第37話 失恋

 年が明けて、2、3日すれば大学での講義が始まるという頃、美帆と麻友は半月振りに大学のある街に戻ってきた。

 おばちゃんが倒れたと聞いたときの美帆は、それこそ生きた心地がしなかっただろうけれど、手術が成功して徐々に回復していると知り、安心する気持ちが増していった。麻友と二人で実家で過ごした時間は、嬉しさと楽しさ、それでいて、もうすぐ訪れる離別への不安が常に付きまとう切なさもあって、そんな真逆の感情を交互にダイレクトで伝えられるわたしもなんだか複雑な気持ちだったわけなんだけど。

 


 二人は、片手にスポーツバッグ、もう片方の腕を組んで、ふざけながら美帆の下宿に向かっていた。バッグの中には、美帆のお母さん、すなわちわたしのおばあちゃんに持たされた地元の土産物とかが入っていて、美帆の下宿で山分けするという楽しそうな話をしている。


 そんな美帆が顔を上げて下宿の入り口に目をやると、道路を挟んだ入り口の反対側に一人の人が立っていた。



 下原先輩おとうさんだった。



 わたしは思い出す。

 美帆と先輩はイブに二人で出掛ける予定だった。でも、その前におばちゃんが倒れてしまったので、先輩に連絡を取らずに美帆は実家に帰ってしまい、わたしの覚えてる範囲では、美帆はそのまま先輩に連絡を取らなかった。

 この時代にはスマホがないから。

 いや、美帆は友人や知り合いの電話番号をメモった手帳を持ってる筈だし、多分、美帆は下原先輩の下宿の電話番号くらいは暗記してる。



 つまり、美帆は忘れていたわけではない、と思い至る。



 クリスマス・イブを下原先輩と過ごす約束も。

 急に帰省しなければならなくなった理由を伝えることも。

 あえて、下原先輩に伝えないままにしたのだ。




「……せんぱ、い」


 よっと言うように先輩は片手を上げた。どうやら怒ってはいないようだ。

「急に帰省したらしいって、学部の後輩から聞いた」

 先輩も美帆もおんなじ教育学部だから、美帆に何があったかを調べるのは、そう難しくはないだろう。

「……連絡欲しかった。俺、実家の電話番号知らなかったし、流石にそこまで調べるのはできなかったから」

 美帆を責めない先輩は優しすぎる。自分の恋人が突然いなくなって連絡もよこさないのだ。もっと怒って然るべきだと思う。

 さあ、美帆、この優しい恋人にあなたはどうする?


 美帆は、先輩を見た瞬間は、すくむように驚いたけれど、すぐに落ち着いた。美帆は、いつも先輩の前では軽く緊張するのに、それすらもない。

 どうやら、美帆は、遅かれ早かれ先輩に説明することになると分かっていて、覚悟していたみたい。


「麻友、先にわたしの部屋に行ってて」

 美帆はそう言いながら、麻友に鍵を手渡す。

「あ、ああ、うん。……いいの? 私、自分の下宿帰るよ」

「駄目。待ってて」

「じゃ、美帆の荷物ちょうだい。私が部屋に運んどくから」

「ん、お願い」


 その二人のよどみのない会話を聞いて、下原先輩が少し眉間にシワを寄せる。どっちかと言えば、のんびり屋で受け身だった美帆が、麻友にははっきりとものを言うし、麻友もそれを当然としている。麻友と一緒にいるときの美帆は自分の知っている美帆ではないと、下原先輩は言ってた。

 今もだ。もう自分よりも麻友の方が美帆に近くなってしまったことを感じ取っているんだろう。なんか、ちょっと、かわいそうかもしれない。


「先輩、道で話すのも邪魔ですから、場所、変えませんか?」

 ようやく美帆が下原先輩に声を掛けた。邪魔扱いは酷いぞ、美帆。

「お。ああ。…どこ行こう。どっか喫茶店でも」

「もったいないですよぉ、この先の公園でもいいですか?」

 美帆は、そう言って肩をすくめて、首を傾げたようだ。美帆らしいあざとい動作だ。そして、とことこと公園に向かい、歩きながら年末のできごとを説明し始めた。


「そうか、大変だったね」

「伯母は、わたしと母以外に身寄りがないものだから」

「それは分かったけど、どうして浅野さんが一緒に行くことになったわけ?」

 公園のベンチに並んで腰を掛けて話していると、日が落ちようとする時間になって、周りはオレンジ色っぽくなっていた。美帆は、下原先輩ではなく、千切れた半端な羊雲の浮かんだ青と燈色の境目のような空を見ていた。

「……トモダチだからです、かね」

「友達だから?」

「わたしが母からの連絡を受けて、あんまりにも慌てふためいてたから、見てられなくなって手伝いに来てくれたんです」

「……そんなものなのかな、女同士の親友って」

 いや、普通は違うからね、とわたしは一人で誰にも聞こえないツッコミをする。


 ようやく空のほとんどが茜色になると、美帆はスッとベンチから立ち上がった。そして、下原先輩の前に立って、静かに頭を下げた。

「美帆?」

 頭を上げた美帆は、じっと先輩を見据えた。



「先輩、わたしと別れてください」


 

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