第三章 火災捜査

 有料パーキングに車を停めて、春日野は剣持と共に住宅街へと足を踏み入れた。

 天巳市の駅北に集中する商店街とは対照的に、駅南は閑静な住宅街だ。近頃の駅前再開発に伴い、急速に住民が流入した。天巳市の中でも地価が高騰している地区である。

 比較的新しい住宅が並ぶ街並みに取り残されるようにして、その事務所はあった。

 現場の様子は写真で見たそのままだった。保存のためか、手付かずの様子だ。一見しただけでは古びた雑貨店だが、『しばらくお休みします』の張り紙がガラス戸に貼られていた。慌てて貼ったのか、角の一つが剥がれている。

「こんにちは、ご苦労様です」

その店の横、上へ続く階段の前に佇んでいた二人組の男性に、春日野は軽く片手を挙げて挨拶する。

「おう、来たか」

「こんにちは、今回はよろしくお願いします!」

短く応じた中年の男性と、ハキハキと頭を下げる青年。見知った顔なので春日野は相好を崩す。

「こちらこそ。遠藤さん、本間さん」

「今回の間違いだ、本間」

律儀に訂正した遠藤につい笑みがこぼれる。殺人現場でする表情ではないと、春日野は気を引き締めた。

「早速ですが」

本間が警察手帳を開いて階段を見上げた。

「こちらが現場です。警察の捜査は済んでいますので、いろいろ触ってもらって構いません」

後はもう管理局の捜査を待つだけなのだそうだ。通常の事件での扱いを春日野は知らないが、怪異案件になった事件現場の扱いはこの程度が普通だ。妖を始めとする怪異を日常に生きる人間が検証するには限度がある。故に、管理局が捜査をして問題なければ民事へと移る。通常の犯人未逮捕の現場ではこうは行かないだろう。

「中を見せていただきます」

二人の警官が神妙に頷くのを見届けてから、春日野は階段に足をかけた。


 上まで到達するのにそう時間はかからない。踊り場で折り返してすぐ、黒焦げの廊下が見えてきた。

「あそこですね」

「えぇ」

後ろからついてくる遠藤が答えた。声から忌避感が伝わってくる。警官と言えど、そう何度も立ち入りたい場所ではないはすだ。事務所と外を隔てていた鉄製の扉は、内側に向けて開け放たれていた。意を決して中を覗き込む。

「……こちらで」

「えぇ、遺体となって発見されました」

事務所の床が一際黒ずんでいる。その焦げ跡に人の形を見出しそうになり、春日野は思わず目を閉じた。両手をそっと合わせる。口の中で成仏を祈る真言を唱える。彼女の宗教も宗派もわからないが、少しでも救いになればと信じて。

「春日野さんだからお話しますが、霊体化はしていません」

「みたいですね」

十秒ほどの黙祷を経て、タイミングを見計らったのか遠藤が囁き声で言った。春日野も事務所をひとしきり見渡して結論付ける。

 強い執念を遺した人間の魂が妖となることがある。いわゆる幽霊だが、幸いにもこの現場には居ない。

「実家の方にも居ませんでした。無事に成仏できたことを祈りたいですが」

本間が溜息混じりに目を伏せる。

 幽霊は生前執着していた場所に居ることが多い。よほど思い入れのある場所を除けば、死に場所か自宅がほとんどだ。今回はそのどちらにも居ない。

「……陽向ならそれもわかるのかな」

未成年にはあまり関わらせたくない事件だったから事務所に置いてきたが、妖気を判別できる彼ならば坂谷が幽霊にまで変化していれば痕跡の一つくらい辿れるかもしれない。一人呟いた春日野を少し低い目線から本間が不思議そうに見上げた。

「何か?」

「いえ、こちらの話です」

さらっと誤魔化して、春日野は事務所の奥へと進む。本間と遠藤がついてきた。剣持は事務所の入口に立っている。

「意外と燃え残っていますね」

そこまで広い事務所ではない。机の数も二十はないだろう。

「コンクリート造ですからね。小さい会社で、ほぼデジタル処理でしたから紙類もなく。要は燃料がほぼないんですよ」

燃えたのは一番燃えている場所の付近にあったメモ帳や従業員のものと思しき敷物くらいだ、と遠藤が説明してくれる。死者が出ている割に燃え方が少ないのは延焼しなかったのが大きな理由の一つだが。

「怪異だからでしょうな」

遠藤が溜息混じりに溢した。黒ずんではいるが燃え滓までにはなっていない金属製のデスクに軽く触れる。

「燃やす目的に意思が感じられる。ただの殺人目的の放火とも違う。火そのものが意思を持って彼女を殺したとしか思えない燃え方だ」

「……」

同じ燃え方に心当たりのある春日野はそっと目を伏せた。目的のものを燃焼する、意思ある炎。無意識化と悪意の差はあれど、これではまるで――。

「炎を操る怪異、思い当たるモノはいくつかありますが……」

「ええ、炎の怪異は妖でもメジャーですから。名前を持つ種族でも該当するものは多く居ます」

遠藤の目線がやけに粘っこく見えて、春日野は振り払うようにかぶりを振る。

「では、妖気の調査から始めますね」

気を取り直して春日野はスマホを開く。管理局謹製、妖気探知機だ。尤も妖気のあるなしと種族的な違いしか判定できないけれど。

「やはり反応がありますね」

画面に並んだ解析結果を眺めて唸る。

「追跡とかはできますか?」

興味深そうに覗き込んで本間が問う。

「残念ながら。これはここに妖気があるってくらいしかわかりませんから」

「それだけで充分、便利なものですなぁ」

後ろで見ていた遠藤も感心している。

「まだ試作段階ですけど、本部には報告してるんで。認証が降りたら各希望部署に配信されると思いますよ」

これを開発したのは春日野が引き抜いた部下だ。古い組織である管理局は未だアナログな面が強い。大抵のことが術式で可能なのでデジタルへ目を向ける必要がないのだ。彼も春日野が抜擢するまで十分な開発環境がなく腐っていたタイプなので、水を得た魚のように次々とアプリ開発を行っている。

「こうして視覚化できるのはありがたいですな。術式だとこうはいかん」

地図アプリと重ねた異界探知機の解説を嬉々としてしたら遠藤と本間が思ったより食いついた。開発者が邪険にされていた頃を知っている春日野としては感無量である。

「管理局にも来ますかね、デジタル化の波」

若い世代の本間は特に大喜びだ。

「認証降りたら教えてください!あ、これ連絡先っす」

「それを伝えられるの、まず俺だと思うが?」

本間の差し出す名刺は一応受け取っておく。確約はできないが、二人にはできるだけ早くダウンロードできるように計らうつもりだ。警察という外部に所属する彼らには管理局の情報は届きにくい。


「妖気の他にこちらに犯人に繋がる遺留品はありましたか?」

火元付近の物品は警察が押収したのか、炭になった燃え滓くらいしか残っていない。

「いいえ。捜査資料でもお渡ししましたが、この事務所に元からあったものと被害者の私物しか発見されていません。従業員と家族に念入りに確認したので間違いないと思います」

本間が警察手帳をめくりながら教えてくれる。

「ということは、防犯カメラの女は本当に身一つで現れて被害者に火を付けたということか」

遠藤がうーむと腕を組む。防犯カメラでも女性は手ぶらだった。身に着けていたのもこの季節にしては簡素なワンピースで、ポケットに入る小物くらいしか持ち込めないだろう。

「火がその女性の能力ならば、そもそも着火装置などいりません。荷物などなくても被害者を燃やすことは容易でしょうから」

言って春日野は人型をした燃え跡を睨む。

「犯人は明らかに坂谷さんを狙っている。彼女のことを調べた方がよさそうですね。ご家族や親しい方から話を伺えますか?」

事件解決を急ぐなら避けて通れない道だ。だが、遠藤は渋い顔で眉を寄せる。

「会社の同僚になら。ご家族はすんません。警察が話を聞くだけで精一杯でして。捜査資料はお見せしますからそれで勘弁願えませんか」

「わかりました」

事前にもらった捜査資料を春日野は思い出す。坂谷は一人娘だったはずだ。まだ若い彼女を失った家族の悲痛を思えば強要はできない。

「社員の方に連絡してみます、しばらくお待ちください」

本間がスマホを手に事務所から出て行くのを剣持が横にずれて道を譲る。見送った春日野の耳に本間の「え?」という声が届いた。

「課長」

鋭く言って、剣持が身を翻す。

「お、おい……」

片手を挙げかけた遠藤を放置して、春日野も駆け出した。剣持が注意を促したということは、明確な危機だ。

「本間さん、大丈夫ですか!?」

事務所を飛び出した春日野の目に階段の階下に燃え上がる深紅の炎が焼き付いた。

「っ!?」

熱気が顔を焼いて、咄嗟に腕で庇う。一気に上がった光度に、視界が白くなった。

「課長、結界を」

存外冷静な剣持の声が聞こえる。ようやく慣れてきた視界の目の間に剣持の厳つい背中があった。

「き、急々如律令!」

霊符を出す暇が惜しい。空中に自身の霊力で術式陣を描きだし、即発動させる。剣持の前に結界の壁が立ち上がった。直後、炎がぶつかる衝撃。

「俺が合図したら解いてください」

「あ、ああ」

前に剣持の体と結界があることで少しだが熱波が抑えられた。剣持が棍棒を構えるのに合わせて春日野は彼の指示を待つ。廊下の幅いっぱいに貼った結界に炎の塊がぶつかっていた。その勢いが徐々に衰える。目視でも直接結界に当たる抵抗を体感している春日野にはわかる。

「課長」

「おう!」

春日野が読んだのと同じタイミングだった。即座に結界を解除し、それを待たずに剣持が駆け出す。突き出した棍棒が炎の塊を貫いた。


 しばらく剣持の棍棒で松明のように燃えていた火の玉が燃え尽きる。

「……これは、何かの生き物か?」

棍棒の先端に刺さったままの燃え滓を見て遠藤が戦々恐々と呟く。ねずみいたちのような小動物に見える。それをスマホで撮影してから、春日野はその場を見渡した。

「全員、怪我は?」

「だ、大丈夫です。助けて頂いたので」

座り込んだままの本間が溜息を吐いた。少し髪が焦げている気もするが、大きな怪我はなさそうだ。

「剣持は?火傷とかしてないか?」

「問題ないです」

剣持が棍棒に刺さった生き物の残骸を足を使って引き抜く。剣持が足で強く触れただけで、炭化していたのかボロボロと崩れた。

「も、問題なくないです!火傷してるじゃないですか!」

その様子を見ていた本間が慌てて立ち上がる。駆け寄ったのは剣持のところだ。春日野も気付かなかったが、棍棒を持っていた掌が赤くなっている。

「すぐ治る、問題ないです」

「ダメです、せめて冷やしましょう」

バタバタと階段を降りていく本間を呆然と見送っている剣持の肩に、春日野は手を乗せた。

「確かにすぐ治るだろうけど報告はちゃんとしなさい」

「……はい」

普段は朴訥としている剣持だが、今の返事には薄く不満が透けていた。


 本間はすぐに戻ってきた。近くで買ってきたのだろうか、水のペットボトルを持っている。

「近くに自販機あったんで」

そう言って広げた剣持の掌に水を灌ぐ。剣持の言った通り、火傷はすでに治りかけているようだった。それでも、本間の行為はありがたい。

「お礼、ちゃんと言っときなさいね」

こっそり耳打ちして、春日野はその場を離れる。遠藤が顔を歪めて待っていた。

「どう思う」

「僕には何とも」

春日野は肩を竦める。

「犯人を仕留めた、と言えるのはよっぽど楽観的な人だけだとは思いますけど」

スマホに残った動物の焼死体の画像を眺めて答える。「同感だ」と遠藤も賛同した。

「状況をちゃんと聞きたい。本間、話せるか?……本間?」

遠藤の呼びかけに、本間がやっと顔をあげた。体勢からして剣持の掌を凝視していたらしい。

「すごいです、本当に治りが早いんですね。あ、すみません」

慌てて剣持の手を離す。離れた剣持の掌から赤みが引いているのを見て春日野は苦笑した。妖の『混じり』である剣持の回復は早い。切り傷程度なら一瞬でふさがる。

「すみません、何の話でしたっけ?」

「お前な」

呆れた遠藤が両掌を天井に向けたことで場の空気が緩む。

「――俺が事務所の外に出たとき、火の玉が浮いてたんです」

気を取り直して、本間が当時の状況を語り始めた。

「階段の下あたりから飛んできて。そしたら剣持さんが後ろから俺を押しのけて、火の玉に向かって行きました。その後火の玉が急に膨らんで……」

本間からは爆発したように見えたそうだ。

「火の玉か。女性は見なかったんだな」

「そう言えばそうですね」

遠藤の確認に本間も納得顔で頷く。犯人と思われる女性はいなかった。火の玉だけがその場に浮いていたらしい。

「その火の玉の中身はこの動物でした」

春日野がスマホの画像を見せる。剣持の棍棒に刺さっていた小動物だ。

「それが燃えていました」

剣持も肯定する。迷いなく棍棒を突き出した彼にははっきりとこの生き物が炎の中に居ることが見えていたのだろう。

「火力も弱かったです。とても人は燃やせない」

これは春日野も感じた点だ。確かに結界で防ぐくらいには熱気も閃光もあったが、せいぜい焚火くらいだ。防犯カメラの映像のように、人一人をいきなり包むような大きな炎ではない。

「つまり、単独犯じゃなくなったわけだ」

遠藤が頭を抱える。小声だが、「あーめんどくせえ」と漏れ聞こえた。

「僕としては使い魔の線が濃いと思います」

遠藤への慰めも兼ねて春日野は考察を述べる。

「行きつく先は一人かと」

あの女性が何者かは不明だが、同じ妖気を発していた以上無関係ではない。火力の規模から言っても本体があの女性である可能性が高い。追うべき人物は一人だ。

「……当初の予定通り、会社の方にお話を伺いたいです」

手がかりが少なすぎる。使い魔であれ、火を使う妖などごまんといるのだ。春日野の申し出に、遠藤が神妙に頷いた。


   〇


 今日この地区はゴミの回収日だったはずだが、すでに収集がすんだのか寺尾が訪れた回収場所にゴミ袋は一つもなかった。真新しい烏除けの黄色い網が民家のブロック塀にかけられている。

「ここで間違いなさそうですね」

住宅地図のコピーを手に同行する落合が周囲を見渡して確認する。付近のスーパーを目標物にしてここまで来たから合っているはずだ。

「焦げ跡……とかはなさそうですね」

周りの景色からゴミ捨て場へと落合が視線を戻す。一見して不審なところはなさそうだ。注意深くしゃがんだ寺尾はブロック塀近くのアスファルトの色が違うことに気付いた。

「でもないわ。ここ、アスファルトが新しい。舗装しなおしてるわね」

「本当だ。よく気付きましたね」

色が変化している個所はほんの一部だ。普通なら劣化して開いた穴を塞いだくらいにしか思わないだろうが、ブロック塀の際である。車の轍上ならともかく、ここだけが自然劣化するとも思えない。

「たぶんだけど、ここが現場でしょうね」

事前に見てきた捜査資料を思い出す。榊原市であった四件の小火騒ぎのうち、三件目の現場だ。一件目から順番に回っているが、これと言って収穫はない。

「ここもダメっすね。時間も経ってるからか妖気感知できねえっす」

変色したアスファルトにスマホを向けていた落合がやれやれと腰を伸ばした。

「そっか。ここもダメか。前の二件と比べて日付が近いから行けるかなあと思ったんだけど」

「やっぱ連れてくるべきだったんじゃないっすか?」

半目で眼球を動かした落合の視線から逃げるように寺尾はアスファルトへ顔を向ける。

「このアプリより高性能なんでしょ、アイツ。もしかしたら名残りとかあるかも……」

「もう一件行って、それでダメだったら春日野君に打診しましょ。これ一応殺人事件だから。未成年関わらせるなら課長判断は必要だわ」

遺体が凄惨だったために、春日野は高校生の二人を事件に巻き込むのを躊躇った。それ自体は正しいと寺尾は思う。けれど早期解決を思えば二人の能力は必要だ。

「……最後の現場に行きましょう。次の現場は出火時の目撃者がいるから、捕まえられれば話を聞いてみましょうか」

「連休だから出かけてるんじゃないっすかね」

既に諦めモードで消極的な落合をひと睨みで黙らせてから、寺尾は車のドアを開けた。


 四件目も三件目と同様に出火元は収集前のゴミだ。だが、ルール違反を犯して前夜から出されたゴミ袋が早朝に燃えた三件目とは異なり、こちらは取集直前の発火である。さらにゴミ出しにやってきた近隣の女性が現場を目撃したそうだ。

 連休二日目で不在かもと訪れた彼女の家にはファミリー向けの大型車が停まっていた。窓辺のレースのカーテン越しに人影が見える。

「行ってみましょう」

落合に目配せして、寺尾はインターホンを鳴らした。

「はーい」

応じたのは大らかな女性の声。件の目撃者だろうか。

「……どちらさまでしょう?」

カメラ付きのインターホンだ。寺尾たちの様子も見えているだろう。隠蔽術式を使っているから服装に注意は向かないはずだが緊張する。

「ご近所の放火事件についてお話を伺いに参りました、警察の者です」

「あら」

嘘を吐く挙動不審を悟られないように平静を装った寺尾に対して、まったりとした返事が戻ってきた。インターホンからぱたぱたとノイズに塗れた足音が響く。

「何度もご苦労様です」

やがて外開きのドアが開いた。顔だけ覗かせたのはぽっちゃりとしたエプロン姿の中年女性である。隠蔽術式の恩恵もあり、特に不審がられてはいないようだ。

 警察を騙る不義には思うところがないではないが、黙認状態なのでよしとしてもらおう。何か問題があれば特殊係がいいように計らってくれる。

「何度もお伺いして申し訳ありません。捜査上の確認ということで、今一度詳しい話を伺えればと思いまして」

寺尾は笑顔を崩さず語りかける。さっきから隣でびくびくしている落合をどつきたくてしかたない。

「ああ、この前の火事の話ね!」

いくら捜査でも同じ話を何度も聞かれるのは不愉快だろうと思ったのは杞憂だったらしい。女性は喜色満面で手を打った。

「そりゃもう、びっくりしたのよ。朝ゴミを捨てに行ったらゴミが燃えてるじゃない?」

どうやら鉄板の武勇伝になっているようだ。話してくれる分には困らないので口は挟まない。

「この辺りの家はひっきりなしにゴミ出しするんだけど、たまたま私が行ったときだけ人がいなくてね。そこの角を曲がるとゴミ捨て場でしょ」

女性が指さす先は確かにさっきまで寺尾たちがいた火災現場だ。ここからだと直接見ることはできない。

「角を曲がって、ゴミ捨て場が見えたときにはもう火が上がっていてね」

放火現場を見たのではなかったのか。つい指摘したくなる気持ちをぐっと堪える。話の腰を折ると面倒なことになりそうだ。

「慌ててゴミ捨て場の前のお家のチャイムを鳴らしたの。旦那さんが出勤前で助かったわぁ。庭のホースを引っ張ってっきてくれて、届かなかったからブロック塀越しに消火したの。私が外から指示してね」

ブロック塀を挟んだ庭からの消火。これはこの家の住民の証言とも一致している。

「恐ろしいことするわよねえ。燃え広がらなくてよかったわ。死人でも出たら一大事ですもの」

寺尾は気付かれないようにそっと息を吐いた。最後の放火事件は世間一般に伏せられている。彼女は坂谷沙月の死を知らない。

「でも、ゴミ捨て場の前のお家は大変だったみたいでねぇ。あそこの若奥さん、綺麗なロングヘアだったのにバッサリ切っちゃってびっくりしちゃった。髪色が私の好みでね。今度使ってるカラーを訊こうと思ってたのに」

「あの」

話が脱線し始めたので、寺尾は軌道修正を兼ねて口を開いた。女性は「あら」と口元に手を添える。

「私ばっかり喋っちゃった、ごめんなさいね。他に何か訊きたいことあります?」

優雅に微笑んだ女性の顔と、捜査資料上の証言を重ね合わせる。

「では。当日、放火以外で不審なことはありませんでしたか?ご近所で見かけない人を見たとか……」

寺尾の質問に、女性はわずかに前のめりになって声のトーンを落とした。

「それがね、見たのよ」

つられて寺尾も前のめりになる。

「男の人。上着のフードを深く被ってて年齢とかは判らなかったわ。でも、あんな人近所で見かけたことないもの。私がゴミ捨て場に行く直前、そこの角ですれ違ったの。つまり、現場の方から歩いてきたのよ」

状況からしたら、放火犯に間違いないだろう。だが、男性とは。

「……失礼ですが、本当に男性でしたか?顔は見えなかったんですよね」

指摘すると女性はあからさまに顔を顰めた。

「見間違えるもんですか。あんながっしりした体形の女はいないわよ」

「そうですか、失礼しました」

寺尾が詫びると女性はフンと鼻を鳴らした。これ以上は訊けないだろう。

「では、現場の方はどうでした?臭いだったり、燃えている炎の色だったり、ほんの少しでも違和感があった点はありませんか?」

女性は「そうねえ」と斜め上に視線を向ける。話題を変えたことが功を奏したのか、機嫌は治ったようだ。

「そう言えば、燃え滓の中に生き物の死体があったのよ」

「え」

その話は捜査資料にもなかったはずだ。

「元々ゴミとして出していたのかもしれないけど、嫌よねえ。小動物ぽかったわよ。鼠みたいな」

これくらいの、と女性は両人差し指を立てて幅を作る。五センチくらいだろうか。

「哺乳類だったんですか?」

真剣な面持ちでメモを取り始めた寺尾を見て、女性が満足そうに頷いた。

「ええ。鳥とかじゃないと思うの。鼠か、鼬か……鼬なんかいないか。やっぱり鼠ね」

手元の手帳に「鼠もしくは鼬」と簡単にメモする。鼠の方に丸を付けておいた。鼠もあまり見かけるものではないが、五センチ程度の哺乳類と言われれば寺尾もその辺りを想像する。

「燃え方がひどいところにいたみたいでね、真っ黒だったわ、可愛そうに」

瞼を伏せた女性は本心で小動物の死を悼んでいるようだ。涙まで流しそうな勢いである。もともと死んでいたんですよね、とはとても言えない雰囲気だ。

「動物愛護とか、ないのかしらねそう言うの」

寺尾も法律には明るくない。下手なことは答えない方がいいと判断する。

「いろいろとありがとうございました。非常に有力な情報でした」

「あら、本当?」

女性は嬉しそうに破顔する。話を聞いてくれて嬉しかったらしい。警察の捜査も管理局が引き継いで以降は停止状態だから事件について聞き込みももうない。報道機関にも規制がかかっているので、彼女がこの事件について語る機会はそうそうないだろう。

 あとはご近所の話のネタになっていくのだろう。この事件は世間一般にとって永久に未解決事件だ。犯人が公にされることもないし、被害者の名が報道されることもない。

 そうして、忘れ去られる。

 怪異案件とはそういうものだ。


   〇


 「次が榊原市内最後、四月二十八日、上墨町〇番地、天巳大橋のすぐ近くの交差点。地図で言うと……この住宅の庭木」

住宅地図を縮小コピーした必要な範囲が机一杯に広がっている。陽向の示した地図上に、密草が赤い丸シールを貼った。隣に日付も書き込む。

 アナログだが、全体を見渡すにはこれが一番だ。密草の指示で始めた作業だが、確かに一度に動きを俯瞰するならば紙上の方が見やすい。

「徐々に天巳市に近づいてるって印象だな」

最後に四月三十日の日付と共に貼られたシールで、警察に届け出がされている不審火は地図上に網羅されたことになる。全部で六個の赤い点が散らばった。数で言えば榊原市の方が圧倒的に多い。

「だが、地図上に広げても気になるところはねえな。日を跨いでるから拠点くらいはあるはずだが」

榊原市の中心部が多いが、それ以外にも乱雑に広がっている。日付順に繋いでみても複雑すぎる直線が出てくるだけで中心らしきものはない。移動経路にしてもバラバラで、適当に移動して燃えやすいものがある場所に火付けして回っているような印象しかない。

「強いていうなら最初の一個だけやけに離れてますね」

一応仕事として任されたので、陽向は無理やり気付きをひねり出してみる。榊原市内ではあるが、中心街からは外れた位置に赤い点が一つ。

「それを言えば、二個目も距離があんぞ」

密草が溜息混じりに指摘した。強いていえば三件目と四件目が比較的近いだけでバラバラである。

「おし、ひとまず置いて次の作業やんぞ」

地図を諦めて密草が資料を手にした。最初の会議で配られたのとは別の資料であるが、こちらも警察からの情報提供らしい。

「小火騒ぎのあった周辺の聞き込みの報告書だ。被害の共通点がないかは警察でもやってるが、改めてもう一回やるぞ」

密草から資料を受け取って、陽向は警戒しながらパラパラ捲る。さっき衝撃的な資料を見たばかりだったので薄目で確認したが、文字と話を聞いた人物の顔写真と燃え跡の写真くらいだった。

「あ、警察の方でも共通点探ししてますね」

こうやって見ると警察の初期捜査もかなり綿密に行われていたことが感じられる。報告書の最初に考察が来ていた。

「書き殴ってありますけど、茶髪の女性って」

後から気が付いたのか、印字に加えて手書きのメモが添えてある。「茶髪の女」。

「……今更ですけど、これって俺が見てもいい資料なんです?」

会議も当然のような顔で出席してしまったが、遅れて不安が顔を出した。被害者宅の住所や家主の名前、目撃者の連絡先など、個人情報の塊である。

「バイト登録する前に誓約書書いただろ。守秘義務違反は厳罰だ。怪異情報は特にな。公開されてない特例で裁かれるから気を付けろよ」

「それって……」

非常に嫌な予感がしたので念のため聞いておいた方がいい。誓約書にも確かに「特例措置が適応される」とあったが、陽向が思っているより重大な約束をしてしまった可能性がある。

「最悪、消される」

「ひぇっ」

そこまではっきり言われるとは思わなかった。

「ついでに、怪異案件については治外法権だ。管理局独自での裁判になる」

知らない間に犯行に及ぶ前に聞いておいてよかったと思うべきか、とんでもない組織に所属してしまったことを嘆くべきか。

「すでに怪異案件の捜査に名乗りをあげちまった以上、誓約書は取り下げできねえ。残念だったな、諦めろ」

そもそも子龍と契約している時点で管理局が陽向を見逃してくれるとは思えない。春日野の話だと、生安課の職員になっておく方がマシだと半ば脅された。

「ここ、もしかしなくてもブラックでは」

「気付くの遅えよ、馬鹿」

密草の苦笑いに陽向はおそばせながらすべてを諦めた。

 「で、何だっけ。茶髪の女?」

密草が強引に話を戻す。陽向ももう一度捜査資料を広げた。密草に見えるように指さす。

「ほらここ。「茶髪の女」って書いてあります」

そこだけ手書きなのですごく目立つ。

「駄菓子屋の笠原さんも茶髪でしたね」

陽向の知っている放火事件の関係者は笠原一人だ。彼女も長い髪を明るい茶色に染めていた。特徴に当てはまる。

「現場近くの家主もそうだな。写真見ればわかるが、全員茶髪だ。しかも長髪」

密草が陽向から受け取った捜査資料をペラペラ捲る。

「それに、被害者もだ」

苦い顔で言った密草に、陽向も捜査資料に載っていた顔写真と防犯カメラの切り取り画像を思い出す。ゆるくカールのかかったライトブラウンだった。白黒のカメラ画像からもわかるくらいには明るい髪色だ。

「放火があった家は他に共通点とかないんでしたっけ」

陽向はもう一度捜査資料に目を通す。職業や経歴、家系など、これといった繋がりはない。全員が見ず知らずの者たちだったようだ。

「なら、茶髪の女って特徴だけを狙った無差別攻撃か」

密草が顎を揉む。

「茶髪ロングに恨みでもあったんかねぇ」

「その人を探してるとか……ん?」

後ろで紙の音がしたので振り返る。陽向の目の先にはこれまで全く会話に参加してこなかったセリナがいた。

「セリナ、どうした?」

彼女は難しい顔で机に広げた地図の一枚を持ちあげて睨んでいる。食い入るように見入るその姿勢は真剣そのものだ。何かに気付いたのだろうか。

「一件目の現場だな」

セリナのただならぬ雰囲気にいつの間にか移動した密草も地図を覗き込む。陽向も隣へ寄った。セリナを挟む形で三人、A3サイズのコピー用紙を見下ろす。

「……ここ」

いつからこの地図と睨めっこしていたのか定かでないが、相当の時間は経っていると思う。そこからさらに長い沈黙を経て、セリナがそっと一点を指さした。手を離したことで落ちる地図を咄嗟に陽向が掴んで支える。紙がぶれたことで指さす位置もずれるが、すぐに修正される。

「おう、一件目の現場だな」

「ここだけ駐車場なんですよね。他は家の近くなのに」

地図上には有料パーキングと表記されている。どこにでも見かける大手の運営会社だが、閑静な住宅街の中では珍しい。

「茶髪の女も近所にいねえみたいなんだよな。これがどうした?」

「……」

密草が問うたが、セリナは押し黙る。陽向からは言っていいか悩んでいるように見えた。

「……わからない、間違ってるかもしれない。でも……」

何とか言葉を絞り出しているが、いまいち自信がないらしい。もどかしいが、密草が何も言わないので陽向も急かさず見守ることにした。

 しばらく目を泳がせていたセリナだったが、その視線がやっと密草を見上げた。まだ迷っているようだが、そっと口を開く。

「あの、確かめたいことがあるんです。……ここに行ってきてもいいですか」

一瞬呆気にとられた密草だったが、すぐに表情を険しくした。

「……お前たちを現場に出すのは反対だ。課長からも厳命されてる」

さらっと陽向も巻き込んで密草は釘を刺した。陽向としてはむしろ事務仕事とはいえここまで関わらせていることを意外に思っているので異存はない。けれど。

「それは、事件に関係することなのか?」

思った疑問をそのまま口にしたら、赤銅の瞳が陽向を見た。それに頷いてから密草を見上げる。

「もし、事件の解決に繋がる手がかりがあるなら、俺は行った方がいいと思います」

「だが」

「……それとも、行かせたくないのはセリナが『茶髪の女』だからですか?」

隣で赤みがかった長い髪が揺れた。密草が目を見開くけれど、そんなに驚くことでもないと思う。見ればすぐにわかる特徴だ。犯人の標的にこの上なく当てはまっている。口籠った密草を置いて、陽向は頭一つ分下にある赤い目を見返した。

「なあ、何か思い当たることでもあるのか」

「……合ってるか、本当にわからないの」

逸らした視線が自信のなさを物語っている。

「放火犯は現場に戻るとはよく言う。標的にされる危険がある以上、ここを預かった者として俺の一存じゃあ許可は出せん」

密草は腕組みして呻った。斜め上から視線が動かない辺り、本当に迷っているみたいだ。

「とにかくセリナ、春日野が戻るまで待て。そんでそれまでに奴を説得できるように説明することまとめとけ。そもそも確認したいことって何だよ」

白髪の混ざるグレーの頭をがしがし掻いて、密草が眼鏡越しに見下ろす。やはり、セリナは口ごもった。

「それは……」

喋ろうとしてすぐに噤む。余程触れたくないことなのか、顔色さえ悪く見えた。

「――ちゃんと考えとけよ」

密草が肩を竦めた。

 直後、会議室の外からバタバタと足音が聞こえてきた。音からして小走りでもない全力疾走だ。すぐにドアを勢いよく開いて現れたのは春日野だった。彼にしては珍しい、切羽詰まった叫びに近い指示が飛んだ。

「密草、すぐに医院の方へ頼む!」

「何かあったのか」

呼ばれた密草が白衣の襟を正しながら会議室の入口へ向かうのを陽向は呆然と見送った。速足で近づいた密草に、春日野が声を潜めたがしっかり聞こえてきた。

「剣持がやられた。同行していた特殊係の二人も負傷している。治療を頼む!」

密草の血相が変わったのが見えた。すぐに陽向の方を振り返る。

「お前ら事務所内で待機な!外出んなよ」

春日野と共に急いで出て行く密草の背中を見ていたら、後ろでガタンと大きな物音がした。

「セリナ!?」

さっきまで歯を食いしばって何かを思案していたセリナが床に直接座り込んでいる。さっきの音は座る際につかんだパイプ椅子が引きずられたときのものだったらしい。

「大丈夫か?」

「っ、ダメ!」

伸ばした手を払いのけられた。思わぬ対応に反応が遅れる。陽向が困惑を浮かべるまでにセリナが何とか回答を絞り出した。

「今は、触らないで……」

その意味を、陽向の目は嫌でも理解する。座り込んだセリナを包むように、薄い炎が揺らめいていた。

「……何か、できることあるか?」

セリナから少し距離を取って問いかける。顔を上げず、セリナはゆるゆると首を振った。

「わかった。すぐ外にいるから、何かあったら言えな?」

高い位置で結った長い髪が顔にかかって表情はわからない。彼女が頷くのを確認してから、陽向は立ち上がって会議室を後にする。後ろ手にドアを閉める寸前、セリナの消え入りそうな声が聞こえた。

「……ごめんなさい」

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