第40話 終夜

 海を見下ろせる高台にはホテルがある。

 麻友が指さしたのは、その白い建物だった。白亜とまでは言わないけれど、冬の青空に白い立方体が映えている。


「予約してある」

 ニヤッと麻友が片側の口角を上げた。悪戯な笑顔だ。

「いつの間にぃ?」

 少しだけ美帆が驚いて焦る。そして、慌ててカメラをケースにしまい、三脚も片付けた。三脚に付いてた砂をちゃんと落とさなくていいの?

「行き先を聞いた後、美帆がトイレ行ってる間に公衆電話見付けて電話した」

 なんてことない、という顔で麻友がサラッと答えた。わぉ、っと美帆が小さく呟き、その口を両手で押さえた。お泊まりデートなんて、この二人には珍しい、というか初めてだ。

 そして、多分、最後だ。

「もう海はいいよ、体が凄く冷えちゃったしさ」

 そう言って麻友が美帆の肩を抱き寄せ、海に背中を向けた。

 わたしは、もう一度、海を見ておきたかったけれど、美帆は振り返らなかった。



 わたし、二人の最後の夜をどこまで覗いていいのだろうか?

 と悩みつつも、とりあえず今、ホテルの大きな展望風呂で麻友のスレンダーな裸を拝ませてもらっております。つまりは、美帆が麻友の裸を見ているということでもある。大きな窓の外には海と島陰。美帆の目は麻友と窓を行ったり来たりしている。

 麻友の体は夏の海でも少しは見たんだけど、夏はビキニで隠されていたところもしっかり見えている。わー。

 美帆は、逆に、自分の裸も見られているように感じていて、恥ずかしいんだか、お風呂が熱いんだか、興奮しちゃってるんだか、美帆の体が熱くて仕方がない。

 照れ隠しなのか、美帆が後ろの洗い場の方を振り返る。

 二人以外の宿泊客が少し見えた。


「……ねぇ、麻友」

 ん?と麻友が美帆をちらりと見る。麻友もあんまり美帆を直視できないみたい。

「鏡」

「鏡がどうかした?」

「……鏡の中の自分と目が合うよねぇ」

「それは、そうだね」

 何を当たり前のことを、というように麻友が言う。実は、さっき、洗い場で何度も美帆とわたしは目が合っていた。ごめんなさい、お母さん、顔だけじゃなくて、あなたの裸もかなり見ました。麻友のと違って何も感じませんでしたが。


「鏡の中から、誰かが自分を見てるよぉな気がすることって、ない?」


 その美帆の言葉にわたしは固まる。体があったら、ぶほっと何かを吹き出したような気がする。

 美帆、わたしのこと気付いている?


「鏡の向こうに誰かがいて、美帆を見ているってこと?」

 麻友も洗い場の方に目をやる。

「自意識過剰かなぁ」

「んん、私もそう思うこと、あるよ」

「そぉなんだ!良かった。わたしだけじゃないんだ」

「美穂を鏡から見てるのって誰なんだろうね。私の生き霊かもよ」

 そう言って麻友が鼻で笑った。

「もぉ、麻友、わたしの言ってること、真面目に聞いてないでしょ」

「聞いてるし、本当に、誰かに見られてるような気持ちになるって」

 麻友がそう弁解しながら、首元に手を当てて、くっくと笑う。

 その仕草が色っぽくて、わたしも美帆もちょっとドキッとした。


 前にも、美帆がわたしの気配を感じてると思った時があった。

 時々、わたしの声が聞こえてるんじゃないかと思うこともあったし。

 いつか鏡で会話しちゃうなんてことがあるかもしれない。

 ……って、わたし、いつまでこのままなんだろ。



 それは、さておき、さっきから意識が跳ばない。

 困った。


 食事をして露天風呂に入って部屋に戻って。

 それから、どれくらい時間が経ったかよく分かんないんだけど、もう、さっきから二人のキスが止まらない。

 そのせいで美帆の体の反応が、わたしを刺激してくるから、本当に困る。


「トモダチ」なんて称してる二人だけれど、とっくにそんな言葉に収まる関係じゃなくなってることをわたしは知っている。わたしは、美帆の視界の覗き魔であると同時に、その身体感覚も共有していて、美帆の体が感じていることを自分の体のように感じてしまう。だから、これまでずっと、二人がしていることを、わたしが見るのも感じるのも絶対に駄目だと思っていて、二人がそういう状況になりそうになると意識を跳ばすようにしていた。

 気が付くと、目の前に服のはだけた麻友が寝ていたり、美帆がほとんど裸で目を覚ましたりしたことは、一度や二度じゃない。それが何を示すかなんて丸分かりだったけれど、知らない振りをするのがわたしなりの仁義だと思ってた。


 でも、今日は意識を跳ばせない。どうしても。

 わたしの体が美帆と一つになってしまったみたいで、それは、わたし自身が麻友からもう離れられなくなっているからだからかもしれない。

 麻友に触れたくて堪らないのは、美帆なのか、わたしなのか。

 今、麻友の首筋を指でたどり、掌でその肌の吸い付きを確かめているのは、

 麻友の吐き出す声に耳を澄ましているのは、

 その胸元の甘い香りをかいでいるのは、

 その表情を見逃すまいと瞬きすらせず見詰めているのは、

 全身で麻友を感じ取ろうとしているのは、


 美帆なのか、わたしなのか。



 遠くから微かに波の音が響いて、あの夏の島を思い出した。


 それから、しゅうちゃんのことを思い出した。

 なぜだろう。

 ふだん、どっちかと言えば、わたしは柊ちゃんに抱かれる側なんだけど、今、わたしは、麻友を抱いていて、同時に、まるで柊ちゃんを抱いているみたいな感覚がする。


 ずっと。

 もうずっと美帆の中でわたしは一人で、いつも一人で美帆の頭の中で喋ってるしかなくて、でも、初めて、美帆の中で柊ちゃんがわたしと一緒にいてくれるみたいに、柊ちゃんの気配を感じていた。




 それが美帆と麻友の最後の夜だった。


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