風邪には消化の良いものを
「意外と綺麗に映るのね」
スマホの画面には、床に座って絵本を読む栞の姿が映っている。撮影元は、リビングのテレビ台に置かれているドッグカメラというAI搭載の監視カメラだ。
今日は午前中だけ研究室にいる予定だが、その間、栞は1人で留守番をしなければならない。一応、ネットのイラストで最低限の禁止事項―『玄関を開けない、コンロに近づかない』などは教えたが、それでも不安は残る。
そこで買ったのが、この外出中でもペットを見守れるというカメラだ。これがあれば研究室にいても部屋の様子が確認できるし、会話機能も付いている。通販で三万円ほどしたが、留守中の様子を伺うには最適だった。
「昼過ぎには帰ってくるけど、お腹空いたら机の上のお菓子食べていいからね」
「………………………」
「ちょっと、聞いてる?」
栞は窓の外をぼーっと、この家に来たばかりの時のように虚な目で眺めている。今日はやけに眠たげな表情で、会話が噛み合いにくい気がした。
「栞」
「…………………ん」
再度呼び掛ければ、彼女は小さく頷いて再び絵本に視線を落とした。
何か違和感を覚えたが、カメラの設置で時間が押している。紫音はヘルメットを掴むと、足早に駐車場へと向かった。
日が傾き始めた頃、紫音は腕時計を見て大きくため息を漏らした。ゆっくり1階へと向かうエレベーターに、若干の苛立ちを覚える。
(……2時間もオーバーしてしまった)
実験は昼前に終わると予想していたが、計画が大きくずれて終了が大幅に遅れてしまった。
途中で何度もスマホの画面を気にかけていたせいか、序盤の方で初歩的なミスをしてしまい、理論値と実測値が合わなくなったのだ。
それに加えて、機材や部屋の清掃などもあり昼食を取ることも出来ず、空腹で苛立ちが収まる気配がない。
だがそれ以上に腹立たしいのは、栞に昼に帰ると言ったのに、約束を守らなかった自分自身だ。こんな事なら、作り置きの1つでもしておけば良かったと後悔した。
「ん?いないな……」
バイクに乗る前にアプリを起動したが、リビングに栞の姿がない。絵本が広げられぬいぐるみが置き去りにされたままで、それ以外に特に変わった様子はなかった。
(トイレでも行ってるのかな)
その時は特に気にする事なく、紫音は自宅へとバイクを走らせた。
マンションの廊下を駆け足で、ポケットのキーケースを取り出す。早くご飯を作ってやらねば、きっと栞もお腹を空かせているはずだ。焦る気持ちからか、エレベーターのボタンを何度も押していた。
そして急いで玄関扉を開け、靴を脱ごうとした時だった。空いたトイレのドアの前で、栞が倒れ込んでいるのが眼に映った。初めて会った日の記憶が蘇り、一瞬体が動かなかった。
「栞!」
靴を脱ぐのも忘れ、慌てて駆け寄り少女の小さい体を抱える。
「熱っ!」
触れた途端わかったが、明らかに熱があった。測るまでもない、異常な程の高熱で40℃をはるかに超えている。それに汗もたくさんかいたのか、服がびっしょりと濡れていた。
「まさか、あの時から……!」
短い呼吸をする栞の様子に、紫音は今朝の様子を思い出した。不自然な反応をしていたが、朝から体調が優れなかったのだろう。
朝気づいていれば、もっと早く帰っていれば―。そんな後悔が頭をよぎるが、今はそんなことを考えている場合ではない。最優先は栞の看病だ。
「病院、えっと……」
だが財布から診察券を取り出そうとしたところで、紫音はあることに気づいた。診察券だけではない、栞には保険証がないのだ。
当然と言えば当然なのだが、栞はおそらく別世界から来た人間。戸籍なんてあるはずもないし、身分証の類も一切ない。特別に身分証がなくても受診はできるが、それは氏名や生年月日がわかる人に限るのだ。
そうなれば病院で診てもらえるはずもなく、このまままでは死んでしまう可能性もある。物置部屋に風邪薬はあるが、子供用の成分が控えめなモノは買っていなかった。
「どうすれば……」
救急車を呼んで、後で病院に何と説明をすればいいのか。最悪、誘拐犯と疑われて警察沙汰になる事も考えられる。
しかし今は一刻を争う。全ては自分の失態が招いた結果だと、紫音は覚悟を決めた。
そして深呼吸をして自分を落ち着かせ、緊急電話をかけようとした。
「あ……」
そこでふと、連絡先の中に見知った名前があるのに気が付いた。幸か不幸か、交友関係が狭いおかげで連絡先は数えられる程しかなく、その人物の名前はスクロールせずとも表示されていた。
少し躊躇われる気もしたが、紫音はすぐに連絡先を変えて電話をかけた。
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