第二部
序章
印刷機で出したテープを貼り付けた紙を目線の高さに持ち上げて、
抱いた嫌悪感にあっと思ったがもう遅い。指の下から紙が燃え上がった。半ばほどまで焦げる。
「あ……」
またやってしまった。こうなることを見越して要らない広告を敷いてあるから汚れはしない。深呼吸してから慎重に広告の端を持ち上げて灰を中心に集めると、セリナは肩を落とした。
これで机に残ったシールはあと三枚。貼るための台紙も三枚。まだ三枚あることを希望に思うか、すでに七枚を犠牲にしていることを悔やむべきか。何故この仕事を自分に頼んだのか全く理解できない。とにかく向いていない。だが、他の人たちは皆忙しそうだ。自分だけ何もしないというのも申し訳ないので挑む。
と、そんなことを思っていたらもう一枚が炎上した。
申し訳ないと思ったことが引き金だったらしい。
感情がきっかけだと言うことは解っている。だから、できるだけ感情を波立たせないように教えられてきたし、セリナ自身も気を付けてはいる。けれど湧きあがる感情を抑えるのは難しい。セリナの場合、ほんの少し思っただけで能力が発現してしまう。
手首に付けた妖力を制御する術具を握る。術を以って抑えてもこれだ。
幸いにも眠っている間は発現したことがないので大きな火事にはなったことがない。そもそもセリナの扱う火は幻術なのでセリナが嫌だと思ったものしか燃やさない。自分が注意すれば日常生活には支障ない。
こういうこだわりが必要な仕事を任されなければ。
何とか貼り終わった一枚を持って男子寮へ向かうと、若手メンバーが箒や雑巾片手に掃除していた。新人が来るので今日までに廊下などを掃除しておけと言われていたのにやっていなかったらしい。早朝、
「……あの」
恐る恐る声をかけると、寺尾の笑顔が変わった。それまでも笑顔だったが、今は目も笑っている。
「できた?うんうん、上手上手」
新人の名前がフルネームで貼られたネームプレートを渡しかけたセリナは気付いてしまう。同時に、寺尾も気付いた。
「あら、フォント間違えちゃった」
廊下に並ぶ隣の部屋のネームプレートと見比べると丸っこい字になっている。シールを用意したのは寺尾なのでセリナの責任ではないのだが、それでも嫌だと浮かんでしまった。
「おっと」
息を呑んだセリナの手から寺尾がネームプレートを引っこ抜く。
「ちょっと焦げたけど、大丈夫、読めるから問題なし!」
「あ……」
本音を言えば直させて欲しいが、これ以上テープを無駄にするのも気が引ける。寺尾の手で部屋の戸に設置されたネームプレートは無事に白いままだった。よく見ると端の方が焦げているが、枠に重なっているのでほとんど見えない。言われなければ気付かれないだろう。
「
「はい」
のっそりと雑巾を持ったまま状態を起こしたのは、犬神憑きの剣持だ。セリナと同じ、感情が能力に影響してしまうタイプの能力者なので彼の言動も素っ気ない。あれがセリナの目標だ。
雑巾をバケツの水で洗ってから、剣持は階段を降りて行った。新人の入るグループの実戦担当として今日の任務に同行すると聞いている。新人の素性を知っていて、何なら共闘したこともあるセリナとしては少し複雑だ。だが、新人教育を考えるならば周囲はベテランで固めた方がよいのだろう。それは理解できる。
〇
一階へ降りると、新人はすでに出発した後だった。
実践あるのみ、が信条の生安課らしい素早さである。男子寮の掃除が間に合っていないのでそれもあるのだけれど。
「同級生だって?」
「!」
後ろから声をかけられて驚いて跳ね上がる。振り向いたすぐそこに老婆の顔があった。見えているのか心配になる皺に埋もれた目が更に細められている。
「つうさん。……びっくりさせないで、危ないから」
何がきっかけで火が出るかわからない。妖力が暴発しなかったことに安堵しながらセリナはつい困り顔を作ってしまう。
「小娘の妖気に焼かれるほど雑魚じゃないから安心おし」
にっと笑ったしわしわの口の中には、老婆とは思えない綺麗な歯が並んでいる。
「それより、さっきの小僧。同級生だって?」
「一日しか登校してないけど、そうみたい」
セリナは残念ながらクラスメイトの顔も名前も覚えていない。そもそも通うつもりもなかったが、いつの間にか管理局の伝手で入学申請が通っていたのである。事情を汲んだ特待生扱いだそうだ。せめて一日だけ、と春日野に懇願されて登校したが、やはり無理だった。
だが、彼は覚えていたらしい。初対面かと思ったあの異界の中で、彼はセリナの名を呼んだ。初日の自己紹介しかしていないし、その後は自重せずにいたから周囲の人間は姿も見えていなかったはずだ。彼に通用していなかったことは後々判明したけれど。
「春日野がやけに嬉しそうだったから聞き出したんだよ。いいじゃないか、同級生で後輩」
楽しそうに呵々と笑ったつうはセリナに手袋を差し出した。
「ほら、新作だよ。耐火性能上げといた」
「ありがとうございます」
素直に受け取る。黒い革製のグローブでぴったりと手になじんだ。
「サイズは大丈夫そうだね」
満足そうに頷いてから、つうがもう一つ抱えた塊を「ほれ」と差し出す。まじまじ見たら服だった。男物の。
「件の新米のだよ。ここで着替えさせたから置いてっちまった。部屋は準備できてるんだろ?」
言わんとしているところを察してセリナは首肯してから綺麗に畳まれた一式に手を伸ばす。少し躊躇したが手を覆う黒が目に入って安心して受け取った。
手袋の有無にかかわらず発火しなかったことに安心していたら、さらにその上に布を積み上げられた。つうが口の端を吊り上げる。
「着替え分だよ、持ってっておやり」
部屋に行くことには変わりないので、否とは言わない。
依頼のない日は街の見回りが生安課の基本的な仕事だ。
周囲に存在を悟られないために隠密術式を張る担当に寺尾。有事の際のサポート役術師に
「新人に会い損ねちまいました」
街中を歩きながら落合が愚痴る。頭の上で両手を組んだ彼の羽織が捲れて裏地がちらりと覗いた。派手派手である。寺尾が隠密術式を動かしているから、和服姿の三人を目に止める者はいない。この状態のこちらを認識できるのは妖くらいだ。
「落合君たちがお掃除してなかったからでしょう?昨日までねって言ったのに」
「うっ」
事務所内の清掃は各々の当番制だが、取り仕切っているのは寺尾だ。総監督の笑っていない笑顔に睨まれて落合が声を詰まらせる。
「セリナ以来の後輩だってのに……セリナと同学年だっけ?ってことは三個下か」
「ダメよいじめちゃ」
寺尾が「めっ」と言う声に合わせて落合の脇を指で弾く。
「痛っ……そんなつもりないっすよ、やだなあ」
少なくとも先輩風は吹かせる気満々だったようだ。彼はセリナに対してもそんな感じだったので大体の予想はつく。けれど性別が違うからまた異なるのだろうか。落合の笑顔は誤魔化しになっていないので非常に不安である。
「セリナは初めての後輩ね。もう一緒にお仕事した仲なんだっけ」
「……はい」
間違ってはいないので寺尾を肯定したら落合が「何だと!?」と噛みついてきた。
「聞いてねえぞ!?」
「そっか、落合君出張してたときだね、丁度。先週なんだけど、調査課の方で一悶着あってね。それにうちが巻き込まれた件で見つかったらしいわよ、彼」
そこにセリナが同行したのは本当にたまたま、偶然だ。負傷したヌシの眷属に助けを求められたときに、事務所に動ける者が春日野とセリナしかいなかったのである。結局ヌシもその眷属も手遅れだったが、結果としてヌシの子供と契約した彼と出会うこととなった。
「高校生になるまで管理局に見つかってねえ
「それはみんな言ってるわね」
本人は全力で隠していたと言っていた気がする。確かに、周囲に発現する能力者でなく視えるだけならば隠蔽することは不可能ではない。
「春日野君がおもしろい能力持ってるって言ってたけど、どんなかしらねー。気になるわ」
寺尾は楽しそうだが、落合は顔を顰めた。セリナの勝手な推察だが、自分の立ち位置を脅かされるのを危惧しているのだと思う。恐らく彼も術師になるのだろうし。
「あら」
しばらく歩いたところで、寺尾が足を止めた。街の中心部にある公園の脇道である。
「やだ、火事かしら」
車が一台入れるくらいの細い道幅いっぱいに消防車の赤が見えた。停車しているが、救急のランプが点滅していた。その近くで消防隊員が一人の女性を囲んでいるのが見える。長めの明るい茶髪をふんわりとひとつにまとめた若い女性だ。よく見ればその周囲で真剣な顔で小学生たちが見上げている。消防の人たちが慌てていないことから、すでに鎮火したか
「火事、最近多いみたいっすね」
「ええ。新聞で見たわ」
その記事ならばセリナも確認している。ただ、隣の市が主立っていたはずだ。天巳市の南側の市で頻発しているらしく、状況から見て放火ではないかと書かれていた。燃えやすいものを外に置かないようにとの注意喚起も出回っている。
火か、とセリナは手袋に包まれた己の手を見下ろした。関係ないのは自分が一番知っているが、気分がよいものではない。今のところ家が全焼するような大きな火事には至っていないようだが、火は延焼が怖い。大事にならなければいいけど。
「行きましょ。野次馬するのもアレだしね」
「うっす」
寺尾に促されてその場を離れようとしたら、着物の袖を引かれた。
「え?」
今の自分たちは普通の人間には見えないはずだ。それなのに触れられたということは。
「や、やめ!怪しいもんじゃねえよぉ!」
考えるより先に手が腰の太刀の柄を握っていた。慌ててセリナの着物から手を離したその正体を見極める。
「あんたら例の生活安心課だろ?ちょっと助けてほしくてよお」
ぱたぱたと両手を広げて顔の前で振るのは、ちゃんちゃんこ姿の老爺だった。禿げ上がった額がまぶしい。
「……妖?」
訊ねたセリナに、老爺はコクコクと何度も頷いた。寺尾と落合が何事かと戻ってくる。ひとまず害はなさそうなのでセリナは柄から手を離した。
「付喪神なんだがよ、本体盗まれちまって……そういう相談はダメかなぁ」
「もちろん、いいわよおじいちゃん」
割って入った寺尾が老爺に目線を合わせるために少しかがんで快諾した。当てのない見回りもときには有益である。
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