第23話 尊文との床屋

帰宅後、勇一は気乗りしないまま床屋に向かった。店内に入ると、そこには尊文が先客として髪を切っていた。彼は一目で勇一の事情を察し、「また丸刈りにしに来たのか」と皮肉たっぷりに吐き捨てた。


そんな彼の言葉に、勇一の心は更に深く傷ついた。初めてバリカンをあてられたとき、それは確かに、あの時の自分なりに、自分の意志で決めた散髪だった。しかし今、ここにいる理由は、自分の意志ではなく、望まぬ校則によって定められた「作業」だったのだ。


その事実に、彼は痛烈に打ちのめされた。その苦しみは、ただ髪を切るのが嫌だというだけではない。それは、自己決定権の一部を奪われ、自分の意志であるべき散髪のタイミングさえも制御されることへの無力感でもあった。その現実に直面し、勇一の心は少しずつ蝕まれていくような感覚に襲われた。


「3ミリでお願いします」と、一言だけで注文が終わった勇一。それを隣で聞いていた尊文は、「楽でいいな」と笑い、さらに勇一を茶化した。尊文は「襟足をもう少し短く、もみあげはこれくらいに…」と、美容師に詳細な指示を出し続けていた。


それを見た勇一は、心から落胆した。それまで勇一が床屋で注文したことと言えば、「伸びた分を切ってください」くらいだ。前髪をどうしようか、襟足はどれくらいの長さがいいかなどと考える余裕など、一切なかった。だが今、そうした悩みすらも彼からは奪われてしまっていた。


勇一は、小学校の頃にもっと髪の毛を楽しんでおけばよかったと、後悔した。尊文がしているその一連の行為は、自分にとってはもう関わりのない世界のことだ。この先3年間、自分が前髪や襟足といったものを持つことができないという現実に、勇一の心は押し潰されるような感覚に襲われた。


バリカンの響きが、勇一のやっと伸びた髪を容赦なく刈り取っていく。毛束が一つ、また一つと落ちていく。カットクロスがザラザラと音を立てるたび、彼の胸は引き裂かれるようだった。


尊文はその様子を横目で見ていた。「うわ、すげえな」と、他人事のように口にした彼の言葉は、勇一の心を一層えぐった。髪の毛は、尊文にとっては、伸びてきたら鬱陶しく、切って捨てるものであったが、勇一にとってはそのたった1センチの髪が、自分の存在の全てであった。


勇一の散髪は尊文よりも早く終わった。尊文はまだ美容師と髪型の微調整について話し合いながら椅子に座っていたが、勇一の丸刈りはあっという間に完了だ。尊文より後に床屋に来たのに、その事実に、勇一の心はさらに重く沈んだ。


3ミリに刈りそろえられた頭で会計をする勇一に、尊文は最後まで「早いね、羨ましいよ」などと皮肉な言葉を飛ばしてきた。勇一は、そんな尊文の清潔に整えられた髪の毛を見るたびに、自分の自由が奪われているという現実を突きつけられた。


尊文の言葉を背中に感じつつ、勇一は重い足取りで床屋を出た。街の喧噪が彼の耳に入ってきたが、その中に彼自身の存在が消えてしまったような気がした。3年間、この日が何度も繰り返されると思うと、彼の心は深い絶望に包まれた。

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