第38話 理由
「先輩、わたしと別れてください」
言っちゃった……!
下原先輩の顔が歪んだ。
美帆は腹を決めていたみたいだから、修羅場だったのは、下原先輩だけだったっぽい。
理由らしい理由を言わず、とにかく別れたいの一点張りの美帆に対し、さすがの下原先輩も何度か声を荒げた。
なだめすかしもした。美帆の両肩を強く掴み、揺らすこともあった。
「浅野さんに何か言われたのっ」
「麻友は、関係ありません。わたしが決めました」
「どうして」
また美帆は黙り込む。
「俺に直すところがあれば」
「……ありません。悪いのはわたしです」
会話が会話になってない。ていうか、わたし、他人の別れ話をこんなふうに聴かされるの初めてで、もうハラハラし通しだった。
ていうか聴きたくない。なんで、こういう時に限って意識が跳んでくれないんだろう。
そして、不意に思い出させられた。
両親が離婚する前の時のこと。あの時も、お母さんは言葉少なくて、お父さんがずっとお母さんを責めていた。小さかったから、お父さんが何を怒っていたのかは子供だったので分からない。
怖かった。嫌だった。
思い出して泣きたくなった。
でも、体がないから泣けない。体がないのに、胸が詰まるみたいで、息苦しい。嫌だ。
「わたし、一人になりたいんです」
辺りがすっかり暗くなって、言葉が尽きた先輩に向けて、美帆はそう言った。
「浅野さんがいるだろ」
吐き捨てるように先輩が言った。
「もうすぐ、いなくなります。だから、麻友は関係ありません」
「今日は、ここまでにしよう。また、落ち着いたら話そう」
大きなため息を一つついて、先輩がそう言って立ち上がり、美帆の腕を掴んで引っ張って顔を近付ける。美帆はそれを避けた。
「……ごめん」
先輩は頭を掻くようにしながら謝った。
「はあ?!別れてきたぁっ?」
麻友が大きな声を出した。
美帆がこくんと頷いた。
「意味が分かんない、別れなくていいでしょ、私、もうすぐいなくなるんだから、前みたいに仲良く付き合えばいいじゃない」
「声大きいよぉ。お隣に聞こえちゃう」
美帆は麻友の隣にちょこんと座る。並んで座られると、麻友の表情が見えなくなるから、わたしはちょっと不満だ。でも、麻友が横からぐっと美帆の顔を覗き込んできた。
「美帆、それで平気なの?」
「……どちらも選べないより楽だよ」
ふーっと美帆が息を吐いた。その答に麻友が美帆の手首をぐっと握った。
「二人のどちらも大切」
美帆が、自分の手首を握る麻友の手を見て、そのまま話し続ける。
「でも、あの夏合宿の島で、わたし本当は選んでた。……麻友を選んでたよ」
麻友が震えるように揺れる。
「麻友がいなくなるまで、って最初は思ってた。でも、麻友がいなくなったから先輩に戻るって、そんなのダメ。麻友にも先輩にも失礼だよ。先輩は麻友の代わりじゃない」
手首を握っていた麻友の手を外して、美帆が指を絡める。
「誰も麻友の代わりになんかなんない。代わりなんていらない」
美帆は、先輩からは背けた顔を、麻友には近付ける。美帆が目を閉じたので、困惑していた麻友の顔が見えなくなって、ただ柔らかい熱が伝わってきた。
「わたし、麻友のことが」
「……ごめん、美帆」
麻友が美帆の告白を遮ってしまう。
「え? 麻友が何を謝ってんのか、わたし、分かんない」
「私が美帆の人生壊した」
「なんで? 麻友に会えなかった人生なんていらない」
「駄目。美帆は、普通に結婚して、お母さんになって、幸せになるんだよ」
麻友が『女の幸せ』という呪いを唱えたので、わたしは、うえーってなる。現代っ子のわたしでさえ、振り回される言葉だ。この二人は、もっとそれに囚われてるに違いない。それは分かる。分かるのだけど。
「麻友がいなくちゃぁ、幸せじゃないよ」
「違う。私がいない方が幸せだよ」
「そんなこと、ない。ないよ」
美帆が麻友の首筋に顔を埋めると、麻友の匂いがわたしにも届いた。
もういいじゃない。
麻友は美帆から離れなくてもいいじゃん。わたしは一人で叫ぶ。誰にも聞こえないけれど、泣き叫んだ。
なぜ、二人は自分たちの恋を消そうとするのか、理解できない。
成就しないものだと、不幸になるものだと、どうして決めつけるのか。
せっかく繋がっている心を切り離す意味が分からない。
分かんない!!!
それからも二人は、付かず離れずに暮らし、わたしはそれを見守った。
大抵は麻友の部屋で。時々は美帆の部屋で。もう麻友はアルバイトを辞めていたので、授業の後は、部屋を少しずつ片付けながら美帆を待ってくれていた。
授業やアルバイトが終わると、冬の冷たい空気を切るように、美帆は麻友の部屋に急ぐ。
「ただいま」と「おかえり」が冷えた美帆の体を温めてた。
その一方で、何回か、美帆と下原先輩は話し合いをした。
電話だったり直接会ったり。でも、先輩には美帆の気持ちを変えるのは無理で、1月の終わりになる頃には、下原先輩は美帆のことを諦めたようだった。
美帆も言うほどはスッキリしていたわけではない。穴が空いたようなとこがある。美帆が下原先輩のことを好きだったのは、それはそれで本当のことで、それをなかったことにするのは、そんなに簡単なことじゃないのだと思う。
自分の父親になる人と、母親になる人の別れ。
この過去の先に、わたしは生まれないのだろう。
そう思ったとき、
わたし以外の誰かと。そう思うとちょっと切なかった。……とてもつらくなった。
そして、2月。
あと数日で麻友はこの街を離れる。
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