第五章 沢のヌシ
顔や手に付着した血液を洗い流したことで、少し気持ちも落ち着いてきた。どろどろの服は仕方ないので捨てるしかないだろう。汚れてもいい恰好で来いと事前に言ってくれた春日野に感謝である。
「大丈夫そ?」
「ん。大丈夫、もう歩けそうだ」
手が震えているのは見なかったことにしてほしい。川の畔でしゃがんだセリナに覗き込まれて、陽向は痺れた感覚の残る手を膝の陰に隠す。
「川、汚しちまったけど、大丈夫かな」
仮にも神域である。ヌシの余計な怒りを買っていないといいが。川は止めどなく流れていて、陽向が洗った返り血も大虎が流した血も川面には見えない。変わりない清流がそこにある。けれど見えないだけで流したのは事実だ。一滴でも濁らせた水が元に戻らない実験も目にしたことがある。
「……情けないとこ見せたか?」
つい不安に駆られて訊かなくていいことを口走ってしまった。けれどセリナは特に気にした様子もない。
「もしかして、実戦は初めて?」
黙って頷けば、セリナはそのまま川面へと視線を向ける。
「初めてだと、ああなる人はよくいるから……」
ぼそぼそと、言葉を選びながら紡がれるそれが彼女なりの励ましであるとようやく思い至る。
「……死なせちゃったけど、もしかして何とかできたのか?」
セリナを助けることしか考えていなかったけれど。今も横たわる黒い死骸を一瞬見遣り、気になっていたことを訊ねてみる。はたして、セリナは首を横に振った。
「ううん。あそこまで穢れてたら無理だと思う。穢れても正気でいられる妖のことも聞いたことはあるけど」
「穢れ?」
また聞いたことのない単語が出てきたけれど、何となく推測はできた。
「妖力が穢れるの。何もわからなくなって、周りの動くものを襲うようになる」
そうなったら、助からない。ほんの少しだけ悔しさを滲ませて、セリナは瞼を下ろしてそう言った。
「殺すしかない。だから、上名君が気に病む必要はない」
そういわれても割り切れるものではない。あの虎だって、生きていたはずなのだから。肉を切り裂き臓腑を搔き乱す感触が、はっきりと両手に残っていた。
「!」
ふと、気付いて陽向は顔を上げる。不思議そうに見上げたセリナに、陽向は鋭く言った。
「セリナ、ここを離れて隠れよう」
どうやら先ほどの虎とは違ってこちらには気付いていないようだ。もしくは仕留めたと思ってくれているか。
「もう一匹来た」
端的に告げた確信を持った事実に、けれどセリナは一時怪訝な表情を見せた。
「う、うん」
「子龍とポコも。とにかくその辺の茂みに入ろう。ここだと丸見えだ」
それでも信じてくれたようで、セリナは素直に陽向についてきてくれた。
妖気からして先ほどの虎と同じものだ。別個体だが、同種だろう。どす黒く濁って淀んだ妖気。
「こっちも穢れてるな」
突然異界の中に表れたことと併せて、たぶん外から入ってきたのだろう。一匹ずつなのとさっきのと違って直接こちらに向かってこないのが気になるところではあるが。
「どうする?迎え撃つか?」
指示を仰ごうとした陽向を、セリナの困惑に満ちた瞳が見上げていた。
「え?」
「あの、上名君、いろいろ訊きたいことがあるんだけど……」
躊躇いがちにセリナが問いを投げかける。ここまで感情を見せる彼女を初めて見た気がする。正直申せばもっと他の感情で見てみたかった。
目を泳がせたセリナは何から訊こうか悩んでいるようだった。
「一個ずつ思いついたやつからでいいぞ?」
このままでは埒が明かないし、ゆっくり進んでいるとは言っても妖気はこちらへ着実に近づいていた。半ばパニックになりかけているらしいセリナに先を促す。
「名前……」
「ん?」
「下の名前で、呼んでる」
「え?…………………あ」
もしかしなくても、盛大に口に出して呼びかけていた。セリナと。春日野がそう呼んでいたから影響されて内心そう呼んでいたとは今更言えない。
微妙な沈黙が、二人の間に流れた。
「それで陽向。何で、もう一匹いるってわかったの?」
「え」
思ってもいなかった質問が飛んできて、陽向は思わず硬直してしまう。最初に訊くべきが呼び名の件でよかったのかとか今更過ぎる疑問がまず脳裏をよぎり、どこかへ吹き飛んでいった。
「だって、妖気が」
「妖気、わかるの?」
「えぇ?いや、ちょっと待て。なあセリナ、もしかして、もしかしてだけど……」
ここまでの春日野やセリナ、細蟹の言動を走馬灯のように思い返す。いや、薄々思ってはいたのだ。もしかして、とは。でも。
「もしかして、みんな妖気ってわからないものなんです……?」
頼むからわかると言ってくれ、もしくはわかる人もいると言ってくれ。陽向の切なる願いは、セリナの呆然とした表情のままの首肯に無残にも打ち砕かれた。
〇
「春日野さんは妖気を探るのに探知機を使ってる。スマホに入ってるヤツ。春日野さんは葛城さんから術式を教えてもらったって言ってたから葛城さんもたぶん術で調べてる。細蟹さんはわからないけど……」
セリナが挙げてくれた知り合いで、離れた位置の妖気を肌感覚で感じ取れる人は軒並み皆無のようだ。
「術式の力を読むのがすごい人、みたいなのは聞いたことあるけど」
それが転じて妖気を読むことに繋がるのかはわからないそうだ。あくまで噂レベル。
「私が知ってる中で、異界の中で妖がどこにいて、どれくらいの妖気かも術も使わないでわかる人は、いないと思う」
陽向の打ちのめされた絶望を察してか、どこか申し訳なさそうにセリナはそう総括した。
「で、でもすごいことだよ。どこにいるかわかるなら先制攻撃もできるし」
完全に気落ちした陽向を励まそうと、セリナが言ってくれる。人を励ますことに慣れていないのが丸わかりな躊躇い混じりのお世辞ではあるけれど。確かに、これに助けられたのは一度や二度ではない。ここまでさしたる妖の事件に関わらずに来れたのも偏にこの能力にかかっていた。
「場所を教えられれば、対処できるか?」
顔を上げてセリナと目を合わせて、陽向は問う。セリナははっきり頷いた。
「じゃあ、こっちにゆっくり向かってる。俺たちを狙ってはいないと思うから、こっちから近づいて行って……案内できる」
算段をつけてセリナを連れ出そうとした陽向の、パーカーの袖をセリナがそっと引いた。
「陽向」
さっきよりは幾分自然に名前を呼んで、セリナは真剣な眼差しで陽向を射抜いた。
「他に気付いてることがあるなら全部教えて欲しい。ちょっとしたことでもいい。教えて」
あまりに真っ直ぐな視線に、咄嗟にたじろいだ。
「けど、戦闘に関してはセリナの方が専門だろ?俺が何か言っても……」
「素人の意見でも、見えているものがあるなら知っておきたい。陽向が何を知ってるのか、私は知らない。私が知らないことを、陽向は知らない。だから、もし他にもわかってるなら教えて」
「っ」
息を呑んだ陽向に、セリナは無感情に畳みかける。
「もしかしたら陽向がいらないと思ったことでも私には必要かもしれない」
――そうだ。それが有用な情報だと判断するのは素人の陽向がやることではない。戦闘に関してはセリナの方が専門なのだ。それなら陽向の持っている情報を専門家に渡すべきだ。要不要はセリナが決めればいい。
「……さっきの虎と同種だ。妖気の量もさっきのと同じくらいだから、強さも同じくらいだと思う」
もう一度詳しく妖気を探りなおして、陽向は得た情報をそのまま開示していく。
「さっきの奴より妙にゆっくり進んでるのが気になる。さっきのは異界に現れたときから一直線にこっちに向かってた」
「さっきのは明らかにこっちを狙ってた、と思う。……目的が違う?」
「それは俺も思う。けど、動きとしては何かに狙いを定めてるのはそうだと思う」
緩慢というより慎重に歩を進めている印象を受ける。思いつきでしかないが、陽向は自分の中にある最も近いイメージを引っ張り出す。
「獲物に狙いを定めて近寄って行ってる獣、みたいな?」
見つからないように身を潜めて、一気に襲いかかる直前のような。そこまで連想して、はたと気づく。ここに入ってから一度たりとも動きを見せないもう一つの妖気。
「狙いは、ヌシか……!」
セリナが鋭く眉を顰めた。
「ヌシを……?何の為に」
それは陽向を疑っているというより純粋に湧いた疑問のようであった。この際瑣末な問いであることを彼女自身が理解しているのは、独り言じみた呟きからして察せられる。
「理由はわからん。けど、たぶん方向からいってヌシ狙いなのは間違いないと思う。ヌシはこの上流。で、穢れた妖気の方はヌシのいる川から垂直にあっちの方向。二百メートルくらいか。こっからだと茂みの中を突っ切ることになりそうだけど」
「ヌシの方によくない何かはある?」
それは狙われる理由や事情のことだろうか。もう一度ヌシの方を慎重に見定めて、陽向は結論を述べた。
「ないな。昨日の鼠みたいに死んでるってこともなさそうだし、穢れてるわけでもない。いたって正常、所見なし」
なら、とセリナが腰の太刀に手をかける。
「斃すべきは妖の方で大丈夫そう」
「同感だ。……姿が見えるあたりまで俺が案内する、でいいか?」
「うん。行けるとこまででいい。絶対安全なところまでで、あとは大体の方向と距離を教えて」
「わかった」
了承して立ち上がる。セリナがどこまでの接近を想定しているのかわからなかったが、できる限り近づきたい。
「さっきみたいな無茶だけはしないで」
真剣なセリナの瞳に陽向は声を詰まらせる。さっきは偶然、結果として上手くいっただけだと言外に言われた気がして自戒する。
「ポコと子龍をお願い」
「わかった」
小妖怪二匹を小脇に抱えて、陽向とセリナは茂みを掻き分けて穢れた妖気を目指す。
結局、陽向が同行できたのは妖気から五十メートルを切った地点までだった。
理由は単純で、そこから先の地形が険しすぎたのである。妖気まで直線距離で移動していたのだが、十メートル近くありそうな崖に出くわしてしまった。眼下にも木々が見えるが、陽向の足降りていたのでは妖気に追いつけない。
「……大丈夫、姿が見える」
そっと声を抑えて指さしたセリナの先、木々の隙間から黒い毛皮がちらちら見えていた。
「妖気もアレで間違いない?」
「ああ。アレだ。で、今のところアレ一匹しか居ない。後から異界に入ってくる可能性も捨てきれないが」
異界内に現時点で存在する妖気はヌシと穢れた妖気、そしてここに居るセリナ、子龍、ポコのものだけ。
「じゃあ、ここから先は私一人で行く。倒したら戻ってくるから」
言われて、陽向はふと考え込む。
「……それだと追加で来たときに対応が遅れる。迂回路探してでもお前の妖気を俺が追いかけたほうが早く合流できると思う」
この先立ち往生する可能性がないとは言えないが、上から見た限りで川などの障害物はなさそうである。妖気も判るから、いざとなれば身を隠すことも可能だと説得すれば、セリナは案外簡単に了承した。
「わかった。じゃあ、先に行く」
「ああ。絶対追いつくから」
声にはせずに小さく、けれどはっきりと頷いて、セリナは崖下へと身を躍らせた。僅かに飛び出た岩を足場に、軽々と下っていく。
「……さすが」
鮮やかな赤みがかった明るい髪が炎のように揺らめくのを見下ろして、陽向は独り言ちる。
〇
切り立った崖をものともせず、木の葉のように降り立ったセリナはそのままの勢いで地を蹴った。
先ほど上から確認した妖に向かって一直線に駆け抜ける。
立ち並ぶ木々は、このくらいの間隔であれば避けることも容易だった。妖としての体力と身体能力に任せて、一気に足を進める。
不安がないと言えば嘘になる。昨日以来、上名陽向という少年が同行するようになって、セリナは説明のつかない困惑を抱いていた。
――いけない。
それだけはいけない。自分は迷ってはいけないのだ。
同年代とまともに話したのは初めてかもしれない。生安課のメンバーには年上が大半で、セリナのように保護された子供たちもいるが、彼らは遥かに年下だった。
人と妖の真ん中。どちらにも成れる存在。妖に寄った振舞をすれば、セリナの姿を見ることができるのは陽向のように力を持ったモノに限られる。それをいいことに、これまでは見えない人間との接触を避けてきた。
自動車を超える移動速度を以って駆け抜ける木々の向こうに、黒い影が蠢いたのが見えた。
虎だ。
さっき河原に現れたのと同じ、黒い巨大な虎。身を低くして、巨体を木々の中に埋めるように、足音を立てないように進んでいる。妖気という指標がなければ、その上でそれを正確に知覚できる陽向がいなければ、まず接近には気付かないだろう。
狩人に相応しき周到さで獲物に迫る虎を、ほんの少しだけ不憫に思った。
思いはしたけれど、迷わない。
太刀の柄に手をかける。相手はまだこちらに気付かない。
一瞬で距離を詰めて、刀身を抜き放つ。
〇
崖の上から確認したように、一度降りてしまえば平坦な森が広がっていた。
最後の二メートル近い段差を飛び降りて、陽向はようやく一息吐いた。
「何とかなったか?」
「うん。今のとこで最後だったと思うよ」
最後だけこれ以上迂回路を探すのが面倒になって無理に飛び降りてしまったけれど、上手く着地できてよかった。この手の運動神経を鍛えてくれた河野たちに感謝である。こちらが人間の身体能力であることを彼らがたまに忘れていたのは都合よく忘れておく。
セリナの妖気が穢れた妖気と接触して少しだけ時間が経過している。妖との混血だと聞いたし、昨日の戦闘からして並外れた身体能力だと知ってはいたが、まさかこんなに速く移動できるとは思わなかった。一直線に自動車並みのスピードで森の中を突っ切っていくセリナの妖気を肌感覚で追いかけて、一人戦慄していた陽向である。
「!倒したか」
そして今、穢れた妖気の方に変化があった。死亡してもすぐに妖気がなくなるわけではないのであまり正確なことは言えないが、戦況が変わったことは読み取れた。
「勝った?」
ポコが目を輝かせる。陽向も少しだけ緊張を解いた。
「たぶんな。セリナの方は健在そうだし」
下草を踏み分けてセリナの妖気を目指そうと、木々が柱のように立ち並ぶ森へ踏み入れた直後。
再び異変を察知して、陽向は顔を顰めた。
「……マジかよ、もう一匹来た」
一体どれだけ居るというのか。軽く舌打ちして、下を歩かせていたポコを抱き上げる。気を利かせたのか子龍が勝手に肩に乗ってきた。
「走るぞ。急いでセリナに知らせねえと……っ!!?」
直後、背後から急速に近づいてくるもう一つの妖気に、陽向はポコを抱えたまま反射的に振り向いた。
〇
足元に巨大な虎が体躯を横たえている。
ちらりと目線を向けて、セリナは太刀を振って刀身についた血を払った。草の上に血飛沫が飛んで斑点模様をつける。
こちらを把握していない敵に対して急襲するのは思った以上に簡単だった。何の苦労もなく一撃で急所である喉笛を掻き切った。血潮を噴き出して揺らいだ巨体はあっけなく地に臥して、僅かに痙攣してからすぐに動かなくなった。
一方的に襲撃されたときとは大違いだ。先手を取れるかがいかに有利不利に直結するかを再認識して、さらにセリナは次なる懸念へと思考を優先させる。
敵の居場所を割り出してセリナに先手を与えた陽向は今この場に居ない。ここまで穢れた妖がそれほど複数居るとは考えたくないが、警戒するに越したことはないのだ。無防備なところを襲われる恐ろしさはついさっき確認したばかりである。
故に、セリナは周囲への警戒を改めて強めた。
陽向のように妖気が判るわけではないが、こちらへ向けられる殺気くらいは認識できるつもりでいる。草食動物を狙う肉食獣のごとき意識を明確に示されれば、接近に気付くだけの自信はあった。
――来た。
相手にこちらが気付いていることを悟らせるつもりはない。殺気へと視線を向けることなく意識だけを集中させる。
聴覚が下草を踏む僅かな音を捕えて、セリナはすぐにでも太刀を抜く体勢を整えた。そろりそろりと、着実に近づいてくる。
身を低くする音。踏ん張って、土が削られる音。蹴られた土が舞い上がる音。
「やっ」
背後から飛びかかった黒い獣に、抜刀しながら横薙ぎに太刀を払う。振り返る勢いそのままに描いた太刀筋は、吸い込まれるように宙に浮いた獣の腹を抉った。
浅い。タイミングが少し早かったか、と冷静に分析しながら距離を取る。獣は血痕を地に残しながらも健在で、再び飛びかかろうと四肢の関節を折り曲げていた。
隙を狙うように地に伏したまま唸る獣を、正眼に構えた太刀で威嚇する。こちらに向けて飛び出したときが、その命を終えるときだ。どう動いても確実に仕留める。
しばし睨み合った後、獣がさらに身を屈めた。来い。勝利の確信に知らず笑みさえ浮かべたセリナに、獣がばねのように飛び出そうとする、直前。
「えっ?」
目の前、さっきまで獣が居たその場所に、まるで山ができたようだった。山が降ってきた。我が目を疑ったセリナは、直後に吹き荒れた暴風から自身の顔を守った。
「何、が……」
目に入る砂塵を堪えて見れば、目前に小山ができていた。山の下からは圧し潰した果実のように血が広がっている。下で潰れているのは、さっきまで目の前にいた虎だ。
「は?」
あまりの現実離れした光景に惚けた声を出してしまう。三メートルほどの、苔むした岩山が身じろぎするように蠢動した。岩が、回っている。呆然とその様子を見守っていたセリナは、即座に太刀を構えなおす。
岩だと思ったのは甲羅だ。岩ほどもある、緑色の甲羅だ。長年を生きた証のように、その甲羅は新緑の苔に覆われている。飛び出した柱のような足にも浸食していた。
ゆっくりと向きを変えた甲羅の向こうから、頭部らしき突起が見えてくる。こちらに敵意があるならば……。
「セリナ、ストップストップ!待った、その
狙うならば首だ、と太刀を振るおうとした手が、後ろからかけられた呼び声で緊急停止する。
「陽向!?」
驚いて振り返れば、ポコと子龍を抱えて陽向が走ってくる。
「攻撃しちゃダメだ!それここのヌシだからっ!!」
〇
平坦な森林だからと舐めていた。普通の森ではありえない大樹だらけだし、その分根も太い。地表を覆う根はそこかしこに生えていて、迂闊に走るとすぐに足を取られる。
頭上を亀がUFOのように通り過ぎてから数刻。さらにセリナはもう一匹の虎妖怪と接触したようである。亀は真っ直ぐにセリナの方へ向かっていた。
「何で、ここに来てヌシが動くんだっ」
アスレチックのように入り組んだ木の根をよじ登って、思わず陽向は悪態を吐く。これまで一度たりとも川の上流から動こうとしなかったヌシが(ふざけた絵面で)飛行していった。
どうにかセリナの姿を視界にとらえたとき、何とか間に合ったと心底安心した。亀に向かって太刀を構えているのが見えて、大慌てで叫んだ。
ヌシが敵でない保証などないけれど、それでも先手で攻撃を仕掛けるのは拙いと思った。陽向の感覚が正しかったのか、ヌシという語句を出した瞬間セリナの動きが止まる。
「
安心しすぎたのか、自分が走っているのが巨大な木々の根の上だというのを完全に忘れていた。むしろここまで無事だったのが奇跡だ。
「だ、大丈夫……?」
盛大に足を滑らせてすっころんだ陽向のところへセリナが駆けつけてくれる。
「……何とか」
「大丈夫だよ!」
背中の上でポコが元気よく立ち上がった。小さい足が刺さっているとは言いづらい。転ぶ寸前、咄嗟に背中側にポコを回せたのは奇跡だと思う。
「何じゃ、随分暴れとると思ったら仔狸もここに居ったか」
頭上から降ってきたしわがれた声に、全員が顔を上げた。見上げた先に、しわしわな亀の顔があった。
〇
「ちょっと待っとれよ。確かこの辺に……」
岩屋の奥で巨大な甲羅を震わせている。亀なのに毛を束ねた馬のような尻尾がふわふわ揺れている。
森から沢に戻って、上流まで遡るのに要した時間のことはちょっと考えたくない。何にせよ、陽向はここ数年分の運動をしたと思う。昨日から換算したらありないくらいに運動している。明日か早ければ今日の夜くらいには襲い来るだろう筋肉痛を思うと憂鬱極まりない。
「おお、あったぞ。これじゃこれじゃ」
「わあ!」
馬の尻尾のような繊毛が一筋、腕のように何かを巻き付けてポコに差し出した。それを受け取ってポコの表情が晴れ渡る。
それは泥に汚れた小さなテディベアであった。大きさは指一本程度。ぬいぐるみというよりキーホルダーに近い。
「あった!よかった!亀のおじちゃんが持っててくれたの?」
「沢で拾ったんじゃよ」
孫を見るようにほっほと笑って、亀は目を細めた。
「しかし、随分汚れてしもうたの」
「ううん。前からこんなだったよ」
覗き込めば、ぬいぐるみは散々たる有様だった。よごれはもちろん、糸がほつれてしまっている個所もあるし、目のビーズもぐらぐらしているように見える。
小さな手で大事そうに抱え込んで、ポコは瞳を潤ませていた。
「返そうかと思っておったら山から居なくなってしもうての。なかなか戻って来んから出ていってしまったのかと心配しておったが」
それで、山に帰ってきたから返そうと思って異界に招いたら
「年を取るとやることが大雑把になっていかんのう」
そう言って亀は豪快に呵々と笑った。
「これでもヌシやっとるからの。知らんモノには過剰に警戒するくらいで丁度ええんじゃ。悪く思わんでくれな」
「それはまあ」
申し訳なさそうな亀の言い分は判る。穢れた妖気とそうでない妖気。比較すればどちらが怪しいかは明白だが、かといって穢れていない妖気を持つ者に悪意がないとは言い切れない。それは陽向も経験から理解できる。
「最近物騒での」
迷惑そうに亀はしわに埋もれそうな目を細めた。
「ここのところ妙なモンが入り込むようになってな。何、脅威になるほどでもないじゃが、うざったくて敵わん」
「それはあの虎みたいな?」
三匹も侵入してきた穢れた妖気の妖の姿を思い出しながら、陽向は訊ねる。亀が神妙に頷いた。
「あんな大型の妖、何匹おるんじゃか。潰しても潰しても生えてきよる」
「外から入ってきたみたいだったけど」
言われて陽向も考える。異界の位置は恐らく元の世界と重なるように存在しているはずだ。そう遠く離れているとも思えない。だからこそ、あれだけの妖気が外に居たならば、陽向が気付かないはずがないのだ。
「……妖気を隠す方法でもあるのか?」
「そうさのう」
思いついたままに喋っただけだったが、亀はすんなり同意した。
「同じ種というのも気になる。何というんじゃったか……そう、こぴー?」
「ああ、確かに。それかも」
何故大自然の中で暮らしているヌシが文明の利器に知見があるのかは知らないけれど、しっくりくる表現ではあった。
同族ではよくあるが、それにしても妖気が似すぎていた。もちろん個体差のようなものはあったけれど、
「む」
「あ」
期せず、亀と声が被ってしまった。
「しつこいのう」
「またかぁ」
やれやれと肩を落とした亀に陽向も同調する。
「また来たの?」
険しい顔で訊いてきたセリナに、最早うんざりと陽向と亀が答えた。
「ああ」
「うむ。……む?今度は二匹じゃの」
「え?…………ああ」
ちょっと離れていたから、もう一つの妖気を見逃していた。何と言うか、粘着力のあるまとわりついてくるような妖気。これには覚えがある。
「穢れてない方は大丈夫だと思います」
「む?知り合いかの?」
「はい。――セリナ、細蟹さんだ」
「え」
今度はセリナが怪訝な表情で首をかしげる。亀と陽向の会話に完全に置き去りにされている。疲れたのかポコと子龍がくっついて居眠りしていた。
「迎えに来てくれたのかな?行ってみるか?」
「う、うん」
釈然としない顔のセリナだけれど、細蟹にはこちらの無事は伝えておいた方がいいだろう。間違ってヌシに攻撃されても困るし。
「ならお主らはそっちに行くとよい。儂は
確かに、波状攻撃に晒されている異界内に連れて行くよりは、ここに居てもらった方がいいかもしれない。
「なら、私だけでも」
セリナが名乗りをあげる。陽向としてはもう一度ここに戻ってくる道程を思えばその方がいいかもしれないと一度は思ったが、根本的問題に立ち返った。
「細蟹さんの場所わかんねえだろ?」
「あ」
彼女はこちらを探しているのか、複雑に動き回っていた。あちらの方向、と指示したところでセリナのスピードをもってしても移動している細蟹には行き当らないだろう。
「わかった」
了承したセリナと一緒に洞窟を出る。亀もついてきた。
「では、儂は侵入者を片付けてくるでの」
言うが早いが、飛んで行った。巨大な岩みたいな甲羅がふわっと浮いて、滑るように空を飛んでいく。
「見れば見るほど不思議だよなあ……」
滑空していく亀を見るのは二度目だが、重力その他物理法則にことごとく逆らった謎の動きである。
「俺たちも行くか」
「うん」
細蟹の妖気を追いかけて、陽向とセリナも沢を降り始めた。
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