第三章 街の妖たち

 悪夢ような一日から一夜明け、土曜日。

 早朝から回してようやく止まった洗濯機から、面倒で全部放り込んでしまった制服を取り出していく。

 どこかでいつかはこうなるかと思っていたが、まさか入学一週間でここまで汚すことになるとは。ハンガーにかけると同時に皺を伸ばしながら、陽向は一人ため息を吐く。ブレザーはさすがに無理だから布で拭き取るくらいしかできなかったけれど、ズボンが丸洗いできるものでよかった。さすがにクリーニング店までは使いたくない。


 うめき声が聞こえる父の部屋の前をできるだけ静かに通過する。どうせまた締め切り間際で修羅場だろうから、構うだけ無駄だ。

 まだ早い時間なので妹は夢の中だろうし、母親は靴がなかったからまだ外出中だろう。今度はどこまで取材に行ったのやら。


 買い溜めした家族兼用の食パンを三枚拝借してトースターで軽く焼く。袋は閉めてそのままキッチンに置いた。妹が起きれば自分でやるだろう。さすがにそれくらいは自分でやって欲しい。

 焼き上がりにバターを塗って乱雑にプラスチックのプレートに乗せ、インスタントコーヒーと一緒に自室まで持ち込む。


 「子龍しりゅう。朝メシ食うぞ、起きろー」

未だ布団の上で丸くなっているチビ龍に呼びかける。ちょっと動いたから聞こえてはいるらしい。

 ちなみに子龍という漢字は陽向が勝手に当てた。子供の龍で子龍である。

 あの後春日野に記入を求められた書類に書いた。管理局の名簿登録用紙らしいが、詳しいことは教えて貰えなかった。ついでに拒否権もなかった。

 登録理由に「見えている」以外にも契約者であることを書いて欲しいと言われ、契約した妖の名前欄があったのである。

 シリュウという音しか知らなかったのでその場のフィーリングで適当に書いた。そのまんまだね、と苦笑いした春日野の顔が記憶に新しい。


 スマホで朝のネットニュースやらメッセージアプリやらをチェックする。個人のメッセージは特に入っていなかった。先月の大雨で発生した土石流の復旧作業が滞っているらしいニュースや、異常気象を警戒する専門家のコラム。首都に出店する店舗のインタビュー記事。画面を流れる記事の数々を流し見しながらこんがり焼けたパンを貪っていたら、パンを置いた学習机の上に子龍がふわふわと飛んできた。昨日は抱えていたけれど、こいつ、飛べるのである。遅いから陽向が抱えた方が速いが。

「うち今他の食べ物ねえけどパンでよかったか?」

「ぴっ」

一言鳴いて、小さな口で一枚のパンに齧り付く。なかなかにいい食べっぷりである。

「……足りないとか言うなよ?」

家族のことも考えれば陽向が持ち出せるパンは三枚が限界だ。徹夜明けの父は恐らくめちゃくちゃ食べるだろうし。

 結局、最後の一枚を半分に分けた。成長期の男子としてはもう少し食べたいところだが、今は我慢しよう。後でコンビニで何か買おうか。それとも夕食を少し多めに作るか。


   ○


 戸締りして分譲マンションのエレベーターで一階へ。子龍は朝に弱いのか、陽向の肩に干した布団みたいに垂れ下がっている。脱力しているので正直ちょっと重い。

 それと、もう一つ気配――妖気というのだったか、がついてきている。微弱だが昨日からついきていることを思うに春日野の関係だろうか。敵意はないようなので放置している。


 起きてすぐ、子龍の存在を確認した。昨日のアレは夢だったのではないかと。布団の脇で気持ちよさそうに寝息を立てる小さな龍に少なからず安堵したのは事実で、それが余計に陽向を悩ませる。

 厄介ごとに巻き込まれているはずで、この龍が元凶なはずなのに。


 土曜日の早朝ということもあって、表に人影はない。約束の時間まではまだもう少しある。妹や親に詮索されるのが嫌で早めに出てしまったが、春日野との待ち合わせまでどうしようか。

 当てどなくウロウロしていたらマンションの敷地の隣を走る道路から一台の車が入ってくるのが見えた。駐車場の来客スペースに停まる。見覚えのある車種である。ついでに一緒に載っている妖気にも心当たりがある。

 近づけば運転席側の窓が降ろされた。人懐っこい笑顔で春日野が軽く手を振る。

「おはよう、上名君。随分早いね?」

「春日野さんたちこそ。まだ待ち合わせまで三十分以上ありますよ」

少し探りを入れてみるつもりで陽向は問い返す。

「子龍もおはよう。うん……何となく?早く出てくるかなーって」

だいぶ厳しい言い訳である。

「……一緒にうちから出てきた小さい妖となんか関係あります?」

「あちゃー、バレてたか」

わざとらしいほど大げさに驚いてみせる春日野に、陽向はじっとり無言で視線を向ける。言いたいことはいろいろあるけれど、悪意ではないだろうから。むしろ善意であって陽向は感謝するべきなのではないか。

「もしかして、護衛してくれてました?」

「察しがよくて助かるよ」

苦笑した春日野は後部座席に親指を向けた。

「まあ、積もる話はこれからね。乗ってくれるかい?昨日は遅くなったから説明も中途半端だったし」

助手席には昨日と同じような恰好で大事そうに鞘ぐるみの日本刀を握りしめたセリナが座っていた。こちらに一度目を向けたきり、正面を見つめて動かない。

「お邪魔します」

昨日のあれそれで、彼らに危険がないことはわかっているつもりだ。警戒するに越したことはないけれど、必要以上に緊張することもない。陽向は素直に後ろのドアを開けた。


 乗り込んだ後部座席の助手席の後ろ側には先客がいた。

「おはよう。確か上名君だっけ?」

まったりと間延びしたような優雅な女性の声。長い黒髪を綺麗に後頭部で丸めた頭部が優雅に下げられる。

「お、お邪魔します……」

「一応子龍のお家探しが今日のメインだからね。細蟹さんにも来てもらったよ。調査解析なら生安課より優秀だろうし」

「私も部外者だけれど、協力者だから同行させてね。よろしくね」

車内に漂う妖気のせいでやや落ち着かない。小さな妖気は陽向の生活圏にありふれているけれど、ここまで強そうな妖気と共にいることは滅多にない。


 「昨日は大変だったね。調査協力、感謝するよ」

座席に座っても車は発進しなかった。エンジンを止めたまま、春日野が大振りに手を動かす。

「えっと、昨日はどこまで話したっけかな」

言われて陽向も昨日の説明を思い出す。確か、こっちが一方的に訊ねられたくらいで終わったはずだ。

「そう言えば昨日聞きそびれたんだけど」

思い出したと言わんばかりに春日野が指を立てる。

「上名君のお父さん、上名藤次さんってあの藤次さん?」

珍しい苗字だから当然話題になるとは思ったけれど、昨日は知らないか敢えて聞かないでいてくれたのかと思っていた。今更来た、と陽向は少し辟易しながらも正直に答える。

「あー、その藤次です……たぶん」

見られてもいないのに目を逸らしたのは癖のようなもので。

「息子さん!?実は僕、上名さんの小説ファンでね。新作楽しみにしていますって伝えておいてくれるかい?」

読むのか、あのガチガチのホラー小説を……。

「……なんか意外です。専門家が見えない人が書いたホラー小説とか読むんですね」

「現実とフィクションはそれはそれ、これはこれ、だよ。上名君もそうじゃないの?」

言われてみれば、陽向とてファンタジー小説や少年漫画の一つや二つ読むし、そのあたりのリアリティに野暮なツッコミをいれるような性分でもなかった。その手の描写があって実際と齟齬があったところで大して気にはならない。

「そんなもんでしょ?て、ことは上名夕宇ちゃんもあの夕宇ちゃんだね」

「え?」

それなりに有名な藤次から話が妹に飛んで、陽向は逸らしていた目線を春日野の後頭部に戻す。

「あれ、知らなかった?夕宇ちゃんの病気ってこっち関係だよ」

「え」

本当に初耳である。確かに彼女は病気がちで幼い頃から入退院を繰り返しているけれど。

「影響を受けやすい体質みたいでね。彼女が見えることは上名君も知っていたんだろう?」

親が嫌がるからその手の話を大っぴらにすることが減っていたので思いもよらなかった。

「そのこと、うちの親は知って……」

「知らないはずだよ。主治医は知っているけど、説明はしていないと思う。見えない人にいくら言っても信憑性ないからね」

一度くらいはしているかもしれないけど、と前置きして春日野は続ける。

「上名君が聞いてないってことは信じなかったんだろうね」

特に母親はそうだろう。悪質な宗教勧誘か何かだと思われるくらいが関の山だ。

「しかしお兄さんである君を見逃したのは管理局の失態だねぇ。昨日あれからちょっと調べさせてもらって、君の過去の検査結果とかも出てきたんだけど」

確かに、何やら心理テストのようなものを何回か受けさせられた記憶がある。

「見事に陰性だった。心当たりあるかい?」

「……言いづらいんですけど……」

物心ついたころすでに、見えることはいけないことだと察していた。そして必死に隠していた。それは例え妹の主治医であろうと同じである。

「あのテストは無意識からも判定するから意図的に隠せるようなものでもないはずなんだけど……」

「こう、こう答えたら拙い、みたいな勘というか……思った覚えがあります……」

例えば妖気を読むようなものだ。人に言っても決して解らないし、陽向自身理論立てて説明できるものでもない。

「それは、ぜひ詳しくお話を伺いたいですわ」

ここまで黙っていた細蟹が口をはさむ。柔らかく細められた目から隠しきれない興味があふれているのがわかる。完全に研究者の目だ。

「細蟹さん。彼は生安課で預かっていますので、うちの許可とってくださいね」

言外に許可なんか出さないけどねという春日野の声が聞こえた気がした。

「いつか正式に申請いたしますわ」

背中に冷たいものが流れたのはきっと気のせいではない。

「さて、そろそろいい時間だから出発しようかな」

春日野の言葉に車内の時計を覗き見れば午前八時を少し過ぎたくらいである。


 「それじゃ、簡単に今日の予定を説明しておこうかな」

車を走らせながら春日野の口は止まらない。

「さっきも言ったように今日のメインの目的は子龍のおうち探し。と言っても当てがあるわけじゃないから最初は生安課と繋がりがあるこの街の妖たちから聞き込みでもしようかと思うんだけど、どうかな」

もちろん陽向に異存はない。聞き込みならば陽向にも何件か思い当たる節はあるけれど、仕事でやっている彼らの方が伝手は多いだろうし。


   ◯


 車の向かう方向からもしかしてとは思ったが、近づくにつれて陽向は己の予想が当たっていることを確信する。

 街を東西に分断する国道を途中で川沿いに山地へと北上する道に入る。車は山地に入る直前の有料パーキングに駐車した。

「お店に駐車場がないからね。ここから少しあるけど歩くよ」

内心戦々恐々しながら陽向は一行の一番後ろを着いていく。この先の展開を思うに非常に気が重い。

 駅前の中心街とは別の街に来たかのような静かな住宅街だ。田舎らしいといえばそうなのだけれど、駅前以外はこんなものである。陽向の自宅から車で五分程度の距離。自転車でも充分に来ることができる範囲にある。

 家々の間を縫うように流れる小さな川沿いに、住宅の中にぽつんと商店の軒先が見えてきた。

 掲げられた看板には『河野雑貨店』とある。年季の入った木製の看板からドラマや映画でしか知らない昭和年代の雰囲気を感じる。道路に面して開け放たれたガラス戸の中も乱雑にものが積み上げられている。入り口付近に立てかけられているのはこれから出番の増えていく簾だ。

「いらっしゃいませ〜」

人影で来客を察したのか店の奥から男性の声がした。数年ぶりにしては陽向の記憶と寸分違わぬ声色で。

「って、なんだ生安課かー。定期訪問にしちゃ時期が違いませんか……」

ぼりぼりと短い黒髪を掻きながら気怠そうに出てきた店主である男性と、春日野の後ろで気まずさに逃げ出したくてたまらない陽向の目が合った。

「……お久しぶり……です……」

春日野も目を見開いているし、店主も固まったまま動かないので仕方なく陽向から挨拶を絞り出してみる。この際だから非難の一つや二つ、と腹を括った陽向の逸らした目の片隅で、店主の笑顔が弾けたのが見えた。

「陽向じゃねえか⁉︎でっかくなったなあ、おい!」

反応が完全に数年ぶりに帰省したときの親戚のおじさんそのものである。予想外の反応に自然と逸らした目が店主である河野かわのを捉えた。

「お?なんか厄介そうなチビ連れてんな!そんで管理局さんと一緒ってことは……そっかぁ〜ついに見つかっちまったかぁ〜」

ベラベラと喋り出した河野に、ようやく春日野が我を取り戻したようだ。眉間に深い皺が見える。

「河野さん、ぜひ詳しくお話しお伺いしたいところですよ?」

「はっ!」

わざとらしく驚いてみせた河野は営業マンみたいな揉手を始めた。

「いやいや、別に隠してたとかじゃなくてですねぇ」

「さっき思いっきり見つかったかって言ってましたよね?」

見るからに焦りすぎて無理やりすぎる言い訳とも言えない言い訳を述べ始めた河野が居た堪れなくなり、陽向はおずおずと発言権を求めて手を挙げる。

「いやあの、俺はちょっと前にここの客だっただけで……」

渋い顔をしながらもこちらを見た春日野を了承と受け取って、陽向も言い訳めいた何かを口にしてみたものの口実としては成立していなかった。

「上名君、何が悪いのかもわからずに擁護するのもどうかと思うよ?」

口調は優しいけれどにじみ出る怒りが隠しきれていない春日野に、ぐうの音も出ない。なので、陽向は開き直ることにした。

「じゃあ、俺が河野さんと知り合いなことの何が悪いのか教えてくださいよ」

陽向としては至極真っ当な問いかけだと思っている。街中で個人商店を営む店主と面識があったところでそれが何だというのか。

「『見える人間』との交流は管理局への報告義務がはるはずですが、河野さん?」

「……」

河野がそっぽを向いた。それはどうにも河野に分が悪い。この店に出入りしていて陽向が『見える』ことを知らなかったは無理がある。春日野が大きくため息をついて肩をすくめた。

「まったく。見逃すのは今回だけですからね」

どうやら許してもらえたようだ。諦めたと言った方が正確かもしれないけれど。苦笑いを浮かべながら河野が両手を合わせている。しかし妖といえば一部では神として祀られているモノも居るというのに、河野が春日野を拝む構図はいろいろと大丈夫なのだろうか。

「上名君、裏の道場にも出入りしてた?」

怒らないから、現状確認だけはさせて、と春日野に言われて陽向は正直に頷く。その後ろで顔を渋らせる河野には心の中で謝っておいた。

 河野雑貨店は表の顔。そして生活費の稼ぎ口であると陽向は聞いている。商店の裏手にはそこそこの坪数を持つ道場がある。流派はよくわからない。何を教える道場なのかもよくわからない。ここに通う門下生は陽向が知る限り妖たちだ。

 現代では戦闘を伴う諍いなどが少なくて、妖の力の発散場所が必要なのだと河野が言っていたのを思い出す。なんでもため込むと暴発するのだとか。まるでストレスかのような言いぐさであった。

「まさか彼、正式な門下生じゃないですよね?」

春日野のこめかみに青筋が浮いている。見逃すと言ったけど完全に許したわけではなさそうである。

「違う違う。こいつはちょっとの期間入り浸ってただけですよ」

顔の前でぶんぶん両手を振って河野が弁解する。事実なので陽向もおまけで首肯しておく。

「入り浸ってたって……それ稽古にも参加させてたって言ってるようなもんじゃないですか……」

「俺はほぼ見学ですよ?あんなんに入れるわけないじゃないですか」

生身の人間が模擬とはいえ妖同士の戦闘に加われるはずがない。少なくとも無傷では済まない。

「ちょっと型とか教えてもらったくらいですって」

「陽向お前……」

しまった、口を滑らせた。河野と春日野の目線が痛い。

「……怪我はさせてませんよ?血の一滴、流させたことはありません」

河野の最後の悪足掻きであった。


 「ところで、河野さんはこの龍の子供に見覚えはありませんか?」

話を断ち切った春日野の言葉で、ここに来た当初の目的を思い出す。

「近くの高校の異界に迷い込んでいたんです」

「あそこの高校ならヌシは鼠だろう?そこの仔じゃねえですよね」

紫の尻尾を揺らす子龍が河野を見つめる。

「そう思うんですが、いかにせん手がかりらしい手がかりもなくてですね」

子龍は喋れないので直接話を聞くこともできないし。

「うーん、残念だが俺は何もわからんなあ」

髪を搔き乱して答えた河野は困ったように苦笑した。

「河野さんが知らないなら、他に当たっても無駄かなあ」

それは陽向も思う。河野の道場にはここ一帯の妖たちが通っている。

「街の妖たちの噂にもなっていないのか……」

隣に居る陽向にしか聞き取れないくらいの声で呟いて、さらに春日野が続ける。

「龍はそのほとんどが水の気を持つ。同じ水を司るあなたになら心当たりもあると踏んだのですが」

「確かに俺は河童ですけどよ?」

人間にしか見えない河野だが、彼の正体は河童である。ついでに本来の棲み処は店の前の川だ。

「たかが小川を塒にするしがない小妖怪に何を期待しておられるのやら。龍とは格が違えんですよ」

(しがない小妖怪は謙遜しすぎでは……)

あえて口にはしないけれど、陽向は生暖かい目線を河野に向けておく。彼だって小川ではあるが、店の前の川のヌシである。ただの小妖怪であるはずがない。と、言っても陽向も妖気から察しているだけで彼の本気の実力など見たことはないのだけれど。

 実際、子龍とそこまで妖気の質に差があるようには思わない。

「そうですか……」

心底残念そうに春日野が視線を落とす。

「まあ、何だ。俺も近くの妖たちに訊いてみますよ。そんで何か判ったらお知らせします」

「ええ、そうですね。お願いします」

河野の提案に会釈した春日野に釣られて、陽向も頭を下げた。


 走り出したサイドミラー越しにこちらに手を振る河野が見える。その姿を少し振り返って窓越しに改めて見て、陽向は去り際に彼が耳元でこっそり言った言葉を思い出していた。

(いつでも来い、か)

河野雑貨店に通っていたのは小学生の頃だ。見えていることはあっさりバレたし、半ば強引に連れて行かれたときは採って喰われると本気で覚悟した。

 結果から言えば、そんなことは全然なかったし、河野の紹介で妖とも話が通じるのだと知った。

 最終的に何かを勘違いしたらしき両親に押しかけられて以来、近寄るのをやめた。両親と話した後の河野の妖気に不審を覚えたのが決め手だったと思う。彼らを河野に近づけてはいけない。子供ながらにそう判断した陽向は、妖たちとも距離をとるようになった。

 「河野さんのところに通ってたってことは、上名君もしやこの街の妖ほとんどと知り合いだったりするかい?」

「どこまでがほとんどなのかわかんないんですけど……」

河野の道場にはさまざまな妖が通い詰めていたが、陽向はこの街の妖の総人口など知らない。よって、何割程度が河野の道場を利用しているかなど知りようがない。

「……ほとんど知り合いだと思っておいた方がよさそうだね」

さっきから渋い顔をしっぱなしの春日野には申し訳ないのだが、実際その通りだと予想はできた。

「僕としては規定違反者がそんなにいることの方が恐ろしいんだけどね」

規定違反とは例の『見える人間との接触』の報告義務だろうか。春日野たちが陽向のことを知らなかったことを思うに、河野と同様に他の妖たちも黙っていたのだろう。それにしても、何故。

(もしかして管理局、実はヤバい組織とか?)

関わってはいけない系の危険な団体なのだろうか。けれど妹は普通にお世話になっているようだし。

 河野たちに含むところがあった線も考えられるが、悪意だとは思いたくない。仮に直接聞いても素直に教えてくれるとは思えない。絶対にはぐらかされる。

(管理局の方は様子見かな)

完全に気を許してはいけない、と陽向は少しだけ気を引き締めた。


   〇


 結局、尋ねる場所それぞれで大体河野と交わしたのと大差ない会話を交わし、子龍の出自は不明なままであった。

 「上名君にお願いなんだけど」

昼食のために入った小さな喫茶店のテーブル席で、春日野が頭痛を抑えるようにこめかみを揉む。

「この件、生安課以外の人に何か訊かれても頑張って誤魔化してね。街の妖たちは今日が上名君との初対面で、以前からの付き合いはあくまでお店のお客さんだった。いいね?」

春日野の眉間の皺が深い。

「承知してくれないとここまで会った妖全員にそれなりの処分が下るんだけどね」

口をつけかけたコーヒーカップを下ろして、陽向は慌てて何度か首肯する。自分のせいで彼らに被害を出すわけにはいかない。

「それは困るわねえ。陽向君、嘘つくの苦手だけど、大丈夫?」

この店の軽食であるホットサンドセットをテーブルに置きながら、店主の女性が割り込んでくる。言葉とは正反対にあまり焦ってはいない。先代店主が遺したティーカップセットの付喪神である彼女もまた列記とした妖である。

「そうなのかい?」

一気に不安げになる春日野である。対するこの店の主である女性、小野は頬に手を当てながらため息を吐いた。

「顔に出るのよ。何か隠してたらすぐにわかるわよ」

「マジですか……?」

全く自覚していなかった陽向は愕然とするが、春日野はうんうん頷いていた。

「……ごめんねだけど、正直僕もそれは思った」

まさか会って二日目の人に言われるとは。そんなに判りやすいだろうか。

(え、ってことはもしかして家族とかにも色々バレてたり……)

その場の全員から顔が見えないようにそっぽを向いて、過去のアレソレを振り返る。最近は上手く隠してきたつもりだったし、他の誰も触れなかったら気付かれてないと思いたいのだが、気を遣ってくれた可能性も否定できない。

(誰かにそれっぽいこと言ったっけ?)

記憶を掘り返す陽向の向こうで、春日野が他のメンバーにも口裏合わせを依頼する声がどうにか聞こえてきた。

「セリナと、それと細蟹さんも、お願いできますか?」

「もちろんです。ここまで面会した妖たち全員を裁くとなると被害が大きすぎて影響が読めませんもの」

即答した細蟹はあくまで事務的で、陽向の向かい側に座ったセリナは小さく頷いただけだった。相変わらず無口である。


 今後の方針を話し合う前に食事にしよう、という春日野の提案に従って軽食を頂く。河野と距離を取り始めたのと同時に妖との関わりも断ったので、この店の料理も久しぶりだ。変わらぬ味を堪能していると、新たな来客を告げるドアベルが鳴った。

「いらっしゃい。あら、珍しい」

隠れ家的な小さな喫茶店の狭い入口の戸を薄く開けて、女の子が顔を覗かせていた。小学生くらいだろうか。小野を見て顔をほころばせた後、奥の席にいる陽向たちを見つけて肩を窄めた。気配が小さすぎて気にしていなかったが、人間ではない。人間に化けた妖だ。

「あ……お客さん……また、今度にする……」

閉めかけたドアを小野が慌てて抑えに行く。

「大丈夫よ。あの人たちはわたしたちのこと知ってるから。何か困りごと?」

小野とその後ろの陽向たちを交互に見比べて、少女は小さく頷いた。

「出番みたいですよ、あやかし生活安心課さん?」

頬杖をついて春日野に呼びかけた細蟹は何故か挑発的であった。初めてこの人の笑顔を見た気がする。美人ではあるが、恐怖を感じるタイプの笑みである。

「……そうですね。上名君、これが僕たちの本分だから。話だけでも聞いていいかな」

「もちろんです」

陽向に異存はない。子龍の件はこれ以上の進展がなさそうだし、子龍本人がそれほど寂しそうでもないので急がなくても大丈夫だろう。

「いいよな?」

「ぴっ」

念のため確認してみたらたぶん肯定と思われる返事が戻ってきた。

 それを確認して、春日野が笑顔で頷く。

「そういう訳だ。どうぞ、お客さん。管理局妖生活相談課です。お力になれることでしたら何でもお伺いしますよ?」

立ち上がって歩み寄った春日野が、少女に目線を合わせるためにしゃがむ。上背があるのでそれでも目線の位置はかなり差があった。

 少女は戸惑ったように春日野を見上げ、その後ろの店主小野とを見比べて、小野が頷いたのを見てから涙を滲ませて叫んだ。

「ぬいぐるみっ……わたしの大事なぬいぐるみ、なくしちゃったの!!」




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る