第五章 巫覡の家
あまり食べる気がしなくて、軽くでと頼んだらパンとスープにしてくれた。プレートで受け取って、春日野の待つ奥のテーブルへ向かう。もういくつか平行で用意されていたのは部屋での食事を希望したセリナと、医院にいる人たちの分だろうか。陽向がカウンターを離れた後、旦那の方がワゴンにいくつか乗せて、婦人の方が一つを持って食堂から出て行った。
「……アレ見た後でよくそんなにがっつり食べられますね……」
春日野の前にあるプレートは一式揃ったとんかつ定食だった。今日の日替わりメニューだったから普通に頼めばこれが出てくるが、陽向はとても食べる気にならない。今は目の前にあるだけで胃もたれしてくる。
「うん、僕はまあ、慣れてるからね」
陽向が来たのを待っていたのか、春日野は手を合わせてから箸を手にする。とんかつがどんどん口に放り込まれていく。
「……慣れるもんですか?」
「慣れない方がいいとは思うけどね」
慣れたくはない。
「眠れなさそうなら密草に睡眠薬でももらっておいで。たぶん明日も忙しいから」
勒白寺の異界での騒動の後、ほとんど徹夜だったのを思い出して陽向は真剣に悩む。できれば薬のお世話にはなりなくなかったのだけれど。
春日野はあっという間に完食した。いい音を立てて合わせられる両手が清々しい。
「それでだけど」
話が本題に移りそうなので、陽向は手に持った残りのパンを口に無理やり詰め込んだ。少々咽たがなんとかスープで流し込む。
「はい」
「そんなに急がなくてもよかったんだけど」
どん、とカップを置いて向き直った陽向に春日野が苦笑してみせた。すぐに表情を引き締める。
「セリナのことだ。さっきも言ったけど、今回の件には深く関りそうだから、君にも知っておいて欲しい」
「……それですけど」
事件解決のために情報の共有が必須なのは陽向も理解できる。だが。
「勝手に聞いていいのかなって……さっきの話からしてめちゃくちゃプライベートでしょう?」
両親の死に関係しているならば、彼女の精神的な傷になっていないはずがない。本人の了解もなく踏み込んでいい場所なのかわからなくて、陽向はどうしても二の足を踏む。春日野も腕組みして「うーん」と呻った。
「ごもっともだけど、必要なことだからね。それに僕も詳しいことは知らないんだ。彼女が生安課の所属になったのは例の事件よりかなり後のことだから」
陽向が止めるより先に春日野が喋り出してしまった。こうなったら少しでも真摯に聞くしかない。セリナに何か言われたら全力で詫びよう。陽向は腹を括った。
「セリナのお父さんの実家、
冒頭から他人事ではない単語が飛び出して、陽向は思わず膝の上で寝てしまった子龍に触れる。
「陽向については突発的だったけど、稲月家は家の役職として巫覡を
陽向が特殊事例なだけで、本来は世襲であることがほとんどなのだという。だが、現在では霊力を持つ人間も少なくなっている。明治終わり頃に多くの家が廃業したそうだ。そんな時代の流れの中にあっても稲月家は巫覡の世襲を守り続けた。
「けれど、彼らが仕えるヌシの
人と妖は決して交わらない存在ではない。春日野が「後はわかるでしょ」と肩を竦める。予想はついたけれど、陽向は先を促した。
「そうして生まれたのがセリナだ」
ヌシは眷属の嫁入りを承認したそうだ。二人はめでたく結ばれた。
「ここから先は情報が伏せられていて、僕も又聞きだから詳しくは知らない。けど、稲月家の中で彼らの婚姻に反対する者がいたらしいんだ。稲月家の総意ではないそうだよ。……その、その反対する者は稲月家を出て娘と三人で暮らしていた彼らを襲ったそうだ」
感想を抱くことさえ不躾な気がして、陽向は黙って耳を傾ける。
「結果、夫婦は亡くなった。一人残されたセリナは半妖として顕在化し、管理局の統治下におかれる。妖力を制御する訓練を受けてから生安課に配属された。以上が僕の知っているセリナのこれまでだ」
「……その、犯人はどうなったんですか」
「ああ、承認があったにも関わらず襲撃したことによって稲月家そのものがヌシの不興を買ってね。稲月家で永劫犯人の管理をするということで手落ちになったそうだよ。二度と外には出さないし、稲月の血族全員がセリナとの接触を禁止されている」
殺人を犯したのにその人の出身の家での幽閉が懲罰とは、釈然としないものを感じて陽向は押し黙る。その様子から察したのか春日野が諦念を込めて続けた。
「怪異案件だからね。普通の刑務所だと被害が広がりかねないし、特殊な設備が必要なんだ。まあでも管理局預かりが妥当だと思うけど、ヌシのお膝元だからそれが考慮されたんだろうね」
僕の所見だけど、と春日野は付け加える。
「あーあ、今回の件がうちに回ってきた天運を恨むね。当時の事件は公にされてないから、あの駐車場が彼女の生家だったのは本当に迂闊だった」
大きな溜息を落として、ついでに肩も落とす。
「稲月家がね、管狐憑きの家系なんだよ。僕も実物は初めて見たけど」
それでセリナが管狐を知っていたのか。陽向は納得して頷いた。
「彼らが巫覡をしている
「……はい」
話を噛み砕くのに脳を動かしていたら春日野がいつもの優しい顔に戻っていた。
「寺尾も確認してくれたそうだけど、ちゃんとお家に言ってあるよね?大丈夫なの、連休中とはいえ、こんな何日も」
「あー、はい。親には合宿って言ってあるんで」
嘘を言っているつもりはない。生安課職業訓練合宿である。
「それに、連休の間は家族で父の実家に行ってるから、俺一人いなくても別に問題ないです」
「それは一緒に行かなくてよかったのかい?」
一緒に行っても山奥なので特に陽向のやることはない。むしろ仕事を押し付けられるのが関の山だ。ずっと一緒に居るのも気まずいので、こちらに泊る大義名分があって渡りに船だったのだ。
「僕としては陽向がこっちにいてくれて助かったけど。今日はありがとう。おかげで事件の大本にも辿り着けそうだ」
でもね、と立ち上がった春日野は器用に片目を瞑る。
「君が首無し狐に向かって行ったときはすっごい焦ったから、あんまり無茶しちゃダメだよ?」
「……はい、すみません……」
でも、管狐が潜む場所を探れたのはあの場で陽向だけだったではないかとかいろいろ言い訳は浮かんだが春日野の笑顔に封じられた。押し込められて詫びだけ絞り出す。
「それじゃ、おやすみ」
食べ終わった食器のプレートを手に春日野がテーブルを離れていく。
一度にたくさんのことが起きすぎて、完全に目が冴えてしまった。一人残された食堂で陽向は完全に寝ている子龍の鬣を弄る。
やっぱり、後で睡眠薬を貰いに行こう。
〇
そして、寝坊した。
時間を確認して愕然とする。すでに九時過ぎである。
「ぴぃ」
やれやれとでも言いたげな子龍を放置して、陽向は大慌てで最低限の身支度をして部屋から飛び出した。それでも子龍はちゃっかり頭の上に乗っかってくる。重い。
会議室にも廊下にも誰もいなかった。もう出かけてしまったのだろうかと肩を落として訪ねた食堂で、婦人に大笑いされた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。今日はまだ皆動いてないみたいだよ?」
「え」
狐につままれた気分で呆然とする陽向を見て、婦人が再び笑う。
「課長なら医院の方だよ。セリナは裏庭に行った。そっとしといた方がいいと思うよ」
あれだけはっきりと読み取れるセリナの妖気が事務所内外に存在しないことから、婦人の言う『裏庭』の場所を陽向は悟る。昨日、彼女が不安定だったときに入った扉の向こう、異界の中核だ。
「……医院に行ってみます」
「待った、朝ごはんまだだろ?持ってきなよ」
遅刻した後ろめたさから少しでも早く春日野に合流したくて踵を返した陽向を婦人が呼び止める。トングでつかんだ小ぶりのパンが差し出されていた。
「ありがとうございます!」
「うん、子龍の分もね」
もう一個くれたのでありがたくいただいておく。一個を頭の上に掲げたら子龍にむしり取られた。かなり空腹だったらしい。
行儀は悪いが歩きながら口を動かして密草医院へ向かう。建物は隣だが、事務所とごく短い渡り廊下で繋がっている。外観を知らなければ同じ建物だと思うだろう。
診察室兼密草の休憩室へ入る直前、
「……!」
こっそり様子を窺うと、密草と春日野の背中が見えた。密草はいつもの診察用の椅子に座って、春日野は立ったまま腕組みしている。その向かいに患者用の丸椅子に座る若い男性が見えた。衝立の陰から覗く陽向は、彼から見えないように位置を調整する。
「ですから、捜査には全面的に協力いたします!」
「それは……していただかないとこちらも困ります」
丸椅子の男は膝の上で拳を握りしめて必死の形相で何かを懇願しているようだ。対する春日野の返答はどこか冷たい。
「それで。先程の説明では理解しかねるので詳しくお伺いしたいのですが」
まだ何か言いたそうに口を開いた男を春日野が制す。何度かパクパクした末に、男はぼそぼそと喋り出した。
「……ですから、伯母が逃げたんです」
男はばつが悪そうに目を逸らす。
「昨晩、そちらから問い合わせをいただいて。彼女を幽閉していた牢を確認したんです。そしたら姿がなく……」
つい開きそうになった口を、陽向は手で押さえる。代わりに言いたいことは密草が言ってくれた。
「見張りは置いていなかったんですか?」
「いえ、勿論いました。食事も運んでいましたし。けど、牢の中までは確認していなくて……」
「それは……言いたくはありませんが、少々杜撰では?」
幽閉されていた伯母というのは、恐らくセリナの両親を殺害した犯人のことだろう。春日野は昨晩稲月家に問い合わせると言っていたから、それを受けて彼がやってきたということだろうか。伯母というくらいだから血縁とみて間違いない。
つまり、セリナの親戚でもある。それを踏まえて改めて容貌を見れば、どことなく似た顔立ちをしている気がする。
「返す言葉もありません」
男ががっくりと頭を垂れた。けれど密草は追及の手を緩めない。
「榊原市で火災が頻発するようになってからすでに一ヶ月近い。つまり、
食事だって届けていると言っていた。それだけの日数が経っているなら気付かない訳がないと陽向も思うのだが。
「それが、身代わりが置かれていました」
牢の中に管狐を放っていたのだと男は言う。姿の見えない牢で、小さな窓口から食事の差し入れだけしていた。変化した管狐が食事をとって食器を戻していたので発見が遅れたのだそうだ。
言い訳じみている、と陽向は思う。
法で裁けない者だからこそ、稲月家が責任を負ったのではないか。それなのに、本人がその場にいないことに一ヶ月も気付かなかったなどと。
「伯母を逃がしたのは偏にこちらの不手際です」
しおらしく言うが、同情心は湧いてこない。
「ですから、捜査には稲月家は全面的に協力します。どうか、伯母を捕まえてください。この通りです!」
足の間に頭が入りそうなくらいに深々と頭を下げた男を見下ろして春日野が嘆息する。
「それで、それがどうして我々が稲月家を救うことに繋がるんですか?」
「?」
衝立の後ろで陽向も首を捻る。どうやら陽向が来る前の会話で何かあったらしい。だが、稲月弥樹なる人物を捕獲できても稲月家の面目躍如とはならないだろう。脱走を許したという汚名は
「……伯母を、ヌシに捧げようと思います」
がたりと大きな音がして、陽向はほんの少しだけ衝立から身を乗り出す。密草が椅子から立ち上がった音だったらしい。
「何を……!そんなことで逃走の責任は消えねえぞ!?」
「存じております。ですが、ヌシからの要望なのです。稲月の者を贄にせよ、と。我が一族が存続するためにはヌシを奉じるしかないのです。これは伯母が犯した罪とは無関係です。……実は、我が一族は年々弱体化しております。お恥ずかしながら、受け継いだ力にも振り回されている現状です」
どうやら春日野から聞くより事態は切迫していたらしい。
「去年の暮、父が亡くなりました。管狐を制御する力を得られなかったせいで喰われたのです」
男が目を伏せる。膝の上で拳が小刻みに震えた。喰われたというのは、何かの比喩ではないだろう。人が使役するといっても妖だ。時として飼い主に牙を剥く愛玩動物のごとく。そしてその被害は単なるペットの比ではない。
「このままではいずれ
「それで、稲月弥樹氏を差し出すと?」
背中越しだが、密草が男を睨んだのがわかった。
「犯罪者が贄で、ヌシが納得すると本当に思うか?」
「ヌシ様は稲月家の者としか指定していません。条件としては該当します」
密草を見上げる男の瞳には強い確信が宿っている。随分都合のいい解釈だと陽向も思うが、ヌシの意向はわからない。妖だから判断基準が人間と違う可能性もある。そもそも贄を要求するヌシだ。多少の非道は気にしないのかもしれない。
「そんなわけあるかっ」
納得しかけた陽向も一緒に密草に一喝された。
「いくら条件があってるからって相手は神格だぞ!?好き好んで穢れを欲するわけがない!」
気が穢れる現象は妖に限ったものではない。陽向の知る神道の常識がどこまで通じるかは不明だが、神社では穢れをことのほか忌み嫌う。死が問答無用で穢れと称される価値観で、人を殺害した稲月弥樹が贄として受け入れられるかは疑問だ。
「……稲月家の問題はこの際どっちでもいいよ、密草」
密草の叱責を黙って聞いていた春日野が少しだけ顔を上げた。
「
有無を言わさぬ確認に、稜樹が気圧されて頷いた。
「では、稲月弥樹氏の痕跡を辿りたいので今から稲月家を訪問します。人員を集めるので少々こちらでお待ちください」
春日野が席を立つ。身を翻してこちらへ向かってきたので、陽向は慌てて渡り廊下の方へ移動しようと腰を上げた。慌てすぎて子龍が頭の上から落下する。
「ぴっ」
「あ」
落ちた子龍は受け止めたものの、頭が衝立の端から見事に飛び出した。春日野から見たらひょっこり顔を出したように見えるだろう。
「陽向、いたなら出てきてよかったんだよ」
当然のごとく、頭の上から呆れた春日野の声が降ってきた。
「……タイミングがわかりませんでした」
我ながら苦しい言い訳をかまして、陽向はおずおずと引き下がる。
「出かける支度は、できてるね。――セリナを呼んでくる」
陽向が言いかけるより先に春日野は羽織を翻して渡り廊下から事務所の方へ歩き去った。稲月家にセリナを伴うことに一抹の不安がよぎる。だが、残るメンバーにまともな戦力がいないのが現実だ。私情はともかく、彼女は外せない。
話に上がっただけで揺れていた妖気を思い出して、できるだけ彼女の負担を減らすにはどうするべきか思案していた陽向の肩を密草が叩いた。
「今更だが、お茶でも淹れてやれ」
背後の稜樹を指さす。
「雑巾絞るの忘れるなよ」
「……そんな時間ないですよね?」
陽向の心配を
〇
稲月の本宅は天巳川を渡ってすぐに聳える低山、
稜樹の案内で訪れた稲月の家は控え目に言って豪邸だった。地元の有力者というのが一目でわかる、年期を感じさせる巨大な家。門前で山間に沈むように佇む瓦葺の屋根を見上げた陽向の感想である。座敷童の真琴が棲む古民家よりさらに大きな家だ。
「こちらからどうぞ」
城かと見紛う特大の門は閉ざされていた。相当な重量がありそうで、開くのも一苦労だろう。稜樹が示したのは門扉の一部に設けられた一人用の小さな通用口だった。その一か所だけが開くようになっている。
「父が死んで以降手入れが行き届かず、お見苦しくて申し訳ない」
稜樹が苦笑しながら頭を掻く。謙遜でもなく、広い庭は荒れ果てていた。一朝一夕の荒れ方ではない。ゆっくりと自然に戻っている、そんな印象すら抱かせる。屋敷への道は一応残ってはいるが、獣道と呼べる程度だ。
稜樹の父が亡くなったのは先月だと言っていなかったか。それにしては荒れすぎている。いくら山に直結している庭とはいえ、たった一ヶ月でここまで荒れるものだろうか。
疑問は尽きないが、ここで指摘しても余計な争いを生むだけだろう。春日野も密草も何も言わない以上、陽向が口出しすることではない。
稲月家を訪問するメンバーを決める際、一悶着あった。
主任である春日野と主戦力であるセリナ、現場の妖気探査担当の陽向は決定として、密草と寺尾のどちらが行くかで少々揉めたのである。
密草には怪我人の看病という大役がある。けれど、現場での補助系術師としての密草の実力は折り紙付きなのだそうだ。寺尾は本来、全体を俯瞰する連絡役を担うことが多いのだと言う。
怪我人の具合が落ち着いてきているという現状も加味し、結果、密草が同行することになった。寺尾の式神がついてきているので、これでこちらに不測の事態が起こってもすぐに対応してくれることになっている。
屋敷の中は静まり返っていた。これだけ広い屋敷だから手伝いの一人くらいいてもよさそうだと思うのに、人の気配はない。代わりに――。
「春日野さん」
陽向は屋敷に満ちる妖気に春日野の袖を引いた。
「同じ妖気かい?」
「はい」
稜樹に聞こえないように声を潜めて、陽向は薄暗い廊下の奥へ目を凝らす。本体の妖気はないが、沁みついた気配が残っている。間違いなく、昨日襲撃してきた管狐だ。
「地下牢をご案内します」
稜樹が先導する。地下牢と言うだけあって、廊下をだいぶ歩いた先にある木戸を開けた奥に下へ降りる階段があった。稜樹が壁に備え付けられていた懐中電灯を手にする。土台から外せば点灯するタイプの懐中電灯だ。中に明かりはないらしい。
「僕たちは管狐の火で充分ですから。皆さん、必要だったらスマホのライトなり使ってください」
春日野と密草がそれぞれスマホを取り出したので陽向も倣う。セリナだけが何も持たずに一番後ろについた。
「足元に気を付けてくださいね」
階段は木製だが、壁や天井は途中から石造りになった。天然の岩屋を切り出したのだろうか、荒々しい掘削痕がライトに照らし出される。
地階にはすぐについた。段数を数えたところ、恐らく丁度一階分くらい下がっている。家の中から降りてきたのに洞窟の中のようだ。春日野が周囲にスマホのライトを回してきょろきょろ見渡す。
「ここは以前、狐憑きになった者を幽閉する場所だったそうです」
人一人がギリギリ通れるくらいの通路を稜樹はどんどん進んでいく。
「管狐の力に負けると、憑かれるのです。そうなった者はここに閉じ込められ、やがては喰われる。伯母もそうです。管狐に負けて、劣情を抑えられなかった」
背後にセリナもいるので、できればその話には触れてほしくない陽向である。いつ彼女の妖気が溢れるかと気が気でないのだ。
「ということは御父上も?」
問いかける密草の声には遠慮がない。医院でのやりとりは相当彼の機嫌を損ねたと見える。
「ええ。狐憑きを発症した時点でこちらへ」
対する稜樹も淡白だった。自分の父のこと、しかも最期を迎えたという話なのに妙に他人事じみている。
狭い通路に鉄の扉が並んでいた。暗くてよく見えないが、五つくらいはあるだろうか。ライトに照らし出される扉を見て、監獄の独房を連想する。用途としては間違っていない。
「こちらです」
そのうちの一つ、並ぶ扉の真ん中くらいだろうか、稜樹は立ち止まって指し示した。陽向には他の扉と見分けがつかないが、稜樹は迷いなく扉を開ける。鍵はかかっていなかった。
中は存外普通の部屋だった。だが、抱く印象としてはやはり独房だ。しかれた畳を数えれば二畳間なのがわかる。家具らしい家具はない。最奥に四角く切り取られた光が落ちていた。天井付近に明り取りがついているらしい。稜樹が懐中電灯で照らしていることからもわかるが、それ以外に照明はないようだ。日が落ちたら暗闇だろう。
牢なのだから当たり前だが、ここにだけは入れられたくないと陽向は思う。こんなところに幽閉されたら確実に精神に異常をきたす。
「調査させていただきますね」
眺めているだけで嫌悪感を抑えられない独房に、春日野が躊躇いなく入っていく。陽向がぎょっとしている間に密草も平然と続いた。
「ああ、妖は入らない方がいいですよ」
仕方なく入室しようとした陽向を稜樹が止める。目線が頭の上の子龍に向けられていることに気付く。管狐遣いだから彼も『視える人』なのだろう。陽向は振り返ってセリナを見た。
「セリナ、子龍頼む」
「ん」
頭の上の子龍の首根っこを掴んでセリナに差し出せば、彼女はそっと抱きあげてくれた。子龍もまんざらでもなさそうに腕の中に納まる。
稜樹の言った意味は一歩部屋に入った瞬間に理解した。敷居を跨いだ途端に肌に走る小さな静電気のような感触。独房中に術式が張り巡らされているのを感覚的に察知して、陽向は思わず稜樹へ振り向いた。
「陽向、師匠から課題だ。この部屋に張ってある術式、なーんだ?」
密草が部屋の中央で白い歯を見せた。ここでする表情ではないと思う。
「……妖力封じ?」
「ち。正解」
「今舌打ちしました!?」
正解したのに理不尽である。
中に捕らえた狐憑き、もしくはその憑いている狐を逃がさないための術式なのだろう。随分強力に仕掛けられている。
「管狐は少しでも隙間があればどこにでも入り込みますから。ここの目に見える施設は人を逃がさないためのもの。そのうえで術式にて管狐の脱走および侵入を妨害します」
彼自身が管狐を連れているためと思われる。部屋に入らず、稜樹は得意げに説明するが、入室してからやけに冴え渡った感覚が陽向に教えてくれた。
「ここ、途切れてますね」
「何だと!?」
陽向の指さす先は鍵穴だ。密草が大声を出して駆け寄ってくる。稜樹は唖然と立ち尽くしていた。
「……マジだ。切れてやがる」
指先で鍵穴に触れた密草が驚きに呟きを漏らした。
「人為的に切られたって印象だね。元々ないわけじゃなくて、突破されたみたいに切れてる。重ね掛けされた術式の一個だから全体に影響してないのが
スマホ画面を翳して春日野が呻る。大体だが陽向が視ているのと同じ術式陣が浮かび上がっている。
「そんな、封じの術が切られているなんて……」
稜樹の表情に絶望が浮かんでいた。
「稜樹さん、術式の点検などは」
「それは勿論定期的に。ですが、我ら稲月家は術式への造詣は深くなく。年に一度専門の方に依頼してかけなおしてもらっていました」
稜樹の目が泳ぐ。激しく動揺しているが、春日野は追及の手を止めない。
「最後の点検は?」
「去年の、年末に……」
既に半年近く経過している。小火騒ぎがひと月前からだから、稲月弥樹の脱走もその頃だろう。
「稜樹さん、実験してみたい。ここから管狐を入れてもらえませんか?」
春日野が何の躊躇いもなく鉄扉を閉める。今更先に外にいたかったとは言えない陽向は諦めてちょっと下がった。明かりがあるから多少マシだが、それでも閉塞感に襲われる。これで一人だったらと思うと身の毛がよだつ。
少しして、扉の向こうで覚えのある妖気が現れた。小さすぎて見逃してしまいそうだ。弱体化しているというのも頷ける。三人で鍵穴を見つめていたら、狐の頭がにょきっと顔を出した。滑らかに蛇のように細長い胴体が続く。
「……入れましたね」
すぐに稜樹がドアを開けた。
「戻れ」
部屋の中を浮遊していた細長い黄金色の紐、管狐が稜樹の指示に従って彼の持つ竹筒へと吸い込まれていった。しっかり栓をするのに合わせて陽向の感じていた妖気が消える。やはり、容れ物の中では管狐の妖気はわからない。突然現れたのもこれが原理で間違いなさそうだ。
「中では自由に動いていたように見えましたが」
春日野の指摘に稜樹はすんなり頷いた。
「はい。利便性の問題で、中に入れた管狐は自由に動けます。処理の問題もありますから」
それは狐憑きが迎えることになる最期のことだろうか。稜樹がさらっと言い切ったので追及する必要もないだろうと陽向は判断する。春日野と密草も同様だった。
「通常、管狐を狐憑きが幽閉された後に追加することはありますか?」
春日野が問う。稜樹は大きく首を振った。
「まさか。狐憑きが連れて入る自分の管狐だけです。一度入ったらこの扉を開けることはありません。本来なら術式で封じていますから、人は勿論管狐の出入りはあり得ません」
だが、この独房には抜け穴があった。陽向はそっと鍵穴を睨む。春日野と密草は意図的に切ったと言っていた。確かに、不自然に途切れた術式陣が視える。
「……この一ヶ月、稲月家以外の人間がここに出入りしたことは」
正直に首を横に振ってから、稜樹はしまったと目を見開いた。それは、自白に等しい。
「稜樹さん、残念ですが、その現状ではこちらの住民を疑うしかなくなります」
妖力封じは基本的にその対象となる妖には解除できない。陽向は密草から教えられた基礎的な術式を振り返る。少なくとも管狐がこの部屋の術を破れたはずがないのだ。それならば、手引きした者がいる。
家族を疑われるのは気分がよいものではない。稜樹は唇を噛んで部屋の中の陽向たちを睨んでいた。
「ご家族を紹介していただけますか?」
疑問形だが、果てしなく命令にニュアンス。稜樹は渋々といった様子で頷いた。
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