第12話 七月   挑戦(challenge)  3

 夏休みを三日後に控えた七月十八日の午前九時。蒼乃はNS-1を家から二〇〇メートルほど離れた潰れたファミレスの駐車場まで押してくると、大きく肩で息をついた。

 NS-1の乾燥重量かんそうじゅうりょうは九二キロだが、現実にはオイルやガソリン、ラジエター液などを搭載するので、装備重量そうびじゅうりょう一〇〇キロを優に超える。女性の蒼乃には十分すぎる重さだ。

「あちー、あーキツかった」

 蒼乃は額の汗をぬぐうと、早速さっそく背負っていたバックパックの中からペットボトルを取り出すと、口をつけた。

 慶華女学院の終業式は明後日だ。テスト講評の後、美弥や祈に免許を取ったことを話した以上、次に彼女らに会うまでにはNS-1を走らせたぐらいは言ってやりたい。

 幸い慶華女学院ではテスト講評のあとの四日間は追試&補習期間であり、これに該当しない生徒は自宅学習と言う名のプレ夏休みなる。学年首席だった蒼乃は、当然追試も補習もお呼びはなく、この時間でNS-1の初乗はつのり体験を済ませておこうと思ったのだ。

 ちなみに仲間内では、この追試&補習に引っかかってたのは美弥で、昨日までやむなく蒼乃は、祈と二人で美弥の追試対策につきあっていた。

 蒼乃はネット注文したバイク手袋グローブが届くまですることもなかったから、美弥の勉強を見るのは当然と思っていたのだが、祈もつきあいが良いのか、美弥の「イノりんは追試みやあの仲間だと思っていたのに~! この裏切り者!」と言う弾劾だんがいを受けながらも、美弥の勉強場所に自分の実家を提供してくれた。

 もっとも提供した理由としては、裏切り者呼ばわりした美弥を監禁かんきんしてイジりまわしていじめるため、と言うのはいなめないが。

 そこで蒼乃は初めて祈の家をおとずれたのだが、祈の家は江戸時代から続く造り酒屋で、蒼乃は東京にも造り酒屋があることに驚いた。

 酒と言えば必要なのは良質の水と米だ。そんな両者が首都東京にあるとは思いもしなかったが、祈の説明では、江戸が百万の人口を支えることができたのは、水資源が豊かだったからであり、材料の酒米さかまいも流通が発達した現在、日本各地から好みものを取り寄せることが可能なのだと言う。

 ただ祈の実家は、造り酒屋としての規模きぼはあまり大きくなく、品評会ひんぴょうかいなどで賞を取ったこともなければ、販路はんろも小さいので、ほとんど地元で消費されるただの地酒じざけだそうだ。

 だが商売柄しょうばいがら家だけは広いので三人そろって勉強するにはもってこいで、蒼乃はその祈の家に自転車で訪れたのだが、祈にはNS-1に乗って来なかったのを残念がられた。

 祈が場所を提供したのは、家が広く容赦ようしゃなく美弥を監禁かんきんできると言うこともあったのだろうが、同時に蒼乃のNS-1を実際に見れるかもと言う打算も働いていたようだ。

 とは言え、NS-1にまたがっただけで発進の経験もない蒼乃が、実地練習じっちれんしゅうもせずにNS-1をころがすのは無謀むぼう以外の何ものでもない。

 その時蒼乃は曖昧あいまい誤魔化ごまかしたが、せっかく免許も取ったんだし乗るためのバイクNS-1も手元にあるのだから、もっと積極的に乗ってみても良いはずだ。

 明後日の終業式で顔を合わせた時に、せめて公道デビューくらいは果たしておかないと、ただでさえ薄い胸を張ることもできない。

「まずは難関なんかんの発進ね……」

 蒼乃は半分ほど飲んだペットボトルをパイロン代わりに駐車場に置くと、その反対側三〇メートルほどの所にこっちは新品のペットボトルを置く。

 このファミレスが潰れたのが二年前。それ以来いらい新しい店舗てんぽも入らず、駐車場も荒れるまま放置されているので練習場としては申し分ない。

「それにしても暑いなぁ。今日あたり、梅雨つゆ明けしそうね」

 例年梅雨つゆ明けは七月下旬だから、時期的にはいつ梅雨つゆが明けてもおかしくはない。空はピーカンで、時刻は九時回ったところだが、すぐに三〇度を突破とっぱするだろう。

 蒼乃とすればもっと涼しく、早い時間に練習を始めたかったのだが、あまり早い時間だとバイクの音がうるさいだろうと遠慮えんりょしたのだ。何しろ蒼乃は駐車場を練習で走り回るつもりなのだから、近所の人にすれば、いつまでもエンジンの音が聞こえていることになる。

 しかもNS-1は二スト五〇。お世辞せじにも消音しょうおんに気を使ってるバイクではない。

 蒼乃はキーシリンダーからキーを抜くと、そのキーでNS-1のメットインボックスを開いた。

 これはNS-1の特徴にもなってる機構だが、NS-1は本来シート前部にあるガソリンタンク部分がヘルメットを収納できるメットインと言う名の荷物入れラゲッジスペースになっている。

 日本の全バイクと比べても、NS-1に匹敵ひってきする収納スペースを持っている車体はそうはないだろう。この事実からも製造したホンダ陣が、NS-1をただの原付バイクで終わらせることをいさぎよしとしなかったことを理解することができる。

 メットインの容量は二七リットル。これだけの空間が用意されていれば、日常の買い物程度なら収納ラゲッジスペースとして十分だし、近場のツーリング程度なら全ての荷物をこのメットインに収納することができる。

 ちなみに現在蒼乃がこのメットインに入れているのは、赤いジエットタイプのバイク用ヘルメットだった。

 NS-1の所有を決意した以上、蒼乃自身NS-1について知らなくてはならない。その過程でNS-1のメットインを開くのは当然の流れだ。

 そしてメットインを開けてみたら、そこに収まっていたのがこの赤いジエットタイプのヘルメットだった。

 NS-1が兄のものだったことを考えれば、このヘルメットも兄の物なのだろうと考えた蒼乃は、幸いサイズにも問題なかったため自分で使うことにした。先日祈にヘルメットはなんとかなると言ったのは、これが理由だ。

 祈はヘルメットをかぶり、顎紐ストラツプを止めるとそっとメットインボックスを閉じる。NS-1のメットインボックスは外装と同様にプラスチック製なので、車のように勢いよく閉めると破損はそんする恐れがある。

 蒼乃はメットインがしっかり閉じてるのを確認すると、キーを再びキーシリンダーに挿し直し、NS-1にまたがった。

「さて、まずはエンジンをかけないとね」

 蒼乃はそうつぶやくと、緊張で乾く唇を舌で湿らせた。一度はうまくいったエンジン始動だが、あれからエンジンをかけてはいない。

 蒼乃はチョークを引いて混合気こんごうきくすると、キックペダルに足をかけ上死点じょうしてんを探る。

 ネットの情報だが、二ストの場合長い間エンジンをかけないと潤滑じゅんかつのためのエンジンオイルが下部に下がって、エンジンのかかりが悪くなるらしい。

 とは言え具体的な対策などなく、かからなければかかるまでキックする、と言うのが現実のようだ。

「せーの!」

 蒼乃は気合いの声と共に、キックペダルを踏み下ろした。そして予想通りに一発でかからないが、かからなければかかるまで蹴ると言う覚悟はすでにできている。

 続けて三回ほど蹴ると、エンジンが初爆しょばくする感覚が伝わり、その瞬間蒼乃はスロットルをひねると、今度は連続した爆発と共にエンジンが覚醒かくせいし、後方に白い煙を吐き出した。

「ふー、かかったかかった」

 蒼乃がスロットルを軽く開くと、それに合わせてNS-1は後方へ真っ白い煙を吐き出す。後はエンジンが暖まり回転が落ちつくのを待って、チョークを戻せば良い。今は気温も高いし、回転もすぐに落ち着くはずだ。

「一度経験してると、余裕も生まれるなぁ」

 回転も落ちチョークを戻したNS-1にまたがったまま蒼乃は、そんなことをつぶやきつつ、どっかで見たようにスロットルを開閉かいへいする。

 チョークを引いた時は混合気こんごうきが濃かったせいで盛大に上がった白煙も、チョークを戻せば混合気こんごうきが適正になり、待機アイドリング状態では白煙はくえんもさほど目立たない。ただ必要以上に回転をあげると、その時は白煙を巻き上げる。

「大体七千より上だと、バカスカ白煙排気ガスが吐き出されるみたいね」

 と言うことは、それ以下で運用すれ回せば問題はない……はず。

 蒼乃は回転計を見ながらもらしたつぶやきに、心の中で答えるとヘルメットのフェイスシールドを下ろした。

 ここからがおそらく一番の難関なんかんの発進だ。一応原付免許を取った時に講習を受けたが、NS-1は講習会で乗ったスクーターとは別物べつものだ。

 はっきり言って、原付講習で教わった走り方は全く役に立たないと言って良いだろう。

 五〇ccとは言え、NS-1は教習所で乗る本格的なバイクと基本は同じなのだ。だが日本中のどこを探しても、五〇ccのマニュアルバイクの乗り方を教えてくれる教習所は存在しない。

 本来教習所で身につける技術を、これから蒼乃は試行錯誤しこうさくごして独学どくがくで身につけなくてはならない。 

 できるのかと問われれば、分からないとしか答えようがない。

「できなければ、あきらめればいい。それだけ……」

 蒼乃は不安になる心にそう言い聞かせて、身体の緊張をほぐす。一応この三週間、ネットを検索したり動画を見たり、自分なりに勉強はしてきた。

 そこで得たのは、とにかく発進ができずに心が折れそうになる、と言う答えと、コツさえ掴めばあとは息をするのと同じと言う、両極端りょうきょくたんな答えだった。

 こう言う両極端りょうきょくたんな答えが見受けられた時、蒼乃の経験では理屈の中に答えがあるのではなく、実践じっせんの中に答えがある場合が多い。

「百の理屈より一の経験。下手の考え休むに似たり……だもんね。素人しろうと初心者の私があれこれ考えても無駄なだけよ」

 何をどうしたからと言って、いきなり百キロのスピードで走り出すはずもないし、ひっくり返りもしない。おきるのはエンジンが止まるだけと、ネットにも書いてあった。

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