第26話 九月二十九日(木)ー4 ソックスレー

 あれは、二学期が始まって――つまり、私が転入してから――十日目のことだった。放課後、図書館で本を借りて帰宅しようとしていたら、ちょうど担任の小野先生が職員室から出てきた。いつものよれよれの白衣を引っかけて、プリント、アルミフォイルやラップの箱、それに試薬瓶、ガラスの小瓶、プラスチックスポイトなどでいっぱいの黄色の買い物バスケットを両手に下げ、小脇にノートを数冊抱えている。


「あ、﨑里、今から帰りか?」

「はい。……あ、先生、それ、もしかして理科室に持っていくんですか? 手伝いましょうか?」

 そう言うと、先生は、お、助かるわ、じゃあ、と左手から黄色のバスケットを差し出した。


 第二理科実験室に着くと、先生は電気をつけ、荷物をホワイトボード前の教員用実験台に置いた。理科実験室に来るのは、転入してすぐの案内を含めて、まだこれで二回目だった。


「ありがとうの、﨑里。でも、ちょうどよかったわ。ちょっと話があったんよ」

「話?」

「ああ、いやな、話ってほどでもないんやけど……」

 先生は照れくさそうな、心配そうな顔でこちらをのぞき込んだ。

「どうな? クラスのみんなと、うまくやれそうか?」


 私は少し微笑んで言った。


「はい、問題なくやっていけると思います。最初は緊張したけど、今ではふつうに過ごせています」

「そうかあ、それならよかったわ。何か、困ったこととか、気になることがあったら、すぐに言ってこいな?」

「はい、ありがとうございます」


 そう返事をしながら、私は実験室の中をぐるりと見まわしていた。部屋の最前方にある教員用実験台以外に、学生用実験台が左右に一台ずつ四列、合計八台並んでいる。私たちが入ってきた、教室の一番後方の扉の脇には、大きめの流しとガラス器具の風燥棚、器具乾燥用のオーブンがあった。正面のホワイトボードの左脇には準備室と書かれた扉がある。おそらく、試薬や大型の実験器具はその奥にしまわれているのだろう。私があちこち見回しているのに気づいた小野先生が言った。


「﨑里は、化学、好きか?」

「はい。中学校の時は、理科クラブに入っていました。」

「おお、そうな! どげんこと、やっとったん?」

「浮力の実験とか、過冷却の実験とか。あと、みょうばんの結晶を作ったり、水溶液の色と濃度の関係を調べる実験とかもやりました」

「へえ、結構高度なことをやっとったんやな。面白かったか?」

「はい。特に、ガラス器具を使うのが、とてもわくわくしました。ビーカーとか、メスフラスコとか、ピペットとか。お父さんに頼んで、小さなビーカーを買ってもらったりもしました」


 小野先生が心の底から嬉しそうに笑った。


「そうよな、俺もさ、最初はそれやった。ビーカーに水を入れてアルコールランプで熱したり、酸化銀の入った試験管をバーナーで加熱したり、そんな、ちょっとしたことが無性に面白くってなあ。ああ、でも、俺が一番驚いたんはソックスレーや。知っとるか?」

 小野先生は子供のような笑顔になって、尋ねた。

「知りません」

 先生はさらにいたずらっぽい顔になって、

「そうか。﨑里、今少し時間あるか?」

「はい」

「じゃ、ちょっと待っとれ」


 そう言い残して準備室に入っていったかと思うと、普段実験で使うガラス器具より一段複雑なガラス器具をいくつか運び出してきた。円筒形のガラス器具がふたつ、それに丸底フラスコがひとつ。


「これがな、ソックスレー抽出器っていうんや。抽出器っていう名前からわかるように、何かから成分を抽出するのに使う装置なんやけど、これが良くできとるん」


 そう言いながら、丸底フラスコの上に二つの円筒形のガラス器具を縦に組み上げてスタンドに固定すると、一番上の円筒から出ている細いガラス管と流しの蛇口をゴムチューブでつないだ。


「ほら、パーツが縦に三段重ねになっとるん、わかるな? 一番下が丸底フラスコ、その上が抽出管、さらにその上が冷却管な。最初に真ん中の抽出管にサンプルを入れる。それから一番下の丸底フラスコに抽出する液体を入れ、一番上の冷却管に水道水を流して冷やしておく。そうしておいて、この丸底フラスコを暖めてやると、液体が沸騰して蒸気が出てくる。それが一番上の冷却管に入ると、冷やされてしずくになって、真ん中の抽出管にぽたぽた落ちる。この液体で抽出管の中のサンプルの成分が抽出されるんやけど、口でこげん言っても想像できんやろ? 百聞は一見に如かずや、まあ、見とれ」


 冷却用の水道の蛇口を開けると、液体を入れた丸底フラスコを温め始めた。それから繰り広げられた光景を私は一生忘れないだろう。


 加熱された丸底フラスコの中でぽこぽこと液体が沸騰しはじめた。そこから、さかんに蒸気が上っていく。それが冷却管に達すると、結露し、液滴となって、抽出管の中にぽたり、ぽたりと落ちはじめた。落ちたしずくの分だけ、抽出管の水位は上っていく。


「へえ、砂時計みたいですね!」

「そうやな」


 時を凝縮させたようなしずくは一定のリズムを刻みながら水面を叩き、よどみなく水位を上げ続け、それに目を凝らして見ていた次の瞬間、たまっていた液体は、抽出管の脇についていた細いガラス管を通って、一気に、どう、と丸底フラスコに流れ落ちた。液体は何事もなかったかのように元の丸底フラスコにたまっている。素晴らしいダイナミクスに私は息をのんだ。休みなく凝集しては落下するしずくが、再び抽出管の水面を上げはじめている。


「え……先生、これ、すごい! どうして? どうして抽出管から液が勝手に出ていったんですか?!」


 小野先生は私の表情をみて、満足げに笑い、


「な、見事やろ? 電気も使わず、加熱と冷却だけで、いつまでもこれが繰り返されるんや。これな、サイフォンの原理の応用なんよ。抽出管についとるU字をひっくり返したようなこの細い管が、サイフォンになっとるん」


「サイフォンの原理?」


「うん、サイフォンの原理っていうんはな、例えば、高い位置に置いた水の入ったコップから低い位置に置いた空のコップにチューブで水を流そうとするとき、チューブの中が完全に水で満たされてさえいれば、チューブの途中に出発地点より高い地点があっても自動的に流れ続ける仕組みのことなん。このサイフォン管がついているおかげで、ソックスレー抽出器を使うと、常に新しい溶媒がしずくとして供給されては流れ出て、また供給されては流れ出てを繰り返すんやわ。美しいよな。これに魅せられて、俺は化学の道を目指したって言っても過言やない」


「でも先生、その原理って、化学なんですか? どっちかっていうと、物理なんじゃないんですか?」


 先生は愛嬌のある顔をくしゃりとゆがめて苦笑した。


「﨑里、お前、いいな、その冷静なとこ。そうやな、原理自体は物理かな、物理化学かな。でも、この装置は、化学分野でよく使うものなんよ。今回は抽出器になにも入れとらんけど、もし見てみたかったら、次回、何かサンプルを入れて、実際に抽出して見せるぞ」


 私はもちろん、お願いしますと答えた。

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