第四章 子狸の失くし物
〇
「あそこ、あっちのお山!」
「わかってるから、座ってろって」
行先ならば出発前に聞いた場所にちゃんと向かっているはずだ。その証拠に迷わず運転する春日野の正面に指さす山は存在するのだ。運転席の背もたれに登って前方を指さした小さな狸を、陽向は両手で抱えて後部座席に戻す。運転中なので危険極まりない。
「面倒見いいのね?」
茶化すように細蟹が自身の頬に手を添える。
喫茶店に突然現れた少女は、その見た目と同じくらいの幼さで必死に失くしたぬいぐるみの捜索を依頼した。なんでも母親の形見らしい。春日野たちは仕事だから受けると言ったけれど、陽向一人であっても断らなかっただろうとは思う。それは何とか見つけてあげたい。
小学校低学年くらいの少女から後ろ足で立ち上がる小さな狸の姿に戻って涙ながらに話す彼女に絆されなかったといえば嘘になる。
「随分懐かれてるわね」
「……そうですかね」
陽向の膝に小さな手を不安げに乗せた狸――彼女が名乗るところによるとポコは、同じく膝の上に降りてきた子龍と見つめ合っている。子龍の方が牽制しているように見えなくもない。
「幼稚園の先生みたいよ。向いてるんじゃない?」
それはどうだろうか。小さいが故にそこまで大事になりそうではないけれど、一触即発な雰囲気を醸し出している二匹をどうしようもできない辺り向いているとは言い難いと思う。
「午前中に会った妖たちにも好かれているみたいだったわ。妖がただの人間にあそこまで心を許すのは珍しいわよ?」
細蟹が言うと皮肉に聞こえるのは何故だろうか。反応に困って窓の外に視線を逸らした陽向の耳に追い打ちのように彼女の小さな声が届いた。
「案外妖の血でも混ざってるんじゃない?」
「え?」
首を回せば細蟹が一見優しそうな笑みを浮かべていた。
「……そういう話は聞いたことないですけど」
陽向の知っている範囲での家族関係に妖はいないはずだ。いれば陽向が気付かないわけがない。さすがに四代五代前と言われれば自信はないが。
「純粋な祓い屋の家系でもないと遠いご先祖様に混ざっている可能性は否定できないよ」
運転席から春日野が口をはさむ。
「上名君だって、お家の家系図全部を完全に把握しているわけじゃないでしょう?」
言われて陽向は口ごもる。確かに、父方母方共に祖父母とは疎遠だ。家系の話など聞いたこともない。
「混ざりはそこまで珍しくないわよ?」
笑みを絶やさずに細蟹が続ける。
「本人が気づかなくてもね。何より混ざりは最初人間として生まれてくるから自覚がないのが普通だし、そのまま一生を人間で終える者が大半ね。血が薄まれば薄まるほどその確率が高まるし」
けどね、と細蟹は内緒話でもするかのように声を潜める。
「さすがに二代目の人妖は初めてだわ。それも顕在化済み。さぞや苦労したんじゃない?」
彼女の切れ長の目がすうっと横に流れる。その視線の先は助手席の――。
「そこまでです、細蟹さん。それ以上はプライバシーに踏み込み過ぎです」
珍しく怒りを滲ませた春日野の静かな制止に細蟹は大げさに両掌を上に広げてみせた。悪戯がバレた悪童みたいだ。
(二代目の、人妖)
聞いてしまった内容を忘れることはできない。春日野の反応からして事実なのだろう。妖の血を引く人間。
(通りで妖気が独特なわけだ……)
陽向としては一つ不安材料が消えたのでよしとしよう。セリナの妖気が彼女自身を起因にしているなら、それ相応の問題は在ろうが、そこまで警戒する必要はなさそうだ。祟られているとか、憑かれているとか、そちらの方面でなくて安堵さえしている。
「さあ、着いたよ。ここで合ってるかい、ポコ」
山道を少し登ったところにある駐車場に車を停めて確認した春日野にポコが頷く。
「うん。この奥のお山だよ」
〇
勒白寺は寺社の多いこの地域でも有数の古刹である。創建は鎌倉時代とも伝わる寺で、さすがに建て替えはされているらしいが、それでも古い木造の金堂を今に残している。
小学校の頃から遠足や社会見学などでお世話になった、陽向にとってはなじみ深い寺であった。石段を上った先に、古すぎて耐久性にちょっとした不安のある金堂が見えてくる。
「いやー、なかなか。いい運動になったねえ」
登り切った境内でぜーぜー息を切らしているのは陽向と春日野だけであった。棲み処であるだけに元気いっぱいなポコと陽向の肩に乗っかっていた子龍は当然として、セリナと細蟹も呼吸すら乱れていない。陽向だって一応現役の男子高校生であるし、それなりに鍛えているつもりではあるが、この差は何なのか。やはり人妖とは人間とは体のつくりそのものが違うのか。
「失くしたのね、この奥!」
ポコが指さした先、金堂の奥に鳥居が見える。寺の裏手は神社になっているのか。近づいてみれば、完全に登山道であった。春日野が小さく悲鳴をあげた。
金堂までは綺麗に整備された石段だったが、鳥居の先は土がむき出しである。ところどころ急斜面になっているところだけ、木組みで階段が造られている程度だ。場所によっては木の根が階段状になっているところもある。山肌の途中に作られた道らしく、斜面を降った先は木々に覆われて見えない。水音がするので川でもあるのだろうか。
「どの辺りで落としたんだ?」
息切れを誤魔化すように陽向は膝下ほどまでしかない小さな狸に問いかける。
「わかんない……川に行ったときだと思うんだけど……」
「川?川って……」
まさかとは思うが、この斜面の下を流れる川だろうか。ほとんど崖みたいな急角度である。とてもではないが専用の装備や知識がなければ降りられない。そもそも川の姿すら見えないし。
どうしようかと春日野たちを呼び止めたところで、ポコが陽向のパーカーの裾を引っ張った。
「違うと思うの。この下の川じゃないと思うの……」
妙に確信めいている。何か根拠でもあるのだろうか。
「絶対違うのか?」
「うん。もっと大きい岩がいっぱいごろごろしてた!」
さすがここに住んでいる野生の狸なだけある。下の川にも難なく降りられるのだろう。
「川の様子が全然違うってことか……」
「大きな岩ってことは上流の方なのかな」
息を整えながら春日野が首を捻る。
「この山の中なのは確かなんだよな?」
スマホで地図アプリを立ち上げる。GPSが即座に現在地を拡大してくれた。見事に山の中である。
「これが下の川みたいですけど……」
スマホを覗き込んだ春日野にもわかるように、陽向は登山道の隣を走る水色の線を指さす。
「うーん、地図で見る限りここが上流部かなあ」
もう少し進んだあたりで川は登山道を離れて、そのまま消えていた。地下水脈にでもなっているのだろうか。試しに衛生写真に切り替えてみたが、やはり川は地図の通り消えている。この先の渓谷を源流としているようだ。
「岩がごろごろって風には見えないですよねえ」
拡大した衛生写真も細い川がどんどん細くなっていくだけである。どうみても谷川のような大きな岩がある様子はない。
「かといってこの山に他に川があるかっていうと……」
少し縮尺を戻して山全体を確認する。隣の山やもう少し西へ行くと一級河川に当たるが、ポコのいう大きな岩ごろごろと言える川はなさそうだ。
「これってもしかして」
陽向は自分の頬が引き攣るのを感じる。地図上に存在しないけれど、存在する場所。心当たりがありすぎる。
「うーん、それは困ったかもしれない」
春日野が難しい顔で自分のスマホを取り出した。件の便利アプリを使うのだろうか。
ならば今度こそやり方を見せてもらおうと意気込んだ陽向に対して、春日野はスマホを左右に振ってみせる。
「結論から言うと、無理。異界に入るには特殊な手順が必要でね。外郭……昨日の学校でいうなら学校を再現してたところまでは無理やり入れるけど、その奥となると一気に難しくなるんだ。昨日は奥に居るヌシが死んでたから簡単に入れたけどね」
本来であれば異界の主であるヌシの意向が最優先なのだそうだ。春日野の持つアプリ――正確にはスマホを媒介にした陰陽術式(と春日野は説明する)はいわば扉をノックする程度のものであり、ヌシの許可がなければ入れないらしい。
「同じヌシ仲間とかだとまた違うらしいけどね。無理やりこじ開けることもできなくはないけど、後が怖いからできればやりたくないな」
河野の妖気からも判るが、ヌシの妖気は別格だ。その怒りを真正面から向けられると思うと、春日野がアプリを使いたがらない理由は理解できる。
「じゃあ、私のぬいぐるみは……」
ポコが今にも泣きだしそうな顔で俯いた。春日野も困った顔で彼女を見下ろす。
「うーん、正直今日中は難しいかな。神域に籠ってるヌシにお伺いを立てるには本部の許可が必要だから。通るかわからないけど、申請はしてみるね。少し時間がかかるかもしれないけど、待ってくれるかい?」
苦笑ながら笑顔には違いない優しげな表情で言う春日野に、ポコの顔が一瞬で明るくなった。
「うん!」
元気に頷いたポコを微笑ましく見ながら、姿勢を戻した春日野を少し見上げて陽向は小声で言った。
「正直、ちょっと意外です。ポコみたいな小さい妖怪にもここまで対応するんですね」
管理局の規模がどの程度なのか陽向は知らないが、全国区であることは間違いなさそうである。その本部への申請というのだから、それなりに大事ではあるだろう。言い方は悪いが、人間がこの小さな生き物一匹のために裂く労力に見合う何かがあるのかもわからない。
「上名君には悪いけど、管理局みんながみんなこうじゃないよ?はっきり言って
なんと、本当の意味で実験的な部署らしい。
「基本、管理局の方針としては前身である陰陽寮の頃から変わってないよ。妖は祓うべきモノだ」
そう語る春日野は寂しそうに見えた。
〇
異界には入れなくてもせめてお参りくらいはして行こうという春日野の提案により、奥の院を目指す。途中で、細蟹が電話を受けるために別行動になった。
「用件が終わったら追いつきますので先に行っていてください。一本道でしょうから済んだら戻ってきていただいて構いませんわ」
手短に言って電話を取った細蟹のお言葉に甘えて、一行は頂上を目指す。
奥の院までは三十分程度で着いた。この奥のハイキングコースに行くならともかく、ここまでならば登山の専用装備までは不要だった。動きやすい恰好ならば問題ないだろう。
頂上付近に小さなお堂がある。強風が吹けば崩れてしまいそうなくらいに、こういっては何だが、襤褸屋である。
「随分荒れてますね」
引っ張れば千切れてしまいそうな鈴緒を慎重に鳴らして、二礼二拍手。
「ここまで整備するのは大変なんだろうね。ここに限らずお布施とかも減っているって聞くし」
「機材とか入れられないですしね」
ここまでの山道は本格的な登山道に比べれば緩やかではあるけれど、大型の機械を持ち込むことはできないだろう。人一人が入れるかどうかの小さなお堂ではあるが、それでも機械なしで整備するのが難儀するであろうことくらいは容易に想像できた。
「よし、これで少しはお目通りしやすくなったかな」
そういうものなのだろうか。立ち去ろうと踵を返した春日野に続こうとして、陽向の足が何かに触れた。
「ん?」
見下ろせば、白い茶碗である。少し欠けているが、問題なく使えそうだ。取り上げてみれば、綺麗な絵が外側についていた。簡単に土を払ってお堂の隅っこに置いておく。
お堂から少し離れたところで、春日野が電話をかけていた。結構な山奥に感じるが、一応電波は届いてるらしい。話の内容からして本部に申請するヌシとの面会予約だろうか。
仕事が早いと感心する一方、勝手に帰るわけにもいかないので暫く待機することにする。ポコは電話する春日野を不安そうに見上げていた。何となく一人でいるのも不自然で、同じく所在なく春日野を見ているセリナの近くへ。
「……」
それとなく近づいたけれど、彼女はこちらを一瞥してからふいと目を逸らしてしまう。拒絶されたわけではないと思いたいけれど。
「その……お礼、まだ言ってなかったよな」
話しかけられるとは思っていなかったのだろうか、セリナは驚いた様子でこちらを振り向いた。動きに合わせて長いポニーテールが揺れる。見開いた瞳が大きく振れた後、すぐに取り繕うようにいつもの無表情が現れた。
まるで驚いたことそのものがいけなことだったような、そんな印象を受ける反応に戸惑いながらも、陽向はどうにかその先を続ける。
「ほら、昨日助けて貰っただろ。だからその、ありがとな」
「……別に。仕事、だったから」
素っ気ない返事とは裏腹に、セリナの頬は僅かにだが確かに緩んでいる。思ったより感情豊かなのかもしれない。
「けど、助けて貰ったのは本当なわけだし。来てくれなかったら死んでたしマジで」
逸らした目線は合わないけれど、それでも事実は事実だ。諮詢するように視線を彷徨わせた後、赤銅の瞳が一瞬陽向を映して、すぐに逸らされる。けれど、セリナは呟くようにポツリと言った。
「間に合って、よかった」
その言葉で、感謝を受け取って貰えたものと判断しておく。送る感謝に対して見返りを要求するつもりもないけれど、無視でなかったのは素直に嬉しい。
セリナと普通に会話らしきものが成立したことを密かに喜んでいると、春日野にくっついていたポコがほてほてと歩いてきた。春日野は未だ電話している。
「春日野さん、まだかかりそうだな」
「やっぱり、難しいのかな……」
不安そうに項垂れるポコ。電話口の様子は芳しくないらしい。
「同じヌシなら河野さんとか仲介してくれねえかな。その辺も問題あったりするのか?」
少し待って、ようやく緋色がかった長い髪が揺れる。
「私?」
「他に誰だよ」
きょとんと振り向いたセリナに、苦笑しながら陽向は問い返す。少し考えて、セリナは静かに口を開いた。
「私はそういう方面には関わってないから」
つまり知らない、と。
「……ごめん」
「いや、謝るようなことじゃ……」
責めるつもりは一切なかったのに、何故か気不味くなる。振り払うように陽向はスマホを取り出してみる。
「ものは試し、管理局的には問題あるかもしれんが、俺は無関係だ。無関係な奴が勝手に話持ってったところで罰とかはねえだろ」
早速、と河野の電話番号を探し始めた陽向を、電話を終えたらしき春日野が呼んだ。
「やあ、お待たせ。相談してみたけど、何とか申請を出すくらいはできそうだ。通してもらえるかはやってみないとってところだね」
「……じゃあ河野さんの方はそれがダメだったときの最終手段で」
「?何か言ったかい?」
セリナとポコだけに聞こえるようにぼそぼそ喋って、春日野には何でもないと誤魔化しておく。春日野から見えない角度で小さく頷いてくれたセリナに少なからぬ感動を覚えて、陽向の頬も自然と綻んだ。
「それじゃ、戻ろうか」
春日野が先導して、奥の院の証である小さな鳥居を潜る。そこまではよかった。
「!ポコ、止まれ!」
春日野に続いて鳥居を抜けようとしたポコを、異変に気付いた陽向は慌てて追いかける。
「っ」
伸ばした手が柔らかい毛に振れた瞬間、冷水を浴びせられたような違和感。見えない壁をすり抜けて、気付けば景色が一変していた。
「……マジか」
河原であった。陽向の背丈ほどもありそうな巨大な岩が渓谷を形成している。岩の間を縫うように走る川は、川幅こそ細いがそれなりの急流であり、相応の深さもあるように見える。
「異界……」
呟いた少女の声が至近から聞こえてきて、陽向は飛び上がるほどに驚いた。
「稲月⁉︎」
河原の大きめの石を踏み締めて隣に立ったセリナは険しい表情で辺りを確認している。
「春日野さん……は来てないのか」
周囲を見渡して、メンバーを確認する。咄嗟に手を掴んだポコが居て、肩にしがみついていた子龍が居る。で、隣に居るセリナ。以上、点呼終了。目に見える範囲に春日野の姿はない。妖気のない彼の所在は、陽向には判らない。
「ここ……ここだよ!」
突然手を引かれ、慌てて踏ん張って目線を落とせば、ポコが急流の先を小さな指で指し示していた。
「ぬいぐるみ落としたの、間違いない!」
「やっぱり異界の中だったか。見つからないわけだよ」
しかしまさか二日続けて異界に入り込むことになろうとは。確かに陽向は幾度か経験はあるが、さすがに連日というのは記憶がない。
「管理局だとよくあるのか?」
視線でセリナに話題を振ってみたら、彼女は静かにかぶりを振った。
「基本的に向こうから招いてくれないと入れない」
本部に許可の申請がいるくらいなのだ。春日野の言い分を思い出すに神域なのだからそう簡単に入れるものでもないだろう。
「で、どうする?」
この場では一番事情通であろうセリナに判断を仰ぐ。あくまで陽向は素人なのである。余計なことはしない方がいい。
「…………?」
と思っていたけれど、セリナからは一向に返事がなかった。それどころか不思議そうに首を傾げられてしまった。陽向に決めろということだろうか。
「……もし俺が変なことしてるようだったら止めてくれ」
「ん」
これには素直に答えてくれたのでよしとする。改めて陽向はポコと向き合った。
「ポコ、どの辺で落としたかとか記憶あるか?」
「うん!」
セリナとは違い、自信満々ないい返事である。
「ここを通って、もっと上の方!岩の隙間に、落ちちゃったの」
「上流か……」
巨大な岩の転がる上を見上げて、陽向はしばし思案する。ヌシらしき妖気も上流にあるが、動かずにじっとしているので近づきすぎるようなら諦めて戻ればいいだろう。幸いなことに、出口の気配もちゃんと見つけるできている。
「出口とは逆方向だけど、とりあえず上に行ってみるか。ただし、危なそうだったらすぐに戻るからな」
「うん、わかった!」
元気な返事をしたポコと、同意確認を含めてセリナを見遣る。彼女は無言で頷いた。
〇
上流へ遡ると言葉にすれば簡単なものの、実際の道程はそう単純なものではない。
何せアウトドア装備など何ひとつ持っていないのである。まさかクライミングじみたサバイバルなど想定しているはずもなく、渓流遡上は予想以上の困難であった。
――陽向だけにとって。
「お前らちょっと待っ……子龍、お前飛べるだろ自分で行ってくれない?」
そもそもが野生の狸であるポコにこのくらいの渓谷は大した障害ではないらしく。細蟹の話を信用するならば妖との混血らしいセリナは人間離れした体力と身体能力を持っていて。ゆっくり浮遊する程度とはいえ宙を飛べる子龍にちょっとした高さは問題にならない。
結果。
ときには背丈ほどもある岩を登るのに、陽向だけが多大な苦労を要していた。
ポコはともかく、セリナも手をほどんど使わずに跳ねるように登っていく。対する陽向は全力でクライミングに挑むしかない。
「大丈夫?」
ようやく登り切った先で、セリナが涼しい顔で待っていたときはちょっと怒りが湧いた。八つ当たり以外のなにものでもない理不尽極まりない怒りなのは承知しているので口にはしないけれど。
「まだ上か、ポコ?」
いい加減そろそろ目的地についてくれと願いながら問うた陽向に、無情にもポコは遥か上を指した。
「この上だよ!」
「……………………この上」
当たり前だが、川は上流に向かうほど険しくなる。今、陽向の目の前には滝と言って差し支えのない急斜面、というより岩壁がそそり立っていた。
「……稲月とポコだけで行くか?」
「ここで上名君を一人にするのは、ちょっと」
初めてセリナにダメ出しされた気がする。何も考えていないわけではないことが判って安心すると同時に、行くしかないという選択肢を突きつけられる。
果たして。
「…………登るの助けて頂いてもよろしいでしょうか……」
「うん」
陽向としては結構な忸怩たる思いで絞り出した要望を、セリナは至極当然といった様子で了承しながら、懐から黒い手袋を取り出して両手に嵌める。手指の全てを覆うタイプの手袋だが、サイズがぴったりなのでずれたりする心配はなさそうだ。
〇
その小柄な体躯のどこに秘めているんだと問いたくなる少女の怪力の助けを以って、何とか登り切った滝の上。しばらく平らになっている岩陰に、ポコが小走りに近づいて行った。
「あんまり離れるなよ!」
追いかけた陽向を振り返って、ポコは一つの岩の下を指さした。
「ここ!この下に落としたの!落としたんだけど……」
川の上にトンネル状に岩が覆いかぶさっているようだった。裂け目から下を流れる川面が見てとれる。けれど、ポコの困惑が示す通り、その岩屋の中にぬいぐるみらしきものの姿は見えなかった。
「落としたときはあったのに……」
「下に落ちて流されたのかもな……」
「っ」
「あ、すまん……」
考えられる予想がつい口をついて、泣きそうな顔のポコに我に返る。陽向は慌てて謝罪した。
「とにかく、この近くをもう一回しっかり探してみよう。あんまり離れないようにな」
「うん……」
明らかに元気をなくしてしまったポコを勇気づけるように、陽向はわざと明るく振舞って見せる。どこか近くに引っかかっていればいいのだが。
最悪の予測はしたくなかったが、近くには落ちていなかった。流されて下流まで行ってしまったのなら面倒だ。
全員が意気消沈して座り込んだ岩場で、陽向はこれからを考える。
ぬいぐるみが自分で移動したとかでもなければ、下流に流されたとみるのが最も現実的だ。岩の裂け目は狭く、小鳥などの小動物が入り込めるような幅ではない。攫われたとも考えづらいのだ。
なら、一度出口を目指してみるのはどうだろう。流れを辿りながら、途中に引っかかっていないかを念入りに見ながら戻る。だが、それで見つからなかったら。
もう一度ここに入るチャンスが巡ってくる保証はない。春日野は申請をしてくれると言ったが、その申請が通るとは限らないとも言っていた。ポコのような小妖怪一匹のために、神域に入る申請がそうそう通るとは、これまでの春日野の話を聞くに思えなかった。
「やっぱり探しながら下流に戻るのが一番かな」
それで見つからなければもう一度上流を目指す。この異界がどこまで広がっているのか、何となくだが見当はついている。広大ではあるけれど、歩けない範囲ではない。日が暮れるまで――異界だから時間経過がどうなるかわからないが、探せるだけ探そう。
その提案をするために立ち上がった陽向は、こちらへ向かって全力で突っ込んでくる妖気に総毛立った。
「稲月、来る!!」
セリナに呼びかけたのは、この中で対応できるのが彼女しかいないと判断したからだ。陽向の呼びかけと同時に、異変に気付いたらしいセリナが腰の太刀を抜いた。
「くっ!」
漆黒の塊が素早くセリナに襲いかかったのは、彼女が抜刀した直後だった。金属音が鳴り響き、火花が散る。
陽向は咄嗟にポコと子龍を抱えてセリナから距離を取るべく彼女に背を向けた。ここにいては巻き込まれる。
「上名君、隠れてて!」
「おう!」
背中から言われるまでもない指示を受けて、陽向は近くの茂みに滑り込んだ。生い茂る木々が少しは盾になってくれるだろう。
「子龍、ポコ、ここで伏せてろ」
二匹の小さな頭を下げさせて、陽向は茂みの影から様子を窺う。何かあればすぐに二匹を移動できるように。
岩だらけの河原では、セリナが太刀を振るって黒い獣と交戦している。毛の色は真っ黒だが、豹や虎などの大型の猫科動物を思い出させる出で立ちだ。しなやかに
時折舞う火花は、爪や牙が刀身にかち合った証だろうか。その様を注意深く観察しながら、陽向は同時に肌で感じる妖気に同一性を見出していた。
「同じだ……昨日の学校の猪と」
黒ずんだ、沈み込むような重々しい妖気。周囲さえ浸食して腐らせそうな、腐敗臭にも似た禍々しさだ。こんなにどす黒い妖気を、陽向は知らない。
否。
知っている。どこかで遭遇している。同じような、呪詛を募らせたような、悲痛な妖気。どこだ、どこで遭った。
「あ……」
まさぐった記憶の奥底で、両親に詰め寄られる河野の顔が浮かんだ。
そうだ、あの時だ。あの時の河野の妖気が――。
「あっ!」
それまで息遣いしかしなかった戦闘中のセリナから声が発せられて、陽向は強制的に現実に引き戻される。
戻された視界の真ん中、隠れた茂みのすぐ手前の地面に刀身を煌めかせて太刀が突き立った。
「へ?」
思わずマヌケな声が出た。少しでも逸れていたらこっちに刺さっていたかもしれないという恐怖が遅れてやってきて、さらに数歩遅れてセリナに意識が向く。
「っセリナ……!」
武器を手放したセリナは、素手で黒い虎と組み合っていた。けれどそれが守勢に入っていることは素人目でも充分判る。明らかに不利だ。けれど、こちらまで太刀を取りに来る余裕はないようで、離れては攻撃を繰り返す虎を捌くので精一杯のようである。
どうすればいい。彼女がやられれば、次は自分たちだ。あの虎が見逃してくれるとは到底思えなかった。
どうすればいい、考えろ。できることはないか。自分にできることは……。
脳裏に浮かんだのは、あまりに阿保らしい考えで、けれど今の陽向に取れる選択肢は多くない。もしくは、ここでセリナを見捨てて逃げ出すか。アレから逃げ切れるだろうか。それなら。
「ポコ、子龍、このままこっそり後ろに下がれ。そこの木の裏側まで」
幸か不幸か、陽向には敵が目の前の虎だけなことがわかっている。小妖怪二匹を退避させる安全な場所も、絶対ではないがある程度は大丈夫だと断言できる。
音を立てないようにゆっくり移動を始めた二匹を見送って、陽向は大きく深呼吸した。
馬鹿なことをしようとしているのは判っている。他にもっといい方法があるかもしれないことも解っている。それでも。
虎はセリナに夢中だ。陽向のことなど歯牙にもかけていない。そっと茂みから抜け出た陽向は、屹立する太刀の柄を両手でつかんで引き抜いた。幸いにもそこまで深く刺さっていなかったのか、思ったより簡単に抜けた。抜けたけれど。
「重っ」
だからあの細腕で何でこれを自在に振り回せるのかと。今問うことではないのだけれど、どうしても思わずにはいられない。以前河野に日本刀を持たせてもらったときもそこそこの重量を感じたが、それ以上だ。長さ故に重心がわからないのかも、などと妙に冷静に分析している場合ではない。
(妖気を、読み取れ。動きを予想しろ)
以前河野に教えられた気構えを思い出す。太刀をセリナに渡すにしても近づかなければならない。ある程度の場所に置けば、彼女は気づいてくれるだろうが、そもそも近づくにしても虎は広範囲を縦横無尽に動き回っている。
間を縫うように進むか。せめて、もう少し近くに……。
気が急いた。こうしている間にも鋭い爪がセリナを捕えかねないとの焦りが、本来身を隠さねばならないはずの陽向に致命的な油断を生む。
ざり、と足裏が岩を捕えた音がした。それが自分の立てた音だと気付いたのと、漆黒の霞を纏う虎の両眼がこちらを見たのと、同時。
拙い、と思ったときにはすでに虎の巨体が目の前に迫っていた。
考えている余裕などない。迷っている猶予などない。
図らずも正眼に構えていた太刀を強く握りなおして、残像で塊にしか見えない虎の振り上げた太い腕の内側へと一歩走り込んだ。
「っ!」
目の前に黒い毛皮が波打つのが見える。ざわりと逆立つ一本一本がはっきり見える無防備な腹部へ、全身で突進するように太刀を押し込んだ。
地面から抜いたときと同様、さしたる抵抗もなく刀身は毛皮へとするりと沈んでいく。手が滑るような錯覚に襲われて、陽向は慌てて柄を握る両手に力を込めた。
一時、時間が停止したようだった。
ここからどうすればいい。虎は痙攣しながら止まっているが、とても致命傷とはいえない傷だ。抜いたら暴れるだろうか。そうなったら近くにいる陽向などひとたまりもない。逃げる時間もない。どうすれば。
制止した世界で、柄を握った手を生温い液体が伝う。ざわりと揺れた妖気が、陽向の命を奪おうと蠢動しているのが手に取るようにわかる。
「上名君、頭下げて!手を離さないで!!」
固まった思考を断ち切るように耳に届いた鋭い声。その声に従って、血で滑る柄を絶対に離すまいと渾身の力で握り込み、腕の位置を動かさないように膝を折った。
瞬間、黒い毛皮が頭上をすり抜けていく。握った柄に力が加わり、吹き飛ばされそうになるのを必死に踏ん張る。顔に生臭い液体が飛んできて、反射的に目を瞑った。
「……よし」
隣でセリナがつぶやくように言った声に反応して、恐る恐る目を開ける。血が流れ込んだのか、少し痛い。
「大丈夫、だと思う」
彼女の言葉を信じて、陽向は上段に構えたままだった太刀をようやく下ろした。柄から離した左手で目を拭えば、何とか明瞭な視界が戻ってきた。
振り返れば、胴の辺りを切り裂かれた虎が岩の上に横たわっていた。むき出しの臓物が黒い毛に反してピンク色を見せている。血が僅かに川へと流れ込み、けれどすぐに清流に混じって溶けていく。
「勝ったのか?」
「怪我はない?大丈夫?」
心配そうなセリナに覗き込まれて、陽向は大慌てで左手を振った。
「大丈夫大丈夫!怪我はしてねえよ?あ、もしかして返り血すごいことになってたりする?そこの川で洗って大丈夫かな。ってかすごいな、セリナ。アレだろ、俺が刺した刀に合わせてアイツの方を動かしたんだろ?俺は何もしてねえけど、勝手に切れたみたいな感じで……。そうだ、セリナに
返すために持ち替えようとした右手は、そのまま接着剤でもかけて乾かしたかのように動かなかった。
「あ、あれ?おかしいな。ごめんなすぐに返して――」
「上名君」
「っ」
ぴし、とセリナの白い指が目の前で突きつけられた。息を呑んだ陽向に、セリナは端的に言う。
「深呼吸」
「え?」
「いいから」
有無を言わさぬ赤銅の視線に根負けして大人しく一息吸い込んで吐いた。途端に下半身から力が抜けた。
「え、あれ?」
刀が岩に当たって金属音を立てる。尚も手放さない己の左手と、脱力したまま座り込んでしまった現状にパニックになりかけた陽向を、しゃがんで視線を合わせたセリナの瞳が引き戻した。
「大丈夫。ちょっと興奮しただけだから」
燃えるような緋色の瞳。無表情だが、その奥に確かな優しさがあった。
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