風邪には消化のよいものを②
電話をしてから数十分ほどで、インターホンが来客を告げた。紫音は誰かを確認する間もなく、急いで扉を開けた。
スーツ姿の男性が、額にうっすらと汗を浮かべていた。短めに切り揃えられた髪と銀縁の眼鏡は清潔感を感じさせ、手にはずしりと重たそうな革の鞄を提げている。あまり知られていないが、ドクターバッグと呼ばれるものだ。
「……久しぶり、父さん」
「急に呼び出されたから何事かと思ったよ。話は後で聞く、今は先に要件を済ませよう」
「ごめん、忙しい時に」
申し訳なさそうに俯く紫音に、父親の早見
「そこは、ありがとうって言うところだよ。一人娘がピンチの時に、
「……ありがと」
「うん、それでよし」
一樹は満足気に頷くと、直ぐに栞の眠る寝室へと向かった。
すれ違った時に数年ぶりに感じたコロンの香りに、どこか安心感を覚えた。
寝室で一樹は簡単な診察を済ませると、聴診器をカバンにしまって側で見守っていた紫音に落ち着くよう促した。
「風邪だね。多分、季節の変わり目とかのストレスで悪化したんだろう。薬は病院で子供用のを貰ってきたからそれを飲めばいい」
「そっか、良かった……」
紫音は緊張の糸が切れたように、座り込んで安堵のため息を漏らした。なんだかずっと気を張っていたせいか、ここにきて疲れがどっと押し寄せて心身共に疲労が凄まじい。
「それより、この子は誰なんだい?」
「あー……えっと、何で説明すればいいのか……」
「ゆっくりでいいよ」
「じゃあ―…」
それから紫音は、栞のことを話した。倒れていたのを介抱して、自宅に居候させていたこと。この世界の住人ではないことも、全て包み隠さず話した。
始めはポカンとしていた一樹も、巨大な卵の殻や、異色の果実を見せれば徐々に信用していったようだった。
「……こんな事、信じてくれってほうが難しいとは思ってるけどね」
「いや、信じるさ。紫音が今まで僕に嘘をついた事なんてないだろう」
「まぁ、そうだけど……」
あっさり肯定をされて少しばかり拍子抜けだった。病院勤務で毎日たくさんの患者の話を聞いているせいか、その物腰は柔らかく疑ってる様子は一切ない。
「それに電話の時の声を聞けば、君が必死にこの子を助けようとしているのは伝わった。僕はもう帰るけど、あとは大丈夫そうかな?」
「うん。本当に助かった」
「お役に立てたようで何よりだ」
一樹は優しい笑みを見せると、手早く帰りの支度を始めた。これから深夜まで、また病院で仕事にあたるのだろう。スーツの背中は少し皺が目立った。
「じゃあ、また」
「……父さん」
別れ際、紫音は一樹を呼び止めながらも極まりが悪そうに視線を落とした。
「なんだい?」
「あの人は……その、元気?」
紫音の脳裏に蘇る、厳格な雰囲気を纏った後ろ姿。あまり良い思い出はないが、高校卒業と同時に実家を出て以来、連絡の1つもしていないので少しばかり気になっていた人だ。
あの人と言われ、一樹は少し目を見開いてから、可笑しそうに笑った。
突然の笑いに首を傾げる紫音に、一樹は『すまない』と言いつつ小さく頷いた。
「母さんのことかい?心配ないよ、むしろ元気すぎるくらいかな」
「……そう」
「いつでも帰ってきなさい。あの子も一緒にね」
そう言って一樹は、足早に病院へと戻っていった。
病院へ戻るタクシーを待つ間、エントランスで一樹は私用のスマホを取り出し電話をかけた。
『はい』
数コールの後に出たのは、凛とした無機質な声。感情の一切がこもっていない、ただの応答のようだった。
「僕だ。今から病院に戻るから、帰りは深夜になりそうだ」
『そうですか』
電話の相手は相変わらず、相槌を打つだけでそれ以外の言葉はない。彼女は少しお堅いのだ。
「先に寝ていてくれるかい?夜食も向こうで済ませる予定だし」
『大丈夫です。作り置きがありますし、まだ…………眠くありませんから』
多分、電話を離して欠伸を噛み殺したのだろう。不自然に音が飛んだが、一樹は気付かなかったフリをして礼を言った。
「じゃあ、そろそろ切るよ」
『……一樹さん』
「なんだい?」
一樹の問いに、彼女は電話の向こうでしばらく考え悩んだのか、少し間を開けてから口を開いた。
『……あの子は、その……元気そうでしたか?』
デジャブのような気がして思わず吹き出しそうになったが、何とか堪えて頷いておく。やはり家族というのは、どこか不思議な何かで繋がっているものなのだろう。
「心配ないよ。それに、今は彼女が側にいるから問題ないと思うよ」
『……?何の話でしょうか?』
「今度話すよ。じゃあ、また後で」
まだ迎えが来るまで数分ほどある。一樹はスマホをしまうと、代わりに鞄から一冊の小説を取り出した。話題の小説家の過去作は、読書家の彼のお気に入りの一冊だ。
(はしおみんや……アナグラムにしては中々良い名前だ)
注目の新人作家の娘は自分の職業を家族に名言しないが、どうやら父親には既に露見しているようだった。
夢を見ていた―。
記憶にあるのは、夜の冷えた空気で氷のように冷たくなった床と、自分を閉じ込める古びた柵。
手足は重たい
いたるところから暗闇の中を、生き物の苦しそうなうめき声や叫び声が聞こえてくる。そんなことを気に掛ける気力も興味ない自分には、至極どうでも良い事だが。
「……………………」
吐いた息が白く、指先の感覚が消えかかっていた。かろうじて熱を残していた胸の内も、芯の方から冷めていくのが分かった。
最後に食べたのは何だったか。確か檻の隅で凍っていた、
視界が霞み、焦点が合わなくなってきた。先ほどまで聞こえていた声も聞こえないということは、恐らく皆眠ってしまったのか、それとも自分の聴覚が正常に機能していないのか。
どちらにせよ、自分ももう遅くはないはずだ。
「………………たぃ」
最後に溢れた言葉は何だったか。
知ることもなく少女は静かに目を閉じた
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