第13話 七月   挑戦(challenge)  4

 蒼乃は大きく深呼吸すると、左手のレバーを握りクラッチを切る。

 マニュアルバイクの仕様は右半身と左半身で完全に分業されている。右手右足はバイクの制動に使い、左手と左足はバイクの走行に使用する。

 今蒼乃が行おうとしてるのは発進だから、使うのは左半身だ。

 蒼乃はクラッチを切ったまま今度は左足でシフトペダルを踏むと、カチャと軽い音と立ててギヤがニュートラルから一速へ落ち、ニュートラルランプが消灯する。

 これで発進の準備ができたことになるのだが、これでクラッチを離してスロットルを開けて発進が終わるなら、誰も苦労はしないし、そもそも発進で心が折れることなどない。

 発進するにはクラッチを、半クラッチ――通称半クラと言う状態にする必要があるのだ。

 半クラで発進しないと、バイクはそのままエンストする。

 蒼乃の見た動画では、大排気量の最新バイクなら半クラなど関係なしに発進できる物もあったが、生憎あいにくNS-1は最小排気量の上旧式バイクだ。半クラができなければ、百パーセントエンストするのは間違いない。

 だがこの半クラ操作こそが、難関なんかんだった。

 蒼乃はスロットルをそっと回してエンジンの回転をあげた。

 エンジンの回転の目安は四千回転以上。一見するとずいぶん高いように見えるが、これはエンジンが二ストのせいだ。

 スロットルの開きに応じてエンジン内で起きる高速の連続爆発に、消音器サイレンサーからも流れるように排気煙白煙があふれ出した。

 バイクが走っていれば問題はないだろうが、さすがに停車した状態だと白い排気煙もすぐには拡散しない。

 迷惑にならないためにも、からぶかしを思わせるような行為はつつしんだほうがいい。それにはエンストさせないように、スムーズに発進するのが第一だ。

 蒼乃は一応急発進に備えて右足のブレーキペダルを踏んだまま息を止めると、慎重にクラッチレバーを握る手をゆるめた。

 半クラッチと言うからには、クラッチを半分ゆるめたあたりにあるのだろう。ネットの情報では、エンジンの音がわずかに小さくなる場所が半クラの位置と言うとこだった。

「え? ……え? ……ええ?」

 そろそろとクラッチレバーを離していた蒼乃だが、思わず妙な声をあげた。すでにクラッチレバーの解放は半分を過ぎている。それなのにNS-1に変化はまったくない。エンジンの音も、変化しているようには聞こえない。

「うそ? 半クラって、どこよ!」

 思わず口から出た声に、フェイスシールドが一瞬くもる。そしてその声と共に、NS-1は大きく揺れてエンストした。

 蒼乃は半クラにできないままに、クラッチレバーを解放してしまったのだ。蒼乃はすぐさまクラッチを握り直すと、ペダルをキックしてエンジンを再始動させた。

 そして再び半クラの位置を掴もうとするが、今度はクラッチに注意を向けすぎた結果、スロットルワークがおろそかになりエンジンの回転が四千を簡単に飛び越える。特に二ストはエンジンの回転の上がり方が過激ピーキーだ。

 エンジンの音が小さくなる一瞬を捕らえようとしていた蒼乃は、まったく逆の突如とつじょ上がった爆音に驚き、その瞬間またもエンストさせた。

「お、おのれ……」

 蒼乃は思わずくやしさの混じったつぶやきをもらしてうつむくが、それでも分かったことがある。

 四千回転で半クラとあったが、まず四千回転を維持いじするのが難しい。スロットルの開度かいどとエンジンの回転数は同調していないのだ。スロットルを大きくひねれば短時間で回転は上昇し、小さくひねれば長時間かけて上昇していく。回転を一定に保つには、常に閉じたり開いたり適切な開度かいどを求められる。

 その状態で左手で半クラの位置を探らなくてはならない。

「とにかく、現状私ではエンジンの音は役に立たない」

 蒼乃は顔を上げると、つぶやいた。そもそもヘルメットをかぶっている時点で、聞いたこともない音を聞き分けることなど蒼乃には不可能だ。音に集中すればするほど、手の動きがおろそかになり、結局は聞きたい音が聞こえない。

 蒼乃はこの三週間調べたことを思い返すと、音以外に半クラを見分ける方法があったことを思いだした。

「そう言えば回転計でも、半クラが分かるってあったわね」

 クラッチはエンジンの回転を動力に伝達するための機構だ。クラッチがつながれば動力が伝わり、切れれば動力は伝わらない。エンジンそのものをオン、オフできない以上、動力の伝達を切ることでオン、オフの状態を作り出している。

 つまりオフの時はエンジンはフリーで回転しているが、オンになると動力を伝えるための抵抗が生まれる。抵抗が生まれれば、当然エンジンの回転は下がることになる。

 スロットルの開度かいどが変わらなければ、エンジンの回転は上がり続ける。その状態で回転が下がれば、そこでは何かしらエンジンの回転に抵抗がかかっていると言うことになる。そこが半クラの位置と言うことだ。

 この方法なら聞いたこともない、半クラのエンジン音を聞き分けるよりも簡単だろう。何しろ使うのは視覚なだけに、まさに一目瞭然いちもくりょうぜんと言う訳だ。

 だが回転計を見ながら操作すると言うことは、前方不注意と言うことでもある。特に発進の際などは急な飛び出しなど危険な場合があるので、あんつつしめともネットにはあった。

蒼乃はちょっと考えると、キックペダルを踏み込んでエンジンをかけ直した。

 ここは公道ではない。潰れたファミレスの駐車場だ。前方にも後方にも注意しなくてはならないものなどない。そして今の蒼乃の目的な発進することではなく、半クラを掴むことだ。

 蒼乃は回転計を凝視ぎょうしして回転を四千に保ちながら、ゆっくりとクラッチを開放していく。

「……四分の一……半分ハーフ……ここまでは変化ナシ」

 クラッチレバーを開放してるにもかかわらず、回転計の針は四千前後で踊り、特別な変化はない。少なくても半クラは、半クラと言う言葉通りの位置にはないことが分かった。

「するとこの先……四分の三? え? まだ先なの?」

 蒼乃はレバーを開放する手を止めると、自分の左手を見た。レバーを握っていたはずの蒼乃の左手は八〇パーセント近く開いている。だが回転計の動きに変化はない。

「これ、もしかして、全然半クラッチじゃないんじゃない? 半クラ位置って、なんなのよ!」

 蒼乃は思わずヘルメットの中で毒づいた。もしかして自分の見誤みあやまりで半クラを見逃したのだろうか? でもそれならクラッチがつながってしまうはずだから、エンストしているはずだ。

 だが回転計は右手の開閉に合わせて、普通に四千回転前後で回っている。

 つまり半クラ位置は、まだこの先にある、と言うことだ。

 蒼乃は覚悟を決めると、奥歯を噛み締めてさらにゆっくりとレバーを離していく。実際手をこんな状態で保持し続けるのは、かなり苦痛だ。正直やめたくなる。

 基本手と言うのは、握るか広げるかであり、それ以外の位置でテンションをかけたまま保持じょじすると言うのは、かなり腕に負担がかかかる。特に蒼乃は女性だから、握力あくりょくもさほどある訳ではない。

 やばい……このままだと腕がりそう。

 蒼乃の脳裏にそんな心配がよぎった瞬間、回転計の針が四千から三千へふわっと落ちた。

 それを確認するなり、蒼乃はレバーを握り直し、爪先つまさきを跳ね上げてシフトをニュートラルに放り込んだ。

「やった……あそこが半クラだ……」

 蒼乃はしびれた腕を振りながら、大きく息をついた。

「ひどいなー、何が半クラよ。半分よりもはるかに遠くにあるじゃない」

 開き度で言えば八五パーセントと言った所か、指の第一関節を伸ばすか引っかけるかの範囲に、半クラと接合が存在している。これでは四分の三クラどころか二割クラだ。

「確かに半クラってゴロが良いのは分かるけど、絶対勘違かんちがいすると思うけどな」

 それとも自力でマニュアルバイクに乗ろうとしている自分がアホなのだろうか。

 蒼乃は口から出た言葉とは真逆まぎゃくの感想を心の中でつぶやくが、多分正しいのは心の声の方だろう。免許取った時の原付講習でクラッチ操作を教えないのは、そもそも原付五〇のマニュアルバイクを想定してないからだと思う。

 マニュアルに乗りたければとりあえず教習所に行け。それで原付二種原二か普通自動二輪を取ってから、マニュアルの原付五〇に乗れと言いたいに違いない。

「ま、それならそれでいいわよ。でも教習所に行かなくても、法規上NS-1は原付免許で乗れるんだから、問題ないもんね」 

 蒼乃はそう口に出すと、改めて両手でNS-1のハンドルを握ると、シフトを一速に踏み込んだ。

 そして十五分後。蒼乃の跨がったNS-1は未だ一メートルと進んでいなかった。

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