人界の龍-あやかし生活安心課秘録-

日秋じゃこ

第一章 龍の仔

 高校の入学式が済んでから早くも二週間が経とうとしている。

 説明期間を経て本格的になりはじめた本日の授業をすべて終え、各々帰り支度を整える放課後の教室内。明日提出期限の課題に必要な教科書類を中心にできるだけ身軽になるように荷造りしていた上名陽向かみなひなたは、前方からかけられた声に顔を上げる。

「なあ上名、変なこと訊くけどさ」

人懐っこい笑顔が椅子ごと振り返って正面を向いていた。岡部順平おかべじゅんぺい。出席番号順で並んだ教室の、ひとつ前の席。同性ということもあり、クラスの中で真っ先に親しくなった。いつも明るく楽しそうな彼が、珍しく困ったような顔をしている。

「俺の万年筆知らねえ?黒いやつ。昨日の帰りくらいに失くしちまってさ……」

「あー、えっと……うん、悪いけど見てねえなあ」

「そっかあ」

肩を落として残念そうな岡部を見ていると申し訳なくなるが、嘘は言っていない。彼の万年筆の実物は知らない。

「……昨日行った場所とかは?」

「いや、全部回った。特別教室も先生に相談して開けてもらったし」

ついつい岡部のスポーツ刈りにして逆立った頭の上に目線が行きそうになるのを堪えて、陽向は問いかける。

「図書室は?」

このままスムーズに自然な会話が続くことを祈って切り出してみたが、岡部は諦めたような表情で肩をすくめた。

「行ったさ。カウンターにいた図書委員の先輩にも聞いたけど、落とし物でも届いてないって……。てか何で上名が俺が図書室行ったの知ってんだ?」

「あ、あーほら、俺も行ったから、昨日。そんときにたまたま見かけたんだよ」

急ぎ過ぎたか、と陽向は慌てて取り繕う。

「そうだったのか?気付かなかったなあ」

不審そうにしながらも岡部は納得してくれたらしい。

「けど、もしかしたらまた届いてるかもな。よし、もう一回行ってみるわ」

「確か歴史の棚辺りにいただろ」

「そうそう。ちょっと興味あって……その辺見てみるな」

慌ただしく荷物を手に立ち上がる岡部。勢いで後ろにずれた椅子が床とこすれて音を立てた。

「見つかるといいな」

「おう!ありがとな、上名」

手を振りながらすでに出入口に向かって小走りに駆け出した岡部の背に向かって手を振り返す。

(……見つかるといいな)

その走っていく頭の上で、小さな何かが揺れていた。黒くて細い棒。金色の飾りがシンプルながら高級感を出している。そして、そのなかほどから飛び出す白い紐のような何か。先ほどまで至近距離で見ていた陽向にはそれが腕だとわかる。腕の生えた万年筆。それが岡部の頭の上で片手は彼の短い髪を必死につかんで、もう片手がちぎれんばかりに振られていた。礼のつもりだろうか。

 当然のことながら、アレは陽向にしか見えていない。見えていたら大騒ぎである。陽向のように見て見ぬふりをしている者が他にいなければの話だが。

 授業中だろうとお構いなくサイレンのように叫んでいた言葉も陽向以外には届いていないだろう。

(図書室の、歴史の本の後ろ、ね)

要旨は伝えたつもりだが、見つけられるだろうか。

 大事なものだということは察せられる。モノがああして意思を持つのは相当持ち主に大切にされたのであろうことを陽向は自身の経験から知っている。付喪神。大事にされたモノ、もしくはぞんざいにされたモノが意思を持って動き出した存在。図鑑や文献から見た近しいものを陽向がそう解釈しただけではあるが。

(本の後ろ……落とし物で届いてないってことはかなり奥の方なのか……見つかるといいけど)

見えていないアレの話を信じてもらえないであろうことは重々承知している。こんな突飛な話をして変人扱いされて平穏無事な高校生活を手放す気にもならない。だから陽向にできるのはここまでだ。伝えるべきことは伝えた。後は岡部が頑張るしかない。

 ――仕方ない。

「……」

 ――仕方ないのだけれど。

片づけたリュックタイプの学生鞄を背負って、陽向は昇降口とは反対方向に足を向けた。丁度読む本が尽きそうだった。せっかく図書室があるのだ。一冊くらい借りていってもよいだろう。


   〇


 放課後の校内は静かだ。教室にも数人が残っておしゃべりにいそしんでいる程度。外からは運動部の掛け声が聞こえてくるが遠い。かすかに聞こえる乱雑な音は吹奏楽部だろうか。

 初日に案内された校内の地図を脳内で再現し、陽向は真っ直ぐ図書室への最短ルートを考える。その道筋に。

「……居るなあ」

思わず声に出してぼやいてしまった。廊下は無人なことを確認した上での独り言ではある。

 階段を降りて左側の廊下。動く様子はないが、あまり遭遇したくないたぐいの気配だ。念のため避けておいた方がいいだろう。降りる予定だった階段を目前にして北校舎への渡り廊下へと進路を変更する。

 “彼ら”には独特の気配がある。纏う空気感とでもいうだろうか。体感で言えば温度に近い。その微妙な変化はざっくり十メートル程度の距離まで行けば判別できる。危険のある気配もある程度は判るから、その点は助かっている。


 妖怪、妖、お化け、怪物、物の怪。文献により呼び名はさまざまだが、恐らくそう呼ばれるモノたちなのだろう。物心ついたときにはすでに陽向の世界は彼らとともにあった。彼らが見えてはいけないモノであることに気付くのにそう時間はかからなかった。

 見えることはおかしいのだ。そしておかしいものは排除される。

 だから陽向はひたすら彼らを無視することにした。幸いなことに彼らには普通の人が見えているものにはない気配を持っていたから、無視すべき景色はすぐに判別できた。

 ひたすら“普通”に徹して生きた。


 「……っと」

前方五メートルほど。廊下の途中に設けられた手洗い場の下から白い塊が飛び出して横切った。彼らはたまにこうして何もないところから突然現れることがある。小刻みに小さな手を動かすそれは、通常のものより大きな鼠であった。

 体長二十センチ、尻尾まで入れれば三十センチはあろうか。白い鼠は廊下の中ほどで一度足を止め、何かを探すように髭を揺らした。停止はものの数秒で、すぐに駆け出して教室側の壁へと消えた。当然そこに穴などない。

平常心を装って鼠の通過した廊下を進む。丁度鼠の通った辺りに赤いシミを見つけて陰鬱になる。

(……血?怪我してたのか?)

通り道を示すように残った赤い血痕。決して少なくない量だ。けれど姿を消してしまった。今から追いかけようにも陽向の意思で“向こう側”へ入るのは気が引ける。気にはなるが、見なかったことにして歩を進めた。


 (居るんだな、この学校にも)

県立天巳あまみ高校は最近建て替えられた新しい学校だ。土地はともかく、建物が新しいということはそこに付随する“想い”も少ない。いわば、“見えてはいけないモノ”が発生しにくい場なのだ。

高校入試の際、家族の思惑や金銭面の問題である種の制約は受けるにしても、通う学校を自分で選べるという事実に陽向は歓喜した。許される限りの学校見学に参加した。偏差値の件でもう少し上も狙えると親や教師と一悶着あったものの、結局ここが一番“マシ”だったのである。無事に合格して安堵した。

それでもやはり、リスクはゼロにはならなかったらしい。居るところには居るのだ。突然現れたりもする。同級生で一人これはヤバいと思った者がいたが、翌日からずっと欠席している。気にはなるが、深追いするわけにもいかないし、陽向には残念ながら除霊とかの技術は一切ない。

 できることはない。


 瞬時、一変した空気に足を止める。季節の割に暖かい日だったはずなのに、気温が一気に下がったように感じた。湿っぽい、水辺のような臭い。

「……やっちまった」

誰もいない廊下のど真ん中に佇んで、陽向は独り言ちる。最近なかったから油断していた。よく冷房の効いた部屋へ飛び込んだときのような、明らかに今までと違う空間に飛び込んだ感覚。

 ここは、“向こう側”。

 さっきまで遠くに聞こえていたはずの吹奏楽部の楽器の音や運動部の声が全く聞こえない。外の景色も心なしかくすんで見える。見える景色はさっきまでの学校と変わらない。けれど厳然たる違いがある。元居た世界ではない。陽向とて詳しいことは知らないが、平行世界とでもいうのだろうか。今の陽向は消えた側だけれど、元の世界から見れば“神隠し”とでもいわれるのだろう。折しも夕方、逢魔時。危険の条件は揃っていたのに。

(っても回避不可能だろうけど)

何せ陽向の認識としては一歩前に進んだだけなのである。普通に歩いていて前進した先が“境界線”だった。しかも、陽向の歩みに合わせて突然現れたようだった。こんなもの回避しようがない。

 振り向いた元の場所に、出口たる“境界線”は消滅している。戻ったところでこの世界が続くだけだ。

「ちょっと厄介だな」

意識を集中させて付近の気配を探る。向かう先、北校舎に一体。否、二体。小さいのと大きいの。小さいのは大したことない。よくいる小妖怪くらいの気配しかない。一方、大きい方は拙い。生理的嫌悪を掻き立てるような濁った気配。アレに近づいてはいけない。

 万が一にも出くわさないように、陽向は踵を返して南校舎へ向かう。せめてできるだけ遠くへ。そして出口へ向かって……。

「……出口……ねえなあ!?」

嘘だろ、と思わず声を上げて慌てて口を塞ぐ。妖怪たちは人間より動物に近い。聴力が異常に発達している場合もある。こちらの気配はできるだけ消した方がいい。

 パニックになりかけた気持ちを落ち着けて、足音を殺して廊下を歩む。駆け出したいが、その音すらはばかられた。幸い気配からは距離がある。普通に歩いても十分離れられる。

(にしても出口どころかそれっぽいのもないとか……)

普段なら綻びの一つくらいすぐ近くにあるというのに、この世界にはまったくといっていいほど見当たらない。

(じっとしてるわけにもいかねえし、とにかく出口を探して……)

自然、速足になる。焦る心を抑えきれなかったから、周囲への警戒がおろそかになる。故に。

「……っ⁉」

南校舎の三階、陽向たち一年の教室を通過した先の階段を降りようとして、下から登ってきたそれが陽向に体当たりしてきた。

「でっ⁉」

小さいし、勢いもそこまでないがとにかくびっくりした。思わず抱き留めたそれは、思いのほか冷たかった。

「な、なん……」

何だと問いかける前に、更なる異変に気が付く。大きい方の気配が、こちらに急接近している。

 最初に思ったのは「見つかった」という確信。その次に思いついた本能に従って、陽向は飛び込んできた小さな気配を抱えたままで階段を駆け下りた。

「何だよもう……!」

途中、踊り場の大きく開けた窓ガラスから否応なく事態が視覚情報として飛び込んでくる。思わず足を止めたガラスの向こう側、北校舎の連絡通路の接続部分に、黒い塊が蠢いている。窓ガラスに押し付けられたその黒い塊が“詰まっている”のだと気付いた瞬間、陽向は逃避行動を再開した。一階まで駆け下りて、昇降口を目指す。途中、どこかの教室に隠れることも考えたが、追い詰められた際の逃げ場が確保できない。

 廊下の窓から見上げれば、黒い塊は未だ三階の連絡通路でもがいているようだった。逃げるなら今の内だが……。

 下駄箱で履き替える手間も惜しくて、上靴のままで土間に駆け下りる。突撃するように閉まったままの校舎の引き戸に手をかけて。

「……薄々思ってたけどそうだよなあ」

びくともしない。鍵は中にあるが、表示は「ひらく」を示していた。お約束である。こういうときはガラスも割れない。そもそもこちらの世界でなくても新築校舎の一階入り口のガラスがちょっとやそっとで割れるとは思えないが。

 振り返れば奥の窓からまだ苦戦中らしき黒い塊が見えた。こちらを目指すにしてもそれなりの時間を要するだろう。


 黒い塊から見えないように下駄箱を陰にして座り込む。さて、これからどうするべきか。

「の、前に」

抱えたままだった小さい方の気配を纏う紫銀の塊を一度下ろして、両腕の脇から手を入れて持ち上げなおす。あらためてまじまじと見れば、蜥蜴のような爬虫類であった。けれど、蜥蜴と呼ぶよりも適切な呼び名を陽向は知っている。図鑑で見たことがある。頭に架空の、とか伝説の、とかがつく図鑑で。

「……龍?にしては小さいけど。子供か?」

西洋のドラゴンというよりは東洋の龍だろう。細長い蛇のような体躯に小さく生えた蜥蜴のような四つ足。銀にも見える薄紫の鱗に覆われた全身の背に、紫のたてがみが尻尾まで続いている。頭に鹿のように枝分かれした小さな角。どこからどう見ても龍である。座った状態の陽向が持ち上げて尻尾が地面に擦るくらいの大きさ。その箒のような尻尾が元気よく跳ね上がって、向かい合った陽向が紫紺の円らな瞳に映る。

「ぴっ!」

目の前の小さな龍が、鳴いた。

「え?」

声が聞こえた、気がした。実際に発せられた声ではない。けれど何故か、その鳴き声は人語の理解を以って陽向に届いた。

「名前……を?」

震える口でどうにかその要求を反復する。

 ――名前を呼んで。

「………………」

真摯に見つめる紫の瞳は、確かに陽向に救いを求めていた。

「………………シリュウ?」

脳内に浮かんだ名を、恐る恐る呟いた。瞬間、小さな龍から気配が“溢れた”。

「!!?」

溢れた気配は糸のように陽向に向かって伸ばされて、繋がる。

「……何しやがった?」

頬を引くつかせながら訊ねてみたが、シリュウから返ってきたのはただの鳴き声であった。

「ぴ」

そこに先ほどのような人語として意味を成すような得体の知れない何かはない。

爬虫類って鳴くっけ?とかどうでもいい疑問を追いやって、陽向はシリュウを抱えなおして立ち上がる。危機的状況は何も変わっていない。シリュウは何かしたようだが、それで事態が好転するとは思えなかった。

 黒い塊から見えないように注意しながらそっと覗き見る。飽きもせず三階に居る。が、先ほどよりも黒で埋まったガラスが増えているような気がしなくもない。

「あ」

気付いてしまった。気付きたくなかったが。嫌な予感とは当たるものだ。だから陽向は事態が動く前に行動する。

 シリュウを抱えて廊下へ戻る。姿勢を低くして、それに意味があるのかは最早わからないが、窓ガラスから頭を出さないようにして歩む。南校舎の真ん中付近、職員室までたどりついた辺りで、上空、丁度三階の廊下付近から激しい音が響き渡った。

 ガラスの割れる音。コンクリートが砕ける音。見上げて視覚で聴覚から推測した情報の正解を確かめてから、陽向は姿が見えるのも構わず走りだした。方向転換する直前、渡り廊下の壁をぶち抜いた黒い塊がこちらに向かって飛ぶのが見えた。

 脳内でシミュレートしたのとそれほど違わず、背後でガラスの割れる音。着地の衝撃で一階のガラスが割れたのだろう。さっきまでの場所に留まっていたらガラスの破片でどうなっていたか。立ち止まって確かめている余裕はないのでそのまま走り抜ける。階段を駆け上がり、二階へ。

「なあもしかしてお前が追われてる!?」

追いかけてくる禍々しい気配を背後にびりびり感じながら、陽向は叫ぶように腕の中の龍に問いかける。

「ぴぃ」

返事は萎れたしおらしさを多分に含んでいる。つまり正解か。

「ぴ」

抱えた腕が、圧迫感を捕えた。痛くはない。小さな爪の存在は感じるけれど、皮膚に突き立てるような握り方ではない。必死に縋りつく感触に、陽向はもう一度シリュウを抱え直す。

「……安心しろよ、見捨てたりしねえから」

シリュウを手放したところで陽向が助かる見込みもないし。何より、そんな目覚めの悪いことはしたくない。

 階段を上り切った先で、少し待つ。怖い。怖いが。

(思ったより遅い。これなら)

背中を冷や汗が伝う。緊張と恐怖に震える足は今にも崩れそうで、けれど陽向は踏みとどまる。

(もう少し)

気配は案外ゆっくりと近づいてくる。階段の下、踊り場から折り返した隙間から黒が見えた。

(まだ、もう少し)

生唾を飲んで、シリュウを抱えた腕に力を籠める。大丈夫、まだ走れる。

 踊り場に黒い塊が顔を出した。それが巨大な猪であることを、陽向は漸く認識する。認識した直後。

「ぴ!」

「わかってら!」

シリュウの声がいい合図になった。踏ん張った足を床から剥がして、陽向は隣の連絡通路に駆けこむ。

 その後ろから階段を駆け上がって一度正面の教室に激突してから向きを変えた猪が再び顔を突っ込んだ。

 連絡通路は南北校舎の廊下より狭く造られている。さっきまで西側の連絡通路でも詰まっていたのに、学習しない奴だ。

「よっしゃ、狙い通り!」

思わず軽く拳を握ってしまった。こんなに見事に引っかかるとは思わなかった。けれどこれも時間稼ぎでしかない。西の連絡通路は破壊できたのだから、こちらも時間の問題だろう。猪の鼻息を聞きながら、陽向は北校舎へと走り抜ける。


   〇


 背後にミシミシとコンクリートが軋む音を聞きながら、陽向はとりあえず北校舎二階の廊下を走る。居場所はすでにバレているし、どうやらシリュウの気配を追っているようだから隠れても意味はない。それより距離を稼ぎたい。

「お前アイツに何したのマジで……」

「ぴぃ」

シリュウはしっかり返事をしてくれたけれど、残念ながらその意味は全く通じなかった。

「何で追われてんのかくらい教えてくれてもよくねぇ?」

相変わらずヒビの入る音くらいは聞こえるけれど、依然として詰まったまま動きのない大猪の様子に陽向は少しだけペースを落とす。体力の温存も大切である。けれど止まっているような余裕もない。

 とにかく、いま目指すべきは一点。


 南北の校舎の長さは精々百メートル程度。渡り廊下はその途中にあるので、廊下としてはさらに短い。小走りでもあっという間に反対側へと辿り着いてしまう。

「うわぁ……」

予想はしていたが、やはりというべき惨状。先程猪が詰まっていた側の渡り廊下である。詰まっていた場所自体は三階だから一つ上の階だが、奴が周りの壁ごと粉砕したせいで天井が落下していた。大量の瓦礫で埋まっていて、通れないこともないが強行したいとも思えない。

 素直に諦めて隣の階段を降りて一階へ。幸いこちらの通路に損傷はなさそうだ。若干天井にヒビが入っている点は気になるが、駆け抜けてしまえば大丈夫だろう。

 窓越しに見える黒い塊の様子を確認しながらついさっきまでいた昇降口を目指す。先程は扉も開かなかった。だが、あの時の音と校舎の構造からいって可能性はある。

「よし、思った通り!」

猪が突っ込んだ位置から考えてそうだろうと予想していたが、当たりだった。目指す先、中庭からの壁をぶち抜いて、南側即ち外側の壁にまで大穴が開いているのが見えた。

「外の街がどうなってんのかはわからんけど……」

校舎に閉じ込められている現状よりは遥かにマシだと思いたい。

 しかし。

 その穴に辿り着く前に、二階の渡り廊下で動きがあった。

「アイツ……戻ろうと、してる?」

詰まっていた塊がどう見ても後退を試みている。窓越しに騒めく黒い毛皮は、頭を渡り廊下から引き抜こうと踠いていた。

「っ!」

迷っている暇はない。外へと繋がる壁の穴を目指すならば、階は違えど奴に近づく必要がある。今からでも戻って――。

 踵を返しかけた陽向の背後で轟音が響き渡った。慌てて振り向いた先、砂塵の混ざった爆風に曝される。何とか視界を確保して見遣れば、さっき通って来た一階の渡り廊下の天井が崩落していた。砂煙の中でも把握できるほどに、通れる状態ではない。

「嘘だろ」

だが呆けている場合でないことは二階で動き出した気配が教えてくれる。詰まっていた影響なのか、それともこちらを探しているのか、妙に歩みは遅い。そして。

「……!出口!」

ここに来て、あれだけ探したのに見つからなかった世界の綻びが陽向の感覚に引っかかる。

「けど、遠いなちくしょう⁉︎」

何でわざわざそんなところに、と言いたくなる。この高さだと南校舎の四階か、屋上だろうか。

 最早選択の余地はなかった。駆け出したそのままのスピードで階段を駆け上がる。体力的にも厳しくなってきたが、足を止めれば追いつかれる。

 二階の廊下を遠心力に負けないように踏ん張って最小限の半径で上階への階段を登り始めた。その後ろを突然スピードを上げた猪が通過する。

「⁉︎」

確認している場合ではないが、音と気配からして通り抜けた陽向と交差する形で奥の特別教室に突っ込んだのだろう。

「ああもう、こっち来んな!」

全力で三階まで駆け上がったものの、特別教室から抜け出たらしき猪の気配は追って階段を登り始めている。ぐるりと回った踊り場で、黒い背中が見えた。

 最早息を呑む時間すら惜しい。早く四階へ。

「……え」

つい、声が漏れた。


 これだけ近づけば確定的だ。境界線は屋上にある。屋上への扉が開閉可能なことだけを祈って上げた足が止まる。

 境界線から、何かが出て来たのである。

 速い。一瞬の内に移動して、気が付けば既に階段の上にいる。こちらに、来る。

 挟まれた、と理解したときには、弾丸のような速さで脇を駆け抜けられた。尾を引く緋色に釣られるように振り向いた陽向の足元に、漆黒の猪から突き出た牙があった。

 ……覚悟なんて決めた訳でもないけれど、現実を拒むように瞼を落とす。

 が、どれだけ待ってもその時は訪れなかった。

 代わりに、聞き覚えのある声が空気を震わせる。

「大丈夫?」

ひどく、感情のない声だと思った。そして同じ感想を抱いた数日前を思い出す。陽向はこの声を、そしてこの気配を知っている。

「あ……」

恐る恐る開けた目の先に、先程と同じ猪の牙。けれど、微動だにしない。それが巨大を横たえて倒れ臥しているのだと、漸く理解する。

 そしてその猪の傍に立つ、一人の少女。

 赤みのかかった長い髪を一つに括り、現代的な学校の背景にそぐわぬ黒の着物。丈を短く改造しているのは動きやすさを重視するためか。振るった大ぶりの日本刀から飛び立った血が弧を描くように階段を彩った。

「大丈夫そう?」

「あ、ああ」

二度目の問いにどうにか答えた陽向にまるで頓着しないように、彼女は刀を鞘に納めながら階段を登り陽向の横を通り抜ける。通り越す寸前、僅かに足を止めて口を開いた。

「こっち。来て」

抑揚を極力抑えたような声色。その声に導かれるように、陽向も階段の上層に方向転換する。少女の揺れるポニーテールを追いかける、その前に。

稲月いなつき、だよな?同じクラスの……」

確かめずにはいられなかった。記憶にある彼女と声と独特すぎる気配は一致したけれど、外見がどうにも異なる気がして。

「……知ってる人?」

向こうはこちらを覚えていないようだが、どうやら名前は合っていたと判断していいだろうか。

「上名だよ。一年B組の。出席番号、お前の二個後ろ」

即ち、岡部の前の席である。

「初日しか居なかっただろ。放課後もすぐに帰ってたし」

「見えてたの、帰ったところ?」

「え?」

思わぬ反応に困惑する陽向を差し置いて、稲月は再び上階の方を向いた。

「……とにかく。上に」

話は終わったとばかりに歩き出した稲月を慌てて追いかけ、陽向は次の段に足をかけた。


    〇


下の階の惨状が嘘のように、四階から上の階段は何事もなかったかのように静まり返っていた。

 あれから稲月は一言も発しない。何か機嫌を損ねるようなことを言っただろうかと振り返ってみるものの、名前をこちらから口にしてしまったことくらいしか思い当たる節がない。単に無口であるだけなのだろうか。それとも、陽向が気付いていないだけで彼女にとって嫌な発言でもしてしまったのだろうか。

 とてもこちらから訊ねられる雰囲気ではなく、猪に追いかけられていた時以上に内心穏やかでない陽向である。異様な空気に気圧されているのか、心なしかシリュウが小刻みに震えている気がしなくもない。

 

 そうこうしている間に屋上まで着いてしまった。出入りである鉄扉は開いていた。稲月がここから入って来たのだから当然だと納得しかけたその時、真ん中辺りで変形していることに気付いた。よく見れば蝶番も外れている。

 そもそもこの扉は外開きだったはすだ。記憶の相違と現状を思うに浮かんだアホらしいけれどあり得そうな想像に前を行く少女を凝視してしまう。

 どちからといえば小柄な部類だ。女子にしても平均身長は下回っているだろう。陽向とて背が高いとはお世辞にも言えない背丈なわけだが、その陽向をして階段の段差を考慮しても頭一つは低い。

 とても鉄製の暑くて重いあの扉をひしゃげさせるなんて不可能だと思うのだが。

 さっきは必死すぎてスルーしてしまったが、あの猪を倒したのも彼女ということだろうか?なら、見た目と反する怪力だとでも言うのだろうか?

 ……恐らく陽向の想像は合っている。合っているけれど、認めたくはない。


 開けた空を期待していたら、待っていたのは曇天だった。重苦しい。

 落下防止のため絶対に登れないだろう高さの金網が張られており、少々圧迫感のある空間だ。給水塔などがあるため、屋上全体へは入れないようになっている。

 その給水塔を囲う金網の手前に、一人の男性が佇んでいた。


 上背はあるが、体格は細長い。黒い着流しのひょろっとした男性である。三十代くらいだろうか。細いフレームの丸眼鏡の向こうの瞳が三日月のように薄くなった。

「やあ、セリナ。お疲れ様。無事に済んだみたいでよかったよ」

片手を軽く上げて微笑んだ男性に、稲月が小さく頷く。どうやら極端に無口な方で正解らしい。

「穢れた妖気ももういないみたいだし、ここのヌシさまの調査を……と、後ろの彼は?」

片手でスマホを操作していた男性が顔を上げ、漸く陽向の存在に気付いてくれたらしい。自分から、というのもこの場合違うのではと思い稲月の紹介を待つ。

「…………」

待てど暮らせど紹介してくれなかった。笑顔のままで男性の顔が陽向に向けられる。

「……えと、上名陽向です……ここの生徒の。稲月、さんのクラスメイトで」

躊躇いながらおずおずと自己紹介した陽向の、最後の単語に男性の表情がぱっと明るくなった。

「クラスメイト!へえ、クラスメイトかぁ!セリナのね、あ、この子のこと知っててくれたんだね!」

お父さんでしょうか、と訊ねたくなるほどの喜びっぷり。にしては若いが。お兄さんだろうか?

 初日一日しか会っていないし、会話らしい会話を交わしたのはついさっきという事実に何故か罪悪感すら覚える。

「僕はね、奇異管理局妖生活安心課の課長で、春日野っていいます。よろしくね?セリナの上司だよ」

「は、え?」

肩書きに聞き覚えがなさすぎる単語が並んでいてどこから訊ねてよいか全くわからない。

「あれ?そんなにガッツリ視えてる人なのに管理局に馴染みないのかな?珍しいね!」

いや、本当にどういうことなのだろうか?

 完全に置いていかれている陽向であるが、最早どう反応したらいいのかすらわからなくなってしまった。呆然と立ち尽くしていたら勝手に春日野が喋り始めた。

「うーん、じっくり説明したいところだけど今ちょっと立て込んでてね。移動しながらでもいいかい?」

「え、は、はい」

「よし、じゃあ決まりだ」

歩き出した彼の草履が風雨に晒されて砂埃に塗れた屋上のタイルを踏んで進む。

「よかったら僕からも色々聞きたいな。よろしくね、上名君」

"ここ"からの出口ではなく何故か校舎へ向かう春日野に呆気に取られながら、それでも陽向は彼について行く選択をする。ここで話を聞くチャンスを不意にするなどできない。

「ヌシに、会いに行こう」

階段を降り始めた春日野と稲月を慌てて追いかけて、陽向もシリュウを抱えたまま校舎へと戻る。

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