第九章 ヌシを狙うモノ

 子龍が居なくなったことで、特段何が変わったわけでもなかった。むしろ、元に戻った。

 葛城に言われた注意のこともあり、陽向は妖との接触を極力避けている。通りがかった岡部の机に出しっぱなしだったペンケースに黒い万年筆が見えた。艶やかな光沢を反射する胴体の中間くらいから白っぽい小さな手がにゅっと出てくる。目玉の形をとった瞳孔が陽向の方を向いて、手がばたばた動いた。

 手を振っている。

 それが岡部が一週間前に失くしたと嘆いていた万年筆だったことをようやく思い出し、けれど陽向はそれを一瞥するに留めた。無事に持ち主の手に戻ったならば、陽向がいうべきことは何もない。

 何か反応を示したとしても周囲に見とがめられることはないと確信した上で、葛城の言葉が反復する。あちらがこちらに関わることより、こちらがあちらに与える影響の方を懸念しなければならない。

 子龍の妖気は陽向の手を離れる最後まで濁らなかった。少なくとも、陽向個人が関わった妖の妖気が穢れることは今までなかった。たまたまだったのかもしれない。けれど両親と接した河野の妖気が濁ったのは確かで、予断は許されない。人との関わりそのものが妖に対して毒になるのなら、これまでの陽向の行動は無駄ではなかったのだと言えよう。


 だから、避ける。

 徹底的に。通学は単独行動。行く道に妖気があれば面倒でも別の道を行くし、居る場所に視線を向けるようなこともしない。まして、目を合わせるなどもってのほかだ。

 何も変わらない。これまでと、何も。


   〇


 「おかえり」

「た、ただいま……?」

帰宅した直後にリビングの方から聞こえた声に、陽向は面食らう。珍しい。父がまだ明るい時間に自室の外に出ているなど。

「そんなにびっくりしなくても。原稿が上がったから休憩してたんだよ。今日は僕が晩ご飯作るね。夕宇ちゃんの熱も下がったし、はりきって作るぞー!」

おー、と子供みたいに拳を振り上げた父はにこやかだった。目の下に派手なクマができているけれど。

「はりきってるとこ申し訳ないんだけど、今日うどんの予定」

帰りにスーパーに寄って仕入れてきた袋を持ち上げてみせる。大して手間のかからない冷凍うどんである。市販の麺つゆで。昨日買い置きが尽きたのと、新たな買い置きを考えるのが面倒になった結果こうなった。

「うどんいいじゃないか。あったかいの?」

「夕宇が調子悪いならそっちの方がいいかと思って。冷たいのもできるぞ?」

「うーん、うちの息子がお母さんすぎる。けど今日は僕が作るって言ってるでしょうが」

どうやら徹夜明けで変なテンションになっているようだ。いつもよりかなり声が大きい。

 鍋に水を張り始めた陽向の横にぬるっとやって来た。

「……じゃあ椎茸と人参。煮込みにするから刻んでくれるか?」

「了解しました!」

テンションのおかしい父親に一人で料理を任せる気はない。火か包丁か、少し悩んだが後者をお願いすることにする。

「陽向、卵入れよう!」

少し大きめの鍋を用意していたら、冷蔵庫から勝手に出した生卵を両手に持って嬉々としている父親がいた。卵は別に構わないけれど。……野菜はどうした。


 結局、ほとんど陽向が一人で作った。いつものことなので気にはしていない。料理そのものを楽しんでいるので苦ではないし。

「いやあ、おいしいねえ」

一本啜って大袈裟に騒ぐ父はやっぱり寝不足だと思う。病み上がりでぼんやりしている夕宇と一緒に早いこと寝かさないと、と陽向は使命感にため息を吐く。

「ため息吐くと幸せが逃げるんだぞぅ?」

目ざとく見つけて忠告が飛んできた。こうなると酔っ払いと大差ないと思う。

「やっぱり家族で食べるとおいしいねえ。……母さんも帰ってこれるとよかったんだけど」

しみじみと呟いた父の隣で、ゆっくりと箸を運んでいた夕宇がぽそりと口を開いた。

「取材、まだかかりそう?」 

心配そうに見上げた瞳を受けて、父が柔和に微笑む。

「昨日連絡してみたんだけどね。粘ってるみたいでまだ帰れないってさ。夕宇と陽向が寂しがってるぞって言ったんだけどな」

否定するべきところだけど、余計に絡まれそうなので陽向は口を噤む。

「お?ツッコミがないということは、本当に寂しいと思ってらっしゃる!?」

「どっちにしろ絡むのかよ⁉」


   〇


 洗い物をしていたら、夕宇を寝かしつけたらしい父が戻ってきた。布巾を手にして陽向の隣で溜まった食器を拭いていく。慎重に陶磁器を積み上げながら、父がおもむろに訊ねた。

「……ちょっとは元気出たか?」

「!?」

びっくりしすぎて危うく洗っていた皿を落とすところだった。洗剤で滑りやすくなっている。

「な、何で……」

そんなにへこんでいるように見えただろうか。陽向が子龍と別れてからそんなに時間は経っていない。その間、父はほとんど部屋に籠りきりで、陽向と顔を合わせたのはトータル一時間もないはずだ。

 狼狽する陽向と目を合わせて、父は悪戯が成功した子供のように笑った。

「何となく?どこがって言われるとわかんないけど、でも、何となく様子が変だなって」

気分が乗らなかったのは心当たりがあるが、まさか気取られるとは思わなかった。

「そこは年の功ってことで。よかったら相談のるよ?」

「――」

春日野のような優しい口調に思わず口を開きかけて、話せる内容ではないと思い留まる。

「……僕にだと話しにくいかな。母さんがいればよかったんだけど」

「そんなこと……」

慌てて否定したものの、その先が出てこない。子龍に触れずに説明できるだろうか。

 悩んでいたら洗い物は終わってしまった。父が最後の鍋を拭いているのを待ってから、陽向は慎重に話しかけた。

「――友達のことなんだけどさ」

「うん」

たっぷり時間を空けて話し始めたのに、父は何でもないように相槌を打つ。次の言葉は案外簡単に出てきた。

「会ったら傷つけるかもしれない人って、やっぱり会いにいくべきじゃないよな」

相談の体を成した確認である。口に出したら少しすっきりした。そうだ。子龍に害がある可能性があるなら、陽向は会わない方がいい。あれでさようならだったのだ。余計なことを言ったと後悔が募る。いっそしっかりと別れの挨拶を交わすべきだった。

「傷つけるって、喧嘩でもしたのかい?」

「そうじゃないんだけど」

怪訝な表情で父が首をかしげる。どう説明したらいいのだろう。

「……それは、どうしても陽向が会いに行くと傷ついてしまうのかい?」

「え?……えっと、たぶん?」

子龍と過ごした一週間で彼の妖気が穢れることはなかったけれど。

「そもそも、どうして陽向が会いに行くと傷つくんだい?喧嘩じゃないとしたら、嫌な思い出があるとか?……まさかその年で痴情のもつれ――」

「違うって。……その、病気が移るとかそういう感じの……いや、病気なわけじゃないんだけど」

説明が難しい。あらぬ方面に話が飛びそうになったから咄嗟に止めたけれど、止めてしまったからには説明しない訳にはいかない。苦し紛れの返答を聞いて、父の顔が困惑に塗れている。少し考えてから、言葉を選ぶように慎重に父が言う。

「それって、対策を練ることはできないのかい?」

「対策?」

「そう。例えば、違うって言ってたけど病気なら感染対策するとか。会う会わないで悩んでるなら面会謝絶ってわけでもないんだろう?学校の先生とか、事情を話せる人はいないのかい?」

春日野の顔が思い浮かぶ。陽向の知りうる事情通は彼しかいない。細蟹や葛城の連絡先は聞いていない。

「原因を一個一個潰して。本人と無理なら手紙とかメールとかもある。方法も色々考えて。結論を出すのはそれからでも遅くはないんじゃないかな」

「何で、そこまで……」

「陽向の今の口ぶりだと、会いたいみたいだったからさ。それなら、会えない理由より会える方法を考えた方がいいじゃないかな。僕は事情がわからないから滅多なこと言えないけど、事情を相談できる人がいるなら掛け合ってみるといい」

相談をしてから初めて、父が陽向を見た。薄い焦げ茶の瞳が真っ直ぐに陽向を見据えて、柔らかく細められる。目を泳がせた陽向に、「それにさ」と笑う。

「その程度で諦めるとか、らしくないぞ、陽向」

「……!」

反射的に言い訳しようとして、やめた。

「……ん。それもそうだな。ありがとう、親父。訊いてみるよ」

「よしよし。そう来なきゃ」

にっと口角を上げて親指を立てた父が、そのまま風呂場に向かって行く。

「そんじゃ、先に風呂もらおうかな」

「おう」

その背中を見送って、スマホを取り出す。連絡先一覧に春日野の名前を探して、ふと時計が目に入った。

「……明日にすっか」

急いで訊く必要はない。こんな時間にメッセージを送るのも気が引けるので、陽向は独り言ちてからスマホをポケットに戻した。


   〇


 ――呼ばれた気がした。


 そんなはずないのに、すぐ耳元で聞こえたように思えて陽向は跳ね起きる。慌てて携帯で時刻を確認した。画面の光に目を瞬かせながら見れば、午前二時。

「……夢か?」

子龍の鳴き声だった。寝ぼけただけだろうか。暗闇の中で携帯の明かりだけを頼りに辺りを見渡す。間違いなく自分の部屋である。就寝したときのまま、何も変わらない。もちろん、ここに子龍は居ない。

 父親に相談して一応の結果が出たから夢でも見たのだろうか。すごく会いたいみたいではないか。少々恥ずかしい。

 夏でもないのに両手が汗だくなことに気付いて、陽向は水でも飲もうかと立ち上がる。部屋のドアに手をかけた瞬間だった。


 『ぴっ!』


 脳内に直接鳴り響いた声にはっと振り返る。そこには変わらぬ部屋があるだけで、子龍が居るはずもない。

「……違う」

けれど、確かに感じたのだ。古民家で真琴に向かって火を噴いたあの時と。最初に契約を交わした、名前を呼んだ時に流れた妖の力を、確かに感じた。

「何で……契約解除したはずじゃ……」

――繋がっている。

 細く細く。どんな小妖怪の妖気でも感じ取れる陽向が、集中しなければわからないほどにか細い繋がりではあるけれど。

 ――困ったら、呼べよ。

 自分で言った約束を思い出す。細い糸を手繰るようにして伝えられた鳴き声は、言葉はわからずとも相応の危機感を孕んでいた。

「……」

糸の先に子龍の気配はない。だが、その方向は推定ではあるが真琴の古民家だ。方角から言って直線方向に、子龍がヌシになった異界がある。

(まさか……何かあったのか?)

陽向が顔を向けた先は自室の掃き出し窓で、そのカーテンの向こう側はベランダがあるだけだ。遮光カーテンの向こうで遮り切れない夜光が揺れている。

 子龍のことは葛城が警護を買って出てくれたはずで、余程のことが起こらないかぎり安泰だと春日野からもお墨付きをもらっている。ど素人の陽向に何ができるとも思えないのだけれど。

 脳内には子龍の呼び声が貼り付いて離れない。

(そうだ、春日野さんに……)

訊いてみようと思い立ってスマホを手にしたが、深夜である。余程のことがなければ就寝しているだろう。まだ緊急事態が起こったと確定したわけではない。無闇に騒ぎ立てるのも憚られる。

(――まあでも、念のため)

メールだけは送っておくことにする。通知音に気付けばそれでよし。もしできたら連絡くださいとだけ書いて送信する。

 着替えを終えて最低限の身支度を整えると、陽向はできるだけ物音を殺して自室から抜け出した。


   〇


 深夜の道路を自転車で疾走する。春の風は思っていたより涼しくて、もう少し厚着してくればよかったと後悔するけれど、戻っている場合ではない。

 面倒事はできる限り回避したい。大通りを避けて裏道を駆ける。妖対策にあちこち道を覚えたのがこんなところで役に立っている。


 古民家に人気はなかった。

 不法侵入で申し訳ないのだが、駐車場に自転車を置いて敷地に入らせてもらう。建物の小脇を抜けて庭へ。

 警備でいるはずの葛城の部下たちの気配はない。侵入者を見つける術でもあるのかと思ったが、それもなさそうだ。防犯カメラなどの文明の利器の方面なら陽向にはわからないが、それに妖の姿を捕えられるのは謎である。

 最初に春日野たちと来た時には鬱蒼と生い茂っていた垣根がある程度整えられている。葛城たちが出入りした形跡だろう。

 スマホに付属の懐中電灯で周囲を確認しながら池へ向かう。

(入口……開いてやがる!)

真琴に案内されたときには繋ぎ目のようなものがあっただけだ。それが契約を解除する儀式を行った日と同じようにぽっかりと口を開けていた。

 スマホを確認するが、春日野からの返信はない。それどころか既読マークすらついていない。

 異界の外側に異変らしい異変は見えない。強いていえば護衛の姿が見えないくらいだが、中にいるのかもしれない。何にせよ、このままでは状況がわからない。迷った末、陽向は意を決して飛び込んだ。


  〇


 異界の中は冷え切っていた。

 子龍と別れたときの濃霧はさっぱり消え去って、満天の星空が広がっている。余程の僻地へ行かないと見れない数多の星が湖面に移り込んで、幻想的な風景を作り出していた。こんな状況でなければしばらく見入っていたいと思う絶景である。

 草叢に立った陽向は周囲を窺う。見える範囲に人影はない。

(妖気は……奥に居る)

ヌシの館の方角だ。護衛についていると言っていた情報部に所属している妖気がいくつか。そして、子龍の――。

(弱ってる!?)

距離が離れているせいであってくれ、と祈りながら駆け出す。弱々しい妖気はとてもヌシのものとは思えない。だが、生きている。妖気の残滓ではない。生来の妖気だ。

 陽向の感覚が確証を以って訴えてくる。生きている。生きているけれど。


 館の中で人の声が聞こえて、陽向は咄嗟に壁の陰に隠れた。

 声を殺して交わされるその会話は割って入れる雰囲気ではない。高まる鼓動を抑えて、呼吸も最低限に聞き耳を立てる。聞き取りにくいが、風に乗って何とか音が届いてくる。

「……封印は……」

「万全です。あとは――るのを待つしかないかと」

「何をしておられるのだ!」

「声が大きい。――だろうか?」

「さてな」

肝心なところが聞こえず、もどかしさにほんの少しだけ身を乗り出した。二人の人影。体格と声からして男性だろうか。板の間に座り込んでいる。背中を向けているから、陽向に気付くことはなさそうだ。

「封印が持たない」

「まだか?――いらっしゃらないのか?」

二人の持つ電灯に照らされた『それ』を見て、陽向は慌てて自身の口を片手で塞ぐ。危うく声をあげそうになった。名を呼びそうになった。

(……子龍!)

心の中で呼ぶに留める。二人の男の前に淡い光を放つ円陣がある。板の間に刻まれたそれは複雑な文様を描いていて、一目で何かの術であることがわかる。その円陣の中央、円陣の円周から伸びた複数の光る糸に絡めとられるようにして伏している小さな龍。爬虫類を思わせる薄紫の鱗に金糸が食い込んでいる。

「ぴぃ」

弱々しく鳴いたその一声で、陽向は飛び出したくなる衝動を必死に押しとどめる。

(っ、落ち着け!)

二人の男からも妖気を感じる。見た目は人間だが、妖なのかもしれない。陽向が今すぐ飛び込んだところで勝ち目はないだろう。

(あの術……妖気を押さえつけてるのか?)

音を立てないように深呼吸を繰り返し、子龍を縛る術の方へ意識を向ける。物理的に胴体を拘束しているように見えるが、妖気も糸に引っかかっている。妖を捕える術と見るべきだろうか。

(そうだ、解除の!)

持ってきた通学鞄には春日野から預かったままだった短刀が入っている。取り出してみれば、まだかけられた術は保っているようだ。一回限りではないらしく安心する。

(術の、結び目……全部繋がってるとこ……)

円陣に走る力を読み解いていく。繋がりを追いかけて、深層へ。

(ああもう、複雑すぎないか⁉一体どこがどうなって……)

まるで固い結び目がいくつもできてしまった裁縫用の糸である。内心舌打ちしながらも、陽向は術の力の流れを読む。頬を冷や汗が伝った。知らず、喉が生唾を呑む。

 あと少し、もう少しでたどり着ける。

 確かな手ごたえを覚えて胸の前で短刀を握り込んだ右手が、ふいに何かに掴まれた。

「!!?」

反応する暇もなかった。振り向こうとした左肩にも大きな指が食い込んで、そのまま前方に引き倒される。

「でっ⁉」

背中から重みがのしかかって、容赦なく板の間に叩きつけられた。打ち付けた頬の痛みに歯を食いしばっている間に、組み伏せられた陽向の方へ座っていた二人組が振り向いた。

「何事だ⁉」

「誰だ⁉」

陽向の方へ駆け寄ろうとした二人の足音が止まった。背中に圧しかかるその正体は見えないけれど、濃い妖気に歪んだ男の声が聞こえた。

「まったく。ヌシを封じたからと気を緩めすぎだ。こんなところまで接近を許すなど」

腹の底に響くような声である。関節を固められた右手の痛みに耐えながら、陽向は何とか首を動かす。結局何も見えない。

「一人か?こんなところに乗り込んでくるとは」

多少身を捩った程度ではびくともしない。むしろ無理な方に強制的に曲げられた肩の関節が悲鳴を上げる。陽向の四肢を的確に抑え込んでいるのもあるが、単純に膂力も問題もありそうだ。人間の力ではない。皮膚にに爪が食い込んでいる。

 溢れ出る芳醇な妖気は、陽向が今まで感じ取った中でも最上級のものだ。ヌシにも匹敵しそうな妖気量である。悪寒が這い上る。ひどく穢れた妖気だ。

 穢れた妖気で人の言葉を理解する妖を初めて見た。いや、それ以上に。

(何でだ、妖気なんて感じなかったぞ⁉)

これだけの妖気だ。異界に入った時点で気付いてもよさそうなものである。何より、こうして組み倒されるまでまったく気付かなかった。いくら術を読み解くの集中していたからと言ってこの大質量の妖気に気付かないはずがない。陽向からしたら突然背後に現れたようなものだが、それらしい位置に異界の出入口もない。

「あまり暴れるな。手加減が難しい。関節が外れても構わんか?」

「ぐっ」

込められた力から、男の本気度が伝わってきた。もうほんの少し、彼が力を籠めるだけで肩関節を脱臼する。

「……念のため聞いておく。こやつは侵入者で相違ないか」

ここで動けなくなるわけにはいかない。抵抗をやめた陽向に満足したのか、男は先の二人に問いかけた。一人が持っていた手持ちの電気ランタンで陽向を照らして覗き込む。

「ああ、思い出した!こいつ、そこの龍と契約してた奴だ!契約は解除したって言ってたけど……」

後ろから見ていた男が陽向を指さして叫んだ。

「ふむ。――ここで殺めては厄介事が増えるか?いかがしようか」

不穏な言葉が降ってきて、陽向は戦慄する。ここで命を獲ることすら選択肢に入っているというのか。下手に刺激しても死期が早まりそうで、できるだけ動かないように身を固くする。組み伏せている男にはその緊張が伝わったようだ。

「無闇に入ってきた割には命は惜しいと見える」

当たり前だ、と叫びたい気持ちを抑えて陽向はじっと我慢する。その目の前に黒い影が降ってきた。

 それが突き立てられた刀だと認識して、反射的に喉が鳴った。ランタンの光を反射して煌めく刀身は真っ直ぐに板の間に切っ先を埋めており、本物の刃物であることを悠然と物語っている。

あるじよ、どうする?特に生かしておく理由も見当たらぬが」

世俗の処理に手間はかかるか、と嘲笑う男が誰かに問いかけている。妖気はないが、そこに誰かが居ることは気配でわかった。

 脅しのために突き立てた刀が引き抜かれ、宙に踊った。首筋にヒヤリとしたものを感じる。刃が当たっている。

 先に春日野に連絡をとるべきだったと、後悔しても今更である。送ったメールに気付いてくれと願ったところで真夜中だ。今すぐ都合よく助けに来てくれるなど。

「っ」

誰かいないかと、藁をも縋る思いで見開いた視界に、紫紺の瞳が飛び込んできた。

「しりゅ――」

金の糸に囚われた紫の龍が、真っ直ぐ陽向を見据えていた。かち合った視線を繋いだ糸に、力が流れた。

 子龍が口を開く。陽向の中の力が吸い出される。子龍に向かって繋がる糸を辿って流れた力が彼の小さな体の中で奔流となる。

(行ける!)

吸い出された力に脱力感が満たされていく。手足が重たい。それでもこの状況を打破できるならば。

「……え?」

陽向が途中から自らの意思で送り出していた力の流れが、子龍の体内に入る直前で止まる。逆流してくる自身の力を受け止めるのに身構えている間に、子龍が吠えた。

「ぴぃ!!」

ぼん、と口から飛び出した水の塊。バレーボール大の水球は真琴に向けて放ったそれよりはるかに小さい。真琴のときは消防の放水のようだったのに、今の水は一つの塊となって子龍の口から離れた。

「ふむ」

小さな水の玉を、陽向の顔の前を通過して振り上げられた刀がいとも容易く切り裂いた。

「何で……まさか子龍お前」

呆然と呟く陽向の脳裏に浮かんだのは真琴に向けて水を放ったときの子龍の心配そうな顔。

 送り込んだ力は途中で拒まれた。あれは陽向が止めたのではない。ならば拒んだのは子龍である。呆然と合わせた紫紺の瞳が、陽向の予想の正解を告げていた。子龍は、陽向の力の使い過ぎを案じたのである。

「っ」

さまざまな感情がぐちゃぐちゃに混ざって、当の本人である陽向が一番困惑している。前回無理してでもすぐに起き上がっていればよかったのか。余計に力を流し込まなければよかったのか。

 答えを求めて子龍に縋った陽向は、彼の小さな指爪が鱗を捲ろうとしていることに気が付いた。

「……子龍、何してるやめろ!!」

「おいおい、やめろやめろ!!」

子龍の意図を察した陽向と、子龍の行為に驚いた二人組の叫びが重なる。拘束されている円陣の中で藻掻く子龍の爪が、その首に刺さっている。真っ赤な血がしたたり落ちて、板の間に点を描く。

「何だってんだよ、何してんだよ、やめろよぉ!」

慌てた二人組がばたばたと子龍に近づいていく。その二人に向けて子龍が牙を剥き出しにして唸った。威嚇している。

「……何を」

状況が飲み込めずに呆然自失している陽向の頭上で、彼を抑える男が「ふむ」と頷いた。

「なるほど。確かにお主にここで死なれるは我が主の意に添わぬ。交渉とでも申すか?幼いながらにヌシの器よの。……主殿、よかろうか」

陽向からは姿の見えないもう一人が頷く気配がして、首筋に当てられていた冷たい金属の感触がなくなった。

「が、見逃すわけにもいかぬな。ふむ。よいかと存じます」

後ろのもう一人が何かを指示したようだが、陽向には聞こえなかった。

 と、思っている間にずっと掴んでいた男の腕が離れる。圧しかかっていた体重も消えて、代わりに何かを掛けられた。やっと外れた拘束から動かそうと思った体が動かない。

「え」

「もうしばしここでじっとしておれ。……それが解けるか、そも異界から出られるのかはわからぬが」

動かそうと藻掻いた腕に細い糸状の何かが引っかかる。腕どころか全身が動かない。

「そこな龍神に免じて命は獲らぬ。――行くぞ、時間だ」

「は、はい!」

指示を受けた二人組が子龍に向かって行く。唸り声をあげる子龍にしり込みしていると、後ろから男が声を張った。

「時が経てば助けも来よう。この辺りが手の打ちどころと思うが、いかがか、龍神殿」

「ぴ……」

威嚇をやめた子龍がしゅんと大人しくなる。男二人が警戒しながら近づいて、どういう理屈なのか光る円陣ごと子龍を持ち上げた。

「待て、どこに……っ」

動かない体を必死に動かそうとした陽向の眼前に再び刀身が突き立てられる。

「龍神殿のご厚意を無駄にするか?」

二人の男はそそくさと館を後にして、すでに子龍はここに居ない。

「龍神殿はすでに居らん。その首ここで落としても我は一向に構わぬが」

「………………」

悔しさに噛み締めた奥歯が音を立てた。初めて、男が屈んで陽向を覗き込む。

「!」

時代劇で侍が被るような編み笠だ。顔は見えないが、開いた穴から覗いた眼光が一つ。その位置が人間ではありえない顔の中央で、本能的に怖気が這い上る。

「ふむ。せっかく拾った命だ。大事にせよ」

嘲りを含んだ言葉を残して、突き立てられた刀が引き抜かれる。星明りを反射して、陽向の首が回らない方向へと歩んでいく。子龍が連れて行かれたのと同じ方向。

 しばらく妖気を探っていたら途中で立ち消えた。異界から出たのか。否、異界の出入口の場所ではない。違う出口だろうか。それとも。


   〇


 「っ、くそ」

足を縛っていた最後の一本を短刀で断ち切って、未だに痛みの残る右肩を擦る。捻りあげられた状態のままで固定されていたので感覚がおかしい。

 関節が外れていないことだけを何とか確認して、陽向は持っていた短刀を投げ出した。座り込んだままで子龍が円陣に縛られていた辺りを見遣る。


 陽向を押さえつけていたのは無数の糸だった。それもただ引っ張ったくらいでは切れない頑丈なものだ。

 藻掻いているうちに握ったままだった短刀が偶然一本を断ち切り、そこから脱出を果たすまで数刻。糸には妖気が残っている。妖が妖力で作り出した糸だ。

「……痛って」

立ち上がろうと床についた左手が痛みを訴えた。見れば血が流れている。糸と格闘している間に短刀で切ったらしい。流血する程度にはざっくり切れているようだ。視覚で認識したせいか、痛みが増している気がした。

 子龍を追いかけなければ。彼らが何をするのかはわからないが、子龍を拘束していたのだ。碌なことではなさそうである。彼らが消えた辺りに空間の歪みがある。恐らく出入口があるのだろう。どこに繋がっているのかはわからないが。

(……追うことはできる。たぶん)

出入口の場所さえわかるなら、これまでの経験上陽向ならば抜けられる。そのこれまでの経験が役に立たない事態がここ数週間で立て続けに起こっているのはこの際考えない。

(だけど)

追いついたところで陽向にはどうにもできないだろう。戦力差がありすぎる。あの一つ目は並大抵の妖怪ではない。今まで出会った中でも強い妖気を持つセリナと比べても遜色ないどころか、あちらの方が上だ。

 子龍のことを考えれば急いだ方がいい。けれど一人で行ってもどうにもならない。なら陽向がすべきは応援を呼ぶことだ。

「とにかく、春日野さんに」

全身の痛みを堪えて立ち上がる。幸いにも通学鞄は放置されていた。中身もなくなっていない。スマホを出したが圏外である。

「そうだった」

異界の中では携帯電話は使えない。そんな旧知の事柄すら忘れるほど焦っている。落ち着けと言い聞かせて、陽向は館の縁側から地面に飛び降りた。


 異界の出入口は閉じていた。あの一つ目妖怪が入ったときに閉めたのだろうか。だが、亀裂は残っている。その境目を、陽向ははっきり感じ取れる。

 隙間をすり抜けて戻った元の世界は、何も変わりないようだった。近くに子龍の妖気も一つ目妖怪の妖気もない。隠す方法があるのかもしれないが、出て行った方向が違う以上付近には居ない気がした。

 春日野のメールは相変わらず既読になっていない。寝ているなら起こすのは忍びないが、紛れもなく緊急事態である。電話をかけようとして、陽向の手が止まった。

(この妖気って)

もう一つ、見知った妖気を間近に感じて、走りだす。少し離れているが、電話するより早そうだ。自転車に乗る前に春日野宛てにメールをもう一件送信して、陽向はペダルに足を乗せた。


 目的の人物は自転車でさほどかからずに会えた。彼女がこちらに向かって来てくれていたのが大きい。

「セリナ!」

何故か住宅の塀の上を走っていたセリナを呼び止める。

「か……陽向?」

今一瞬上名君て呼びかけたな。自転車を止めた陽向の目の前にひらりと着地して、セリナが驚きの表情を見せる。

「もしかして、探してた?」

「ん。寺尾さん……護衛の式神を飛ばしてる人から陽向が出てったって聞いて。課長は出張中だし、先行した」

長い髪を払ってセリナが説明してくれる。その隣を人型に切られた白い紙が浮いていた。ずっと陽向に憑いていた術の気配だ。

「けど、よくわかったね」

言葉少なでしばし理解に時間を要した。セリナがこちらに向かっていることが、と言いたいらしい。

「……お前の妖気、わかりやすいから」

「え」

途端にセリナの表情が怪訝になる。ストレートに言いすぎたかと思い至って、陽向は慌てて付け加えた。

「い、いや、変な意味じゃなくて。ぱっきりしてて区別しやすいというか。真っ直ぐなしっかりした妖気というか……」

「怪我してる?」

「……そこ?」

どうやら気にしているのは別の場所だったようだ。

「ん。手当てする」

何故か手袋をして、着物の懐から小物入れが出てきた。

「本当は洗ってからの方がいいけど、見た目綺麗だから」

中身は止血剤のチューブとガーゼに包帯。立ったままだし、陽向の右手は自転車を支えたままだが、セリナは手際よく包帯を巻いていく。

「……やりながらで悪いけど聞いてくれ。子龍が攫われた」

傷口を覆っていく白い布を眺めながら陽向は経緯を説明する。セリナも手を止めずに、けれど話は聞いているようだった。

「できた。後で密草さんにちゃんと診てもらって」

さっきから陽向の知らない名前が何名か飛び出してくるが、生安課のお仲間だろうか。

「どうする?」

陽向を真っ直ぐに見つめる赤銅の瞳。陽向の答えは決まっている。

「――助けたい。力を貸してくれるか」

「ん。場所は?」

問われて考える。彼らは異界の中で消えた。周囲に彼らの妖気はない。妖気を隠す手段がある以上、街中を駆け回って陽向の妖気センサーに引っかかるのを見込むのも下策だ。そもそも異界の中に入っているなら妖気はわからない。

「もう一度異界に入って、そっちの出入口から追いかける」

セリナが手当てしてくれたからか、だいぶ痛みがマシになった気がした。陽向は自転車を押して方向転換する。

「真琴の家だ。……乗ってくか?」

「走った方が早い」

言うが早いが、セリナが駆け出す。駆け出すというより、姿が消えた。少なくとも陽向にはそう見えた。

「え、待っ」

言ってる場合ではない。慌てて自転車に飛び乗って追いかける。姿は見えなくても、妖気は真っ直ぐ真琴の家に向かっていた。場所はわかっているようなので安心する。


   〇


移動速度は車に匹敵するのではないか。陽向は高速で移動するセリナの妖気を追って自転車を漕ぐ。妖たちの体力や運動神経が人間を軽く凌駕していることは、河野の道場に顔を出していた頃から知っていたことだが、混血も同様らしい。

 せめてもう少し体力をつけよう。今後、春日野たちとも関わるならば、と密かに決意する。


 旧卯の花の駐車場に滑り込んだら、セリナが待っていた。

 隣に赤い着物が見える。真琴だ。

「遅かったわね」

「これでも全力だよ、ちくしょう」

真琴の皮肉がさらに反転したわかりにくい様子伺いに悪態で返す。

「池の方が騒がしかったから、覗いてみたのだけど」

自転車を停めている陽向のところへ、真琴が小走りに駆けてきた。赤い振袖が揺れる。

「何があったの?……怪我してるじゃない」

わずかに血の滲んだ左腕の包帯を目ざとく発見して真琴が顔を顰める。陽向は大げさに腕を振ってみせた。

「大したことねえから大丈夫だ。それより、子龍が攫われた」

「ええ。セリナから大体聞いたわ。私が聞きたいのは詳しく何があったのかってこと」

池に向かいつつ、真琴に経緯を説明する。

「じゃあ、とんでもなく強い妖が居たのね」

真琴の神妙な確認に首肯する。妖気でしか判断できないが、セリナより強いかもしれない。

「まさかと思うけど、あんたたち二人で乗り込むつもり?」

「う……そっか」

大して考えもせず、ただセリナが居れば何となく大丈夫だろうと思っていたが、真琴に改めて確認されて陽向は言葉に詰まる。セリナを連れて行くということは、あの妖とぶつかるということだ。

「春日野さんか、他の応援も待つべきか……?」

不安に駆られてセリナを見た。赤銅の瞳を瞬かせて、顔色一つ変えずにセリナは言い切る。

「生安課の本部から人が来れるまでにもう少しかかる」

その上で、彼女は陽向を見据えて問うた。

「待つ?」

結局こっちに振るのか、と頭を抱えたくなるが仕方ない。現状、状況に一番詳しいのは陽向だ。切迫度合いは口で説明したところで伝わらない。

「……行くだけ行っていいか?様子見て、セリナの判断に任せる。勝てそうなら挑むし、無理なら応援待ち。奴ら、子龍に死なれたら困るみたいなこと言ってたから、あいつを使って何かする気だ。急いだ方がいいと思う」

「それでいいと思う。場所だけは伝えておく」

「途中までは一緒に行くわ」

真琴がおかっぱ髪を軽く払った。

「異界を渡るなら連絡役が必要でしょう?」

「ああ、助かる」


 「こっちだ」

二人を伴って庭へ入る。静かだ。

「そう言えばさっき騒がしかったって。出てくるときもそんなに思わなかったけどな?」

真琴の言葉をふいに思い出して、陽向は膝丈の市松人形に訊ねてみる。

「比喩よ。異界が騒めくというか。雰囲気的に何か異変が起きている胸騒ぎっていうの?」

なるほど、怒っている妖の妖気が炎みたいに揺らめいているのと同じようなものか。勝手に納得したので陽向は異界の出入口へと意識を向けた。

「ここだ、行くぞ」

「……私の助けなくても入れるんじゃない」

真琴のぼやきが聞こえた気がしたけれど、戦力的に真琴にも居て欲しい。問答無用で細い腕をつかむ。もう片方の手でセリナの腕を着物越しに握ったら、何故か一瞬身を震わせた。驚かせてしまっただろうか。

「えいやっ」

入口の隙間は三人分もないが、ふちが柔らかそうなので無理やり入れば広がるだろう。感覚に任せて、二人を連れて陽向は迷いなく飛び込んだ。








 

 

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