第八章 契約解除

 他愛のない会話で笑い声が教室に響いた。男子数人のグループ内で、陽向も談笑に参加する。

 教室の椅子に横向きに座った陽向の膝の上には、子龍が堂々と陣取っていた。

「ぴ!」

彼らの反応を真似しているのか、時折相槌らしきものを発している。

 だが、その声が彼らに届くことはない。その姿も彼らには視えていない。

 「そこの男子たちー!土産だぞー!」

笑い合う男子生徒に一人の女子が割り込んできた。見ればもう数人女子が後ろについている。割り込んだ女子は意気揚々と小さな袋包みの菓子を配り始めた。

「すっげ、女子からの土産とか始めてもらった」

受け取った一人がおどけて言う。それにまた笑い声が咲いた。子龍の尻尾も揺れる。

「ほら、上名も」

「どうも」

軽く会釈して受け取る。派手な出で立ちで、正直苦手な部類だが誰にでも分け隔てなく接するタイプのようだ。クラス全員に土産物を配って回っている。

「あれ、一個余った。なんでだろ、個数ぴったりだと思ったんだけどな」

一つだけの箱に残った袋をつまみ上げて、彼女が首をかしげる。土産の箱に表記された個数を今一度確認して、彼女はその場の全員に問いかけた。

「うちのクラス、四十人だよね?今日誰か欠席いたっけ?」

「あー、あれじゃない?稲月さん」

後ろにいたもう一人の女子が正解を言い当てた。

「そっか、忘れてた。そういえばいたねえ」

陽向の目が無意識にセリナの机に引き寄せられる。彼女は今日も出席していない。入学式以来、本当に一日も登校していないのだ。出席日数はどうするつもりなのだろう。

「そんじゃ、いただきまーす!」

一人が早速袋を破って中身を取り出す。チョコチップの入ったクッキーのようだ。

「おう、ありがたがって食えよ」

土産の箱を片付けながら言った女子の声に反応して、他の男子たちもビニールの袋を開封していく。ここで食べる流れのようなので、陽向も逆らわずに袋の切れ目に指をあてた。向こうでは女子グループが「どこ行ってきたの?」などと旅の思い出話に盛り上がっている。

 開けてみるとクッキーが二枚入っていた。丁度いい。

「ん」

袋の中で一枚を半分に割って、膝の上の子龍に差し出す。ぴ、とひと鳴きしてから子龍が開けた口の中に放り込む。

 例えば犬にとっての玉ねぎのように毒になる食べ物がないかは春日野に確認してある。春日野曰く、妖だから恐らく大丈夫だろうとのこと。この場合の懸念はチョコレートだろうが、春日野の話を信じることにする。

 バリバリといい音を立てて、最後に喉が鳴った。ちゃんと食べたらしい。

「美味かったか?」

「ぴ!」

「ん?何か言ったか?」

子龍の返事と隣にいた岡部の疑問が重なって聞こえて、陽向はすぐに岡部の方に返事する。

「いや、何も?」

むしろ何か言いましたかくらいの勢いでさらっと答える。相手が何かを言うより先に、

「これ美味いな」

と土産菓子の袋を見せれば岡部も深々と頷いた。そのまま袋に記載されている観光地の話題に勝手に持って行ってくれた。その話題に周りの男子が食いついて、どんどん話題が移り変わっていく。


 座敷童が居る古民家の庭にあった異界で子龍の親族の遺体を見つけた日から五日。結局詳細の調査が終わるまで子龍は陽向が預かることになった。できるだけ離れないようにというお達しをもらっているので、こうして学校にも連れてきている。

 手近に子龍を置いておけるこの機会に、陽向はちゃっかりいろいろ試していた。一週間前の自分が見たら卒倒しそうなこともしている。むしろ学校に子龍を連れてきているだけで卒倒しそうである。

 昔の自分に言いたい。神経質になりすぎだと。

 わかったのは、普通の人は妖という存在そのものに対して認識の阻害が発生するらしいということ。つまり、妖に関わる陽向のような人間に対しても発動するようなのだ。子龍に露骨に話しかけても、周囲の人間には聞こえてひとりごと程度である。気付く者は気付くし、岡部のように何か言ったかと問われることはあるが、それでも適当な誤魔化しで充分対応できる。

 話題が他に流れれば、子龍に関する物事全てがなかったこととして処理される。春日野によると、脳が理解の範疇を超えた現象を勝手にシャットアウトしたり都合のいいように解釈するらしい。よって、さっき子龍にあげたクッキーは陽向が食べたことになっているはずである。

「ぴぃ」

以前のように妖との関りも増やして構わないだろう。小さな前足で催促する子龍の口にもう半分のクッキーを突っ込んで、残りの一枚は陽向がありがたくいただいておく。


 昼休みの終了を告げるチャイムが鳴って、歓談に興じていた生徒たちが自分の席に戻っていく。椅子にきちんと座りなおした陽向は、机に忍ばせた携帯に着信があることに気付いた。届いていたのはメールで、差出人は春日野である。

 取り出して確認しようと思ったが、授業を担当する教師が来る方が先だった。逸る気持ちを抑えてスマホの机の中に戻す。隙を見て確認しよう。


 ヌシの殺害二件目という異常事態により、ことは生安課だけでは収まらなかった。春日野の連絡を受けて到着した葛城率いる調査部に現場を明け渡し、沙汰を待てという通達だけが陽向と子龍に残された。

 彼らが子龍の肉親の遺体をどう扱ったのかはわからない。管理局の通例も不明だが、面倒を見ている子龍のことを思えばせめて丁重に葬られていることを祈るばかりである。埋葬、があるのかもわからないが、葬儀があるなら子龍には立ち会わせなければとも思うしその機会があってしかるべきだと思う。それが無理だというなら墓参りくらいはさせてあげてほしい。


 午後の授業を終えて、生徒たちが一人一人教室を出て行く。そう言えば先週は図書室に行こうとしてああなったのだった。もし寄り道せずに帰っていたら違ったのだろうか。

 詮無いことを考えながら、陽向はスマホのメッセージアプリを開く。昼休みに受信していたメッセージを確認するためだ。中身は予想していたものと大差ない。長文で綴られたそれが春日野の精一杯の誠意であることが伺えた。

「……」

指を滑らせて了承の返事を送ってから、机の横に掛けてある通学鞄を手に取る。中でくつろいでいた子龍が驚いてもそもそと出てきた。そのままゆったりと浮遊して陽向の肩に収まる。すっかり定位置と化したそこに乗っかる頭を撫でながら、陽向はそっと囁いた。

「子龍、家に帰れるぞ」


   〇


 裏門付近は農地しかなく、送迎の親たちの絶好の停車所となっている。何台かの自家用車に混ざった中に春日野の車を見つけて、陽向は駆け寄った。

「すみません、メッセージに気付くの遅れました」

いつものように窓を開けた春日野は笑って乗車を促した。いつものように助手席にいるセリナが軽く会釈したので、こちらも会釈を返してから後部座席のドアを開ける。


 「こっちも突然でごめんね。調査部が儀式的に今日がいいって言い張るから」

ハンドルを操りながら春日野が説明してくれる。

「陰陽術を使っての儀式になるから、星の巡りとかも関係するんだよ。明日以降だとチャンスがなかなかなくって。僕も多少は心得があるから、その辺の事情は把握しているつもり」

昔読んだ本で、かつての陰陽師は星読みだったと書いてあった。暦を読み解くのが主な仕事だったとその本では表記されていたが、実態とそう違いはなさそうだ。

「大丈夫です。それに、早い方がいいんでしょう?」

「……できるだけ近いうちに、子龍とは会えるようにするから。けど、もしかしたら無理かもしれない。それは承知しておいてほしい」

運転しているから当然だが、春日野はまっすぐ前を向いて言い切った。けれど、後部座席に座った陽向からはルームミラーに映る春日野の顔が見えている。いつも穏やかなその眉間に、深い皺が刻まれていた。

「……覚悟はしてきたつもりです」


 子龍をあの異界のヌシに据える。

 それが管理局の出した結論だった。そうなるだろうなとは思っていた。あそこで死んでいたヌシは子龍の血縁だ。ヌシの継承システムがどうなっているのかを陽向は詳しく知らないが、恐らく人間社会の世継ぎと大差ないだろうことは予想がつく。

 それなら後継ぎは子龍だ。管理局がそう結論付けたなら、ほかの候補になる子供も居なかったのだろう。

「メッセージでも書いたけど、巫覡の契約も解除してもらう」

「はい」

陽向は声が震えなかったことに安堵する。大丈夫。まだ冷静でいられている。

「その儀式のやり方は葛城さんに任せておけば問題ないから」

それだけ言って、春日野が口を噤んだ。これ以上陽向から訊くべき質問もない。静寂に満ちた車内で、不安そうに首を擡げた子龍の喉元を引っ掻くように撫でてやる。


   〇


 古民家の様子は一見変わりなかった。しかしよく見ると家の周りに機材が置かれている。『あちら側』で使うような物資ではなさそうなので、もしかしたら子龍が開けた大穴の補修工事だろうか。

「春日野さん、ところであのときの穴って……」

「ああ、修理費は経費で落ちたから大丈夫だよ。不動産屋さんには価値下落ってことで依頼料の値引きで手打ちにしてもらったけど」

結局管理局の方に損害が出ているではないか。

「上名君の落ち度じゃないから大丈夫だよ。元々これくらいの損傷は予定内だしね」

まったりと言う春日野をどこまで信じていいのかわからないが、少なくとも陽向に損害賠償の請求がなされることはなさそうでよかった、ということにしておく。


 まだ儀式の準備が整わない、ということでちょっとだけ待機となった。やることがないので古民家の縁側近くでぼんやりしていることにする。

「あ、そうだった」

思い出した。陽向は閉められたままの雨戸を軽く叩く。一緒に居てくれるらしいセリナが不思議そうな顔でこちらを見た。

「真琴、居るか?居るなら出てきてくれるか?」

少しして、雨戸をすり抜けて赤い着物が出てきた。

「びっくりした。開けなくても出られるんだな」

「一応家の妖だからね。で?何か用?」

とん、と陽向の隣に着地した日本人形のような少女が見上げてくる。

「いや、お節介じゃなければなんだけど。東京に友達がいて、あっちの卯の花にも行けるらしいから手紙とかどうかなって。鯉に」

目を見開いて後、真琴の顔が隠しきれない喜色に染まった。

「あ、でもあいつ妖見えないから。池の近くに置いてくるだけとかになるからちゃんと届かないかもしれないけど」

あまりの反応の良さに、焦って慌てて付け加える。先に店の人に見つけられたら届かない。

「……それでもいいわ。お願いしようかしら。紙と書くもの貸して頂戴」

「今書くのか⁉」

「ほかにいつ書くのよ。あんたいつここに来れるのよ」

距離的には自転車でも来れないことはないが、許可なく立ち入ったら不審者である。

「大した紙もってねえんだけど……」

大慌てで鞄を漁ったら美術の授業で使ったスケッチブックが出てきた。罫線の入ったノートよりは無地だし紙質もいいだろう。

「こんなんで悪いな」

「上等よ」

一枚破ってペンケースごと一緒に渡す。受け取った真琴は「すぐ書いてくるから」とだけ言って雨戸の中に吸い込まれていった。紙とペンケースも一緒に入って行ったので不思議なものである。あれも座敷童の権能だろうか。


 庭の池の周りでは黒い着物の人たちが忙しなく動き回っていた。中には池の畔からふっと消えたり突然現れたりしている。なるほど、異界に出入りする人を傍から見るとああなるのかと興味津々に見ていたら、蜃気楼のように現れた春日野がこちらに向かって歩いてきた。隣には白髭の老爺もいる。調査部の部長、葛城である。

「お待たせ。準備できたよ」

春日野ができるだけ明るく振舞おうとしているのがわかった。気を遣わせているようで申し訳ない。

「子龍」

「ぴ」

足元の雑草で遊んでいた子龍を呼べば、すぐに陽向の肩に乗っかる。

「よく懐いておるのう」

葛城が呵々と笑った。陽向としてはこの一連の動作も最後かと思うと複雑である。

「行くぞい」

葛城に促されて進む。真琴の案内はないが、異界の入り口は開いていた。探ってみれば何かの術がかけられているのが判る。例えるならテントの入り口のようだ。布状の切れ目を枠で固定しているような感覚である。

 潜り抜けた先の景色も、先週と大差ない。少し霧が濃くなっているだろうか。これもヌシが死んだ影響なのだろう。先週は対岸に見えたヌシの館が完全に白に飲まれている。


 歩き出したら霧の濃さが増した気がした。まるでヌシの館に向かうのを拒まれているみたいだ。春日野と葛城の背中を必死に追いかける。

 館は綺麗に片づけられていた。ヌシの遺体どころか血痕一つない。

 すでに埋葬されてしまったのか、それともどこかへ運び出されたのか。その説明は子龍になされるのだろうか。……恐らく何の説明ももらえないのだろう。陽向の懸念した通りに。

 儀式は館で行うのかと思いきや、湖で実施するのだと言う。葛城に促されて、湖畔に向かう。霧でよくわからないが、湖と館を繋ぐ道ができているようだ。獣道のようにそこだけ下草がない。恐らくあの龍が行き来していたのであろう。その道を、陽向は子龍を肩に乗せたまま歩む。

 道の先、湖面に術の気配を感じ取る。湖底から岸にかけて術を準備してあるようだ。

「えーっと、もう少し右じゃの」

春日野から葛城には妖気を視る能力について教えないように厳命されているため、術も見えないように振舞っておく。真っ直ぐ歩いた位置だとずれていたがあえてそのままそこに立ったら思った通り指摘された。

「そう、そこじゃ」

葛城の指示に従って術の真正面に立つ。

「そのまま真っ直ぐの水にその龍を沈めい。それですべて完了じゃ」

「子龍」

葛城には答えず、子龍を呼ぶ。制服の袖を捲ってから両手で肩の上から降ろし、細い体を抱えた。

「ぴ?」

不思議そうに振り返った子龍の瞳は純粋で、これから陽向が何をしようとしているのかを理解している様子はない。


 子龍をヌシにしたところで、一連の事件が全て解決するわけではない。犯人は未だ捕まっていないというし、今後も被害が出ないとは限らない。

 それでもこの地をヌシ不在のまま放置することはできないのだ。

 円らな紫紺の瞳としばし見つめ合い、陽向は大きく息を吐いた。

 あの時。一週間前の高校の異界で、なぜ子龍が陽向の元にやってきたのかはわからない。巫覡の契約だというならば、陽向にしてほしいことがあったはずなのだ。それを理解してあげられなかったもどかしさが今更込み上げて、下唇を噛み締める。

「子龍」

少し苛立たしそうに葛城が「早うせい」と言うのを無視して、陽向は子龍の耳元に口を寄せる。葛城に聞こえないように細心の注意を払いながら、声にならない声でそっと囁いた。

「……なんか困ったらまた呼べな」

「ぴ」

それで陽向に何ができるのかなんてわからないけれど。それでも子龍は嬉しそうに一声鳴いてくれた。

 湖の畔にしゃがんで、子龍を抱えたまま両手を水に沈める。波紋が広がった。周囲の空気は暖かいのに、湖の水は刺すように冷たい。本能的に離しそうになる手を、子龍の鱗の手触りを確かめるように浸し続ける。

 湖底に刻まれた術が発動して、波紋と混ざって一つの模様を描き出す。それが両腕を這い上るような不快な感触。堪えて水中に探した子龍の固い鱗は、すでにそこにない。

「……」

「もうよいぞ」

満足げな葛城に抗って、たっぷり時間をとってから両手を湖からあげた。滴る水が湖面に落ちる。

「無事に帰っていきおった。巫覡の務め、ご苦労じゃったの」

それが世辞であることをわかっているので、陽向は大人げないと自覚しつつも顔を背けた。どうしても、自分が巫覡の役目を果たしたとは言い難い。

「これでもうしばらくすればヌシとして安定してくるじゃろ。ヌシの子をヌシの座に還したんじゃ。誇ってえいと思うぞ」

「……ヌシが狙われてるなら、子龍は大丈夫なんですか」

ついと咎めるような口調になってしまい、口にした陽向自身が少し驚いている。受けた葛城は対して気にしていないようで、

「当然の心配じゃ。当面は管理局で護衛がつくから安心してえいぞ」

言い切った。全く野放しではないという葛城の配慮に、ようやく少しだけ安堵する。

「ときに小僧」

不遜な態度を崩さず、腰を折った老爺が陽向を見上げた。皺に埋もれた瞼の奥で鋭い眼光が覗いて、陽向の背筋に冷たいものが流れた。

「これは年寄りのお節介じゃと思うて聞いてくりょう。悪いことは言わん。妖に肩入れするのはやめておけ。奴らは惹き込む。戻ってこれんくなるぞ」

息を呑んだ陽向に構わず、葛城は真っ直ぐに見据えてくる。

「春日野がそういう考え方をするが。おんしはあまり深入りせん方がえい。あれもあれで厄介な質じゃ」

「……っ」

否定したい気持ちが先立って、けれど言い返すだけの根拠もなくて、陽向は押し黙る。

「何はともあれ、今まで関わらずに来れたんじゃ。そこに戻るとえい。その方が平穏に過ごせるからの。妖の方もじゃ。本来アレらは人とは相容れぬ。関わるだけ不幸になっていく。そういうもんじゃ」

けど、と反論しかけてどうしても言葉が出てこなかった。両親と河野が対峙したあの日。河野の濁った妖気を思い出す。あの日確かに、陽向は彼らを関わらせてはいけないと思い知らされた。なら、それが陽向自身には当てはまらないとどうして言えよう。

 知らず、河野たちあの頃関わっていた妖たちにも悪い影響を与えていたのだろうか。学校の帰り道で陽向に悪戯をしかけてきた妖たちは。友達に話しかけるように語りかけてきてくれた妖たちは。

 陽向が気付いていなかっただけで、それが彼らにとってよくないことだったなら。

「視えること、管理局には登録してもらうが。それ以上には関わらんことをおすすめしておこうぞ」

言い放った葛城の言葉を、陽向は呆けた頭でどうにか受け止めた。


   〇


 「はい。お願いね。……ひっどい顔ね。今生の別れってわけでもないでしょうに」

異界から戻ったら真琴が書き上げた手紙を持って待ち構えていた。あえてお道化てくれているのだとわかって、それが逆に居た堪れない。

「……絶対届けるよ。あいつにもよく頼んどく」

「それはぜひ期待してるわ。……大したことは書いてないからそこまで気負わなくても大丈夫だけどね」

丁寧に四つ折りされた手紙を受け取る。陽向が曖昧に微笑むと、真琴は鼻を鳴らした。

「あんたの気合は置いといて、届くか確証のない手紙にそんな大事なこと書けないでしょ。いつかまた会いましょって書いただけだから」

大事なことは自分で伝えるということか。それなら陽向はできるだけのことをしよう。

「真琴からだって相手の鯉に一発でわかるなんかあるか?封筒に付けられる目印みたいなの」

少しでも目当てのひとの手に渡る確率を上げておきたい。そう言ったら真琴は悩んだ末にぽつりと言った。

「手毬」

「手毬?」

「ええ。絵柄でもシールでも。手毬模様。それで伝わるんじゃないかしら」

思い出でもあるのだろうか。深く追求しない方がよさそうだと判断して、陽向は頷いた。

「わかった。そういう封筒探してみるな」

「……お願いね」

最初の「期待しているわ」にはだいぶ皮肉がかっていたように思うが、このお願いは本心のようだった。陽向に頼むというより、無事に鯉が気付いてくれることを祈っている。少なくとも陽向はそう受け取った。


   〇


 真琴と話している間に日が暮れてしまったので、春日野の好意に甘えて家まで送ってもらった。

 別れ際にアルバイトのことを言われたけれど、考えさせてほしいと一旦保留にした。葛城に言われた言葉がずっとしこりのように停滞している。この状況で素直にはいとは言えない。


 リビングまで行ったが、家の中に家族の姿はなかった。居間に誰もいないのはいつもの光景だが、人の気配がない。部屋に籠っているというわけでもなさそうだ。

 怪訝に思って歩みを進めれば、ダイニングテーブルの上にメモが置いてあった。

 父の走り書きである。このご時世に逆らって、彼は携帯電話を持っていない。仕事の電話が常にかかってくるのが嫌で、すべて自宅の固定電話で賄っていた。在宅仕事なので出なければ外出していたとの言い訳が立つ。メールもすべてパソコンでやりとしている。パソコンを立ち上げる時間も惜しかったらしい。

 メモの内容は妹の体調不良についてだった。

 割とよくあることで、メモの書き方からしてもそこまで切迫はしていないことが察せられる。念のため病院に行ってくるので、晩御飯は適当に食べてくれ云々。

 今からコンビニに行くのも面倒だから、あるもので何とかしよう。陽向はのろのろと冷蔵庫を物色し始めた。


 残った玉ねぎを雑に刻んで鍋に投入。市販のだし汁と麺つゆで適当に味付けしてから卵でとじてそのままご飯に乗っける。卵丼。具の少ない寂しさは汁とご飯の量で誤魔化す。

 陽向以外にも食べる人がいるならもう少しこだわるけれど、今日はこんなもので充分だろう。卵はいい。料理の幅が広いし、なによりおいしい。賞味期限が近かったので火を入れたが、陽向としては生卵の方が好みである。

 「メシできたぞ、――」

たった一週間しか一緒に暮らしていないはずなのに、居もしない子龍を呼ぼうとしてた事実に愕然と立ち尽くす。居ない方が自然だったのだ。早く慣れなければ。

 誰もいない、本当にたった一人の食卓で、陽向は急ぎめにできた料理を掻き込んだ。

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