第十章 奪還

 突入した異界は、打って変わって霧が立ち込めていた。最初に来たときと同じだ。むしろそれより濃いかもしれない。

「ヌシが居なくなってる……」

目を見張った真琴に、陽向は何度もした説明を繰り返す。

「ああ、だから攫われたって」

「違うわよ」

が、即座に否定された。

「あんたならわかるんじゃないの?ヌシの座が空席になってるわ」

「え?」

言われて気配を探りなおす。

「……ヌシの座ってどれのこと?」

「湖の中よ。ぽっかり空いてると思わない」

「言われてみれば」

異界の中は独特の空気が満ちているが、それを感じ取れない箇所がある。球体に近い空間が空白になっているのがわかる。

「埋まってればヌシが居るってことになるのか?」

「ええ。ヌシの力はここに固定される。多少動いても繋がってるから問題ないけど、それでも遠くには行けないわね。異界の中でじっとしているモノの方が多いと思うわ」

「さすがだな、見た目より長生きしているだけのことはある」

真琴はヌシの仕組みについても詳しいようだ。素直に感心したので感想を漏らしただけなのに真琴が目を吊り上げた。

「あんたそれ、他の女性妖怪に言っちゃダメだからね」

褒めたはずなのに怒られた。……ああ、年寄りって言ったのと同じか。

(それは怒るよなあ)

怒った理由に思い至ったので、陽向はすぐに詫びる。しかめっ面から反転、真琴が半目でぼそりと言った。

「……女性に縁がないのバレるわよ」

「うっ、ぐうの音も出ねえ……」

不肖、事実である。


 自然そのままの湖畔だが、急な坂や岩場などの足場の悪い箇所はないのでヌシの館までは簡単にたどり着ける。下草に足を取られないように注意する程度だ。

 静まり返った立派な屋敷の前に、陽向たち三人が立ちすくむ。

「推測で悪いけど、子龍はヌシの資格を失ったわ。正確には解任された状態だから復帰もできると思うけど、前例を知らないから何とも言えないわね」

ヌシの座が空席だった以上、そこに座っていた子龍は解任されたということになるらしい。

「あいつらの仕業だと思うけど、そんなことできるのか?」

「ヌシの解任自体は珍しいことじゃないわ。寿命が一番多いけど、中には領地替えなんかもあったりするわね。私はその辺の仕組みはよくわからないけど。人為的にできるかどうかまではわからないわ」

子龍を縛っていた術は、子龍の妖気まで縛っているようだった。解析している途中で取り押さえられてしまったし、陽向が解析できるのは解除するための構造までだ。その構造が何を意味しているかまではわからない。

 春日野が言っていたように術師を目指せばその辺りも教えてもらえるのだろうか。


 館の外周に沿って裏手へ回る。古典の資料集で見た寝殿造りと呼ばれる古代日本の建築様式だ。陽向の高校にあった異界の館も同じつくりをしていたが、共通様式なのだろうか。正面に大きく開いた板の間にも圧倒されたが、奥行きも結構な距離がある。

 だが、基本的には人間サイズだ。広い屋敷ではあるが、あそこで死んでいたのは巨大な龍神だった。ここがヌシの館だと言うなら、アレがここで暮らしていたのだろうか。

「ここのヌシは人型を持っていたわ。普段はそっちで過ごしてたわね」

真琴に訊いたら教えてくれた。人の形に化けられたらしい。


 「ここだ」

「ここね」

一見何もない空間を見上げて、陽向と真琴の呟きが重なる。異界の切れ目。新たな出入口だ。

「あいつらの妖気が消えた辺りとも一致する。ここに入ってたのは間違いない」

陽向が亀裂の辺りを指でなぞる。反応した。繋がっている。そのまま片手だけ押し込んでみる。

「……!学校の異界だ」

片手に感じた空気に覚えがあって、陽向はつぶやく。引き抜いた手は無事にこちら側に帰ってきてくれた。念のため掌を開いたり閉じたりして感覚を確かめる。問題なさそうだ。

「天巳高校の、ヌシが死んでた異界に繋がってる。子龍、こっから入ってきたのか」

思わぬところであそこで子龍と出会った謎が解けた。異界同士が繋がっているなら、こちらで起きた変事から逃れようと子龍があちらのヌシを頼ったのも頷ける。

 しかし、あちらのヌシも襲撃されていた。逃げ出した結果、異界の外殻に居たのだろう。そこに陽向が迷い込んだのは全くの偶然だろうが。

「私はここに残るわ」

陽向の袖を引いて真琴が言う。

「連絡役になるって、最初に言ったでしょう?あんたたちの仲間が来るなら、そっちの異界に案内できるひとが必要じゃない。受けてあげるわ」

「そうしてくれると助かる。――行くぞ、セリナ」

セリナが頷いて、陽向に歩み寄る。

「陽向」

もう一度、真琴が袖を引いた。見上げる瞳が陽向を射抜く。

「セリナもだけど。絶対無事に帰ってきなさい。子龍も助けてね。――あんた見てると懐かしい人を思い出すのよ。死なれたら目覚めが悪いわ」

「おう。そうだ、あの手紙、ちゃんと友達に渡したから。届けてくれるってメールももらったぞ」

「そういうお節介焼きなところがそっくりなのよ」

ふっと微笑んで、真琴が握っていた陽向の袖を離す。

「行ってきなさい!こっちは任せて。二人の援軍を絶対にそっちに送るから」

激励をありがたく受け取って、陽向はセリナの腕をとる。もう、異界の境界を超えるのも慣れたものだ。


   〇


 空間の亀裂に吸い込まれるようにして消えた二人の背中を見送って、真琴は大きく息を吐く。

 そこまで心配はしていない。直接手合わせしたのだ。セリナの強さは真琴が保証する。並大抵の妖には負けないだろう。

(並大抵の妖には、ね)

懸念すべきは陽向が言っていた強い妖。彼が言うには雇われのようだったらしいが、護衛についていることは変わらないだろう。

(にしても、異界に出入りするどころか『異界渡り』ですって?)

二人の消えた空間の裂け目を見遣る。真琴に向けられた、懐かしい面影を思わせる濃紺の瞳を思い出して、彼女は再びため息を落とした。

「ああもう、早く来なさいよ援軍」

もう一度だけ裂け目を一瞥して、場所をしっかり記憶する。真琴は身を翻して元来た道を戻る。案内するならば、異界の外に居たほうがいいだろう。


   〇


 亀裂を抜けた先は見慣れた学校の廊下だった。

 だが、普段生活している場所ではない。空気感が決定的に違う。異界の外殻。陽向は周囲を見渡して異変がないかを確かめる。

「……こっちには誰もいなさそうだな。やっぱり中の方か?」

「子龍で何かするなら中核だと思う」

緊張感を漲らせてセリナが言う。

「中核にも入れる?」

「たぶん」

気配に意識を凝らして、陽向は答えた。以前春日野と一緒に入ったまま、中庭に繋ぎ目がある。入れるはずだ。

「――行きながら聞いてくれるか?」

歩き出した陽向を追いかけて、セリナが付いてくる。顔だけ振り向いて、陽向はずっと気にしていたことを口にした。


   〇


 やはりヌシの館は似たような造りをしているらしい。勒白寺の亀のヌシも館を持っていたのか気になる。そもそも人間体に変化できたのだろうか。

 真琴の家の異界で見たのとそっくりな寝殿造りの屋敷を見上げて、陽向は一人思う。


 立派に設えられた庭の中央部の池。池と言っても船の一つ二つ浮かべられそうなほどには大きい。

 その畔で蹲っている人影を見つけて、陽向とセリナはゆっくりと近づいた。

「細蟹さん」

「え?あら?」

振り向いた彼女の足元には連れて行かれたときそのまま、術に縛られた子龍がぐったりと臥せていた。

「……あなたたちこの子を助けに来たの?」

目を瞬いた細蟹の表情がぱっと明るくなる。緊張しているのか、彼女の手は震えていた。

「ごめんなさいね、私たちが護衛していたのに。連れ去られたみたいって仲間に知らされて、慌てて探していたのよ。けど、術式が複雑で……」

解除するのに手間取っていた、と細蟹は笑う。

「このまま本部まで連れ帰ろうかしら、って悩んでいたところ。あなたたち、よく入ってこれたわね」

「それは、まあ」

陽向は曖昧に濁す。妖気の件はまだ隠しておくべきだろう。

「解除は無理そうだから、応援を呼ぶわね。ちょっと失礼」

取り出した一枚の紙は人の形に切り取られている。

「ここじゃ難しそう。ちょっと移動してもいい?異界を抜けるのに二人の力を貸してほしいわ」

「二人?どっちかじゃダメですか?」

この状況で子龍から離れたくはない。抗議を込めて陽向は細蟹を睨む。

「ごめんなさい。私の力だけじゃ異界を抜けるのは難しいのよ」

「……」

渋々、二人で細蟹についていく。子龍の妖気から意識は離さない。何かあればすぐに子龍に駆け寄れる体制を取っておくことも忘れない。陽向は思考を巡らせる。彼らは子龍に生きていて欲しいようだった。今のところ子龍の妖気に変化はない。子龍を必要とする用事は終わっていないと見える。なら、狙われるのは陽向たちだ。いっそ子龍からは遠ざけておくのも得策かもしれない。

「えい」

子龍から距離をとること五メートルほど。細蟹の指を離れて宙を舞った白い紙が炎に包まれる。すぐに燃え尽きたが、細蟹が慌ててないからこういう術なのだろう。

「これでよし。すぐ助けが来ると思うわ。だから――きゃっ!?」

突然目の前で細蟹の姿が消えて、陽向は身構える。細蟹を探せば、宙に浮かんでいた。

「な、何!?」

棒立ちで浮かぶ細蟹が身を捩るが、動けないようだ。彼女を包む粘つく妖気、ついさっき陽向を縛ったのと同じ、糸だ。

「細蟹さん!」

「陽向!」

駆け寄ろうとした陽向はセリナの呼び声で緊急停止。その脇に滑り込んだセリナが太刀を振るう。ガンっ、と金属音がして、陽向が視た時にはすでに叩き落された刀が地面に突き刺さっていた。

 まただ。また妖気に気付かなかった。揺らめく陽炎のように草叢に現れた人影を睨んで歯噛みする。

「まったく。あのまま大人しくしていればよいものを」

刺すように鋭い妖気。目の部分だけが細く開いた編み笠の男が、日本刀を手に佇んでいる。

「追ってきたのか、あそこから?」

「今度は仲間も居るぞ」

自然体に立つ編み笠の男の脇から二つの影が盛り上がった。複数の足を揺らしながら出てきたそれは、人の腰あたりまでありそうな二匹の巨大な蜘蛛である。

 熟れた柘榴ざくろを思わせる赤い複眼に見据えられて、陽向の両腕に怖気が走る。そこまで苦手な部類ではないけれど、このサイズは別だ。この大きさの蜘蛛が出てきたら誰でも嫌だろう。たぶん。

 巨大な蝿獲り蜘蛛を思わせるフォルムを伸縮させて蠢く二匹と、動かない編み笠の男をセリナが牽制する。

「そちらの娘、よく気付いたな。気配は殺したつもりだったが」

「殺気」

短く答えたセリナに、編み笠の男がくつくつと笑った。

「ふむ、私もまだまだだな。手練れとお見受けする。手合わせ願おう」

ゆらりと日本刀が煌めいた。

「おーっと、この女がどうなってもいいのかぁ!?」

「ひゃあっ!」

ふいに頭上から悲鳴があがった。吊るされたままの細蟹、そのすぐそばに蜘蛛が二匹。細蟹を吊るす糸を伝って登ったらしい。

「無粋な」

編み笠の男がその様子を一瞥して吐き捨てる。

「人質扱いは男の方に向けてだけでよかろう。……よもや貴様まで無粋な真似はせぬだろう?」

突然矛先を向けられて、陽向も短く応じる。この場合の陽向にできる無粋な行為が何を指すのかいまいちわからないけれど、思ったのとはそう違わないだろう。

「しねえよ」

そもそも陽向では勝てないし。

「土蜘蛛ども!女の行動に人質は不要だ。男の方が動いたときにのみ使用を許可する」

取り囲んでいた蜘蛛たちが一歩細蟹から退いた。細蟹が息を呑む。

 少々逸れたが、事態は大方予想通りに動いている。これならば修正を入れる必要はないだろう。

 男から目を離さず、セリナが小さく声をかける。

「陽向」

「打合せ通りに」

「ん!」

セリナが地を蹴ると同時に陽向も動く。子龍に向かって一直線。視界の隅で緋色の髪が靡いて火の粉が散るのが見えた。刀同士が打ち合う甲高い金属音。

「な、あいつ!」

蜘蛛の一匹から声がした。細蟹に近づいていくが、

(来た!)

子龍に向かって走る陽向の足元、速度まで見越した完璧なタイミングで足首付近を狙って張られた一本の糸。

 粘ついた妖気。足を捕えるべく張り詰めた糸を視て、陽向はハードルのように飛び越えた。

「なっ!?」

叫んだのは細蟹だ。子龍まで残り三歩。

「何故!?」

さらに矢のように飛んでくる糸を一本一本視ながら短刀を抜く。

 体を通せないまでに狭められた最後の数本を切り裂いて、子龍が縛られている円陣にそのままの勢いで突き立てる。

 円陣を通り越して地面にまで刺さってしまったが、目的の箇所に切っ先は届いた。

 術式の解析はとっくに終えている。

 絡みに絡んだ毛糸玉みたいで非常に気を揉んだけれど、ちゃんと見つけた。

「外れろっ!」

両手で押し込む。確かな手ごたえとともに、するすると術の糸が解けていく。

「子龍!」

脱力した子龍を抱え上げて、短刀も回収する。――上手く行った。

「このぉ!」

「っ!」

子龍と一緒に居た場所に糸が降り注ぐのを、陽向は横に転がって回避する。いつの間にか地面に降りた細蟹がこちらへ向かって歩んでいた。

「何で?」

綺麗にまとめていた髪が乱れて、細かい毛束が飛び出している。

「あんたの妖気、気色悪いんだよ!」

細蟹を睨み据えて、子龍を抱く手に力が籠る。両脇に蜘蛛を従えた細蟹が近づいてくる。

「妖気……ですって?」

細蟹が目を見開く。

 子龍の親の館で組み伏せられた陽向の後ろに立っていた妖気は細蟹のものだった。残された糸にも同じ妖気がまとわりついていた。

 最初、ここの館でもそうだ。何かの作業をしていると勝手に思い込んでいたが、館の至るところに残った糸は、細蟹の妖気だ。勒白寺の異界に都合よく現れたのも、彼女が襲撃犯なのだとしたら説明がつく。

 などと、彼女に丁寧に説明してやる義理はないのだけれど。

「妖気……妖気かあ。ねえ、やっぱりある?私に、妖気」

口の端が持ち上がって、細蟹の真っ赤な舌が覗いた。

「そりゃもう、完璧に?」

陽向は出会った当初から少なくとも純粋な人間ではないと思っていた。

(……そんなに強くはないけど)

挑発するのも分が悪いので心の中に留めておく。セリナや編み笠の男に比べれば格下である。だが、陽向にとって脅威であることに変わりはない。こちらは正真正銘の生身である。

「あーあ、術もいい感じに動いてたのに、切られちゃった。解除耐性つけたって言ってたけど、騙されたかしら」

子龍が腕の中で身じろぎした。陽向は小声で呼びかける。

「子龍、大丈夫か」

「ぴい」

弱々しいけれど、しっかりした返答に安堵する。

「ああもう、いっかあ」

細蟹が両手を広げた。その手先に妖気が集まるのを感じとって、逃げる体勢を整える。その細蟹のところへ。

「きゃあっ⁉」

黒い塊が突っ込んできて細蟹が悲鳴をあげる。土煙があがってよく見えないが、セリナと編み笠男だ。

 ちょうどいい煙幕なので利用させてもらう。子龍を抱えたまま、陽向は砂煙の中を駆けてヌシの館の方へ走る。

「ちょっと、あっちでやりなさいよ!!」

「失礼。娘、なかなかの腕前である」

館の陰へ陽向が滑り込んだのとほぼ同時、編み笠男の一振りで砂煙が払われる。一気に澄んだ視界に、編み笠男と対峙するセリナの背が見えた。

「あのガキ、どこ行った!?」

細蟹が見失った陽向を探している。ここから異界の出口までは距離があるし、遮蔽物も少ない。移動すればすぐに見つかるだろう。だが、同時に陽向は勝機も見出している。

(真琴……こっちに来た!)

見知った座敷童の妖気が異界に出現した。近くにはいくつか他の妖気もあるが、最悪の事態でなければ味方のはずだ。

 時間の猶予は今しかない。陽向は抱えた子龍に話しかける。

「子龍、助け出してすぐで悪いんだけど、助けてくれ」

「ぴ?」

我ながら情けないお願いだが、陽向には攻撃手段がないので仕方ない。いくら援軍が来たと言っても、入ってきた場所からはそこそこの距離がある。その間セリナに四対一を強いるのは少々厳しい。

「調整は俺がやる。自分がぶっ倒れない加減くらい自分でやれる。だから、子龍」

あの時、陽向を案じて攻撃を躊躇ってしまった紫紺の瞳に懇願する。

「思いっきりぶちかませ。大丈夫。大丈夫だから」

「ぴ、ぴぃ」

まだ納得していない様子の子龍に苦笑する。当然だ。子龍に陽向の言を信じられるだけの保証は全くと言っていいほどない。

「……子龍、ありがとな。心配してくれたんだろ」

うなだれてしまったたてがみを撫でる。鱗はひんやりしているが、ここはふさふさだ。

「頼む、遠慮するな。送れたんだ、止めるもできるだろ」

実際にやったことはないのでぶっつけ本番だが、何とかなると思っている陽向である。量を流し込むことはできた。抵抗することもできるはずだ。

 見上げた紫紺の瞳に向けて、陽向は笑顔で頷いて見せる。

「……ぴ!」

少し間を開けて、瞳に決意を漲らせて力強い肯定が返ってきた。


 二匹の蜘蛛と、編み笠の男がセリナに次々と飛びかかる。その中央でセリナが舞うように攻撃をいなしている。

 主に攻撃を仕掛けているのは編み笠の男。撃っては離れを繰り返して、四方からセリナを狙っている。

 隙を縫うように蜘蛛が二匹踊る。細蟹は少し離れたところからその様子を見張っていた。味方を巻き込んでしまうので糸を放てないのだろう。陽向を探しに動かないのは、動こうとするたびにセリナが攻撃をしかけるからだ。

 セリナが細蟹を狙うたびに攻撃の中心が移動する。セリナが細蟹に仕掛ける数舜を除いて彼女が常に渦中に居る。

 このまま攻撃したらセリナを巻き込んでしまう。

 故に陽向はありったけの声量で彼女を呼んだ。

「セリナ!!!」

「「「!」」」

彼女より先に蜘蛛と編み笠男と細蟹が反応した。その視線の間を縫って、セリナの赤銅の瞳とかち合う。地面に降り立って踏ん張る子龍と、その後ろに立つ陽向を見て、彼女が意図を察してくれたと判断する。

 それを証明するように、呆然と立ち尽くす二人と二匹を差し置いてセリナが脇に跳んだ。

 己の中の、知らない力が蠢いて子龍に流れていく。もう少し大丈夫だ。もう少し――。

「やってやれ、子龍!!」

「ぴっ!!」

陽向が力の流れを無理やり切断するのが合図になったようで、がばりと開いた子龍の口から水流が飛び出した。

 放水車のごとく放たれた大質量の水は直線軌道で立ち尽くす二人と二匹に飛び込んで行った。


 上がった水柱は、吹き飛ばされた蜘蛛たちが池に落ちた衝撃だ。

「くっ……上出来!」

「ぴ!」

ちょっと脂汗は浮かんでいるけれど、何とか耐えきった。子龍に心配をかけない程度には加減できた。親指を立てたら子龍も尻尾を旗のように振った。

「まだ!」

セリナの叫びに少し遅れて、すぐ耳元で金属同士が激しくぶつかる轟音が響く。思わず耳を押さえた陽向の視界で火の粉が舞った。

「戦力外かと思えば、これでなかなか」

至近まで迫っていた編み笠男の刀をセリナが弾いたのだと遅れて理解する。

「いつの間に」

蜘蛛たちを襲った水流に巻き込まれたと思ったが、躱されていたようだ。

「ご丁寧に布告があったもので」

相手に伝えるつもりのなかったぼやきを勝手に拾って、編み笠男がわざわざ答えをくれた。セリナを巻き込まないように呼びかけた、アレのことだろう。

「そりゃどうも!」

あの状況では仕方なかったとはいえ、陽向の失策である。だが、もう間に合っている。

「時間稼ぎは、充分!」

「何」

初めて、編み笠の下で一つしかない眼が揺らいだ。

「うん。間に合ったよ。よく頑張った」

陽向は背後で鳴った草を踏む足音を耳にして場所を開ける。黒の羽織をはためかせて、背の高い男が指剣を切る。

「セリナ、遠慮はいらない。大丈夫、このくらいで死ぬような相手じゃなさそうだから」

「防御任せます、春日野さん」

陽向を庇うように立った春日野の言葉を受けて、セリナが地を蹴る。

「陰陽和合、急々如律令」

春日野の手前に霊力で編まれた障壁が築かれる。淡く発光する格子状の壁は半透明で、編み笠に向かって駆けるセリナがはっきり見えた。

 その緋色の髪が靡く背が、紅の炎に包まれた。

「――な」

目視のみで新手の攻撃かと身を強張らせた陽向はすぐに気付く。あの炎は、セリナ自身が発したものだ。彼女の、妖力だ。

「……綺麗だ」

揺らめく炎は幻想的で、思わず陽向は本音を零す。

「やああああああああああああ!!」

咆哮を轟かせて、火の玉と化したセリナが編み笠の男に突撃していく。尾を引いた炎が、春日野の張った透明の壁に激突した。

「うーん、また強くなってるなあ。そろそろ僕だけじゃ止めるの無理かな」

春日野が暢気に不安になることをつぶやく隣で、陽向は炎に覆われて見えなくなった壁の向こうへと意識を巡らす。

「待った、逃げられる!」

感じた気配は異界の出入口。高速で細蟹たちと合流した編み笠が外側へ消えていく妖気。

「……見逃してもらった、かもしれないよ」

掻き消えた炎の先には焼け焦げた湖の畔しかなかった。その中央に佇んで、セリナが振り返る。

「すみません、逃げられました」

「もう、セリナまでそういうこと言う」

春日野が手を一振りすると、張られていた壁が溶けて消えた。

「上名君には言ったけど、あれはたぶん見逃されたね。残念だけど、細蟹さんはともかくあの一つ目には勝てない」

それはセリナでもということだろうか。妖気の質だけならば拮抗していると陽向は思ったが。

「随分強い妖だったね。あんなのがまだ生き残ってたのに驚くよ」

苦い笑みを浮かべて、春日野が誰も居なくなった湖を睨んだ。



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