第四章 跡地

 密草は医院の方へ行ったのか、事務所の廊下は静まり返っていた。

 陽向は一人、廊下に置いてある長椅子に腰を下ろす。セリナを一人残した会議室の入口は目の前だから、彼女に何かあればすぐに対応できるだろう。中に入らなくても妖気から大体の体調くらいはわかる。

 暗闇を照らす篝火に似て、セリナの妖気はわかりやすい。

 感情に左右されやすいのか、今は不安定に揺れ動いている。

「……大丈夫かな」

妖気を無理やり押し込めている。妖にとってそれがどう影響するのか陽向にはわからないが、少なくとも体によくはなさそうだ。

 廊下の奥を見遣る。妖気がいくつかあるが、紹介された子供たちとつうのものだ。知らない妖気はない。位置としては隣の建物、密草医院の方向に剣持の妖気。普段より弱っているが、安定はしている。負傷したと言っていたが、命に別状なさそうだ。そちらに行ったところで陽向にできることはないだろう。むしろ邪魔になるかもしれない。

 一人で悶々と考えていたら会議室のドアが開いた。

「セリナ」

顔を出したセリナは見るからに憔悴していて、陽向は腰を浮かせた。

「大丈夫か?」

手を伸ばしかけてすぐにひっこめる。まだ妖気の揺らぎは治まっていない。

 虚ろな目で陽向を見て、小さく頷いてからセリナは小さな声で言った。

「ごめん、もう少し頭冷やしてくる。みんなに訊かれたらいつものとこって答えておいて」

「あ、ああ」

フラフラと廊下の奥へ向かうセリナを、陽向は引き留められなかった。そのまま見送ったら一番奥にあるドアの中に入っていった。閉まるドアの向こう側の気配が嫌でも流れ出してきた。

「……異界の中核?」

小走りに追いかけて、すでに閉まったドアの前に立つ。扉全体に術式が走っている。この術には覚えがある。詳しくは知らないが、ヌシの居場所への入口を安定して開くためのものだろう。生安課にこの異界を提供しているヌシの居場所。そこに何をしに行ったと言うのか。

「ほっときな、いつものことだよ」

「!……つうさん」

突然後ろから声をかけられて、ドアノブに触れかけていた手を引く。陽向が振り向いた目線の下方に小さな老婆がいた。

「この向こうが何処か、わかってるのかい」

「ヌシの居場所」

わかっているので素直に答えたら、わざとらしく溜息を吐かれた。

「正確にはその入口の一つだけどね。そこまでわかってて行こうとする気が知れないね」

「けど、セリナは」

実際に入って行った人がいるのだ。だが、つうは首を振った。

「やめときな。あの子は発散しに行ったんだ。巻き込まれたくなかったらここで大人しく待ってろ」

未練はあるが、陽向は納得する。溢れそうだった妖気を放出しに行ったのだろう。道を塞ぐための炎があの威力だ。覚えたての結界術だけで防ぎ切れるとは思えない。

「あんたはあんたのできることをしな。ほれっ」

「え?わっ!?」

つうが手に持っていた長い布包みを投げた。唐突だったから危なかったが何とかキャッチする。予想以上の重量が両手にかかって、陽向は慌ててバランスをとった。

「な、何?」

「厄介な相手みたいだからね。いくら後方支援担当の術師でも丸腰ってのも心許ない。……河野の野郎に聞いたよ。使い方は仕込まれてんだろ」

見た目の年齢の割にしっかり揃った前歯を見せて、つうが布包みを指さす。

「これって」

受け取ったときの形状や重さから大体の予想はついていたが、いざ目にすると少々気後れしてしまう。黒い包みを解いて現れたのはシンプルな造りの日本刀の柄だ。

「……真剣触ったのなんか数回ですよ?」

黒漆塗りの鞘が電灯を反射する。頬を引き攣らせながらつうを見れば、彼女は訳知り顔で頷いた。

「河野の野郎、ちゃんと真剣想定で教えたからいつもの型で大丈夫って言ってやがったぞ。どうせあいつのことだから道場に来なくなった後も鍛錬くらいしてただろってな。今の内に馴らしときな。この建物、多少壊しても勝手に治るから安心して暴れていいよ」

どうやら建物そのものが異界のものらしい。壁にも備品にも薄くだが妖気が走っているから気付いていたが便利なものである。どうせは余計だが、運動がてら個人練習を続けていたのも事実だから反論もない。

「まあでも、気を付けます」

つうが手を差し出したので布袋を渡す。腰帯に鞘の先端をねじ込んだ。

「うん、やっと様になったね」

いつぞや習った通りに下緒を引っかければ、つうが満足そうに微笑む。

「その刀は消耗品だと思っていい。本気で妖を相手取るなら一振じゃ足りないけど、護身用なら何とかなるだろ。必要なら準備しとくけどね」

さすがに陽向にそこまでの戦闘力はない。それくらいは自覚しているつもりなので苦笑いで誤魔化しておく。それにしても、刀を折ること前提なのだろうか。

「それと、術式破りの式は早めに教えてもらいな」

「え?」

「それが一番得意なんだろ」

つうが悪戯を教えるような悪い顔をしている。言われてみれば、以前にやった術式破りは元から術式が付与されている武器を使った。術を破壊する場所はわかるが、そこにダメージを与える術を陽向は知らない。

「密草にも言っとくよ。教科書通りもいいが、生徒の得手を伸ばしてやるのも師匠の務めだってね」

しわくちゃの目が細められる。それが不器用なウインクだと気付いて、陽向は肩の力を抜いた。自分で思った以上に緊張していたらしい。

「……どこまで俺のこと聞いたんですか」

呆れて苦笑したら、つうがいい笑顔になった。勝手に喋りたい放題の河野には一言申し上げたいが、的確な助言と武器を貰えたことには感謝しなければならない。両方を達成するために、この件が片付いたら久しぶりに手合わせいただこう。


   〇


 くたびれた密草が事務所に戻ってくる頃には、すでに日が落ちていた。待っているのも暇だったので、つうに言われたままに会議室で素振りをしていた陽向を見止めて、密草の顎ががくんと落ちる。

「何してんだお前」

「えっと……練習?」

「なかなか筋がいいだろ、ひひっ」

ずっと様子を見ていたつうが笑った。

「つうさん、困るよ。陽向、いくら何でも真人間を前線には出さねえからな」

そう言われても、つうにも言ったがそんな戦闘力陽向にはない。

「何が起きる変わらないんだ、護身用だよ。使えるなら持ってた方がいい」

「……そんなに使えそうですか?」

密草は疑わしげだが、陽向とて対面の戦いなど木刀での模擬戦が精々だ。久しぶりに振った真剣の重量は木刀に近い。河野もそれを見越して竹刀ではなく木刀を使わせたのだと思う。

「筋がいいって言ったろ。だが、太刀筋が素直すぎるね。実戦させれば化けそうだけど」

しわしわの顎を撫でながら、つうがふむふむ言っている。

「実戦は無理ですって」

顔の前でぶんぶん手を振って否定したけれど見事に無視された。

「それはそうと。怪我人の具合はどうだい?」

陽向も気になっていた事柄だ。手を切らないように鞘に納刀して密草に向き直る。

「ひとまず全員大丈夫だ。警察のお二人さんは軽い火傷。痕は残るかもだが、目立つ場所じゃねえから問題ないだろ。剣持はちと危なかったが、持ち直した。あれで妖憑きだからな。あの回復力なら後はほっといても大丈夫だ。人間と違って痕もなく治るだろうよ」

会議室に飛び込んできた春日野の様子からただならぬ状況だとは思ったが、相当切迫していたらしい。密草の報告に胸を撫で下ろした陽向だが、密草は「だがな」と渋い顔で続けた。

「数日は動かせん。奴はうちの前衛担当だ。応援要請はしたが、本部が別件でも揉めてるらしくてな。こっちにすぐ回せる人員はないそうだ。ていよく断られたとも言う」

肩を竦めた密草の眉間の皺が不快感を物語っている。

「そっちにはもう一人前線張れる奴がいるだろって遠回しに言われて春日野が頭抱えてたぞ」

「けど、セリナは――」

その一人に思い当たって陽向が彼女の不調を伝えようとしたとき、会議室のドアが開いた。赤みの強い髪が揺れる。

「大丈夫、出れます」

密草の後ろで毅然と言い放ったセリナはいつもの無表情に戻っていた。妖気も安定している。

「密草さん、一件目の現場に行かせてください。私は、あそこを知ってるかもしれない」

「……な」

二の句を継げず、密草が口をぱくぱくさせる。

「ま、待て。せめて春日野に……いや、でもあいつも寺尾たちと合流しに行ったし。安定したとはいえ俺が今の剣持から離れるわけにもいかねえし……」

「じゃ、車はあたしが回そうかね」

座った状態で足も付いていないつうが椅子から飛び降りた。「え」と思わず口を突いて出た困惑する陽向の目の前で、灰褐色の頭の上に刺さっていたかんざしを引き抜く。団子になっていた髪が背に落ちると同時に、つうの背がぐんと伸びた。

「そんなに驚くもんでもないだろ。妖なんかこんなんさ」

さっきまで腰の曲がった小さな老婆が、長身のすらりとした老婆になっていた。立ち居振る舞いだけはしゃんとした、けれど老婆である。

「つうさん!」

密草が叱咤の声を飛ばすが、つうは気にも留めずに陽向を見る。

「あんたも来な。隠蔽術式要員は必要だろ。あと、あたしに戦闘能力なんかないからね。近くまで送るだけだよ」

行くのは止めなくてはいけないが、その大義名分が見つからないのかぶつぶつ言っている密草の後ろでセリナが頭を下げた。それが自分に対する同行の懇願だと気付いて、陽向はつうに頷いた。

「わかりました、行きます」

「陽向、お前まで!」

密草が悲鳴みたいに叫ぶ。申し訳ないが、事情が事情だ。動ける者が捜査すべきなのは道理だろう。被害者に次いで怪我人が出ているなら急いだほうがいい。

「剣持さんが襲われたのも、同じ犯人なんですよね」

陽向は密草に確認する。密草は天井を仰いで「あー」と声を出した。

「被害者の友人に話を聞いている最中に襲撃されたそうだ。警察の二人に確認したが、その人も茶髪の女だったそうだ」

詳しい状況はまだ聞けていない、と密草は言う。

「だからこそ、セリナを外に出すのは俺は反対だ」

セリナがぐっと拳を握ったのが見えた。妖気が揺らめく。ほっておいたら勝手に飛び出していきそうで、陽向は気が気でない。

「――じゃあ、セリナを囮に使おう」

睨み合う密草とセリナに割って入ったのは春日野だった。くたびれた様子でドアの淵に寄りかかる春日野は盛大に溜息を吐く。

課長おれの指示なら文句ないだろ、密草」

「……それは」

あまりに投げやりに見える春日野に、陽向も刮目する。剣持の負傷が余程応えたのか、普段は優し気な焦げ茶の瞳に怒りが籠っている。

「寺尾と落合も同行する。総力戦だ。セリナを囮に、奴を引きずり出す」

その怒りが殺意にまで高まっていて、陽向の背に冷たいものが流れた。春日野の目ははまっすぐに陽向に向けられている。

「陽向、子龍をつれて行ってくれ。相手は炎だから。水を使える子龍なら弱点を突ける」

確かに、駄菓子屋での火災は子龍が消し止めた。子龍の水は今回の相手に有効だ。

 春日野が身を翻して会議室を後にする。それにセリナが続いて、つうも追随する。会議室の机で寝ていた子龍を起こして抱き上げて、小走りに後を追う陽向を密草が呼び止めた。

「陽向、すまんが春日野の奴相当血が上ってやがる」

見ればわかるので頷いておく。一人称まで変わる激昂状態だ。

「ああなると暴走しかねないから、寺尾と一緒に見張ってくれ。術師なのに自分で突撃しかねねぇ」

「えぇ……?」

これまでの春日野の印象と噛み合わず一歩後退った陽向を密草が追いすがる。

「いいか、もし犯人に遭ったら何してでも春日野を止めろ。戦闘はセリナとかに任せればいいから」

密草は至って真剣だ。とんでもない役割を任されている気がする。

「ど、努力します……」

そう言うのが精一杯だった。


   〇


 夕暮れの道を二台の車が行く。日はすでに落ちたが、空にはまだ赤が残っている。前の車には春日野と落合、寺尾が乗っている。運転手は寺尾だ。出発前に運転席に乗り込もうとした春日野を寺尾がさらっと止めていた。きっとなりふり構わない運転をやりかねないのだろう。寺尾の運転だから、常識的な速度で車は進んでいる。

「解除術式、教えてもらい損ねたね」

その後ろを追う危なげないハンドルさばきを見せるのは背が伸びたつうだ。停車時にも全く震動しない見事なブレーキ裁きである。

「帰ったらで間に合うといいんですけど」

助手席で陽向は地図を広げる。スマホで見ればいいのだが、こちらの住宅地図の方が詳しいので念のためコピーを持ってきた。近隣の家主名まで載っているから、何かの役に立つかと思った。

「そんな状況に陥らないことを祈るしかないね」

いざとなったら春日野に聞けばいいとも思うが、あの状態の春日野が冷静に教えてくれるだろうか。不安がよぎる。

「それより、結界術を準備しときな。接近に気付くとしたらあんただろ」

「……そうですね」

懸念すべきは彼らが妖気を隠す手段を持っている可能性だ。駄菓子屋の時も突然現れた。あの一つ目と同じだ。全力で警戒すれば感知できるのだろうか。探った限り、今まで通った道に駄菓子屋で感じた妖気はない。手を開いたり閉じたりして感覚を高めていたら、車が停まった。

「この辺かい?」

前の車が停まったからつうも停車したようだ。陽向の記憶している一件目の現場はこの道の奥だ。前の車から春日野たちが降りてくる。

「あたしはここで待ってるよ。気を付けてな」

「はい。ありがとうございます」


 五人で少し歩いた先に、目的の駐車場はあった。

 地図で見た通り、閑静な住宅街の中に忽然と平坦な場所が現れて、陽向は違和感を覚えずにいられなかった。

 例えばこれが月極駐車所だったらここまでの違和感は抱かなかっただろう。だが、付近に商業施設も公共施設も存在しない場所に時間制の有料駐車場の看板は異質だ。出入りを自動で管理する機械さえ異様に見える。

 現に需要に見合っていないのか、利用者もいなかった。車が一台も停まっていない。がらんどうの駐車場。

 思わず周囲を見渡す。そうしたところで周囲に不審な妖気はない。

「……こちらの探知機に反応はないけど」

春日野がスマホを掲げてぐるりと回った。陽向を正面にして止まる。

「居ないですね。……隠れてなければ」

油断なく周囲を窺う。ほんの少しでも漏れだしたら気付けるように。

 慎重に辺りを探る陽向と対照的に、セリナはキョロキョロと忙しなく顔を動かしていた。数歩歩いては周辺の景色を確認している。やがておもむろに歩き出した。

「セリナ?」

フラフラと何かに引かれるように移動し始めたセリナを春日野が追いかけて、他の面々も続く。

「角を曲がって、ゾウ公園」

すぐそこの十字路で立ち止まったセリナが小さく呟いた。全員で覗くと確かに家の途切れる一角が見えた。陽向が地図上で覚えている限りで、小さい子が遊ぶくらいにはよさそうな狭い公園があるはずだ。

 交互に設置された鉄柵で入口を仕切られた公園の中央に砂場がある。印象的な小さなゾウのオブジェが真ん中に設置されていた。

 誰もいない公園で、ゾウの正面にセリナが屈む。頭にそっと手を乗せた。

「……やっぱり、ここだった」

ひとりごとなのか、セリナの呟きは後ろで見守る陽向にギリギリ聞こえる程度の音量しかない。小さな背中にかける言葉が見つからず諮詢している間に彼女が立ち上がって振り向いた。

「春日野さん、私――」

逆光に照らされて表情の見えないセリナが何かを言いかけた瞬間。

陽向の背筋が粟立った。

「急々如律令!!」

ほとんど反射的に振り返った背後に結界を張る。それが何かを認識する前に、結界にぶち当たる衝撃があった。えた臭いが鼻を突く。

「っ!?」

ボールをぶつけられた程度の衝撃だが、反射した黒い影が空中でくるりと回って着地した。四つ足の獣。獣がぶつかった結界に黒い粘着質な液体が付着して滴っていた。ガラスに腐った果実でも投げつけられたような有様だ。途端、結界を侵食される感触に陽向は慌てて結界を解除する。くっついていた液体が地面に落ちる。

「何が……」

「気ぃ抜くんじゃねえ馬鹿!」

不快感から防御を放棄した陽向の前に落合が割って入る。再度飛びかかろうとしていた獣が落合を警戒したのかじりと下がった。

「……犬?」

落合の背越しに抱いた第一印象を陽向は呟く。

「違うな」

即座に落合が否定した。犬にしては細身の体躯に、胴体の長さにも匹敵しそうなたっぷりした尾。実物を見るのは初めてだ。住宅街にいるような獣ではない。

「狐?」

「だな」

落合が結界術を構えている。飛びかかってきたらすぐに発動できるように。こちらを威嚇する狐からはどす黒い妖気が漂っている。穢れている。

「陽向、下がってろ。……全員、引き付けろ。飛びかかられた奴が結界を発動。それ以外が捕縛術を使え。セリナ、仕留めろ。絶対に逃がすな」

春日野が陽向の肩をつかんで物理的に下がらせる。指示された落合と寺尾、春日野の三人で狐を取り囲んだ。三方からじわじわと距離を詰める。春日野の後ろでセリナがゆっくりと抜刀した。

 攻撃担当と対象から明確に外されたことで陽向はようやく冷静に狐を視る。この違和感は何だろう。初手で湧いた不快感は穢れた妖気を感じ取ったせいだと思うが、それだけではないと本能が警鐘を鳴らす。

 意識を集中させる。狐ではない、妖気を視ろ。何かおかしい。

 その妖気がほんのわずかに霞んでいることに陽向が気付いたのと、狐が地面を蹴るのが同時。

 陽向が違和感の正体に戦慄している間に、狐は飛びかかった落合の結界に阻まれた。着地したところに光る紐が伸びてくる。寺尾と春日野の放った術だ。ぐるりと狐の胴に巻き付く。

「やれ、セリナ!」

「はっ!」

何の躊躇いもなく、振り抜かれた刀身が黒い毛に包まれた首に吸い込まれた。いとも簡単に頭部が跳ね跳んでぼとりと落ちる。痙攣する首無しの胴体を縛る紐が消えた。どさりと音を立てて地面に斃れる。

「はっ、あっけねえ!」

落合が拳を振り上げる。その背の向こうで狐の細い足がぴくんと跳ねた。

「ダメです、まだだ!!」

地を這う妖気が獲物を狙う蛇のようにやってくる。背筋を伝う嫌悪感を無理やり押さえつけて、陽向は一歩を踏み出した。考えるより先に指が結界術を刻んでいた。

「え?」

呆けた表情で振り返った落合に、黒い玉が飛んできた。白い煌めきが見えて、それがずらりと並んだ牙だと気が付いて、陽向は中途半端を承知で結界術を発動させる。

「急々如律令!」

間に合え、と願ったもののやはり組み立てている途中では強度が足りなかった。それが痛いほどわかる。血のように赤い舌が舐めて、刃のごとく突き立てられた牙が不完全な結界をあっけなく割る。その先には落合の腕がある。

「この野郎!」

だが、その一瞬が時間を作った。落合が放った光る紐が狐の切断された頭部を打ち払って落下する。再び地に落ちた頭部に銀の刀身が突き刺さった。太刀を逆手に持ち替えたセリナだ。

「セリナ、そのままそっち止めといて!」

「は、はい!?」

疑問符はついているけれど、それで了承だと陽向は判断した。

「春日野さん、本体は――」

言いかけた陽向の前に春日野が滑り込んだ。

「急々如律令」

素早く術式を組み立てて、結界壁が出現する。格子状に霊力の走る結界が白に染まった。それが灼熱の閃光であることに遅れて気付く。

「っ、子龍!」

「ぴ!」

陽向が呼んだだけで子龍が即座に反応した。力の吸い出される感触。

「子龍、結界の上からだ」

春日野の指示が聞こえた。春日野の陰で、陽向はようやく明るさに目が慣れてくる。

「ぴ」

「もうちょい上」

春日野の結界の範囲から出なければ攻撃はできない。飛び上がった子龍の妖気が結界壁より上空へ行くのを確認して、陽向は叫んだ。

「そこだ、やれ!」

「ぴいっ!」

水流が上空から降り注ぐ。春日野の結界壁が揺れた。地面に当たった水がこちらまで流れているのだ。

「……な」

治まった水流の向こうで、黒い毛並みから水を滴らせながらも立ち上がったそれを見て春日野が絶句する。首のない狐の胴体が露出した肉をこちらへ向けていた。切断面から白い骨が見える。

「あっちが本体です」

吐き気を堪えて陽向はさっき途中で止まってしまった真相をやっと告げる。はあの中に居る。

「春日野さん、あいつの動き止められますか?」

「陽向、何を……」

胴体から目を離さず、春日野が訊ねてくる。だが、説明している場合ではないと思ったのか彼はすぐに切り替えた。

「……わかった。動きを止めるだけでいいかい?」

「はい。できればお腹丸出しにしてもらえると助かります」

落ち着け。浅くなっていた呼吸を整える。河野の教えを思い出す。焦ってはいけない。動きをよく見ろ。機会を逃すな。

 春日野が光る紐の術式を編み始めるのを感じながら、陽向はタイミングを計る。左手の親指が慎重に鯉口を切った。

 頭部がなくなっているから声もなく狐が跳ねた。宙に浮いたその身体に、春日野が光る紐を放つ。数本一度に飛びかかって、体を締め付けて仰向けに地面に叩きつける。暴れる四肢にも紐が巻き付いた。毛に包まれた腹部が荒々しく上下する。

「ここだ!」

急いで駆け寄った陽向は、生臭く柔らかそうな腹に狙いを定めて切っ先を突き立てた。かつて虎の妖に太刀を刺したように、何の抵抗もなく吸い込まれていく。骨に当たらなかったのは偶然だろう。だが、骨ではない確かな手ごたえを感じた。這い上る悪寒を堪えて、さらに妖気の爆発的な高まりを感じ取って慌てて刀を引き抜く。

「わっ!?」

たたらを踏みながらも後退したことで間に合った。直後、火柱が上がる。あのまま傍にいたら巻き込まれただろう。

 炎は数秒燃えて、やがて燃え尽きた。後には黒い小さな灰だけが残されている。それも風に吹かれて消えた。

「今度こそ、斃したか?」

「……はい。こっちは」

周囲の妖気を慎重に探りなおして、陽向は告げる。警戒は解けないが、ひとまず大丈夫だろう。最も懸念しなければならないほんのわずかな妖気も今は付近にない。

「こっちは?」

首を捻った春日野に陽向は頷く。狐の頭を刺し貫いているセリナのところへ急ぐ。

「これ、どうすれば……」

こんなにオロオロしているセリナを初めて見た気がする。まるで意図せず害虫を捕まえてしまった女子のような反応だが、捕まえているモノは未だにびちびち動く狐の頭だ。陽向だって引く。太刀に貫かれた頭部はまだセリナに噛みつこうと口を開け閉めしていた。見るからに気色悪い。

「えっと、ちょっと待ってくれ」

あまりに気持ち悪いのでちょっと現実逃避してしまった。はたして陽向の力量で頭蓋骨まで切り裂けるだろうか。――無理だ。無理なので確実に賭けることにした。抜いた刀を逆手に構えたまま、陽向はセリナに訊ねる。

「こいつ燃やせる?」

「……え?」

ちょっと嫌そうな顔をしたけれど、それでもセリナは手を黒い毛に埋もれさせた。何も素手で触らなくても、と陽向が止めるより先に火が付いた。

「……出た!」

焚火みたいに燃える頭部から出てきた陰に向かって切っ先を落とす。地面に突き刺さるまで力任せに押し込んだ。

 捕えた獣を春日野が覗き込む。陽向の刺したものは小さな獣だった。長さ二十センチほど。素早いから焦ったが、ちゃんと仕留められたようだ。痙攣しているが動かない。妖気の様子から絶命したと陽向はわかる。

 気は進まないけれど何かは確認しておかなければならない。刺した刀から手を放して、陽向は震える手で苦労しながらスマホのライトをつける。日が落ちてしまったから公園の街灯だけでは暗くてよく見えない。

 照らされた姿に、隣で春日野が息を呑んだ。

 異様なのはその細さだ。毛が生えているから獣だとわかるが、姿形だけ見れば蛇とも間違えそうだ。細長い。顔の付近に前足だけが小さく二つ生えていた。後ろ足はなく、蛇の尻尾のように胴体が細長く伸びている。

「何だ、これ……」

春日野も首を捻っている。見たことのない妖らしい。

「……顔は狐ですね」

あんまり直視したくないので陽向は薄目で観察する。

「まあ、サンプルとしてとっておくか……。陽向、これ完全に死んでる?」

肯定すると春日野は持っていた麻袋から木箱を出した。何やら複雑な術式が見えるが、現状の陽向では何の意味があるのか解析できない。たぶん封印とかそういう類の術だろうと予想はつくけれど。

不審な妖の死体を春日野が木箱にしまっていると、どさりと音がした。

「!」

音に驚いてそちらを見ると、舗装していていない公園の地面に落合が倒れていた。寺尾が慌てて駆け寄るところだった。

「落合君!?どうしたの、しっかりして!?」

倒れた落合を寺尾が抱き起す。落合は両目を固く瞑って歯を食いしばっている。左手を抑えていた。

「落合さん、何が……っ!?」

つけっぱなしだったスマホのライトで落合を照らした陽向は視界に飛び込んだ赤に怯んだ。落合が素早く懐から金具のついた紐を取り出す。

「陽向君、そのまま照らしてて」

「は、はい」

獲り落としそうになったスマホを慌てて両手で支えて、陽向は寺尾の手元にライトを向ける。白色の明かりに浮かび上がる落合の腕から血がしたたり落ちる。それが丁度狐の頭が噛みつこうとしていた箇所だと気付いて、陽向は歯噛みする。やはり間に合っていなかったらしい。噛みつかれこそしなかったものの、牙の先端でも引っかかったのかもしれない。

「……穢れた妖気に当てられてる。春日野君、浄化術式を」

「うん、了解!」

傷口は手首近くだが、寺尾は上腕を紐で固く縛る。傷口の上で春日野が術を組んだ。

「陽向、周囲の警戒!いま襲われたら拙い」

春日野に鋭く言われて、陽向は落合から目を離した。明かりを提供するスマホだけは動かさないように気を付ける。見渡した目が落合の手当てをする二人を不安げに見つめるセリナとぶつかった。剣持が負傷したと聞いたときと同じ表情だ。

「……大丈夫だ」

その妖気が不安的に揺れたのを感じ取って、陽向は小さく呟いた。それでも聞こえたのか、セリナが目を見開く。根拠がないわけではない。

「今の春日野さんの術で、落合さんに憑いてた妖気が消えた。だから、大丈夫だ」

視界の端で春日野がこちらを見上げたのがわかった。怪我の程度はわからないが、少なくとも落合を侵食していた妖気は綺麗に祓われている。その証拠に落合の眉間から少しだけ力が抜けていた。

「……戻ろう。落合を密草に診せたい。この妖のことも調べないと」

春日野が落合を背負って立ち上がる。大の男一人を軽々と持ち上げた春日野は、見た目よりも力があるのかもしれない。

 眼鏡の奥で春日野の切れ長の瞳がちらりと陽向を見た。声には出さないが、「詳しく説明してもらうよ」と雄弁に語っている。戦闘中の混乱状態だったので陽向もわかったこと全てを説明しきれたわけではない。話さなければならないことは山ほどある。


   〇


 派手な出血ではあったが、落合の怪我はそこまで大事にはならなかったそうだ。疲れ切った顔で会議室に現れた密草が教えてくれた。今は発熱しているので寝かせたらしい。寺尾が付き添ってくれていると言う。

 前髪を掻き上げて、春日野が机に肘をついた腕の上に頭を乗せる。安堵だけではない複雑な気持ちを込めた一息に肩が上下した。

「密草、一仕事の後で悪いがこのまま同席してくれ」

顔を上げずに春日野が乞う。密草は何も言わずにパイプ椅子を引いた。その音で了承の意は通じただろう。

「陽向、続けて」

とても話を聞く体勢ではないと思うが、情報共有は早い方がいいだろう。陽向はどこまで話したかを思い出す。公園で襲いかかってきた狐の姿が脳裏に浮かんだ。


 最初から妖気に違和感があった。

 駐車場から公園まで、付近を移動していた妖気がいくつかあることに陽向は既に気付いていた。だが、妖など珍しい存在ではない。普段の生活圏と大差ない妖気量だったから見逃した。一つ一つ報告していたらキリがないというのが一番の理由だ。

 襲撃してきた狐のような穢れた妖気があれば陽向とて真っ先に報告しただろう。だが、あのとき近くにあった妖気にその兆候はなかった。――突然現れたのだ。

 だが、一つ目のときとは明確に違った。それまで近くに居た一つの弱々しい妖気が一気に変質したのである。

「変わったのはその一つでした。だけど」

違う。その妖気そのものが変わったのではない。その違和感の正体は対峙してじっくりと観察して初めて明らかになった。

「死体に、取り憑いていたんです」

嫌悪感を噛み締めて絞り出した結論に春日野が顔を上げた。無言だが、瞳の奥で怒りが燃えているのがわかった。その目が先を促すので、陽向は生唾を呑んで続ける。

「中に居たのがその小さい妖です。最初の一匹がそれ。頭の方に入ってた奴です」

妖気が二つ重なっていたのだ。中の妖の妖気も弱いから気付くのに時間がかかった。死体の妖気なのか取り憑いた妖の妖気なのか判別できなかった、というのが陽向の言い訳である。

「それで、首を飛ばした後にもう一匹やってきました。胴体と首が別々に動いたのはそれが理由です」

それぞれに春日野の前に置かれた箱に入った小さな狐が入り込んだのである。後はそれぞれ中に居るものを刀で刺し、頭部を燃やして炙り出した。胴体に居た方が発火したのは最後の抵抗だったのだろう。陽向からは自爆に見えた。

「こいつは……」

密草が箱を覗き込む。彼はずっと剣持や落合の治療で離れていたから、小さな狐を見るのは初めてだ。

「――管狐くだぎつね

思わぬ方向から答えが返ってきて、全員が声を発した少女に視線を集める。炎の色をした瞳がそっと瞼に隠れた。注目を浴びながら、セリナは続けた。

「だと思います」

「なるほど、管狐か……」

春日野が天井を仰いだ。密草も納得した風に頷いている。

「あの、管狐って……」

一応陽向も聞いたことくらいはある。その手のオカルト本には大抵載っている狐の妖の一種だ。

「細長い体で何処にでも入り込む狐の妖だよ。陽向が言ったように生き物に取り憑いて行動を操ったりする。――死体を操ってるのは初めて聞いたけどね」

一通り説明してから春日野は「だが」と眉根を寄せた。

「管狐は人が飼う妖だ。厄介だな」

「犯人が人間ってことですか?」

陽向の予想を春日野が頷くことで認める。

「細長い容れ物で飼うんだよ。増やして使役する妖だ。使っている人間がいる」

それは陽向が思う限りで最悪の状況だ。公園での襲撃からして、容れ物に入っている状態の管狐の妖気を陽向は感知できない。使役しているのが人間ならば、妖気などない。つまり奇襲を許すことになる。

「……」

これまでにない事態に陽向が瞑目する間に、春日野はセリナに訊ねた。

「それで、セリナは何を知っているのかな」

問われてセリナが目を伏せる。駐車場の場所も、公園の場所も、小さな妖の正体が管狐であることも。彼女が遠からぬ関係者であることを、この場にいる誰もが確信している。

 春日野の鋭い視線に気おされたのか、それでもセリナは目を泳がせてから口を開いた。

「狙いは、私だと思います」

絞り出された声は震えていた。

「どうしてそう思う?」

さらに問いかける春日野にいつもの優しさはない。

「……昔、住んでました」

決意を固めたのか、セリナは真っ直ぐに春日野を見返した。

「あそこに、住んでました。父さんと、母さんが死ぬまで」

「!」

春日野が目を見開く。

「……例の事件か」

「はい」

春日野には思い当たることがあったようだが、陽向には何のことかさっぱりわからない。密草を窺えば彼も「あれかー」と呟いていた。どうやら陽向だけが話に取り残されている。

 詳しく問いかけようとして、陽向は口を噤んだ。セリナの顔は苦痛に歪んでいる。彼女の両親が他界していることも初耳だが、それに関わるならつらい過去であろうことは容易に予想できる。無言で春日野に目配せすれば、彼も頷いた。

「わかった。今日はここまでだ、明日にしよう」

春日野が手を打って、会議の終了を告げた。

「セリナ、こちらで君の実家に問い合わせても構わないね」

「……はい」

退室際、春日野はセリナに了承を得る。着物の脇でセリナに見えないように手招きしているのが陽向からは見えて、小走りに駆け寄った。

「陽向、ないと思うけどセリナが朝までに事務所から出たら教えてね」

「え、……はい」

そんな、暗に行動を縛るようなことをと躊躇ったが、春日野は有無を言わさぬ目をしていた。口元は笑っているけれど、目が直進で射貫いてくる。ので、折れた。セリナにも聞こえるように言っているので、彼女への牽制が主だろう。陽向だって、今の状態のセリナを一人で行かせる気はない。


 二階の廊下にセリナが消えるのを見送ってから、春日野は陽向をもう一度一階へ連れ戻した。

「悪いね、皆で戻るって言わないとあの子たぶん動かないから」

ちなみに密草は医院の方へ戻っている。寺尾と交代して怪我人たちの看病をするそうだ。

「察しがよくて助かるよ。あの場であの子の過去に触れないでいてくれたのは英断だ」

安易に触れたら妖気が爆発しそうで怖かったとは今更言えない陽向である。あのときすでに、剣持の負傷を聞かされたときと同じくらいの揺らぎっぷりだった。

「ごはんでも食べようか。お腹すいたでしょ」

春日野が笑顔で誘ってくれるけれど、正直あまり食欲はない。死体とはいえ動く生き物の腹に刃物を突き刺した感触は未だに掌に残っているし、死体の腐敗する臭いが鼻の奥にこべりついている。けれど、この場合の誘いは食事だけではなさそうだ。

 陽向は頷いて食堂に足を向けることで了承の意思を示す。

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