第35話 帰省
おばちゃんが倒れたという連絡に、美帆が動揺し、着替えもままならなくなる。
「ああ、もう!急がなきゃならないのに、わたし、何してるんだろう」
「落ち着いて、美帆」
麻友がタンス代わりの押し入れを開けて布団を畳んでしまうと、スポーツバッグを引っ張り出す。
「美帆、これ使う?」
「あ、うん」
「しばらく実家に帰るんでしょ?向こうに着替えとかあるよね?」
「あ、ある」
「じゃあ、そんなに荷物はいらない。とにかく落ち着きな」
美帆の中の自分への苛立ちが落ち着いてきた。麻友の方が冷静だ。
「私も美帆の実家に付いてく。今のあんた見てたら不安だよ」
わたしも美帆もちょっと驚いた。
「え、いいよぉ、そんなの」
「大丈夫、美帆を実家に置いてったら大学に戻るから。他人がいたら邪魔だからね」
「……邪魔だなんて」
「いいから、ほら、支度しておいて。私、一回下宿戻って、ダッシュで支度してくるから」
麻友はぱぱぱっと着替えて美帆の下宿を飛び出し、
「勝手に一人で行かないでよ」
とドアを閉める時に念押しした。
なんか男前だ。
なんて、思わずうっとりしていたが、美帆がはっと我に返ったので、わたしもおばちゃんのことを思い出した。
でも、わたしにはおばちゃんが倒れたって記憶はなくて、元気なおばちゃんしか頭に思い浮かばない。重い物も平気で持ち上げて、後遺症も何もなかった筈だ。
麻友が付いてきてくれると聞いて、美帆はホッとしたのか、ふーっと深い息を吐いてから、支度を始めた。
この街と実家はそう遠くはない。新幹線を使えばすぐだ。
大丈夫だよ、美帆。
大丈夫だから、頑張って。
そう励ました時だった。
美帆が不意に鏡を振り返った。
わたしと鏡の中の美帆の目が合う。美帆がじっと鏡を見詰める。髪の毛と服の確認?
「……だい、じょう、ぶ?」
それは、自分に向けて言ったのか。
それともわたしに向けて言ったのか。
美帆?
最寄駅かrタクシーに飛び乗って、やっと病院に着いたけれど、美帆は、おばちゃんに会うことができなかった。
おばちゃんは、まだ意識が戻っていない。
この1、2週間で、手術をするかしないかを見極めるのだそうだ。
ガラスの向こう、寝ているおばちゃんの顔は見えない。点滴の管と何かの機械がつながっていて、多分、血圧とか心拍数とかだ。
容態を聞いて、不安になった美帆が貧血を起こし、麻友がそれを支えた。
美帆のお母さんが、麻友にお礼を言っている声がかすかに聞こえる。美帆が意識を失い掛けたので、今のわたしには視界がなくて、耳に聞こえてくるものも僅かで、よく聞こえない。
美帆のお母さん、つまり、わたしのおばあちゃん、後でわたしの両親の離婚の原因の一つになってしまう人だ。わたしが小さかった頃、おばあちゃんは病気になって動けなくなり、お母さんは、介護に実家に帰ることとなって両親の別居が始まった。わたしは、お母さんの迷惑になるからと、お父さんと二人でいたのだけれど、お母さん子だったので、それがとても辛かったのを覚えている。そして、この別居の後、お母さんとお父さんの心の距離は広がって、離婚につながった、らしい。詳しくは分からない。
おばあちゃんが生きてる。再会できた。
それは、嬉しくてちょっと切ない。
わたしの記憶より若い、というか髪が黒いおばあちゃんを写真以外で初めて見た。そして、記憶にあるより元気だ。わたしの記憶では、ほぼ寝たきりだった。
おばあちゃんの思い出は少ないけれど、唯一の孫のわたしを可愛がってくれたことは確かだ。お婿さんもらって家を残せ、っていう定番の口癖がなければ最高のおばあちゃんだったなあ。
「……ですけど、もし……」
「それは、…ありがた……いいのかしら」
「……わくなんかじゃ……」
おばあちゃんと麻友の会話が断片的に聞こえてくる。
そして、美帆が完全に意識を失ったらしく、わたしの意識も跳んだ。
「え?残ってくれるの?」
美帆が病院のベッドで目を覚まし、わたしの意識も戻った。
「うん。ご迷惑かと思ったんだけど、美帆のお母様が構わないとおっしゃってくれたから。色々手伝い必要でしょ。私、運転免許持ってるし」
「悪いよぉ、講義は?」
「ああ、大丈夫。どうせもうすぐ冬休みじゃない」
麻友は首を傾げた。多分、頭の中で単位か何かを計算している。
「年末年始だよ、いいの?」
美帆が申し訳なさそうに言うと、麻友が片側の口角だけを上げて、皮肉っぽく笑った。
「言ったじゃん。私、家族との折り合いが悪いんだって。どうせ帰らないつもりだったから」
気が付くと、外の景色はクリスマスで。
美帆は、イブのことをすっかり忘れているみたいだけど……
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