第一章 生活安心課

 今までと同じように車で迎えに来た春日野仁に連れて行かれたのは天巳市郊外にある寂れた個人医院、密草医院の隣。これまた年季の入った二階建ての店舗を見上げて、上名陽向は口を開けていた。抱っこした子龍が尻尾を揺らす。

「ようこそ、生安課へ!歓迎するよ」

「隣だったんですね」

密草医院には何度かお邪魔したが、まさかその隣に秘密結社のアジトがあるとは思わない。しかも一見してあまり近寄りたくないたぐいの建物だ。謎の組織の事務所としてはこれで正解なのか。

「そりゃ、隣の方がいろいろと便利だしね。僕としては受け入れ手続き済んでないのにこの建物が見えてる君も大概だと思うけど」

春日野に言われてみれば、建物に術が張ってあるのが視える。術がなくても率先して関わりたい風貌の建物ではないが、事業が事業だけに念を入れているのだろう。

「中へどうぞ、上名君。もろもろの手続きは中でしよう」


   〇


 最初に案内された部屋で、服を剥かれた。

 部屋に居た初対面の老婆に「じゃ、脱ぎな」と言われた直後である。目にも止まらぬ早業であった。

「ふん、背丈は貧相だが十五ならこれから伸びるだろね。それなりに鍛えてるじゃないか、感心感心」

脱ぎ散らかした陽向の服を足でどかしながら、老婆がメジャーを手に縦横無尽に動き回る。

「ね、絶対気に入るって言ったでしょ、つうさん」

その様子を楽しそうに眺めながら春日野がしみじみと頷いている。

「若造もたまにはいいの連れてくるじゃないか。小僧、和服は?着慣れてるわけがないか。上はともかく履物は草履じゃない方がいいかね」

老婆から湧きあがる妖気には相当な年期を感じ取れる。抵抗しても無駄な体力を消費するだけな気がする。春日野はにこにこしているし、老婆からも悪意は感じないので任せても問題ないだろう。というわけで、陽向はされるがままに従っている。脱いだ服の中で子龍が丸くなっていた。


 「こんなんでどうだい?」

どうだい、と言われても付近に鏡がないので陽向本人からは見えない。代わりと言ってはなんだが、春日野が軽く拍手している。

尚、身体測定から数十分と経っていない速さである。「ちょっと待ってな」と言い捨てて別の部屋へ向かった老婆が戻ってくるまでに要した時間、約五分。元からあったものを見繕ったのだろうが、それにしても早いし、寸法もぴったりだ。

「いい感じだよ、つうさん。いやあ、毎度お見事!」

「やっぱり若いののは楽しいね。元々着てたパーカーとやらを参考にしてみたよ」

和服など何年振りだろうか。陽向が覚えている限り、近所の夏祭りに参加したときに浴衣を着た記憶が薄っすらある程度だ。だが、いかんせん奇抜過ぎないだろうか?

「これ、和服の着こなしとしてはアリなんです?」

思わず訊ねてしまう陽向である。パーカーの上に着物。同級生にして同僚になる稲月いなつきセリナが着ていたものと同じ黒だが、彼女のより青みが強いだろうか。

「管理局は基本こんな感じだよ。黒い着物って以外に規定ないからみんな好き勝手にアレンジしてるね。ほら、剣持けんもち君を見てみなよ」

春日野が指さした先で腕を組んでいたガタイのいい男性が片手をあげて頭をちょっと下げた。派手な羽織を身に着けている。傾奇者かぶきものという言葉がふと浮かんだ。

「いいんだ……?」

和服と言えば厳粛なイメージがあるが、言われてみればセリナも大概な恰好をしていた。この格好で街中を歩くのはちょっと、と苦笑いしかけて以前の春日野の話を思い出す。

 わざと普通ではありえない格好をするのだ。隠蔽術式を効きやすくするために。

 妖が多くの人から見えないのは、脳がありえないものを見たことを見なかったこととして処理するからだ。原理としては『錯視』に近いだろうか。同じ色が背景の違いによって違う色に見えたり、斜めの線が入った平行線が歪んで見える現象が有名だが、それと似たようなことが妖に対して起こるらしい。要は、脳が見えたことを拒絶するのである。

 その原理を利用して、隠蔽術式は成立する。そこに居てはいけないものとして周囲に認識させるのだ。

「――で、合ってますか?」

「よく覚えてたね。大正解だよ」

一応確認したら、春日野は満足そうに頷いた。いつの間にか剣持の隣に来ていた密草が訳知り顔で腕組みして深々と首肯している。

「それくらい覚えててもらわにゃあ。これからもっといろいろ詰め込むから腹括っとけよ」

「てな訳で」

ぱん、と春日野が手を打ち鳴らす。

「上名君にはさっそく初仕事!ここにいる密草と、剣持と一緒にお出かけしてもらいます」

「え」

今日は身体測定と説明だけだったはず。聞いていないと唖然とする陽向を差し置いて、春日野が笑顔で続けた。

「実践してもらうのが一番だからね。今日の目標は術式の一番基本的なヤツを習得すること!あとは密草、お願いね」

「へいへい。んじゃ行くぞ上名。靴履け」

肩越しに片手をひらひらさせながら白衣をはためかせて密草が部屋を出て行く。その後ろに剣持が続きながら楽しそうに陽向を振り返った。

 助けを求めるべくちらりと春日野を見たが、笑顔で「頑張ってね」と手を振られた。

「諦めて行ってきな。ちゃんと学んでおいでよ」

「は、はい……」

つうの最後の一押しに従って、陽向も渋々密草の後ろを追いかける。その肩に子龍が慌てて飛び乗ってきた。


   〇


 「妖気がわかるんだってな」

部屋を出て早々、密草が振り向いた。ついさっきまで無気力だった目に光が戻っている。興味津々である。

「えっと、一応?」

「範囲は」

「十メートルくらい?集中すればもうちょっとは……」

「強さは?ちっさいのまでわかるか?」

「えっと、たぶん?」

「春日野の話だと穢れてるとかもわかるんだよな」

「はい」

「祓った穢れまで視たって話じゃねえか」

「それは……妖気の痕跡というか?」

「妖気の痕跡だあ!?そこに居たかまでわかるってか?」

「強い妖なら、ですけど。力を使ってれば特に」

「ヌシに据える術式破ったって話は」

「それも春日野さんに前に教えてもらって……」

まさに矢継ぎ早。密草からの質問が途切れない。根掘り葉掘りあれこれ聞かれて、陽向が正直うんざりしてきた頃。

「異界の入り口なんかもわかるって話だったな。……のことはわかるか?」

「ここって……異界の中ですよね?」

実はずっと気になっていた。陽向が気付いたのは建物に入ったとき。異界に入ったのと同じ感覚がした。空気感が明確に変わる、あの感覚だ。今まで入った異界ほど拒絶感はないが。

「そうだな。ここはさるヌシが治める異界の外殻だ。管理局の伝手で事務所として利用させてもらっている。局の事務所はこういう場所が多い。知っておいて損はねえだろ」

裏手はもっと自然溢れる状態になっているそうだ。実戦訓練などもやりたい放題。妖に対応する組織の事務所としてはこれ以上ない立地だ。

 一通り訊ね尽くしたのか、密草が大きく一息ついた。

「よし。春日野が興奮してた理由がよくわかった」

密草が肩を竦めて白衣を翻す。

「来いよ。とりあえず基礎からな」

「は、はい」

頑張れよと剣持にも促され、陽向は密草の後を小走りに追った。


  〇


 「ほい。じゃ、まずこれな」

建物から出た瞬間に元の空気に戻った。白衣のポケットから取り出した一枚の紙が、密草から手渡される。受け取った陽向はまじまじと紙面を覗き見た。

 メモ用紙くらいの小さな紙に点や丸を線で繋いだ図形や読めない文字が筆でびっしり書かれている。文字の書き方も含めて電子回路図にも見える。

「お札?」

「霊符って言ってくれ。こう、指で挟んで」

もう一枚を人差し指と中指に挟んで口の前に持っていく密草のしぐさを見よう見真似でなぞる。

「そのまま、書いてある線に力を流し込む……そうそう、上手いじゃねえか」

感覚だから合っているかわからないが、子龍に力を渡すときと同様でいいのだろうか。探りながら紙を挟んだ指に集中したら、墨書きの線をなぞるように力が染みわたっていく。彫った溝に水が流れていくのを眺めている感覚だ。実際、陽向の目には紙に書かれた墨字が色を変えて視えている。

「行けそうだな。ほれ、急々如律令、っと」

「き、急々如律令?わっ」

密草に従って唱えたら、霊符に込めていた力が爆発的に広がった。陽向たちの周囲が異界に似た空気感に包まれる。ドーム状に幕でも張ったみたいだ。

「上出来だ」

異質な空気に包まれながら、密草が満足そうに口角を上げた。

「これが隠蔽術式。これが発動してる間は俺たちは妖と同じ括りになる。端的に言うと、見えなくなる。こっちから話しかければ認識はされるが、記憶には残りづらくなる。せいぜい誰かと話した気がするってくらいだな。……悪用すんなよ」

陽向は己の指の間で薄く発光する霊符を眺めて思う。確かに、その気になればいくらでも悪いことができそうだ。しないが。

「肝に命じとけ。まじないはのろいだ。人を呪わば穴二つ。悪用するとそれなりに自分に跳ね返ってくる。この術式だけじゃねえぞ」

妖力や霊力が穢れるのと同じ理屈なのだろう。どんな結果になるのかはわからないが、何にしても碌なことにはならないと容易に想像できる。真剣な表情の密草に、陽向は神妙に頷き返した。


 最初の目的地に着くまで隠密術式を維持し続けること。陽向が密草から与えられた最初の課題である。

 子龍に攻撃させるときほどの力の消費量ではないので持続させること自体にはそこまで問題はない。ただ、油断すると霊符に流している力が滞りそうになる。常に一定の力を流し続けるのは意外と難しい。

「今回は霊符を使ったが、慣れりゃ霊符なしでもできるようにならあ。今は感覚を掴め。何の術式を動かすにしても力のコントロールは必須事項だ。……お前さんだいぶ反則チートじみてるけどな」

目的地への道すがら、密草の講義は続く。妖が視える者であれば霊符の光は視えるのだそうだ。その光を頼りにコントロールを体感で覚えるのが術師としての第一歩になる。

 ただし霊符に浮かぶ光はオンオフしか表示してくれない。力の強弱を体感として得られる陽向は相当楽をしているのだと思う。どこが少なくなっているとか、どこで詰まっているとかが丸わかりなのである。血管みたいだ。

「霊符は鎮宅霊符ってのを改良したもんだ。拡大解釈して機能拡張した結果だな。初心者向けの補助具で、訓練次第でほとんどの奴が使いこなせるようになる。妖が視えること前提だが、力の流れを視覚情報にしたのもでかいな。

 霊符で呪言じゅごんを省略してるって面もある。発動前に唱えた急々如律令だが、これ単体だとなるべく早くお願いしますって意味だ。何をお願いしてるかって言うと、本来は長々と述べなきゃいけねえお願い事が全部霊符に書いてあるって寸法だな。

 あくまでかけ声として使ってるだけだから、似たような意味の『オン』でも問題ない。そっちの方が短いから愛用してるやつが多いな。

 複雑な術式だと重ねて呪言として唱えることもある。

 慣れた奴だと霊符なしで霊力で術式組んで急々如律令で発動、なんてのも有りだな。お前さんならその内できるようになるだろ」


   〇


 目的地は一軒のアパートだった。これまた簡素な造りで、相当な築年数を経ていそうな佇まいである。階段の塗装が剥げて錆ていた。あれを登るのはちょっと勘弁してほしい。

 「よーし、術式解いていいぞ上名」

言われた瞬間、気が抜けたし術式も途切れた。正直限界だった。

「つ、疲れたぁ……」

どっと込み上げる疲労感に、両手を膝に乗せる。本当は座り込みたいくらいだが、一度座ったら立てなさそうなので我慢する。子龍が肩から降りて見上げていた。

「結局一度も切らさなかったな。上出来だ」

密草は褒めてくれるけれど、陽向は別の不安でそれどころではない。実は道中での講義もほとんど上の空だった。後でもう一度教えてもらえるだろうかと戦々恐々である。かろうじて「悪用するな」と言われた辺りは記憶がある。が、歩き出して短くても十分以上。何も覚えていない。

「隠蔽術式、維持するだけで大変過ぎません?」

春日野は常に使っているというニュアンスで話していたはず。これを常用できるようになる道は遠そうだ。それどころか、慣れで何とかなるものなのかもわからない。

「ああ、それな」

のっけから前途多難を突きつけられて凹む陽向に、密草が真顔で掌を横に振った。

「すまんな。それ練習用にしてる改良前の霊符だから。普通のより霊力が詰まるようにできてる」

「え」

密草は悪戯が成功したみたいな苦笑いで両手を合わせた。

「悪かった。ちょっと試したかっただけだ」

「えぇ?」

陽向の感じた詰まったホースのような感覚は間違っていなかったらしい。

「初心者の練習用ってのは嘘じゃねえぞ。感覚掴む用に難易度上げてあるんだ。まさかここまで持たせるとは思わなかったけどな。道中喋り続けたのも集中切らすためにわざとやってた。お前さんがあんまりにも楽勝っぽかったからな。正直、すまんかったと思ってる」

最早文句を言う気にもならない。いろいろと諦めてしゃがみ込んだ陽向を放置して、密草はアパートに向けて踵を返した。

「よし、そんじゃ行くぞ。今回の依頼人さんとこにな」


   〇


 外見もボロボロだったが、中もいい勝負だった。もしくは、この部屋が余計にそうなのだろうか。招き入れられた部屋を一目見て、陽向は絶句する。控え目に申し上げて、掃除したい。せめてゴミだけは拾いたい。

「ごめんねぇ、散らかってて」

このアパートの大家にして、一〇一号室の住民である女性が手近なゴミ(にしか見えない雑貨類)を除けて座るスペースを作ってくれる。ブルトーザーのごとく部屋の端に積みあがって何とか畳が顔を出す。

「たまには掃除しとけって言っただろ、たまちゃん」

彼女が広げたスペースでは到底足りないので、密草はさらにゴミを除けて座るスペースを確保した。剣持も同じようにしていたので、陽向も遠慮なくゴミを掻き分けさせてもらう。何かのシミが出てきたが、完全に乾いているようなので我慢しておく。

 足の踏み場もないような部屋の中を、玉と呼ばれた大家は身軽に奥へと駆けていった。ショートボブの茶髪がふわりと広がる。「お客さんにはお茶出さないとねぇ」と妙な節回しで呟きながら消えていく。つけっぱなしのテレビだけが午前中のワイドショーを流し続けていた。

「おう、気付いてると思うが」

密草に小突かれて陽向は軽く頷いた。神妙に頷き返して密草が続ける。

「ここは人に紛れて暮らす妖に斡旋してるアパートだ。全員が全員妖って訳じゃないが、訳ありだってのには違いねえ。大家の玉ちゃんもああ見えて結構な年――」

「聞こえてるよ、みっちゃん」

ア行の口で固まった密草の背後で玉が仁王立ちしていた。

「そこの少年は新入り?見ない顔だね」

「か、上名ですっ」

ぴりぴりと殺気立った妖気に戦慄しながら慌てて名乗る。腰に手を当てて玉がニッと笑った。

「玉だ。一応、妖幻荘ようげんそうの大家やってる。正しくは大家の嫁なんだが、まあ大家でいいだろ。そんで、さっきみっちゃんが言った通り」

陽向が見上げた先で、玉の茶色のショートボブが盛り上がる。髪を掻き分けて二本の三角形がピンと立った。猫耳。

「化け猫。猫又だよ、よろしくな」

いつの間にか細身のジーンズの後ろにも長い尻尾が揺れている。先端が二股に分かれてそれぞれが自在に動いていた。ウインクしてみせた瞳はいつの間にか縦長の瞳孔を持つ金色の虹彩に変化している。

「あー、やっぱりこれくらいの化け方のが気楽でいいや」

柔らかさを見せつけるように伸びをして、玉は畳に直置きしていた一リットルの緑茶ペットボトルを手にする。結露で畳が濡れているがお構いなしらしい。

「未開封だから安心して飲んで」

言ったように新品を開封する音がしてペットボトルの蓋が開く。一緒に持ってきていたプラスチックのコップに注がれた緑茶をありがたくいただくことにする。コップがちょっと汚いとか、この際気にしたら負けだ。


「このところ物騒だよねぇ」

密草も剣持も話題を振らないので、陽向も黙ってお茶を啜っていたら玉が壁際のテレビを振り返った。音量は小さめで、陽向は集中すれば何とか聞こえるくらいだが、化け猫なら聴覚も猫並みなのかもしれない。

 玉に釣られてテレビ画面へ目をやると、アナウンサーが字幕に埋もれるように地域ニュースを読み上げている。一際目立つ見出しの字幕には「相次ぐ不審火、今度は天巳あまみ市」と表示されている。

「うわ、ついにこっち来たじゃんか」

玉が顔を顰める。このニュースは陽向もたびたび目にしている。小火ぼやではあるが、外に置いたゴミ袋やオートバイのカバー、庭木などが燃えている事件である。地域が集中しているから連続放火の可能性もあるとか。

榊原さかきばらの方だったよな、この前まで」

玉が「うへえ」と舌を出している。陽向の記憶でもこの事件は天巳市の南、榊原市を中心に起きていたはずだ。

「山越えてこっち来てんな」

密草が目を細めてテレビ画面を睨む。陽向がそうしているように、彼の脳内でも地図と報道上の地名を照らし合わせているのだろう。

「それはさて置き。さ、玉ちゃん」

「ほい」

その睨み顔のまま、密草の目線が正面に座る玉へとスライドした。短パンとタンクトップ姿で胡坐をかいた玉が身を乗り出す。密草の隣に座る陽向からして、豊かな胸元がともすると見えてしまいそうで目のやり場に困る。

「本日のご依頼は」

「そうだった!」

ぱんっ、と乾いたいい音がした。目の前で手を打ち鳴らされた密草の肩が跳ね上がる。いや、陽向もびびった。

「いひひ、猫騙し~」

「やめんか」

「にゃっ」

密草が玉の広い額を指ではじく。デコピンである。

「貴様、人妻だぞぉ!?」

「そうだな、それがどうした」

涙目の玉が、デコを擦りながら本題を話し出す。

「うぅ~。毎度だから説明もいらにゃいと思うんだけど……そうだね、初めての子もいたね……」

途中で密草の剣呑な雰囲気に押されて玉は言う。

「滞納中の家賃を、回収して欲しい。です」


 曰く、妖相手なので一旦逃げられると捕まえるのも一苦労なのだそうだ。密草にもらった二枚目の隠蔽術式用霊符を発動させながら、陽向は詳しい話を聞く。霊符は最初に使った物より初心者用だそうで、確かにそこまで意識しなくても術を保つのも難しくない。今度はこれを長時間維持するのが課題とのこと。

「まあ、大概の妖はあの化け猫の敵じゃねえけどな」

月末になると夫と一緒に家賃回収に走り回るらしい。だが、その中でも相性の悪い相手が居る。

「ぬらりひょん、ですか……」

妖幻荘二〇三号室住民、ひょん爺ことぬらりひょんである。一説によれば妖たちの総大将とも言われる大妖怪だが、妖幻荘に暮らす彼は隠居した爺様らしい。陽向は玉の持つ大家のマスターキーで上がらせてもらった二〇三号室に残った妖気を思い出す。

「ああ、ぬらりひょんの権能と言えば厄介なことに……なんだが、そこでお前さんだ」

「はい」

そういうことか、と話を聞いて納得した。なるほどこれは陽向が適任である。

「そこです」

「おうよ」

隠蔽術式をかけたまま、密草は遠慮なく一軒の民家のインターホンを鳴らす。すぐに女性の声がした。

『はい、どちら様でしょう』

当然の反応だが、直接玄関に出てくるようなことはない。

「すみません、そちらに祖父がお邪魔していないかと」

淀みなく答えた密草に対して、インターホンの向こうで女性が困惑しているのが伝わってくる。

『え?今お客様なんて……えぇ?おばあちゃん、その人誰!?』

ドタバタと足音が響いて、インターホンが静かになる。雑音だけが暫く流れていたが、やがて玄関が開いた。

「あのう、こちらの方でしょうか……?」

可愛そうなくらい女性はおびえていた。ふくよかな四十代後半くらいの女性が連れてきたのは彼女の腰くらいに頭がある背中の曲がった老爺だった。玄関を開けた先にいたのが黒い着物集団だったので露骨に警戒している。

「申し訳ありません、祖父は認知症を患っていまして。勝手に上がり込んでしまうんです。今後は注意しますので……」

平謝りに謝る密草だが、その手はがっしりと老爺の手を掴んでいる。隠蔽術式の影響なのか、ぬらりひょんの権能なのか、女性は納得してくれたようだった。老爺が「わしゃボケとらん!」と騒いでいたのも余計に追撃になったのだろう。

 そして。気付けば居なくなっていた。


 密草が「何でだ!?」と絶叫しているが、剣持は無表情で隣の家のブロック塀を指さしている。

「すり抜けてった」

「見てたなら止めろよ!?」

申し訳ないことに、陽向も逃げ出すひょん爺を目撃している。だが、一瞬のできごとだった。見えているのと身体が反応するのとは大きな違いだ。あっという間にブロック塀に吸い込まれるようにして消えてしまった。

「あの、そう遠くないんで追いません?」

剣持に食ってかかっている密草を宥めて、自分も見ていたことは黙秘しつつ陽向は提案する。


 「見ーつけた」

もはや鬼ごっこかかくれんぼである。駄菓子屋で小学生たちに紛れて茶を飲んでいたひょん爺を陽向は死んだ目で指さした。

 密草ししょうにやれと言われたので。休日を楽しむ小学生の集団に割って入るのにはそれなりに勇気がいる。

「マジか」

ひょん爺が目を丸くしている。周りで小学生たちも不思議なものを見る目をしていた。

「ひょん爺、かくれんぼ?」

「おうおう。鬼ごっこじゃ。まだ捕まっとらんから負けてないぞう」

練り飴をしゃぶる少女からの問いかけにひょん爺が笑顔で応じる。屁理屈だが、実際のところ捕まえるまで陽向たちの勝利ではない。捕まえても逃げられるので、家賃を回収するまで勝ちにはならない。

 隠蔽術式のおかげか、小学生からの(主に見た目に関する)追及はない。つい先ほど霊符を手に持っていなくても身に着けていれば発動できることに気付いたので、霊符は懐にしまってある。陽向の両手は自由になった。

「あらあら、ひょんさん来てたのね。言ってくれればいいのに」

エプロン姿の女性は駄菓子屋の店主だろうか。二十代後半か三十代前半に見える。茶髪のポニーテールが後頭部で揺れた。

「密草さんも剣持さんもお久しぶり。毎月大変ですね。お茶でもどう?」

「いつもいつも手を焼いてますよ……」

どうやら知り合いらしい。言い方からして事情も知っているのだろう。小学生たちが興味津々で密草に絡んでいく。

「はい、お兄さんも。……あら、可愛い」

「え」

湯のみを差し出した駄菓子屋の目線が陽向の肩で止まった。そこに乗っているのは子龍である。

「もしかして、視えてます?」

お礼を言ってから湯呑を受け取って、陽向は恐る恐る訊ねる。

「はっきりじゃないけどね。ぼや~ってしてる。けど、可愛いのはわかるよ。触って大丈夫かな」

子龍が拒む様子もないので了承したら白い手が伸びて子龍の頭で止まった。本当に見えているらしい。

「そう言えば、名前聞いてなかったね。私は笠原美穂かさはらみほ。ここの店主の孫で、お休みの日だけお手伝いしてるの。お兄さんは、服装からして密草さんの仲間さん?」

笠原に撫でられて子龍はご満悦だ。陽向も簡単に自己紹介する。

「上名君ね。了解。私、ちょっとだけだけど視える体質だから、何かあったらいつでも寄ってね」

近所の小学生相手だと不思議系お姉さんで通っているらしい。

「あーっ」

笠原が子龍を愛でていたら、奥で密草が声をあげた。

「また逃げたぞあのじじい」

「ひょん爺なら出てったよー」

男子小学生が駄菓子屋の入口を指して言う。店舗の正面から出て行ったのなら陽向たちの脇も通ったはずなのだが、全く気付かなかった。たぶん陽向なら集中していれば彼が妖術を使う瞬間を抑えることは可能だろう。だが、ほんの一瞬なのだ。一瞬の隙をついて逃げていく。

「手ごわすぎるだろ、ひょん爺……」

出て行ったと思しき道路側を睨んで思わず独り言ちる陽向である。その時、陽向が睨む先で一人の女の子が飛び込んできた。ここに集う小学生たちよりは幾分年下に見える。首に下げたぬいぐるみのキーホルダーが動きに合わせて跳ねる。血相を変えて駆け込んできた少女は、外に指先を向けて叫んだ。

「駄菓子屋さん、火事!火事だよ!!」

「ええっ!?」

驚いたのは笠原だ。慌てて飛び出した笠原に続いて陽向も表に出る。

「ど、どうしよう……」

先に道路に出た笠原がおろおろと周囲を見渡している。その正面で、駄菓子屋の店先に作られた植え込みが燃えていた。

「マジで火事だ!?」

まだ葉が燃えている程度でそこまで燃え広がってはいないが、火事は火事である。

「水!誰か、水持ってこい!」

続いて出てきた密草が指示を飛ばすが、全員パニックを起こしているのか木の実のように植え込みの中で燃える火種を眺めている。

「み、水……笠原さん、水道とかどこに――そうだ、水!」

水を探していたら思いついた。あるではないか、ここに。陽向は肩に乗った子龍を掴んで降ろす。やることはわかっているとばかりに、子龍が「ぴ」と鳴いた。同時にやって来る、力が吸い出される感覚。

「子龍!……えっと、消火っ!」

「ぴやっ!」

技名とか、考えている場合ではなかった。その場でやるべきことをそのまま口に出しただけだ。別に陽向が指示しなくても子龍は勝手にやっただろうけど。

 そんな陽向の内心はさて置き、子龍の口から発射された水流は消防のホースよろしく燃える植え込みに降り注いだ。


 これも妖の性質か、視えていない小学生たちは陽向が庭のホースを持ってきたとの解釈に収まったようである。緊急事態であれ、このように処理されるのかという良い指標になった。

 植え込みは少々枝は折れたけれど無事に消火できたようだ。未だにぽたぽたと水を滴らせている。すぐ後ろの駄菓子屋の外壁にも被害はなさそうだ。

「子龍の水って、現実の火も消せるんですね……」

陽向としてはそちらに驚いている。座敷童の真琴の家でも床板を貫通させたので実体があることはわかっているが。

「幻とかじゃなくてよかった」

「幻でも高位なら実体を持つけどな」

腰に手を当てて焼け跡を観察する密草が答える。

「知ってるか?冷水が入ったやかんを沸いてるって勘違いして触ると実際に火傷したりするんだぜ」

幻も同様に、思い込めば現実になるらしい。高位の妖だと無機物も騙せるのだとか。

「へー」

密草の雑学に感心しつつ、陽向は肩を回す。この倦怠感は子龍に力を持っていかれたせいだ。隠蔽術式を発動させていたのを忘れて子龍に注ぎ込んでしまった。今も術は作動させているので疲労として露骨に現れる。

「で?ポコはこの辺に用事か?」

「わ、よくわかったね!」

陽向の隣で焼け跡を覗き込んでいた小学生が目を輝かせた。火災の第一発見者である少女だが、陽向が妖気を見紛うわけもない。勒白寺山の子狸、ポコである。初めて助けを求めてきたときとは違う少女の姿だが、陽向の目は誤魔化せない。何なら妖気を視る必要もない。

「そりゃな。ぬいぐるみ、外に出てるぞ」

「あっ、ほんとだ」

陽向の指摘に、ポコは首から下げているキーホルダーサイズのくまのぬいぐるみを慌てて服の中にしまう。彼女の宝物だ。見たところ陽向が補修して以来傷らしいものはついていないので安心する。

「あのね、この近くのヌシ様に亀様からのお手紙持ってきたの」

亀様というのは勒白寺山のヌシのことだろう。ポコの保護者になったそうだが、そのお遣いだという。

「もうちょっと大きくなったら眷属にもしてくれるって約束してくれたの」

「ほお、ヌシの眷属とは大きく出たな」

密草がポコに向けて翳していたスマホを降ろして頭を撫でた。恐らく妖であることを確認していたのだろう。

「しっかしここに来て例の小火騒ぎとは。ガキどもは犯人らしい人を見たって言うし」

密草が肩を竦める。笠原は店内で子供たちを宥めている。この後警察に通報すると言っていた。

警察サツが来る前にずらかるぞ。俺らがいると話が面倒だ。嬢ちゃんもヌシさんのお遣いに戻りな」

言い方が悪党のそれなのが非常に気になる。

 ポコを見送って、陽向は密草に訊ねた。

「生安課って、警察に繋がりとかはないんですか?」

春日野から生安課への調査依頼は寺や神社などを通してされると聞いている。

「ないことはない、って感じか」

密草は面倒臭そうに頭を掻いた。

「現場に来る奴が『そう』なことは滅多にないから、事情聴取とか受けるだけ無駄……っておい、まさか」

密草が目を細める。彼の予想はたぶん正解。陽向は焼け焦げた植え込みに目を向けて結論を告げる。

「ほんの少しですけど、火に妖気がありました」

「マジかよ、こっち案件か」

「ただ、犯人自身の妖気がなかったです。火の妖気も本当に少なくて」

陽向は気になった点を口にする。妖力で火を付けたのなら、その瞬間の妖気くらいわかりそうなものなのに。この感覚は子龍を襲った編み笠の侍に似ている。近づかれるまで妖気に気付けなかった。

 一人で考え込む陽向をしばらく見つめて、密草は嘆息しながら次の指示を出した。

「隠蔽術式、発動してるな、よし。重ねがけするから耐えろよ」

「いっ!?」

言うが早いが、密草はすでに霊符を手にしていた。呪言とともに陽向のかけている隠密術式の負荷が増した。崩れそうになる術を慌てて立て直す。子龍に力を分配した後のこれは、かなりきつい。

「このまま移動するぞ」

「……笠原さんたちは?」

行先を親指で示した密草に、陽向は店内へと目を向ける。笠原が店の電話の受話器を上げていた。

「隠蔽術式の出力を上げたから、俺たちのことは忘れるだろ。あとは警察の仕事で、その先に俺たちに依頼が来るかはその後だ」

速足に駄菓子屋を離れる背後で、パトカーのサイレンが聞こえてきた。


「ち、また見つかったか」

近くの公園のベンチでひょん爺は不貞腐れていた。

 見た目はどこにでもいるおじいちゃんだ。公園を散歩していても違和感がない。和服というわけでもなく、ちょっとくたびれた普通のポロシャツである。むしろ陽向たちの方が俄然浮いている。なので隠蔽術式は全力で作動させている。

「よくおれの居場所がわかったな。新しい術でも開発したか?」

大事そうに抱えた木箱を抱き寄せて上目遣いで見てくる。しぐさだけなら可愛いが、残念ながらじじいである。

「残念だったな、ひょん爺。対ぬらりひょん必殺兵器を導入したんだ。どこまででも追いかけるぜ?ここが年貢の納め時だあ!」

密草が腕組み仁王立ちスタイルで見栄を切る。ここで「ぬらりひょん専用でもないんだが」とか言い始めると面倒なことになるのは目に見えているので陽向は黙って見守っていることにする。呆れてはいるけれど。

「ちぃ、何と面倒な……。だが、家賃の取り立てだろう?それなら安心しろ、今から金を作りに行くところだ」

にやにやと木箱を撫でる。見れば相当年季の入った木箱だ。墨書きも見える。いいものならいいもので、そんなむき出しで持ち歩いていいものなのだろうか。

「ひ、ひょん爺が家賃を払おうとしているだと……?」

密草が愕然としている。そんなに驚くことなのだろうか。

「玉ちゃんが泣いて喜ぶぞ。槍でも降るのか?」

「倍にしてやるから、来月分も一緒に払ってやってもよいぞ?」

「それパチだろ……って居ねえし!?」

「あ」

今度は陽向も気付かなかった。わずかに妖気が残っている。どうやらぬらりひょんの権能を本気で使ったらしい。追いかけられはするが、逃げるときに妖術を使われたら陽向では防ぎようがない。

「あんのじじい……」

密草がこぶしを握り締める隣で、陽向はひょん爺の妖気を追いかけていた。

 ひょん爺がどこかへ紛れ込むとき、それ相応の妖気を放つ。さすがは総大将とまで言われる妖怪なだけはあり、離れていてもわかるくらいには強い妖気だ。だから、追いかけること自体はそれほど難しくない。

「上名ぁ、質屋だぁ。質屋で張るぞ」

考え込んでいたら密草の手が肩に乗った。彼の方が妖怪みたいな形相をしていた。


 天巳市は田舎だ。よって、質屋など数えるほどもない。貴金属買取店や金券ショップなどは駅前にあるが、ひょん爺が持っていた木箱からして骨董だろう。骨董店も隣町に行かないとないから、狙うは駅前商店街に唯一ある質屋である。

 というわけで、一同は駅にほど近いメインストリートから一本裏に入った質屋の近くに陣取っている。

 質屋の入口からは見えないように民家の塀の陰から様子を窺う。隠蔽術式がなかったら完全に不審者だ。現にさっき散歩中の犬に吠えられた。子龍に吸われた分と駄菓子屋で重ね掛けした分の疲弊を我慢して、陽向は全力で術式を発動させている。

「お、誰か来たぞ!」

声を殺して密草が知らせてくれる。けれど様子を覗く前に陽向は見知った妖気に首を傾げた。

「え、何で?」

陽向は密草が驚いているのを放置して塀の陰から歩み出る。予想通り、赤みがかった茶色の髪の少女が振り返って目を丸くした。同級生にして本日からバイト先の先輩になった稲月セリナが、同じような黒い着物の女性たちと一緒に質屋の前に佇んでいた。


 彼女たちは別件の依頼でここを訪れたのだと言う。セリナと寺尾てらおと名乗った女性と落合おちあいと名乗った男性は生安課のメンバー。即ち、陽向の先輩である。そして彼らの依頼主が。

「あのクソじじい、質入れするに決まっとるんじゃ!」

この日本昔話から抜け出してきたようなちゃんちゃんこ姿の老人である。

「このおじいちゃん、付喪神つくもがみでね」

寺尾がのんびりと説明してくれる。妖気からして人間でないことを陽向はわかってはいるが。

「大切な本体を盗み出されちゃったのね。ああうん、犯人はわかってるの。だから絶対質入れするはずってわけでここに来てみたのね」

女性陣と合流してから目的の人物を待ち構えるために陽向たちも一緒に元の塀の陰に戻った。「わしの本体返しやがれ!」と喚く付喪神を「大きな声出すと見つかっちゃうわよ」と寺尾がまったり宥めている。

「おい寺尾。まさかとは思うが、その犯人って」

「ひょん爺なのよ」

頬に手を添えて優雅に答えた寺尾に、密草が脱力して座り込んだ。その気持ちは陽向もよくわかる。

「ってことは、ひょん爺が持ってた木箱が本体ですか……」

陽向はひょん爺が大事そうに抱えていた木箱を思い出す。項垂れたままで密草が「だろうな」と肯定してくれた。

「わしの本体、持っとったのか!?」

付喪神が食いついてきた。

「たぶん?」

十中八九そうだと思うが、確信があるわけではない。付喪神の本体に妖気はないのだ。道具はあくまでただの道具である。だが、密草も認めるように限りなく正解だとは思う。けれど絶対はないとの意味で濁した陽向の返答に付喪神は露骨に凹んだ。罪悪感が募る。

「それで?ひょん爺は本当にここの質屋に来るのか?別の質屋とか、骨董店に行く可能性は?」

寺尾と一緒に行動していた落合が疑いの目を密草に向けてくる。どうやらここに来る過程で寺尾とも揉めていたらしい。

「うーん、けど落合君も他のお店に心当たりはないんでしょう?」

一重で切れ長の目をさらに細めて寺尾が首を捻る。落合はそっぽを向いた。反論がなかったらしい。

「確信はねえが安心しろぉ。こっちには最終兵器がいる」

密草が顔を上げた。非常に悪い顔をしている。外聞が悪すぎるので最終兵器は今すぐ帰りたくなっていた。だが、嘆く付喪神の本体を質流れさせるのもかわいそうなので我慢する。

「……あの、そろそろ来ると思うんでもうちょっと待ってください。こっち来てます」

全員の視線が集中するのに耐えきれず、陽向は視線を地面に逸らす。民家の塀の際に生えた苔が目に入った。

「そこでだ、お前ら作戦がある。聞け」

密草の悪人面が止まらないが、自分から視線が逸れたので陽向はよしとする。注目されるのは心臓に悪い。


「そろそろそこの辺り……」

陽向が指さした先は電柱だが、直線だとこっちの方角である。

「マジだ……」

落合が唖然と呟いた。それを頭一つ分高い密草が見下ろして得意げに鼻を鳴らした。

「見たか、この威力」

「確保ぉー」

何故密草が得意げなのかと半目で見上げた陽向の横で寺尾がまったりと言う。即座に剣持とセリナが走り出した。

「セリナ、退路を」

「はっ!」

剣持が短く言って、セリナが応じる。大きく跳躍した彼女は身を翻したひょん爺の頭を飛び越えて着地した。

「ひょっ!?」

驚いたひょん爺が足で急ブレーキをかける。妖気が高まるのを、陽向は見逃さない。

「逃げる術使うぞ!前方方向!」

「ん!行きます」

陽向の告げた分析に応えて、セリナが両手を脇に広げた。

「周囲防御するから思いっ切りやっちゃって~。陽向君も行くよー。急々如律令っと!」

「はい!急々如律令っ!」

指を振った寺尾の動きに合わせて道路と民家の境界線に結界の壁が立ち上がる。その反対側に陽向も霊符に込めた力を流した。事前にやったたった一度の練習だけで無事に結界が張られたことに安堵する。その壁にセリナの掌から溢れ出た緋色の炎が突撃した。衝撃が腕に伝わって、霊符に流す力が滞るのがわかる。これに負けたら民家が全焼するので、陽向は頑張って耐える。

「あちちっ!?」

道路を塞ぐ形で完成した炎の壁に阻まれて、全員の意識から消えていたひょん爺が姿を現した。それを背後から剣持が羽交い絞めにする。

「よっしゃ成功!」

「作戦通り!」

作戦立案した密草と特に何もしていない落合が拳を合わせた。


 「ふざっけんな、離せこのやろー」

背の高い剣持に羽交い絞めにされて、ひょん爺が宙に浮いている。足をバタバタさせているが、剣持には大したダメージではなさそうだ。

「ふざけてんのはてめーだ、人の本体勝手に持ち出しやがって!ってか俺ん家にも勝手に上がり込んだだろこの泥棒野郎!」

無事に取り返した本体の木箱を抱えて付喪神が吠える。


 喧嘩する二人をしり目に密草は陽向の初めての結界術を労った。

「上出来だ。あの強度だから行けるとは思ったが。破れたら張りなおそうと思ってスタンバってたが、杞憂だったな」

一方、ここまで隠蔽術式を使いっぱなしだった上に子龍の水噴射までしてからの結界術に陽向は疲労困憊である。

「ギリギリでしたけどね……」

セリナが炎を出したのは一瞬だった。それでも危なかった。

「てか、バックアップ付いてたなら言ってくれればいいのに」

知っていればもう少し安心できたはずだ。初心者に任せるわけがないとは思ったけれど。

「控えがいるってわかってたら全力出さねえだろ。無意識でもな」

「……確かに」

緊張感はあった。新人教育には余念がないらしい。


「やかましいわ!あーあ、せっかく家賃払ってやろうと思っとったのに」

「嘘こけ、絶対パチでするだろ!?」

「ひょん爺、ちょっと分が悪いわよ~」

年寄り二人の大喧嘩に終止符を打ったのは気の抜けそうな寺尾の軍配であった。

「それと、悪いなひょん爺。あんたが金持ってるのは知ってんだよ」

悪い顔で笑った密草が羽交い絞めにされたままのひょん爺のポケットに手を突っ込んだ。

「てめえ、勝手に……!」

「うるせえ、取り立てだ観念しやがれ」

ポケットから出てきた黒財布は外から見てわかるくらいには膨れていた。


 ひょん爺と付喪神は連れだって妖幻荘の二階に上がって行った。言い争う声が未だに聞こえてくるが、ここまでの道すがらでじゃれ合いだと陽向も理解したので特に口出しはしない。

 なお、その間の喧嘩でひょん爺が付喪神の本体を持ち出した理由も大体把握した。

「生安課のみなさん、今月もどうもありがとうでした」

パンパンに見えたひょん爺の財布の中身はほぼほぼ千円札だった。ぱちん、と音を立てて数え終わった玉が「確かに」と札束をポケットにねじ込む。見た目だけは札束だが、千円札なので総額はそれほど多くない。つまり妖幻荘の家賃もそれほど高くない。むしろ、安い。

「しかし、金を作ろうとした理由が投資詐欺とは」

密草が頭を抱えている。電話で投資を持ち掛けられたそうだ。「絶対に儲かるから」に応えてはいけないことなど、未成年の陽向でも知っていると言うのに。詐欺だと確定したわけではないが、話からして十中八九そうだろう。つくづく質入れ前に間に合ってよかったと思う。

「妖の総大将が聞いて呆れるぜ」

「ほんとにね~」

嘆息する密草に寺尾が笑顔で小首を捻る。

「そもそもあのおじいちゃん本当に妖の総大将なのか怪しいけどね」

玉が口元に手を添えて声を潜めた。

「そんなとこ見たことないし」

「だな」

うんうんと密草も頷いている。

「ところで、あの付喪神の本体ってどんなんなんです?」

ぐいっと身を乗り出してきたのは落合だ。実は陽向も気になっていたので絶好の機会である。投資詐欺に応えられるくらいの評価額を狙える品物。結局最後まで箱しか見れなかったので、中身を知らないのだ。

なつめだよ。これっくらいの」

玉が教えてくれる。親指と人差し指で作った幅は十センチより少し大きいくらいだろうか。

「「棗?」」

図らずも落合と声が被ってしまって、さらに落合が睨んできたので陽向はそっと目を逸らす。茶道具なら高いものは高いだろう。

「茶道の抹茶入れるやつね。一回見せてもらったけど、漆塗りに螺鈿加工で綺麗だったよ」

うっとりと両頬を手ではさんだ玉の反応からして、相当の一品だったのだろう。

「なんでもさる戦国大名の愛用品だったとか?」

玉の表情からは本気か冗談か見極めることはできなかった。本当ならやはり名器だ。付喪神が完全に人の姿を得ていたことから、年代物であることは確かだろう。

「それがこのセキュリティで大丈夫なんです?」

思わず不安になって聞いてしまったけれど、聞いている間に思いついた。陽向は恥ずかしながら自分で答えを言う。

「……住民全員妖だから大丈夫か」

「そういうこと」

玉がウィンクしてくれる。ひょん爺だけでも結構な妖気だ。ここに泥棒に入ること自体が自爆行為だろう。

「付喪神の爺さん含めてそれなりの戦力だし、住民同士基本仲良いから押し入った時点でボコボコにされるね」

なんとも恐ろしいアパートである。どう見てもボロアパートなのでここを泥棒が狙うかは謎だが。

「それじゃね、お疲れ様。近くで火事もあったみたいだから、気を付けてね」

軽く手を振って玉は一階の自宅へ戻って行った。


 事務所に戻って昼食となった。

 食堂も完備しているそうで、壮年の夫婦が準備するご飯を頂く。二人がいるときなら注文すればいつでも応じてくれるらしい。料理はリクエスト可能で早い者勝ち。朝、二人がいるときに昼と夜のメニューを言えば対応してくれる。事務所には泊まり込みの者もいるので、通いの陽向には縁がなさそうな話だ。アレルギーとかの食べられないものを聞かれたので特にないと答えておく。

「そのときに材料があれば、だけど」

給食みたいにワンプレートで渡された料理を受け取るときに、三角巾を頭に巻いた女性が耳打ちしてくれた。

「十時以降の夜食なら好きなもん出してやれるよ」


 十時以降か、通いだからその時間にここにいることはほぼないだろうな、と陽向は思っていた。寮を案内されるまでは。

「こっちが男子寮ねー。三階は女子寮だからあんまり近づかない方がいいわよー。近づくなら命がけでねー。お風呂はそっち。女湯は別にあるけど、女子寮の奥だからまず入ってこれないわ」

まったりと恐ろしいことを言う寺尾に案内された先は事務所の上階。従業員の事情が事情だけに大半の所属員がここで寝泊まりしているそうだ。自宅から通う陽向が少数派である。

「で、ここが陽向君の部屋ー。通いって聞いてたけど、一応準備してみました。好きに使っていいからね」

扉に付けられた小さな枠に陽向の名前が入っている。新しく作られたのか、隣の部屋と比べて地の紙が白い。あと、フォントが違う。

 中はワンルームの安アパートのようだった。風呂トイレキッチンなし、クローゼット兼納戸一つ。あとは学習机とベッドが一つずつ。陽向のために布団まで用意してくれたらしい。ベッドの上には朝方服を設えてくれた老婆に剥かれた私服が丁寧に畳んで置いてあった。

「いいんですか、わざわざ」

「部屋はいっぱいあるし、布団もいっぱいあるから大丈夫よ。ご遠慮なく」

「共同生活だから多少の煩さは我慢しろよ。文句は受け付けねえ」

密草が腰に手を当ててふんぞり返っている。

「お洗濯とかは近所にコインランドリーあるからそこで。ベランダついてるからお布団とかも自分で干して頂戴ねーって、通いの人にそれは酷かしら」

「いえ、やります」

ここまで準備してもらったのだ。それくらいはやらせて欲しい。陽向の申し出に寺尾が微笑み、密草は何故か鼻を鳴らした。

「それでその、相談なんですけど」

折角部屋があるのだ。陽向は真剣な顔で密草と寺尾を見る。これはとてもいい機会だ。言い訳という名の理由を考える手間も省けて一石二鳥だし。内心嬉々としながら、陽向は二人に許可を願い出る。

「ゴールデンウイーク後半、ここに泊ってもいいでしょうか……?」

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