第二章 炎上

 すっかり遅くなってしまった。そろそろ日付も変わりそうなデスクの時計を確認して、坂谷沙月は更新中の書類に上書き保存をかける。待機表示の後に保存成功の通知を確認してから、事務所内で唯一ついていたパソコンをシャットダウンした。

 地元の大学を卒業して、特に目標もなくこの小さな会社に就職して一年。未だに仕事の要領をつかめず、こうして法外な時間外勤務をするのも今月何度目だろうか。

 研修を終えた後輩も仕事が与えられはじめているというのにこの体たらくである。

 正直辞めてしまいたいと何度も思った。だが、辞めたところで不器用な自分にどれほどの就職先があるというのか。就活時代数々の敗戦を記録し、見かねた父の縁故採用でこの会社に拾ってもらった手前、今更辞めるとも言いづらい。

 ここ最近、まとまった睡眠時間も得られていない。ふらつく足取りで席を立つ。帰りに栄養ドリンクを買って行かなければ。ストックが尽きそうだったことを思い出す。だが、この時間ではコンビニくらいしか開いていない。割高になるが、明日の昼休みも会社を抜け出せるか定かでない。

 面倒だが寄って行こう。用事は可能な限り早めに済ます。それが仕事の出来る人の鉄則だと、『社会人一年目の教科書』という本にも書いてあった。

 会社を出る前に用を足しておこうとトイレに向かう。電気をつけた瞬間、洗面台に備え付けられた鏡にくたびれた自分が映し出されて辟易とした。大して美人でもない、のっぺりした顔。度重なる夜勤によってボロボロになった肌を何とか誤魔化していたファンデーションも完全に剥がれてしまっている。全員が退社してから仮眠をとったから、長く伸ばした茶色の髪もぼさぼさだ。社長から野暮ったいと叱られたが、美容院に行く時間すらない。

この顔でコンビニに入ったらホラーだ。否、深夜のコンビニなどこんなものだろうか。せめて、と髪だけは手櫛で整える。

 消灯したら鏡の中の自分も消えた。気を取り直して鞄を手に二階の事務所から出る。その右手側、外へと続く階段で足音がした。

「え?」

社員の誰かが忘れ物でもしたのだろうか。鍵は全員が持っているから入ることは可能だが、今までこんな深夜に社員に出くわしたことなどない。張り詰める空気の中、坂谷は恐る恐る音のした方を見る。心臓の音がやけにはっきり聞こえた。

 外へ至る唯一の出入口である階段を塞ぐように、一人の女性が佇んでいた。逆光で顔はよく見えないが、体格から女性であることだけがわかった。

「だ、誰……?」

雰囲気からして、社員ではない。両手の指で足りるくらいの従業員しかいない小さな会社だ。社員ならば絶対にわかる。

 恐怖に腰の引けた坂谷に向かって、女性がおもむろに手を伸ばした。


   〇


 立入禁止の文字が並ぶ黄色いテープを持ち上げて、遠藤は現場に足を踏み入れた。現場はまだ熱気が立ち込めているように感じられる。

「来たか」

数名の刑事や消防士と話していた一人が本間に気付いて顔を上げた。遠藤も所属する県警刑事部の見知った顔である警部だ。の捜査主任だと聞いている。

「ついに被害者ガイシャが出たって?」

報告はすでに回っているが、あえて訊ねると警部は非常に嫌そうな顔をした。知っているなら聞くなと言いたげである。

「手柄を渡すのは口惜しいが、上の命令だから仕方ねえ」

遠藤の問いには答えず、警部はこれ見よがしに大きなため息を吐いた。そして、大股に闊歩して接近する。一見すると大胆な足運びだが、現場を荒らさない細やかな気遣いが見てとれた。

「なあ、お前らに引継ぎってことは」

警部が遠藤の後ろに控える相方の本間にも聞こえるように声量を抑えて囁いた。本間はまだ二十前半の若々しい青年だが、持ち前の察しのよさを発揮して身を寄せてきた。

「おう。だ」

動機のよしみで警部だけに聞こえるように耳打ちする。彼は「やはりな」と呟いた。

「どうせならガイシャが出る前に捜査し始めりゃいいものを」

「仕方ねえだろ、なかなか確定しなかったんだ」

遠藤たち特殊係にお鉢が回ってくるのはそれが必要だと確定したときだけである。いわゆる窓際と揶揄される係だが、その取り扱う事件の種別により公にはできないから仕方ない。

「いまだに信じられねえな。実在すんのか、妖怪なんて」

「するんだから俺たちみてえなのがいるんだよ」

遠藤は悪戯っ子のように笑って見せる。警部が辟易して天を仰いだ。

 彼に白状したのは遠藤がこの係に配属されて直後のことである。県警に就職してからずっとだから、もう三十年近く経つだろうか。同期が閑職に飛ばされたと思い込んだ警部が人事に殴り込みまでしかねない勢いだったのでやむを得ずこっそり打ち明けた。現場に出る刑事で特殊係の事情を知っているのは彼ともう一人の係員である本間だけだ。

「……証拠は」

よほど担当の事件を横取りされたくないのか、警部が顰めっ面を近づけてくる。しっしっと追い払って、遠藤は面倒さを隠しもせずにぼそっと答えた。

「まだ燃えてる」

警部の口から間抜けな「は?」という吐息が漏れた。

「本間、お前には

「はい、もちろんです!……ここですね」

本間は二人の輪を離れて小走りに駆けて行った。立ち止まった足元に倒れた、家具だったと思しき木片が熾火を瞬かせている。本来ならば見逃してはならない残り火だ。だが、忙しそうに作業している消防員たちは反応を示さない。それもそのはず、この火は視える者にしか視えない。

「適当ぬかすんじゃねえよ」

視えない者、警部が吐き捨てるように言った。だが、遠藤に焦る必要はない。むしろ説明してやる義務もないのだが、同期の誼だ。彼を納得させるくらいならば規律にも抵触しないだろう。

 遠藤もゆっくりと熾火に近づく。後ろから警部が慌てて呼び止めるが、無視して歩いていく。

 この火は妖の火だ。怪異として存在するから視えない。なら、それが現象になれば。

「これで見えるだろ」

おもむろに名刺を一枚、赤く発光する燃え滓に近づける。しばらくして、角が焦げてきたと思ったら一気に発火した。ライターで着火したような火である。

「ちょ、ちょっと!」

あんぐりと顎が落ちた警部の背後から、消防員が大慌てで走ってくる。このままだと消火剤を浴びせられかねないので遠藤は軽く煽って名刺についた火を消した。彼らには見えなかっただろうが、名刺には妖力に対抗する術式が仕込まれている。気休めのお守り替わりだが、残り火には打ち勝ってくれたようだ。

「結構強ぇえなあ」

名刺に刻まれた術式が溶けかけている。残り滓がこれでは、本体の力はどれほどだろうか。

「念のため捜査協力出しとくか」

誰に言うでもなく独り言のつもりだったが、隣でガリガリとペンの音がした。律儀にも本間が書き留めているようだ。頼むから捜査協力を要請する前に上司である自分の指示は仰いでくれよと願う。遠藤は考えを口にしただけであって、まだそうしろとは言っていない。察しが良いのは彼の長所だが、少々先走る癖があった。

「何度見ても不思議で仕方ねえ。手品でもできそうではあるが」

気付けば警部が屈みこんで熾火の辺りを覗き込んでいた。

「触らねえほうがいいぞ。見えなくても確かに在る。当てられても知らん」

遠藤の忠告に、警部が伸ばしかけた手を引っ込めた。

「それに、いくら俺でもこの場でこんな手品披露するほど不謹慎じゃねえよ」

言って、遠藤は未だに燻る熾火の上に名刺を落とした。ここから燃え広がることはないと思うが、念のため消しておいた方がよいだろう。

オン

極限まで短縮した呪言をつぶやけば、名刺に書いた術式が熾火の上に広がった。名刺が燃え上がる。

「うお!?」

警部が驚いてのけぞったが、火は一瞬で消えた。跡には名刺が燃えただけにしては量の多い灰が残される。遠藤から視ても、そこに火の気はなくなっていた。

「これでよし。後は特殊係うちに任せとけ」

苦虫を噛み潰した表情で、警部が不承不承頷いた。


   〇


 「だから、一気に考えようとするからわからんくなるんだって」

広げられた問題集を逆さまに覗き込んで、陽向はこの日何度目かわからない叱責を下す。正面で小学生男子がふくれっ面をしていた。そんな顔をしても容赦するつもりはない。

「問題文、頭からちゃんと読め。そんで図を描け。簡単でいいから」

少年、大紀だいきに見えるように手元の裏紙に簡素なビーカーを描いていく。「真似しろ」と指示したらふにゃふにゃの線で辛うじて同じ絵を描き始めた。

「これに水が入ってるだろ。何デシリットルだ?」

デシリットルという単位を久しぶりに聞いた気がする。恐らく小学校でしか使わないのではないだろうか。一般的にはリットル、ミリリットル。もしくはcc。陽向がどうでもいいことを考えていられる時間をかけて、問題文を指でなぞっていた大紀の手がやっと止まった。

「……五十」

「ん、五十な」

手元のビーカーの絵に水平に線を引く。

 大紀に解かせているのは小学校の算数の中でもさらに初歩的な問題だ。

 それでも相手が相手だけに時間がかかる。

 たっぷり数分をかけて図にして説明し、ようやく大紀が満足そうに頷いたところで陽向は大きく伸びをした。ずっと見守っていた寺尾がクーラーボックスからゼリーを取り出した。

「あら、ちゃんと理解できた?じゃあ今日のご褒美ね」

「やったー!」

両手をあげて全身で喜びを表現してから、大紀は寺尾の持つゼリーに手を伸ばした。手が触れる寸前、寺尾がゼリーを持ち上げる。

「その前に。ちゃんと陽向君にお礼言いなさい」

「あ、ありがとう」

ゼリーがかかっているので素直だ。これまでの態度を思い出して苦笑しながら、陽向も「どういたしまして」と応じる。

「よっしゃ、ゼリーだー!」

子供らしい無邪気さで盛り上がる大紀を横目で確認して、寺尾は陽向に退室を促した。はしゃぐ大紀を一人で残すのは気が引けるが仕方ない。寺尾に続いて部屋を出る。男子寮から一階の食堂へ。今回の特設授業は陽向の術式授業も兼ねているのでその反省会だろう。

「もう解除していいわよ」

優しく言って自分の保護結界を解除した寺尾に倣って、陽向もかけっぱなしだった結界術を解いた。


「ありがとう、助かったわ。教師向いてるんじゃない?」

開口一番、寺尾は笑顔で言う。そう言われて悪い気はしないが、諸々の事情により陽向に大勢の人と関わる仕事は無理だ。寺尾もそれは承知しているようで、すぐに揶揄ったことを詫びる。

「小学生の勉強くらいなら、まあ。俺も泊まらせてもらってますし、これくらいは全然」

これで中学生の内容だと少々自信がない。テストができるのと人に教えるのは別だ。理解度が違いすぎる。そういう意味で言ったのだが、寺尾は頬に手を当てて軽く息を吐いた。

「もう、陽向君も職員なんだから、宿泊は当たり前よ。福利厚生に含まれてるし、見返りなんか求めないわよ。むしろこの授業は陽向君のお仕事の一環だから。君には言うまでもないけど、その辺は自覚持って頂戴ね」

「……はい」

何と。生安課で保護している小学生の勉強を見て欲しいとは言われたが仕事だとは思わなかった。日頃妹の宿題を手伝っている弊害かもしれない、と思い返す。そう言えば、陽向がこちらに入り浸るようになったから、最近は妹の手伝いはできていない。サボるような性格ではないのでそこまで心配はしていないが、この連休が終わったら質問攻めくらいは甘んじて受けるしかなさそうである。

「と、言うわけで、先生役はお仕事だけど、術式発動の練習は上手にできてたのでこれはそっちのご褒美でーす」

じゃーん、とでも言いそうな勢いで寺尾に差し出されたのは、さっき大紀にも出したのと同じ種類のゼリー。よくスーパーのワゴンで山積みになっているありふれたものだ。

「やったーって年でもないですけど」

「あら、高校生はまだまだ子供よ?」

揶揄いに乗じてみたらその上に乗り返された。苦笑しながら礼を述べると、寺尾も笑顔で頷いてくれた。

「けど、安心したわ。陽向君が大紀の事情に引くような人じゃなくて」

「それは……」

パイプ椅子を引いて陽向の正面に座りながら言う寺尾に、思わず絶句する。

「……それなりにいろんな不思議現象は見てきたつもりなんで、今更ですよ」

大袈裟に肩を竦めてみせた陽向に、寺尾がおもしろそうに頬杖をついた。

「妖たちともそれなりに――」

「しっ」

はっとして寺尾を見れば、唇の前に指が一本屹立していた。

「それ以上は、ダメ。今のも聞かなかったことにするわね」

管理局の管轄内にある妖たちには『視える人間』の報告義務が課せられている。管理局所属前の陽向と妖たちの関係性はご法度だ。

「すみません」

「わかればよろしい」

寺尾が目を細めて指を降ろした。

「けど、本当に経験豊富みたいね。大紀に驚かないのもなかなかよ」

「最初はびっくりしたけど、まあ事前に聞いてましたし」

大紀のことは特設授業が始まる前に聞いた。

 ちらりと彼が使ったメモ代わりの紙束を思い出す。机の上に無造作に広げられた紙一枚一枚に色とりどりの茸が顔を出していた。中には見るからに毒々しい色合いのものもある。寺尾から不用意に触れないようにと注意されているので勉強中は脇へ押しやる大紀にすべて任せていた。

 問題に行き詰ったり、癇癪を起こすと生えてくるのである。

 鉛筆を持った大紀の小さな手の下からポコポコと苗床のように出てきては傘を広げる茸を、終わり頃には陽向も大した反応もせず受け流せるようになった。


 異能を持つ子供たちは学校に通えないことも多い。

 これが血筋であれば異能をよく知る家族の指導があるから然るべき対応がなされるが、そうでない突然発生的な異能に対応するのも管理局の仕事だ。生安課でも数名の子供を預かっているのだと言う。中には学校には通っている者もいるが、大紀のように管理局内で教育を施すのが大半なのだとか。無論、特例措置である。

「あの茸、胞子を飛ばすのよ」

大紀の室内では決して結界を解いてはいけない。授業前に寺尾から口を酸っぱくして言われていたことだ。浴びた胞子は大抵の場合術式による清めでどうにかなるが、下手をすると苗床になるらしい。

 今はコントロールの特訓中だそうだ。できるだけ心を揺らさない練習をしているらしい。算数の問題が解けない程度で癇癪を起している現状は前途多難らしかった。

「あの子の場合、喜びの感情には反応しないから多少は楽なんだけどね……」

これではとても学校になど行かせられない。ちょっと喧嘩した相手が茸塗れは死活問題にもほどがある。

「室内全部術式塗れなのも納得しました」

溜息ついでに呟くと、寺尾が「あら」と首を捻った。

「保護術式発動しながら他の術式解析してたの?余裕じゃない、もうちょっと増やせばよかった」

「ちょっと見渡しただけですよ!?解析とかするほど余裕じゃありませんて。これ以上増やすと勉強の方が見れなくなりますよ」

「えー?」

寺尾は疑いの目を向けるけれど、これだけは本当だ。やっと慣れてきたとは言え、術式の維持にはそれなりの神経を使う。一つを常時発動しながら別の作業、もしくはプラスして術式をもう一つ、くらいが今の陽向の限界である。それ以上は集中力も霊力も持たない。


 そのまま休憩室で寺尾から他の術式を教えてもらっていたら、課長である春日野がやってきた。

「やあ、精が出るね。調子はどうだい?」

寺尾と陽向の間に立った春日野は随分上背がある。陽向たちが座っているのを考慮してもかなり高い位置に丸眼鏡が目立つ頭部があった。

「春日野さんが見込んだだけのことはありますよ。さすが課長」

「僕を褒めても何も出ないよ?」

寺尾と軽口を叩いてから、春日野がすっと表情を引き締めた。雰囲気が一気に変わって、寺尾と一緒に陽向も背筋を正す。

「寺尾、緊急招集だ。会議室に集合してくれ。陽向はセリナと密草とここで待機してもらうつもりだけど、事件概要だけは知っておいて欲しいから参加してくれるかい?事件の事務処理の手伝いをして欲しいんだ」

「承知しました」

「はい」

余程急いでいるのだろうか、早口で下された指示を必死に噛み砕いて、陽向は何とか了承する。たぶん理解できたと思う。


   〇


 会議室に入ったのは陽向たちが最後だったようだ。密草、剣持、落合、それにセリナが後ろの方にひっそりと座っていた。剣持の近くに寺尾が座るのを見て、陽向は一番後ろの席へ向かう。

「資料を配るね。回して。あー、あと中身がアレなので、高校生二人はあんまりじっくり見ないように」

回ってきた紙束は真っ白だった。クリップで止められた結構な厚さだが、全部白紙である。一瞬「あれ?」と首を捻ったが、すぐにわかった。術式が施されている。

 周りを見たらそれぞれ紙の上に手を翳していた。陽向も見様見真似でそれに倣う。指先が触れると術が反応した。そのまま霊力を流し込む。霊符にするのと同じ要領だ。溝に流れ込む液体のように、光る霊力が術式陣を描き出す。

 完成した術式陣は一度光ってすぐに消えた。後にはインクのシミが広がるように文字が浮かび上がってくる。手書きの文字も見えるから、丸ごとコピーしたのだろうか。

 中身も無事に出現しているか確かめるためにぱらぱら捲って後悔した。陽向は薄目で紙束を閉じる。春日野はちゃんと忠告してくれたのに、不用心に開いた自分が悪い。

「陽向も……大丈夫そうだね」

術式をうまく発動できたかの確認だったのだろうが、陽向の反応を見た春日野が苦笑した。

「それじゃあ、捜査会議を始めます」

座ったまま礼をして、再び上がってきた春日野の表情からいつもの柔和な笑みは消えていた。会議室の雰囲気が一気に引き締まる。

「今回依頼が来たのは連続不審火事件の捜査。皆もニュースで報道されているから知っている人も多いと思う」

「榊原市のアレですよね。最近天巳市でもあったんだっけ?」

落合が頭の後ろで手を組んだ。

「そう。榊原市を中心に、小火騒ぎが先月から六件発生している。うち二件が天巳市内だ。地域が限られていること、民家の外にあるゴミや植木などの燃えやすいものが狙われる手口、出火当時付近に火の気はなしと言った点から同一犯と見られていた、あの事件だよ」

それならば陽向も記事を見ているし、何なら一件は遭遇している。

 陽向の目線に気付いたのか、春日野が目を細めた。

「ここにある駄菓子屋の件で生安課の課員が出火現場に遭遇している。密草から報告をもらった通りだ」

落合から「えっ」と声が上がる。陽向が彼らと合流したのは駄菓子屋の後だ。

「もしかしてあそこで集ってた消防車ってそのときの……」

「消防が来る前に離れたから、俺らはもういねえけどな」

気色ばむ落合を宥めるように密草が言った。あの時は面倒事になるから退散したのだった。

「うん。同時に密草から、火から妖気を感じ取ったとの報告を貰っている。そうだね、陽向」

「え?は、はい」

突然話を振られて、陽向は慌てて頷いた。全員が振り返る。春日野の笑顔が「詳しく続けて」と言っている。

「……ほんの少しですけど、火に妖気がありました」

「これを受けて、生安課から特殊係を通じて警察に情報提供した」

大人数の会議ではないが、大人たちから注目されるのは心臓に悪い。跳ね上がった心拍数を抑えていたら再び春日野が見つめていた。疑問を放置するなということか。仕方ないのでおずおずと挙手する。

「あの……すみません、特殊係って何ですか」

訊くべき質問はやはりこれで正解だったらしい。うんうん頷いて春日野が説明してくれる。

「警察に所属する妖関係に対応する係だよ。と言っても視えるだけって人が多いから実態は管理局との連絡役だけどね」

陽向の脳裏に、座敷童の古民家を管理する不動産屋の社長が浮かんだ。彼にお祓いを依頼された寺の伝手で管理局に話が来たという話を聞いた覚えがある。

 『本物』でないことも多い妖関係の事象は、普通の一般人から管理局には繋がれな い。神社仏閣や占い師などを窓口にするという。あれの警察バージョンだろうか。事件に触れる最前線なのだから、それに当たる担当者が存在することは納得できる。

「すみません、わかりました」

春日野は「よろしい」と呟いて再び資料を手に取った。

「で、警察から正式に怪異案件であることが認められたため捜査協力要請との運びになった。本音を言えばもう少し早く要請が欲しかったところだけど、今さら言っても仕方ない」

苦い表情で資料を広げた春日野が「二枚目を開いて」と教師のように言った。

「残念ながら、我々の手が回る前に被害者が出てしまった」

二枚目には女性の顔写真が載っていた。まっさらな背景に緊張した面持ち。免許証などの証明写真だろうか。ゆったりした明るい髪色が印象的だ。

「被害者は坂谷沙月さん、二十四歳。天巳市内の広告代理店勤務。四月三十日午前零時三十分頃、勤務先の事務所を出たところで焼死している」

焼死、という死因に何人かが息を呑んだ。

「次のページに事務所の見取り図が載っているから参考にしてくれ」

言われた通り、陽向は手元の資料に並んだ図面を確認する。二階建てで一階に雑貨店、二階が件の広告代理店の事務所のようだ。小規模なのか、それほどの床面積はない。隣接する階段から直接二階の事務所に出入りできるようになっている。

「彼女が事務所を出たのが午前零時二十五分。外の階段に出た直後に出火した。当時坂谷さん以外に人はない。建物がコンクリート造だったため、被害は彼女が逃げ込んだ事務所内だけの延焼だった。一階には被害はない。また、通行人が火災に気付き直後に通報したためすぐに消し止められたようだ」

つまり、被害者も彼女だけである。


「次のページはしばらく飛ばして、七ページ目」

バラバラと捲る間に嫌でも目に入ってしまうだろう。春日野から見て何人かは顔色を悪くしたり目を逸らしたりしている。心配していた高校生二人も速足で目的のページを探しているようだ。

 管理局に所属していれば『こういうこと』はそう珍しくない。課員の何人かは実際の事件も担当したことがあるし、現場に遭遇した経験もある。だが、慣れるものではないし、慣れていいものでもない。

 会議室に顔を揃える生安課のメンバーに、心配になる反応を示した者はいない。無表情の剣持でさえ直視せずに紙を捲っている。そのことに安堵しながら春日野は続けた。

「死亡時刻が正確なのは現場にあった防犯カメラが生きていたからだ。七ページからは動画の切り抜き画像になる」

安物だが、夜間の様子もはっきりとらえられている。絵コンテのように並んだ荒い画像が続いている。画像の下にそれぞれ記載されているのが録画時刻だ。

「カメラは無事だったんですね」

寺尾がぽつりと言う。

「ああ。高い位置にあって尚且つ事務所の外側だったことが幸いしたようだ」

寺尾の疑問に答えて、春日野は最初の画像を見る。事務所の入口が映っていることから、外壁に取り付けられていたのだろう。


 ずらりと並んだ連続写真を目で追って、陽向は心の中で呻く。さっきまでの写真も凄惨だが、こちらも負けず劣らずだろう。未成年である自分が本当に見て大丈夫なものなのか不安になるくらいだ。

「……見てわかると思うが、出火元は彼女自身だ」

春日野も険しい表情をしていることに妙に安心する。そうでなければ困るのだが、仕事が仕事だけに慣れてしまっていたらどうしようかと思った。

 誰もいない扉から始まり、扉が開いて女性が一人出てくる。彼女が坂谷沙月だろう。後ろ姿だが、顔写真と髪型が一緒だ。正面から見たときにはわからなかったが、随分髪が長い。腰の辺りまである。

 様子が急変するのはその直後。振り返った坂谷の正面、画像で見ると下の方に人の頭部が写り込む。白黒だから正確な色は定かでないが、濃い髪色だ。淡い色合いだった谷坂と比べても黒髪だと思って間違いないだろう。体格からして女性のようだ。

 坂谷の逃げ腰な姿勢から、知り合いでないことは伺える。深夜の事務所に知らない女性が現れたら不審者以外の何物でもないだろう。坂谷の怯えようも尤もだ。

 次のコマは白飛びして何も見えないが、その次は印刷上白く揺らめく炎が人型に現れた。否、坂谷が燃えたのだ。

 燃え上がったまま彼女は半開きなっていた事務所の扉の中へ吸い込まれるように消えて行った。恐らく倒れ込んだのだろう。画像はここで終わっている。


 春日野は大きく一息吐いて会議室を見渡した。当然のごとく、全員が渋面である。

「以上が事件のあらましだ。次のページからは警察と消防の検証結果になる」

ここまでとは打って変わって文字情報だけになる。課員たちから安堵する雰囲気が伝わってきた。

「被害者自身が出火元なのは前ページの防犯カメラ映像からもわかっている。だが、その発火方法は不明だ」

この先は春日野も専門ではないから、警察の資料を読み上げるくらいしかできない。

「当時、ガス漏れなどの検知はなし。また被害者の遺体からガソリンや灯油などの燃料は検出されなかった。これは現場全体でもそうらしい」

映像では一瞬で被害者が火に包まれている。これまでの小火に出火当時の目撃情報や映像はないが、同じく突然炎上したのだろうと推測できる。だが、これまでの小火で燃えたのはゴミ袋や庭木だ。燃料がなくても何とか着火することは可能だっただろう。

 それに対して、今回の出火は違う。人体は水分が多い。服への着火ならともかく、何の燃料もなく、このような燃え方はしない。それに仮に服が燃えたとして外部の燃料がなければここまでは燃えないだろう。

「以上の現場の異常性を以って、捜査に特殊係が合流。我々からの情報提供もあり、怪異案件であることが確定。管理局に捜査協力要請の運びとなった」

この一文は資料には記されていない。怪異案件となった時点で警察の記録には残されない。代わりに管理局の情報保存管轄となる。


 「本件は生安課での最優先事項と位置づけ、全員で対処に当たるものとする」

春日野が資料から手を離して全員を見渡した。周囲が顔を上げた空気を察し、陽向も春日野に目を向ける。

「現在進行で担当がある者も本件を優先して欲しい。調整が必要なら私が出向こう」

普段の物腰柔らかな春日野からは一線を画す強硬な指示に圧倒される。それだけ今回の事件が重大事件だということだろう。民間人に被害者が出ているのが影響しているのだろうか。

「私、春日野と剣持で防犯カメラに映った犯人と思しき女性の身元捜査。寺尾と落合で被害者女性の周辺調査。密草、稲月、上名は事務所で情報総括と、これまでの放火事件の洗い出しを頼む」

「はっ」

威勢のいい返事と共に、全員がガタガタと立ち上がる。一歩遅れて陽向も続いた。一人だけタイミングがずれたので椅子の音が思ったより目立つ。

「成果がなくても一時間おきに本部へ報告を入れること」

勝手に一人で焦っている陽向を差し置いて、春日野が会議最後の号令を下した。

「全員、健闘を祈る」

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