体でいい。ここに姿が見えるまでカウントダウンよろしく」

春日野が親指を立てる。

「やってみます……十秒くらい?」

これまで陽向が妖気探知を使うのは基本的に自分自身のためでしかなかった。距離感も凡そ把握しているし、移動速度で近づいてくる感覚もわかる。

 けれどそれを他人に教えるためにカウントダウンは初めてだ。最悪なことに室内に正確な秒を測る時計はないし、今後の戦闘を考えれば両手を開けておきたいからスマホを出すのも避けたい。結果、たった十数えるだけで途中調節を挟み、躓きそうになる不安定なカウントになった。

「……三、二」

それでも残り三秒になった頃にようやく安定する。

「一!」

ゼロカウントは不要だった。

 顔を出した狐の頭をセリナが鷲掴みにして直後に炎上する。立ち上る炎を飛び越えて現れた一匹に春日野が放った拘束術式が絡みつき、畳の上に転がった。

「僕が捕まえた奴は放置でいいよ、陽向」

じたじたしているが動きは完全に封じている。

「次、来るよ」

光の帯でぐるぐる巻きになった狐から切り替えれば、セリナが現れる狐を次々火だるまにしていた。中にいる管狐ごとすべてを灰にしていく。それでも数匹が火の海から逃れて飛びかかってきた。

「急々如律令!」

護符に霊力を流し、春日野の見様見真似だが陽向も拘束術式を放つ。自動追尾なのか、護符から飛び出した光の紐は勝手に狐に向かって行った。ごろりと転がったごわついた毛の中に管狐の妖気を見つけて刀を突き刺す。

「子龍、消火!」

管狐の自爆攻撃の気配を察知。案の定燃え上がった狐の死体に、子龍が水をかけた。

「急々如律令!一々指示すんのめんどい、子龍、燃えたら消せ!」

「ぴ!」

陽向の力の底は不明だが、根性で何とかする。狐の死体がなくなるたびに残る拘束術式はすぐに解除していく。子龍の消火も考えると無駄遣いはできない。任せろとばかりに鳴いた子龍が肩の上から離れたのをいいことに、陽向は自分で一歩踏み込んだ。

「急々如律令!言いにくい!」

舌を噛みそうだ。陽向は知る由もないが、通常の陰陽道は補助術式である。スピード勝負で戦闘中に連発するためには作られていない。

オンでもいいぞ、陽向!」

「何ですかそれ!?」

結界で狐を一匹弾き飛ばした密草が吠える。状況が状況なので応じる陽向も声が大きくなる。

「真言の出だし!言葉自体に大きな意味はないけどな!」

本当なのか、この土壇場で実験している余裕はない。

「唵!?」

なので半分疑問形で叫んだ。目の前には熟れた柘榴みたいな狐の口が迫っている。幸いにも護符にはちゃんと霊力が流れて拘束術式の帯が狐に絡みついた。

「マジで行けた!?」

転がった狐の柔らかい腹を切る。いくら日本刀の扱いを知っているといっても所詮人間の腕力だ。日本刀が世界的にも鋭い切れ味な刃物であっても、セリナのように胴体を両断することはできない。それを成せるのは余程の達人だけだ。

 だが、確かな手ごたえがある。姿の見えない管狐を切った手ごたえが。その証拠に転がった狐はピクリとも動かない。狐の死体は炎上せず、砂のように崩れた。

「即死させれば自爆できねぇってか!」

「陽向!」

セリナの叫びに顔を上げる。すぐ横に狐の頭があった。拘束術式は間に合わない。

「っ」

無理やり腰を捻って振り下ろされた小さな前足を避ける。左の二の腕に走った鋭い痛みに、どうやら引っ掻かれたらしいと察するが、構わず刀を振った。

「りゃっ!」

下から切り上げた刀身は細い腹部に滑り込む。刃先が堅いものに触れる手ごたえが伝わって、手首を捻って滑らせる。たぶん背骨だ。このまま振り抜けば刀の方が折れる。

「任せて」

管狐には届いていない。陽向とすれ違う形で着地した狐に、セリナが素早く走り寄った。陽向が振り返るのと同時に炎上する。


 「あらかた片付いたかな」

羽織の汚れを手で払って春日野が宣言する。

「……こっちは。屋敷の中のあっちこっちに気配がありますけど」

春日野が術式でとらえたまま転がっていた狐の中の管狐に止めを刺しながら陽向は妖気を探る。物色するがごとくいくつかの集団が動き回っている。

「様子を見た方がいいね。稜樹さんを探そう」

「陽向、狐が居ないとこから探すぞ。案内頼む」

廊下へ踏み出した春日野を追いかけて密草が指示を飛ばす。だが、廊下に出た瞬間春日野が足を止めた。

「……これは、拙い!」

続いた陽向も気付いた。妖気探知云々どころではない。廊下に立ち込める悪臭。狐たちの饐えた臭いとも違う。焦げ臭い。薄っすらと廊下の奥が霞んでいるのが見えて、陽向は叫んだ。

「火事になってる!?」

火こそ見えないが、どこかで炎上しているのは確実だ。管狐が暴れたのなら、屋敷に火が付くのも必定。現に妖気はそこかしこにある。

「一度外に出よう!陽向、玄関までに妖気は!?」

春日野が口を袖で覆う。陽向は探知を走らせた。

「居ません、奥に集中してる!」

「よし、走るぞ!」

密草が駆け出して、それをセリナが追い抜いた。万一狐と遭遇したときの保険だろう。突然現れる妖気だ。警戒しておくに越したことはない。


   〇


 玄関まで、狐に遭遇することはなかった。だが、たどり着くまでに煙がかなり濃くなっていた。大きな引き戸を開け放って飛び出して、陽向は思い切り咳き込んだ。外は新鮮な空気なはずだが、煙の臭いが収まらない。

「火はまだ見えないね」

春日野が喉を擦りながら屋敷を見上げた。玄関からはもうもうと煙を吐き出しているが、火そのものの姿はない。火元は奥なのだろう。

「稜樹さん、大丈夫でしょうか」

彼は稲月弥樹を逃がした容疑者の一人だが、それでも何かあれば後味が悪い。怪異案件にちゃんと裁きが下されるのかは謎だが、それでも出るところには出て欲しいと陽向は思う。

「おい、あれ!」

煙に巻かれる土間を密草が指さした。煙が渦巻いて、やがて人の陰が姿を現す。

「げほっ、ごほっ!」

転がり出てきたのは稜樹だった。地面に両手をついたまま激しく咽る。

「大丈夫ですか!?」

咄嗟に駆け寄って背中を擦った陽向の背筋を悪寒が駆け抜けた。

「き、違う、唵っ!」

護符を貰っておいてよかった。玄関とは反対側、庭の方角に当てずっぽうに張った結界に光がぶち当たった。圧倒的な炎の塊。

「ぐっ……」

強い。結界術が押し負ける。

「「急々如律令!」」

二つの声が重なった。途端に結界が強化される。春日野と密草がそれぞれ指剣を構えていた。重ね掛けされた結界は炎に持ち堪える。

「言う余裕あるときは急々如律令の方がいいぞ、そっちのが強ぇから」

「唵はあくまで短縮形だしねぇ。その後に正式に真言が繋がるからね」

言いかけたのを訂正する必要はなかったらしい。唖然とする陽向の前に毅然と立った二人は振り返って笑顔を見せた。

「だが、よく間に合わせた!」

「おかげで重ね掛けする時間ができたよ」

その後ろで炎が消失する。耐え切った。

「結界はそのまま維持して。ようやくお出ましだよ」

「……稲月、弥樹」

揺らめく炎の残滓の中から陽炎のように現れた人影。燃える赤に近い茶髪を振り乱し、着崩れた白い襦袢から覗く足は裸足。骨が浮くほど細い手がゆっくりと持ち上げられた。

 二撃目の炎が放たれるより早く、女に飛びかかった影。大きく踏み込んだ一歩から、下段から上段に振り上げた太刀が閃いて伸ばした女の腕を切り飛ばす。

「ぐ、あああああああああああああああ!!!!」

耳をつんざく悲鳴が轟き、仰け反った女に対してセリナは容赦なく返す刀で袈裟切りに上半身を切り裂いた。

「ああっ!!」

言葉を得ないのか、悲鳴のままで女が後ろへ跳ぶ。大量の出血が地面に赤い斑点を刻む。

「逃がさない!」

いつになく強い語調で踏み込んだセリナが女を追う。だが、女の方が一歩速い。振るわれた三度目の斬撃は空を切った。切っ先が地面の石に当たって火花を散らす。

 セリナが一方的に押しているように見えるが、その実最初の一撃以来女は立ちを躱し続けている。

 その妖気を読んで違和感を訴えようとした陽向の袖に稜樹が縋りついた。

「お願いします、助けてください!」

必死に取りつく稜樹は煙に包まれた玄関を指さした。

「祖父と母が、まだ中に……!」

「っ」

その訴えに陽向は唇を噛む。セリナは弥樹と戦っている。春日野も援護のために隙を見て拘束術式を放っている。この場に残るのは密草と陽向だけだ。その密草も陽向と稜樹を庇って結界を張っている。主戦力であるセリナを欠いた状態で狐が蠢く屋敷の中に戻ることは――。

「え?屋敷の妖気が、なくなってる?」

そこで初めて、陽向は屋敷の中に居た管狐の妖気を感じ取れないことに気が付いた。弥樹に集中していたとはいえ、いつの間に居なくなったのか。

「密草さん!」

「待て、俺も行く」

消火要員として子龍を抱き上げた陽向に、密草も護符を握りしめた。

「稲月弥樹は春日野とセリナに任せる。むしろ俺たちがいない方がやりやすいだろ」

流れ弾を気にする必要がなくなるから。動きの遅い狐の死体ならともかく、セリナと弥樹の戦いに割り込むのは無理だ。なら、せいぜい邪魔にならないようにした方がいい。

「稜樹さん、案内お願いします!子龍、水!」

「ぴ!?……ぴ!」

意味を測りかねた子龍だったが、自分と密草と稜樹を交互に指さした陽向を見て察した。弱く吐き出した水をバケツよろしく頭からかぶって、三人と一匹は煙の中に飛び込んだ。

「今更ですけど、消防署は!?」

びちゃびちゃで着物が貼り付いて気持ち悪いが、火事の中に飛び込むのだから対策は必要だ。煙を吸わないように袖で口を塞いで、陽向は密草に訊ねる。

「怪異の火だ、標的以外は燃やさねえだろ。この屋敷以外にも延焼するようなら通報する」

二人で稜樹の背を追う。幸いにもまだ広範囲に燃え広がってはいない。煙は立ち込めているが、未だに炎本体は見えなかった。

「母はこっちです」

広い屋敷だ。どこをどう進んだのか陽向はもう覚えていないが、稜樹は迷いなく襖を開く。

「母さん!」

開け放たれた奥座敷に、人の姿はなかった。

「そんな、どこに……」

座敷の中央に寂しく敷かれた布団だけが残っている。掛け布団が大きく捲れているから、人がいた形跡だけはあるが、肝心の本人がいない。

「お邪魔しますよ」

密草が荒々しく入室する。膝をついて布団に触れた。

「冷たい。離れてから相当時間が経ってるんじゃないか?」

「母は動けないはずなのに……」

愕然と立ち尽くす稜樹を密草が叱咤する。

「呆けてる場合じゃねえ!陽向、稜樹さんと祖父さんを助けに行け。俺が母親を探す。稜樹さん、特徴は!?」

「長い黒髪です。着替えてなければ寝間着姿かと」

「わかった。――悪いが、最悪俺一人で脱出するぞ。祖父さん助けてから一人で探すなら勝手にしろ」

稜樹が険しい表情で頷いた。

「無理を強いているのは僕です。そのくらいは自覚しています」

「陽向、お前もだ」

廊下を走りだす直前、密草は陽向を振り返る。

「無理すんな。危ないと思ったら全力で外に出ろ。自分の命が最優先だ」

それは、いざとなったら稜樹や彼の祖父を見捨てろという意味だ。災害現場で救助する側に必ず求められる線引きを示されて、陽向は思わず返事を躊躇った。何か言いたげな密草だったが、すぐに踵を返す。この屋敷に残された時間は少ない。

「稜樹さん!」

心なしか口の中がざらつく。絞り出した唾液を呑んで、陽向は稜樹を促した。

「お祖父さんのところへ!」

「は、はい!」


 屋敷のどこまで進んでも炎は見えなかった。立ち込める煙はどんどん濃くなっているが、完全に視界を覆ってしまうほどではない。前を行く稜樹を不安なく追いかけられているのがその証拠だ。

「この部屋です。爺さま!」

先程の不安があるからか、稜樹は勢いよく襖を開いた。

「?……稜樹か?」

部屋の真ん中、車椅子に惚けた表情の老人が乗っていた。座っているのに背中が丸く、ずり落ちそうで怖い。

「火事です。逃げましょう」

駆け寄る稜樹を追いかけようとして、陽向は足を止めた。

 じわりと溢れ出た妖気。老人の座る車椅子の肘置きに結ばれ揺れる竹筒の蓋が開いている。

「稜樹さんっ!!」

「え?」

腕を掴んだ、驚きの表情で振り向いた稜樹越しに、老爺の細い眼光が鋭く陽向を射抜いた。

「唵!」

最早反射的に張った結界に、無数の触手のように蠢く塊が防がれた。その一本一本に小さな狐の顔がある。一匹は鼠よりも小さいが、百を優に超える朱の口が一斉に開かれて噛みつくべき肉を探していた。

「外へ……開かない!?」

背中をぶつけたことで、開けっ放しだったはずの襖がいつの間にか閉まっていることに気付く。びくともしない。

「くそ、外にも居るのか……!」

部屋の外、廊下側から襖を抑えているのも管狐だ。独特の腐臭がしないから、室内に溢れている管狐と同様死体の皮を被ってはいない。

 溢れだす管狐は止まらない。部屋の外にも管狐。ならばこの立地は拙い。

「こっちへ!」

稜樹の手を引いて、襖の方向に向かって噴き出す管狐の横を走る。何匹かが反応したが、二人と一匹が奥の角に到達する方が速い。

 管狐は際限なく増えていく。平面にしか張れない結界では横から溢れてしまう。部屋の横幅すべてをカバーできなくもないが、耐久戦になるならできるだけ節約したい。だから、角に身を寄せて部屋に対して斜めに結界を張りなおす。

「稜樹さん、これどういう状況!?」

角地を確保して隙間もなく結界を張り切った陽向は稜樹に怒鳴る。とにかく何が起きているかだけでも教えて欲しい。襖が開いてそこからの管狐も結界を襲う集団に合流した。あれだけの管狐を背にしていたと思うとぞっとする。

「爺さま、いつの間に狐憑きに……」

頭を抱えて縮こまっている稜樹は頼りにならない。

「狐憑き。あれが――」

老人の車椅子にぶら下がっている竹筒から泥のように溢れる管狐たち。その大本である老爺は微動だにしない。だが、陽向にはわかる。子龍に水を出させるときの陽向と同じだ。管狐たちに霊力を供給しているのはあの老爺である。

「どうすればいいですか!何か打開策とかないの!?」

陽向はただ、要介護の老人を火災現場から避難させるために協力しただけだ。こんな状況は聞いていない。何故この緊急事態の最中に狐憑きなどになっているのか。

 そうこうしている間に、結界の表面は管狐に覆い尽くされている。みっちり密集した管狐によって明かりも届かなくなってきた。

 背後も塞がれていたとはいえ、陽向は自身の失策を呪う。逃げ場がない。

「耐えてください……」

縋りついた稜樹が陽向を見上げた。

「何とか、耐えて……必ず限界は来ます」

「そんなこと言われても……!」

退路は断たれた。撃退しようにも相手は結界の向こう側だ。子龍の水攻撃なり、陽向が自分で刀を振るうなり、どちらにしても一度結界を解かなければならない。これだけ管狐が増殖してしまった今、その選択肢は潰えている。

「どっちみち耐えるしかねえんですけど!?」

管狐の動力源は老爺の霊力だ。それはわかる。けれど、その残量までは陽向にはわからない。ただでさえ探知しにくい霊力である。あとどのくらいなのか。むしろ、それ以上に。

「っ……」

結界が軋みだした。物理的な壁ではないはずだが、ミシミシ音がする。一際大きな音がして亀裂が走った。

「ヤベ、こっちの限界――!」

負荷がかかってガラスが割れるときの光景ってこんな感じなんだろうな、と妙に暢気に思った。


 圧力に押し負けた。それが陽向の抱いた感覚である。そして恐らく間違ってはいない。ガラスでもないのに破片みたいに飛び散って、その隙間から管狐の波がなだれ込む。咄嗟に子龍を抱え込んだ。身を護る結界が破られた以上、盾にできるのはもう自分の身くらいしか――。

「………………え?」

だが、来るべき衝撃はなかった。いや、全くなくはなかった。針を刺したときと同じ鋭い痛みが顔を庇った腕を覆っている。何匹かが左腕にぶら下がっていた。

「うわっ」

一匹一匹は五センチもない、小さな管狐たち。生理的な嫌悪感に従って振り払ったらぽろぽろとれた。噛む力はそんなに強くないらしい。

「何が?」

だが、予想した量の管狐では絶対ありえない。畳から天井まで張った結界を埋め尽くしていた大波だった。あれに一斉に襲われて、噛みついているのがこれだけなわけがない。

 見れば、管狐の壁がそそり立っていた。

 結界は砕かれたというのに、そこに見えない壁が存在しているがごとく、触手の壁が屹立している。だが、壁がないことは明白だ。よく見れば触手のような細い体がうねっている。幾本かが飛び出しているが、襲いかかってくる気配はない。

「助かった……?」

いまいち実感がないのは目の前に小さな狐の頭をした蛇が大量に蠢動しているせいだ。一個の生き物のようにも見えるその渦が、静止した。

 陽向の全身に鳥肌が立つ。剥き出しの敵意。一個体と化した狐の渦がぞわりと痙攣して、一斉に身を翻した。

 その塊が向かった先の『獲物』が何かに気付いて、陽向は咄嗟に目を細める。

「爺さまぁっ!!」

隣で稜樹が悲痛な呼び声をあげるが返事はない。

 部屋の中央に黄金色の玉ができていた。遠目に見れば直径二メートル程度の真球だ。だが、表面が絶え間なく脈動する。細い体のそれぞれを入れ替え、絡み合い、球は徐々にその大きさを縮めていく。

 バリバリと、骨と肉を咀嚼する不快な音を響かせて数舜。球が存在したのはほんの数分だっただろう。けれど陽向には妙に長く感じた。

 車椅子の上にぽとりと落ちた最後の一匹が己の尾に喰らいつく。小さな円を描いて、消えた。

「……」

部屋に残されたのは無機質な車椅子とその肘置きに下げられた竹筒だけだ。竹筒は縦に深い亀裂が走っている。稜樹がそっと触れば、乾いた音を立てて真っ二つに割れた。

 結果として耐久戦は引き分けだったのだと思う。陽向の結界は押し負けたが、同時に老爺の管狐への供給も途切れた。管狐への支配が絶たれたのだ。

 妖を使役する代償を目の当たりにして、陽向は左腕に残る小さな牙の痕を擦る。少々血が滲んでいるがちょっとした切り傷程度だ。むしろその前に狐の死体に引っかかれた二の腕の方がじくじく痛い。

「子龍は……いや、何でもない」

右肩の子龍の鼻面を撫でて、陽向は浮かんだ疑問を先送りにした。今気にしても仕方ないことだ。

「……爺さま」

車椅子に縋って崩れ落ちた稜樹から嗚咽が漏れる。割れた竹筒の半分は稜樹の手の中にある。残った半分を紐を解いて稜樹に渡した陽向は内心を押し殺して言った。

「行きましょう。煙が濃くなってる」


 廊下に居た管狐たちが破壊した襖が室内に寝そべっていた。四枚あった襖全てが倒れていて足の踏み場がない。見るからに高級そうな設えの襖だが、火事のただ中で気にしている場合ではない。陽向は畳の上に広がった破れた襖を踏みつけて廊下に出る。

 煙はどんどん濃度を増している。喉がひりひりしてきた。

 火事で怖いのは火そのものよりも煙だとはよく聞くが、実際に陽向は命の危機に迫られていた。火元が見えないのに呼吸が苦しい。空気が薄くなっている。

「稜樹さん、一番近い出口……もういっそ窓でも!」

「それならこっちです!」

稜樹の指示に従って廊下を駆ける。幸いなことにここは一階だ。窓一つあれば外に飛び降りたところで命に関わることはない。とにかく新鮮な空気が吸いたい。その一心で煙に巻かれながら必死に走る。

 そんなに長距離を走ったわけでもないのだろうが、無限に思える廊下の突き当り。ようやくたどり着いた木戸に稜樹が縋りつく。

「熱っ!?」

引き戸らしき金属の取っ手に触れた稜樹が弾かれたように手を引っ込めた。

「……まさか」

稜樹の反応からして最悪の事態に思い至る。恐る恐る触れた木製の部分もほんのり暖かい。ずっと触っていると熱い。板を張り合わせたシンプルな造りの戸は、組木に一ミリもない隙間がある。頭の位置を調整すれば、何とか中の様子を窺い知れた。

「燃えてる」

ここにきて初めて火の赤を見た気がする。だが、大炎上という様子でもない。

「やっと出口なんです、この奥に勝手口があります。ほんの少しの火なら強行突破で――」

言いながら金属製の取っ手部分ではない扉の表面に手を添えた稜樹の姿が、かつて映画で見たワンシーンに重なった。

「拙い、ダメです!!」

「え?」

陽向が止めるより先に稜樹の手が引き戸をスライドする。背中に追い風を感じて、陽向は咄嗟に稜樹の腕を掴んで縺れながら廊下に倒れた。

「子龍!水!!」

室内から業火が噴き出し、それに向かって子龍が水を噴き出した。廊下一杯に広がった水が飛び出した炎を押し流す。

「げほっ」

一度咳き込んだだけで肺が悲鳴をあげた。炎はなくなっても周囲の酸素を急激に吸収されて、一瞬ながら真空にすら近い状態になったのだろうことに変わりはない。ふいに襲われた眠気に耐えて廊下に叩きつけた掌の痛みが陽向を強制的に現実に引き戻す。

「稜樹さん、他に出口は……稜樹さん!?」

呼びかけたが寝ころんだままの稜樹に返事はない。固く閉じた瞼が彼に意識がないことを教えてくれる。

「ああもう、ちくしょう!」

うつ伏せの上体に体をねじ込んで担ぎ上げる。稜樹の方が陽向より上背があるし、大の大人一人分の体重だ。圧し掛かる重みに密草が別れ際に言った忠告が頭をよぎるが、陽向にその選択はできなかった。

「子龍、消火任せる」

「ぴ」

陽向が指示している余裕はない。風が止まっていないことに気付いて、慎重に勝手口があるという炎が噴き出した部屋を覗けば炎の海だった。その奥に外の景色が見える。爆発で吹き飛んだのか、扉は存在しない。つくづく土足で上がり込んで正解だった。残る問題は稜樹を担いで火の中を突破できるかだが。

「一瞬でいい、道を」

「ぴぃ」

人間であれば胸を張っていただろう。任せろ、と鳴く子龍に微笑んで、陽向は稜樹を抱えなおす。

「行くぞ。タイミング任せる」

子龍が扉を喪失した入口の前に浮いた。その横で走り出す構えの陽向。気持ちだけはスタートラインに立つスプリンターである。もしくは荷運び競争の選手。

「ぴゃっ!」

威勢のいい鳴き声と共に噴き出した水を追いかけるように走り出す。子龍が肩にしがみついてきたのを感触で把握して、陽向は全力で燃え盛る部屋に飛び込んだ。

 思ったよりは高温でなかったのは先に放水したからだろう。それでもじりじりと炙られる灼熱を頬に感じて、それでも足は止めない。

「うおおおお――らぁっ!!」

最後の一歩は大股に踏み抜いた。たたきを蹴って外へ――!


 「だっ!?」

大の男一人を担いで華麗に着地できるほど陽向の身体能力は高くない。つんのめって転がり込んだ先は土の地面だった。

「がはごほ、げっふ……おえっふ」

口の中がひりひりする。ひとしきり咽てから大きく息を吸い込んだ。新鮮な空気のありがたみにこれほど感謝したことはない。

「空気うめぇ」

何でもない田舎の山の中の空気であり、何なら火災現場から灰が噴き出している時点で完全なる新鮮な空気というわけでもない。森林浴にしては不快な環境下なはずだが、煙に巻かれた屋内との相対でこんなんでも爽快である。贅沢を言えば水を一杯欲しい。冷たい奴を。

「……稜樹さん。稜樹さん、生きてます!?」

一緒に転がった稜樹に呼びかける。肩を揺すったら「うーん」という呻き声がした。生きている。

「怪我とか――は、なさそう」

軽くひっくり返してみるが、服も汚れているだけで見たところ破れなどもない。むしろ管狐に噛みつかれたりした陽向の方が血を見ている。

「起きてください、稜樹さん!」

ちょっと強めに揺すぶったら目が開いた。がばっと上体を起こす。

「げほっ」

「急に起きるから……」

盛大に咽た稜樹の背を擦る。

「ここは……外?」

周囲を見渡した稜樹の顔が開かれた勝手口で止まる。煌々と朱色が陽向にも見えた。

「もう少し離れましょう。立てますか?」

「う、うん。何とか……」

膝が笑っている稜樹に手を貸して木々の中へのろのろと移動する。屋敷が燃え崩れてもこの距離ならば大丈夫だろう場所に立ち止まると、稜樹がへたり込んだ。つられて陽向も腰を下ろす。屋敷の方に向いているから不測の事態が起こればすぐに対応できる体勢は維持して。

 とりあえず、とスマホを開いてみたら着信履歴が連なっていた。動き回っていたし、バイブだけにしていたので気が付かなかった。全部密草からである。

「……もしも『あっ、陽向てめぇ今どこにいやがる!?』

恐る恐る電話したらワンコール鳴り終わる前に取った上に陽向の最初の挨拶に割り込んで密草が吠える。大音響すぎてスピーカーを耳から少し離した。

「すみません、勝手口の方に……たぶん裏だと思うんですけど。あ、稜樹さんは無事です。あと子龍も。稜樹さんのお祖父さんは……」

広い屋敷、しかも煙の中を縦横無尽に走り回ったので方向感覚などとうに喪失している。景色と斜面の向きからして山の頂上側だというのは何となく判別できるが。

『そのまま電話繋いどけ。こっちで探す』

頼もしいことだ。密草が無事なようで一安心である。

「電話で探すって、逆探知とかできるんですか?」

『普通にGPSだが?』

文明の利器だった。そういえばスマホのGPSを共有した気がする。有事の際に役に立つとは言われたが、非常に実用的だ。

「電話を繋いどく必要性は?」

『状況確認だ。何かあったらすぐに報告できるように、だ』

そういうことかと得心する。だが、いつ何が起きるかわからない状態で電話で片手を塞がれるのは不安が残る。せめて、と懐にしまっておいた残りの護符を取り出したところで、陽向の感覚が警鐘を鳴らした。

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