第30話 十月七日(金)ー2 名字が見えた

 その日の放課後、どうして一緒に帰らんのと駄々をこねる美羽ちゃんを何とか言いくるめ、私は川野の部活が終わるのを教室で待った。いちど、廊下の窓から弓道場を見てみた。二十人くらいの生徒たちが袴を身につけて順番に行射していた。賑やかな射場は早朝のそれとはまったく別物に見えた。弓道部員でひしめく射場には、どんなに目を凝らしてみても、“袴の彼”の姿は見えなかった。


「はいはい、お待たせー。何? 話って?」

 部活を終え、着替えた川野が息を切らして教室に入ってきたのは、十八時少し前だった。 

「名前が分かったの!」

「は? 名前?」

「例の、“袴の彼”の」

「あー、あの幽霊男」

「幽霊って、やめて。あんなにはっきり見えるんだから、幽霊じゃないと思う」

「だって、俺には見えんかったんやで。それで、なんて名前だったん? 本人に尋ねてみたん?」

「茶かすのも止めてよ。袴に刺繍しているのが見えたの。小学生の『小』に嫡嗣の『嗣』っていう漢字が書かれてた」


 私は指で机に大きく書いて見せた。


「……それ、コツギって読むんだわ」

「コツギ? 変わった名字ね」

「うん、かなり珍しい名字。実はうちの父ちゃんの旧姓なん。あ、父ちゃん、婿養子やけえ、川野って、母ちゃんの名字な。変わってるもなにも、父ちゃんの親戚以外に、ほとんどその名字はないって聞いとるわ」

「そうなの?! ねえ、お父さんと話できないかな? 絶対、お父さん、何か知ってると思うの」

「うーん、そうなあ」


 川野は気乗りしない様子だったが、私が食い入るように見つめているのに気づくと、諦めて言った。


「じゃあ、父ちゃんに言ってみるわ。弓道部の昔話を聞きたいって言いよる同級生がおるっち話しちょったらいい? 来週あたりのどこかで、うちに来る?」

「今日はだめ?」

 川野は慌てて手を振った。

「待って待って、片付ける暇がねえけん、今日はだめ!」

「ごめん、そうだね。じゃあ、そっちの都合の良い日でよいから、決まったら教えてね」


 川野はほっとした様子で笑った。


「はいはい、聞いとくわ」

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