第39話 海辺
2月、遂にその日が来てしまった。
麻友が全ての荷物を片付けた。美帆も麻友の部屋に置いてあった私物を引き上げた。何もない空っぽの部屋。ほんの少し前まで二人が過ごしていたときの熱が、あっと言う間に冷えたのは、冬の冷たい空気のせいだけではない。
「海に行こうよ」
キャメルのダッフルコートを着ながら美帆が言った。
「ええ、寒いよ、やだ!」
麻友は不満の声を上げながらも、黒いロングコートを着た。
二人のこの日の服装には見覚えがあった。
『Still love her』
あのフィルムの映像で観た服装だった。
麻友の長い髪が黒いコートの上で光を跳ね返す。フィルムよりも、ずっと麻友は綺麗だと、改めて思った。
そして、海に着く。
海風は強くて冷たいけれど、その分、海も空も澄んで青かった。
海の向こうに、島の影が見える。夏よりもくっきりと見えて、近くなったみたいな気がした。夏の撮影合宿をした、あの島。
「あの島まで行く?」
「こんな真冬に行くわけないじゃん、あそこ夏以外は何にもないよ」
麻友の口調の方が冬の空気より冷たい、なんてわたしは思う。島民は冬も住んでるぞ、多分。
美帆が愛用の8mmカメラを構える。
その美帆の前は海辺。波で足が濡れないギリギリのところ麻友が踊るように歩く。それを美帆が追い掛ける。ファインダーの中で麻友は砂を蹴り上げたり、跳ねるように波から逃げる。
長い髪が揺れて、風に巻き上げられる。
時々砂に足を取られて躓くけれど、転ぶまでのことはない。転びそうになると照れくさそうにカメラの美帆を見て笑う。麻友にしては珍しい子供のような素直な笑顔だった。
海が陽の光を、小さく、たくさん反射して、きらきらする。麻友の笑い声に合わせているみたいだった。
美帆が時々麻友に接近して、アップを撮ろうとすると、それに気付いた麻友が逃げる。美帆とカメラがそれを追い掛ける。
ピントが合わないーっと美帆が悲鳴を上げると、麻友が足を止めて、美帆がピントを合わせるのを待ってくれる。
ファインダーの狭い視界の中で、ぼやーっとした麻友に焦点が合う。麻友がそれを察して、ニヤッと悪い笑顔を浮かべると、カメラから逃げるように歩き出す。せっかくピントが合ったのに、また、どこかへ移動してしまうので、もーぉっと美帆が不満の声を出すと、あははーっと麻友が高らかに笑った。
こんなに笑う麻友は初めて見たような気がした。
余りに麻友がカメラから逃げようとするので、美帆が拳を振り上げて叫んだ。
「もおぉ、少しはおとなしくしてよぉ!」
「ごめんごめん」
麻友が片手で拝むようにして、カメラの前に戻る。
「ここでいい?」
「いいからちょっと立っててぇ」
「美帆も一緒に撮ろうよ」
「ええぇ?」
「カメラ固定してさあ、こっちおいで」
ま、いいかと呟きながら、美帆は三脚にカメラを設置した。
それから美帆はトコトコとカメラを置いて麻友に近付いて行く。
ああ、これ、フィルムの最後の辺りだ、とわたしは思い出した。
最後の方で、ちょっとだけ二人は記念写真を撮るかのように、カメラの前で並んで立つのだ。でも、なぜか美帆が恥ずかしがって、両手で顔を隠すんだよね。
その記憶の通りに美帆が顔を隠した。そうそう、こんな感じだった。
「何、今更恥ずかしがってるの?」
麻友がそう言いながら、顔を隠す美帆の手を外して、カメラを指差した。
「ほら、カメラ見て」
そう言われて、美帆は渋々カメラを見る。フィルムでは分からなかったけれど、カメラの後ろには松林が広がっていた。
ちょこん、と三脚に乗っけられた美帆のカメラは、タタタタッと音を立てている。
「私も一回くらい、美帆のことを撮影しておけば良かったかな」
「嫌だぁ、わたしは撮られたくないもん」
「だって、私、美帆の写真、一枚も持ってないんだよ」
「そうだっけ。あげようか?」
「写真の美帆、目を見開いてかわいこぶってるから、いらなーい」
「ひどぉいっ」
フィルムには声が入ってなくて、波打ち際でじゃれ合うように、見つめ合って、何かを話しているところだけが残されていた。
なんだ、こんなくだらない話をしてたのか。もっと色っぽい話をしているのかと想った。
美帆が砂に足を取られてよろける。
視界が一瞬、空だけになったけれど、すぐに麻友の顔だけになった。ひっくり返りそうになったのを麻友が抱き止めたのだ。美帆は、足に体重を掛け直して、転ばないようにバランスを取る。
それから、麻友の顔をじっと見ていた。
そんな美帆の顔を見て、麻友が目を細めて、美帆の頬を両手で挟み込んだ。
カラカラカラっと音がした。
「あ、フィルム切れ」
その音を聞いて、美帆が唇を離して呟く。
それは、撮影の終わりでもあった。
美帆がカメラに近付こうとしたけれど、麻友は美帆を離さなかった。ぎゅっと抱きしめている。
「麻友?」
麻友は答えないで、腕に力を込めた。
撮影されていなかった、あの映像の先の出来事が始まっている。
「美帆、あそこ」
麻友が海の反対側、海岸の松林の向こうの高台を指差した。
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