第二章 鼠
「大丈夫、"彼ら"はいるし、"ここ"は現実だ。上名君の妄想じゃないからそこは安心して大丈夫だよ」
開口一番、不躾だとは思いながらも緊張しながら訊ねた最初の質問に、春日野は「その懸念は尤もだよね」と柔和に微笑んだ。
「ご家族にも見えてる人居ないの?」
「あー、妹が一応?」
幼い頃の話なので陽向に合わせて振る舞っていただけなのかもしれない、と付け加えておく。悪影響だからやめろと母に怒られたことは鮮明に覚えている。
「ご両親は見えてないんだ。本当に珍しいね。大体が遺伝性なんだけど」
そう言われても、両親からそんな話は聞いたことがないし、祖父母とも疎遠だから知りようがない。
「覚醒遺伝かな?ぜひ遡りたいところだけど……と、ここから外に出られそうだね」
一階まで降りたところで、春日野が例の大穴を発見する。猪が砕いた廊下の壁である。散らばった瓦礫を器用に避けて、中庭へと出ていく。
「さて、どこかな」
着物の懐からさっきしまったスマホを出して弄り出す春日野。遠目に目に入ってしまった画面には地図らしき画像が表示されているが、有名な地図アプリとは地色が違った。独自開発だろうか。そもそも"ここ"でスマホアプリが使えるのだろうか。
試しに自分のを開けてみたら当然のごとく圏外だった。外部接続していないアプリなのだろうか。
「この辺りなんだけど……。ここだね」
その割にGPSで方向を確認するかのようにぐるぐる回ったりしながら中庭を進んでいた春日野の足が止まる。
中庭の中央、一番大きな
「ここだね」
誰に言うでもなく、一人でつぶやいてスマホをかざす。写真でも撮るようなそぶりだった。
「!」
後ろから見ていた陽向は思わず息を呑む。
(境界線が、できた?)
驚きすぎて声が出なかったために春日野は気付かなかったようだ。あのアプリで作ったのだろうか?どうやら別の異空間に繋がる境界線のようだが、元の世界との境界線も作れるのだろうか。
「危険度がわからないから上名君には同行してもらうか迷うところなんだけど、こっちに置いていくのも不安だし……」
そのアプリ、正直めちゃくちゃ欲しい。これまでの苦労に思いを馳せていた陽向は突然自分が話題に登って慌てて我に返る。
「よし、やっぱり一緒に来てもらった方がいいね。上名君、僕かセリナから離れないように気を付けてね」
「は、はい」
むしろ置いていかれる方にならなくて本気で安堵している。危険な気配はないが、異空間に詳しそうな彼らから離れる気は毛頭ない。
「よし、じゃあ行くよ?」
「えっ」
なんの前触れもなく春日野が手を伸ばして呆けていた陽向の腕を掴む。シリュウを落とさないようにもう片方の腕で調整している間に手を引かれた。春日野はそのまま迷うことなく蘇轍に向かって直進して行く。
頼むから心の準備くらいさせてくれ、と文句を言う暇もなく、蘇轍の前に現れている境界線を超えた。
〇
同じ空間内であればよろしくないモノの存在を気配である程度感じ取れる陽向であるが、境界線の向こう側となると話が別だ。境界線があることと、その先が異空間ないし元の世界に繋がっていること自体はわかってもその向こうに具体的に何があるのかまでは潜ってみるまでわからない。
入った先に危険のあるモノがいたらと思うと気が気でない。幸いなことに出合い頭の事故みたいなことになった経験はないが、それでも心配なものは心配である。
果たして、境界を越えた向こうに広がっていたのは一軒の古い屋敷だった。
境界線を越えてしまったことは何度かあるが、異空間の中でさらに異空間に繋がる境界を超えるのはこれが初めてだ。
寝殿造りというのだろうか。歴史の教科書か古典の資料集くらいでしか見たことのない、正面に大きく開けた屋敷だ。今立っている場所は庭園になっていて、池も備えられている。
一見美しく見えたその景色に、陽向はすぐに異変を見出した。それは春日野も同じだったようで、険しい顔で辺りを見渡す。
「……これは。上名君、本当に僕たちから離れないように気をつけてね」
頷くのが精一杯だった。整えられているように見えた生垣や植木も至るところで枝が折れたり葉を散らしている。池の水が濁って見えるのも気のせいではあるまい。屋敷正面に中を窺えないように降ろされた御簾が、よく見れば途中で切れている個所も見える。
そして何より、岩や木々、屋敷正面の広い縁側にこべりついた黒い液体のシミは……。
気配を探るまでもなく、屋敷の中から物音がする。人が歩き回っているような音だ。話し声も聞こえてくる。改めて気配を探ってみれば、屋敷の中で蠢く気配がいくつか。小さいものも含めれば相当数だが、春日野が会うと言っていたヌシらしき大きな気配は見当たらない。
「行ってみようか。セリナ、先導を頼む」
「はい」
抑揚のない声で了承したセリナが一歩前に進み出る。小柄な背中に一瞬不安になった陽向だが、すぐに先ほどの猪との件を思い出す。早業すぎて何が起きたのかもわからないくらいの速さで彼女はあの巨大な猪を倒してみせた。ならば陽向が心配など杞憂だろう。
そんなことを思っている間に、セリナは御簾を持ち上げて中を窺っていた。
「誰だ!」
御簾の向こうから響いた鋭い声に思わず跳ね上がってしまう。
「……奇異管理局生安課です」
冷静にもほどがある声音で返したセリナには、その声の主が見えているようだ。
「ああ、件の新設部署か。ということは春日野君もおるかの」
セリナが道を譲るように脇に避ける。途中で切れた御簾の向こうから、一人の小さな老爺がひょっこり顔を出した。しっかりと紋付き袴姿なのが妙にもアンバランスである。
「よう。元気しとった?」
老爺の後ろにもう一人、こちらは若い女性が現れる。着物でなければOLのような雰囲気である。
「葛城さん?どうしてここに」
春日野が名を呼んだのだから知り合いなのだろう。よく見れば二人とも春日野と同じような黒い着物だ。同じ紋も入っている。
「救援要請があってな。来てみればこの有様じゃよ。そっちこそどうした?」
答えたのは老爺の方だった。皺に埋もれて瞳はよく見えないが、口調は軽い。
「こちらにも助けを求める者が来まして。ここの眷属かと思うのですが」
「なるほどのう」
老爺は興味深そうに自身の長い髭を弄る。
「少々面倒なことになっとる。見た方が早いじゃろ、上がれ」
「これは……」
構わず土足で縁側に上がった春日野に倣って陽向もそのままお邪魔する。葛城と呼ばれた老爺たちも土足なので、ガラスや陶器の破片でも落ちているのだろうか。などと考えている間に先に奥座敷を覗いた春日野が呆然と呟いた。
「っ!」
後ろから窺わせてもらった陽向も息を呑む。庭だけでも凄惨な事件の予兆はあったわけだが、覚悟をした上でも衝撃の光景であった。
奥座敷の中央、畳の上に巨大な白い毛が蹲っていた。尻尾まで二メールくらいはあるだろうか。あまりの巨大サイズに理解が遅れるが、鼠である。
臥したまま、動かない。
畳の目に沿って沁み込んで赤黒く変色した血液と、同じく白い毛を汚すそれに、もう生きていないことは容易に知れた。
周囲で揃いの着物を着た人たちが忙しなく動き回っている。まるで刑事ドラマでよく見る事件現場のようだ。捜査されている死体は鼠だけれど。
残り香のように僅かに漂う気配で、それの正体を陽向は静かに察した。
「……ヌシ?」
思わず口にしてしまったその単語を、葛城が目ざとく拾う。
「いかにも。ここのヌシじゃ。ようわかったの、若いの」
「あ、いえ、何となく」
どうしてか咎められているように感じて、陽向は少し委縮する。
「しかし、死んでいますね。ヌシ同士の縄張り争いでしょうか。もしくは……」
腕を固く組んで、春日野がまじまじと鼠の死体を観察しながら予測を述べる。
「ただの縄張り争いなら儂らが出るまでもないんじゃがな。縄張り争いは自然の摂理じゃ。人間の出る幕などない」
じゃが、と老爺は顎髭に手をやる。
「……厄介なことになったのう。ヌシ殺したあ、犯人が人間だろうと妖だろうと、先が思いやられるわい」
いっそわざとらしいほどに盛大にため息を吐いてみせて、老爺は手を打ち鳴らす。
「さて、儂らは邪魔になるで、外で待とうかの」
葛城に呼応して、鼠の死体を入念に調べていた一人の若い男性が顔を上げた。
「皆様、捜査中ですのでご理解願います。報告は後程必ず」
〇
捜査は専門家に任せて、葛城と傍に控えた女性を含めた陽向たちは一旦庭に戻った。館に充満していた粘っこい妖気が纏わりついてくるようで気持ち悪い。
外は曇り空で決して明るいとは言えないが、屋敷の内部よりは視界もよくなる。陽向は自分の制服のズボンが妙に汚れていることに気付いた。
中が埃っぽかったのだろうか。シリュウを抱えたまま、片手で軽く払うが、白くついた汚れはなかなか落ちない。さっき瓦礫だらけの校舎を走り回ったから、その影響もあるのだろう。どこで引っ掛けたのか、蜘蛛の巣までくっついている始末である。
一度手洗いしてから洗濯機かな、などと思いながらこべりついた白い糸を剥していたら葛城が喋り出した。
「ここの検証は儂らの部下が引き継ごう。……ときに」
ちゃんと見えているのか疑うほどの皺の奥から確かに視線を向けられて、陽向は自然、シリュウを抱える腕に力を入れた。
「そこな若いのはどちらさんで?ちっこい妖連れとるみたいじゃが、学生服じゃのう?ここの生徒さんか?」
柔和な表情なのだが、向けられているのは疑いの目だ。屋上での春日野の反応からも仕方ないとは思う。
「外郭の方に居まして。異界に迷い込んだだけとは思うんですが」
「どう見ても見えとるじゃろ、少年。まさかカタギとでも言うつもりじゃなかろうな」
……そのまさかです、とは自ら言い出せる雰囲気ではない。老爺の視線が痛い。
「ふむ。何かの契約でも結んじまったか?」
「えっ?」
驚いたように振り向いたのは春日野だ。
「契約?この龍と?」
「ガッツリ繋がっとるのう。人間と妖……ふむ、
「フゲキ?」
聞き慣れない単語に思わず復唱してしまった。何のことだろうか。
「……ヌシ殺しだけでも厄介じゃと言うに、この時代に巫覡とは。まぁ何ともはや」
勝手に当事者を置いて納得しないで欲しい。何故か老爺はこちらへの好意の欠片もないが、それでも陽向は控え目に手を挙げる。
「あのぅ、フゲキって……」
アホな質問をした生徒対する教師みたいな視線が返ってきた。いや、そんな単語は本当に知らない。
「勉強せんか、学生じゃろ」
「いや、いくら見えてても一般人が知ってるような単語じゃないですって」
苦笑しつつ春日野が助け舟を出してくれた。
「大体葛城さんも自分で言ってるじゃないですか、この時代にって」
「ふん」
拗ねるように鼻を鳴らされても、結局陽向には何のことやらまったく説明のない現状である。そろそろ教えて欲しい。
「巫覡って書くんだけどね」
春日野が地面に拾った棒切れで書いてくれる。
「巫女って言えばわかりやすいかな」
「巫女って普通女ですよね?」
正月の神社で甘酒とかを配っている赤い袴姿を思い出す。基本的に女性しかなれないはずだ。
「……シリュウお前」
「あー、違う違うよ?確かに女性が多いのは昔からで、こっちの巫は女性のことなんだけど、覡の方が男性なんだ。両方とも単体で『かんなぎ』って読む。男女合わせて巫覡」
あらぬ勘違いをされたわけではないらしく、ちょっとだけ安心する陽向である。よかった。いや、よくはない。
「まあ、簡単に言えば、神様とかの意見を仲介する人間のことだね」
全然よくはなかった。
「ってかコイツ神様なの⁉︎」
「ぴぃ」
指した指を否定するようにちっちゃい鼻先で振り払われた。違うらしい。
「あー、神様そのものじゃないのか。近いものではあるんだろうけど」
「少なくともそこいらの妖どもとは格が一段違うのう。差し詰めヌシの子供とでも言ったところかの」
神とも言われる割に、ヌシは比較的ありふれた存在だ。異空間があちこちに存在するように、陽向の経験上そのそれぞれにヌシは居る。そう珍しいものではないけれど。故に。
「一体どこの……?」
「そう、まさにそれが問題じゃ」
初めて老爺に肯定的な返事をもらえた気がした。
「龍神といえど、この付近は川が多い。当然ヌシも大勢おる。その中のどれかというても特定するにしても多すぎじゃて」
大きなため息を吐かれてしまった。
「上名君、その子って喋れないんだよね?」
「ぴ」
問い掛けた春日野に、代わりにシリュウが元気よく答えてくれました。
「名前だけ、なんか聞こえたような気がしたんですけど、それだけですね」
そう、確かに彼(?)は名乗った。呼べと言った。聞こえたというのもたぶん違う。
「ふむ、思念のようなものか。契約の時だけ力を使ったかの。しかし人語を得ん龍神か。生まれたてでもそこそこの知性を兼ね備えるが龍とはいうが」
契約とやらを交わす知性はあるようだけれど。赤ちゃんだから喋れないのだと勝手に思っていたが、普通はそうでもないらしい。
「春日野。今回の件、ここの異界はうちで預かる。代わりにその小僧と龍、なんとかせい」
ぱん、と枯れ木のような両手を打ち鳴らして老爺、葛城が宣言する。有無を言わさぬ語気だった。思わず怯む陽向の隣で春日野が静かに目を伏せた。
「……了解しました。ですがそちらの調査の進捗もご連絡ください。彼らに関わりがあるかもしれませんので」
応じた春日野の声にどこか含みがるように思うのは陽向の気のせいだろうか。対して葛城が呵々と笑った。
「よかろう。じゃが、心配はいらぬぞ。犯人は割れとる故の」
「え!?」
驚きを示したのは春日野で。さもありなん、と葛城はつぶやいた。
「妖気が残っとる。すでに追跡しとるわい」
「そう……ですか」
「そっちに一人貸してやろうかの。ほれ、
「はい」
ずっと黙って葛城の隣に立っていた女性が一歩進み出る。黒髪を後ろで一つに団子にした二十代の後半か三十代くらいの女性だ。眼鏡の位置を直しながら彼女が名乗る。
「調査課の
丁寧に頭を下げた細蟹がにっこり微笑んだ。どう見ても営業スマイルである。
「生安課課長、春日野と所属員の稲月です。よろしく」
事務的に返した春日野にも感情は読み取れない。
「じゃあ、行こうか。失礼します葛城さん」
〇
境界線を二つ超えて、元の学校へ戻ってきた。戻った先の屋上は入口のドアも壊れておらず、当然ここから見える校舎にも損傷の痕はない。あれは”あちら”だけのできごとだ。
さて、ヌシの仔らしいシリュウの帰る場所を探すのが目下の目標となったわけだが。
「手がかり……心当たりとか、ないよねえ」
「全く」
陽向は春日野と顔を見合わせて肩をすくめる。正直、お手上げである。
「葛城さん?はさっきの鼠殺しの妖気?を辿るとか言ってましたけど」
「それは難しいかな。妖気を追うには能力を持った専門家が必要だしね。葛城さんのところはたくさん所属してるみたいだけど、僕のところは人手不足でね。このスマホアプリでも疑似的にはできるけど、そこまで精度はよくないんだ。そこに妖気があるかどうか判定するくらいだね」
聞き捨てならない発言があった気がしたが、陽向が問いかける前に春日野が喋り始めてしまった。
「そもそも妖気がわかったところで、この子の足跡を追うことまでは難しいでしょう?葛城さんが言ってたのは現場に残った妖気と同じ妖気の持ち主を探すことだろうし。通り道を辿るとかそういう便利なものじゃないよ」
「ですよね……」
それは陽向も同意する。ニュアンスからして春日野たちの言う『妖気』とやらが気配のことなのだろう。陽向とて付近の実在する妖気はわかれど、それの移動した経路までは判別できない。そこで何か大きな力を使ったとかなら残っていないこともないが。
葛城が残っていると言った妖気がそれだろう。どれのことかは館に存在する妖気が多すぎて判別できなかった。
「上名君、疲れてるかもしれないけどもう少しだけ付き合ってもらっていいかい?」
「え?はい、いいですけど……」
別にこの後の予定はない。日はすでに暮れてしまっているが、まだそれほど遅い時間でもない。上名家に門限なんてものは存在しないので、未成年の外出条例に引っかからなければ問題ない。
「いろいろと検査してもいいかい?さすがに管理局として見えてる人を一般人認定はできないからね。能力とか諸々、調べさせて欲しいな?」
「……ちなみに拒否権とか」
「……あると思う?」
その凄みを、陽向は絶対に忘れないと思った。人の笑顔をこんなに怖いと思ったことはない。
「じゃあ、行こうか」
「……………………………はい」
逃げ道などない。陽向は大人しく観念した。
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