終章

 「おっし、順調に治ってきてんな!」

くたびれた白衣を羽織った初老の男性が、陽向の前で膝を打って椅子ごと回る。外した包帯とガーゼを黒い着物の女性が運んで行った。

 子龍が攫われた騒動から三日。陽向は今、生安課専属だという医師が経営する個人医院を訪れている。密草みつくさと名乗る医師が塗る薬に微弱な力の流れを感じる。彼によると傷の治りを助ける術が込められているそうだ。

 確かに、密草が処置する腕の傷はざっくり切れていた割に治りが早いように思う。

「これでヒリヒリしないと最高なんですけど」

この薬、痛いのである。我慢できないほどではないが、風呂に入ったときのように沁みる。

「良薬口に苦し、だ。そのへんは諦めろ」

密草も承知している通り、術式の副作用だ。治りが早いのは陽向も実感しているので不安はない。

「ほい、できたぞ」

新しい包帯を巻き終えて、密草が診療の終了を宣言した。

「これであと数日様子見ろ。薬はもう塗らなくていい。大丈夫だと思ったら包帯も外していいぞ」

随分と適当だと思う。なお、陽向が来るまで待合室に他の患者の姿はなかった。外装もボロボロだし、裏の事情を知らなければ飛び込みで診察を求める患者など来ないのではないだろうか。


 「よし、治療はこれで済んだから経過報告と行こう。終わったぞ春日野」

「はーい」

間延びした返事と一緒に診察室と待合室を仕切るカーテンを開けて春日野が入ってくる。代わりに密草が席を立った。

「今日は貸し切りだ。このままここを使ってくれや」

ぺたぺたとスリッパを鳴らして密草が気だるげに手を振る。それに「助かるよ」と答えて春日野が密草の座っていたオフィスチェアに腰を下ろす。

「さて、上名君」

「はい」

表の方では入口の戸締りをする物音が聞こえる。本当に閉店するらしい。

「積もる話はいろいろあるんだけど、まずはこれからかな」

抱えていた大型のバッグを膝の上に乗せて、すでに半開きだったファスナーを開けていく。陽向は中身を知っているけれど。

「子龍!」

「ぴ!」

開けられた鞄から頭を出した子龍が、陽向の腕の中に飛び込んでくる。

「密草の話だと、所見なし。至って健康。大丈夫でした」

「よかった」

三日ぶりに会った龍神の子は猫のように陽向の掌に頭を押し付けてくる。鬣があるので手触りは猫と大差ない。

「やっぱり君と一緒の方が落ち着くみたいだね」

微笑んだ春日野が、これまでの経過を教えてくれた。


 まず、子龍についてはヌシの資格を失っている状態であること。また、子龍を捕えていた術式の名残りを解析したところ、子龍を学校の異界のヌシに据えようとする術であったことが判明。

 どうやら術式でヌシの領地替えを目論んでいた模様である。だが、陽向が子の術式を破壊したことで、子龍には古民家の異界のヌシの座を降りた状態が決定された。故に、ヌシを解雇された事態に等しい。もう一度あの異界のヌシに戻ることは難しいそうだ。

 この辺りは真琴の話にあったように絶対不可能ではないが、術式などで人為的にどうにかできる問題ではないとのこと。

 つまり、子龍はもうヌシにはなれない。

 鬣を指で梳いて、陽向は子龍の妖気を探る。かつてはうっすらとだが纏っていたはずの神気がなくなっている。ただの普通の妖の気配だ。


 行方をくらませた細蟹については、未だに見つかっていない。妖気を探す術式や人材を総動員しているそうだが、発見には至っていないそうだ。

 調査部に所属していた細蟹であるが、上司である葛城も彼女が妖もしくは妖憑きであることを知らなかった。本来は登録時に調べられるが、その検査を逃れた方法もしくは書類の改竄の可能性も真相は闇の中である。

 併せて、細蟹と行動を共にしていた蜘蛛の妖二匹と編み笠の男の詳細はまったくもって不明。管理局のデータベースにも登録はないので、自然発生的に現れた妖の可能性が高いとのこと。

 これについては細蟹の正体も含めて、すべての妖を管理局が把握しているわけではないので仕方ないことだ。

「うまくけむに巻かれたような気もするんだよねぇ」

春日野が薄茶色の髪を掻く。

「目撃者が君と生安課ぼくたちしかいないから、うまいこと誤魔化されてる可能性はあると思う」

生安課は管理局の中でも新興の部署だ。その地位は決して高くない。上層部に切り込める伝手も葛城くらいしかおらず、その葛城も自身の身内が容疑者ということで立場が悪くなっている。

 肩を竦める春日野の説明をまとめるとこんなところだ。

「細蟹さんが見つからないのも、表向きしか捜査してないからだろうし」

たかが妖の一匹や二匹、管理局が本気を出せばすぐに見つかるものなのだそうだ。

「それって、職務怠慢なんじゃ……」

「大人の事情ってやつだよ」

春日野が両掌を天井に向けて広げてみせる。

大事おおごとにしたくないんだ。管理局の理念は平穏の維持だからね。よく言えば温厚主義、悪く言えば隠蔽体質だね」

陽向としては、管理局がそれでまかり通っていることに不安を覚えざるを得ない。

「それを何とかしようって立ち上げたのが生安課なんだけどね」

子龍の入っていたバッグから、分厚いクリアファイルが出てきた。

「で、ここからが本題」

散らかった診療所のデスクにクリアファイルを置くと混ざりそうで心配になる。ファイルは模様も何も入っていない透明なものだ。近くにも似たようなファイルが乱雑に置いてあって、陽向は春日野が出した書類から意識を外さないように注意する。

「細蟹さんたちの狙いが子龍を学校の異界のヌシにすることだった以上、目的は潰えたと言っていい」

目標であった子龍を狙う意味は消滅した。

「一方で、何故か君と子龍の契約は維持されている」

葛城の術で解消されたはずの、陽向と子龍間の巫覡の契約は何故か機能している。葛城が失敗したのか、子龍が何かしたのかはわからないが、実態として未だに二人は契約で繋がっているのだ。

「管理局が今回限りの被害者として子龍を断定したから、本件に関して他の部署が関わる事態は終了したとみていい」

なぜなら、子龍はもう標的にはなりえないのである。

「かといって、君を野放しにするとは思えない」

春日野の瞳が陽向を射抜く。

「他部署に引き抜かれないためにも。他部署が完全な善意で君を引き抜きにかかるとも思えない。僕たちを信じてもらえるかはわからないけれど、君を守るためにも、生安課に正式に所属してほしい」

子龍の角が指に当たる。彼が頭の位置を少し動かしたようだ。不安げに見上げる紫紺の瞳と目が合う。

 ひとつ、息をいてから、陽向は春日野に視線を戻した。

「それ、俺からもお願いするつもりでした」

春日野が明確な安堵に肩の力を抜く。

「けど、いいんですか?」

「うん?」

子龍の誘拐騒動ですっかり忘れていた当初の懸念を思い出す。何故今まで忘れていたのかと思うほどに重大な懸念事項だ。

「人間と関わると妖気って穢れるんじゃ……」

「え?ああ、違う違う!!」

一瞬何のことかわからないと首を捻った春日野だが、すぐに得心して顔の前で手をぶんぶん振った。

「確かに、妖気が穢れる原因は人間だけど……。特殊な事例というか……」

言い淀んでいた春日野だったが、陽向の真剣な目線に負けたのか明言した。

「……人に危害を加えると穢れるんだ。物理的なものだけじゃなくてね。悪意をぶつけただけでも穢れる」

「それって、人と一緒に居られないのと一緒じゃあ?」

結局、人と妖は関わらない方がいいのではないか。

「上名君、厳密に言うと、人と人がいがみ合っても影響は出ている。その個人が持っている霊力にね。妖気ほどわかりやすくないから見逃されるだけで」

こればっかりは人と妖だけの問題ではない、と春日野は断言する。

「妖気の穢れも回復できるんだ。人と一緒で付き合い方を間違えなければ問題ないよ。少なくとも僕は、上名君にはそれができるって思ってる」

子龍が頭を指に擦り付ける。もっと撫でろと言っている。それに応えながら、陽向は頬を緩めた。

「できますかね」

一時は縁を切ってしまった世界だ。

「もうできてるじゃないか」

「ぴ」

そうだぞ、と子龍も言う。契約を通じて子龍の言いたいことが伝わってくる。見上げる子龍に微笑み返して、陽向はもう一度春日野に向き直った。

「アルバイトの件、よろしくお願いします」

「よしきた。こちらこそよろしくね、上名君」

春日野の差し出す手を握り返す。

 丸眼鏡の奥で、春日野が柔和に微笑んだ。

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