第43話 一人
美帆の中じゃない!
わたし、産まれたばかりの
なんてこった!
美帆の中にいる方がずっと楽だった。当たり前だけどこの透子は心も体も赤ん坊過ぎて、もう、ほぼほぼ本能だけで生きているんだもん。色んなことが直接的すぎる。食う寝る出すの欲求と、その欲求が満たされていれば嬉しくて、満たされていなければ悲しい、それだけだ。
五感もまだ発達してないから、色んなことがよく分からない。
でも、同時に色んな何かを感じてる。分かるのは、美帆と下原先輩、や、もうお母さんとお父さんの醸し出す雰囲気だ。
二人から凄く可愛がられてる。産まれてきたことを二人にびっくりするくらい歓迎されていたのだ。
わたしは、すっかり忘れてしまっていた幸せを再体験することになる。
そして、少し大きくなって、忘れてたことを思い出した。
お母さんのことは今でも好きだけど、昔はお父さんも大好きだった。や、むしろ、お母さんより、お父さんの方が好きだった。そうだった。すっかり完全に忘れてた。
透子は、お父さんが帰って来るのを日がな一日待っていて、帰ってきたら全力で飛び付く。抱っこされて、高く持ち上げてもらえて、ひげゾリゾリされて、きゃあきゃあ騒ぐ。そんな時の遠子が嬉しさが、わたしも嬉しくて仕方ないし、お父さんが好きだという気持ちが止まらない。
だから、産まれてからの数年の
粗相して怒られたり、嫌いなタマネギを食べさせられたりして泣くことはあるにせよ、大抵は楽しかったり嬉しかったりしていた。
こんなに幸せだった
のに。
亀裂が入った。
そのきっかけは、やっぱり麻友だった。
や、麻友本人ではなく、お父さんとお母さんが内に秘めていた麻友の記憶だった。
偶然の皮肉だったと思う。
島に渡る港がある海沿いの街にある学校に、お父さんが転勤し、家族で引っ越したのだ。教員が住む官舎は、海の近くにあった。
お母さんは海やその向こうの島を遠い目で見ることが増えた。
ただ、それだけだった。それだけのことだ。だって、お母さん、美帆にとって、この海は余りにも大切な思い出のある場所だ。だから、つい、目が向いてしまうというだけ。
だから、お母さんは、何も変わらず、ちゃんと透子やお父さんの家族だったし、お父さんの妻だった。
一方で、あの海や島は、お父さんにとっては必ずしも良い思い出ではない。あの島で美帆と麻友の映画を撮った後、美帆は急速に表情を変え、そして、お父さんをいきなり拒否した。
海を見詰めるお母さんの表情は、お父さんのそんな過去の傷を引っ掻いてしまう。
昔のことだ、大したことじゃない。
わたしはそう思った。お父さんもそう思おうとした。
でも、お母さんの横顔が、あの頃の美帆の横顔に見えることがあって。
ボタンの掛け違いのように。
縫い目の小さな綻びが、大きな破れになるように。
小さなひび割れが、いつか岩を砕くように。
引っ掻き傷が、膿んで血が滴るような傷になるように。
いつの間にか、お父さんはお母さんを責めるようになっていた。
小さな
そして、お母さんは、何を責められているのかが結局のところ分かっていなかったから、お母さんにとって、お父さんの言っていることは理不尽だった。
お母さんの口数はどんどん減る。
そこへ、お母さんのお母さん、おばあちゃんが病気になったという連絡が入り、お母さんは一人で実家に戻ることになった。
その頃には、透子はとても大人しい子になっていて、親の顔色を窺ってばかりいた。お母さんがいなくて、お父さんと二人きりの生活は息が詰まるようだった。
透子の前では優しいお父さんだったけれど、いつ、お母さんを責めている時のお父さんに変わるか分からなくて、優しければ優しいほどに恐ろしかった。
悲しい寂しい怖い
悲しい寂しい怖い
悲しい寂しい怖い……
この頃の透子の重たい気持ちは、わたしも覚えている。
でも、全てを覚えていたわけではない。
「透子は、お父さんと一緒にいてくれるよな」
お父さんと二人でご飯を食べていると、いつもお父さんは透子の頭を大切なものを守るように撫でて話し掛けてくる。
とても寂しそうに。少し目を細めて。
お父さんにそんなことを言われていたなんて、覚えていなかった。
多分、それは、お父さんの再婚を厭ったわたしが、お父さんは、わたしもお母さんも捨てたんだと、自分の記憶を書き換えてしまったからだ。
そして、小さな
お父さんとお母さんの離婚。
どちらが小さな透子の親権を取るのか。
男親が女の子を育てるのが難しいとか、介護中の祖母がいれば面倒を十分に見れないとか、色々な理由で、透子の引っ張り合いが始まった。わたしはうんざりする。
なぜ、わたしは、最終的に、お母さんに引き取られたのだったのだろうか?
や、わたしがお父さんに付いてったら、お母さん一人じゃん。
だって、お父さんは、この後、しばらくして再婚する筈だ。
お母さんが一人になる……
「トコちゃん、おかーさんといく」
「透子!?」
小さな透子は、両親の離別と自分の取り合いに気付いていた。三人では暮らせないことも、小さな透子なりに受け入れようとしていた。
そして、自分で母親を選んだ。
「おかーさんひとりぼっちになるもん」
「透子、お父さんもひとりぼっちになるよ」
「おとーさんは、ちあうって、とーこ言ってる」
お父さんは違うって透子が言ってる
え?
透子、わたしの声が聞こえているの?
透子はこくんと頷いて、それからお父さんとお母さんの方を見る。
「とーこ、おかーさんひとりぼっちんなちゃうて、トコちゃんにゆーの」
透子が、お母さんが一人ぼっちになっちゃうって、トコちゃんに言うの。
「とーこ」はわたしのことだ。小さな透子の中にいるわたし。
でも、お父さんとお母さんにしてみれば、「トコちゃん」と「とーこ」は小さな透子の一人称の混乱にしか思えないだろう。
「おかぁさんと、いぅ……」
そう言いながら、小さな透子は泣き出した。透子は、お父さんが大好きだ。なのに、お母さんを選んだ。
わたしのせいだ。
わたしが、お母さんが一人になると、小さな透子に吹き込んでしまったんだ。
そして、わたしがいなければお母さんが一人になるのは本当のことだ。
わたしがいなければ。
お母さんを一人にはできない……!
そして、世界は暗転した。
永遠のような一瞬の暗闇にわたしは包まれた。
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