第14話 七月   挑戦(challenge)  5

「……もう……なんで……何で発進しないのよ……」

 七月の青空の下、日陰一つない潰れたファミレスの駐車場でひたすらエンストを繰り返すNS-1。そのたびに蒼乃はペダルをキックして、エンジンをかけ直す。

 一体これを何度繰り返しただろう。もう蒼乃自身数えていない。午前中とは言え七月の太陽が容赦なく降り注ぎ、セミもこれでもかと鳴き出しているので、気温はすでに三〇度を超えているだろう。

 暑さと疲労と絶望から蒼乃の背筋は丸くなり、全身を流れる汗で服が身体に張り付いて気持ちが悪い。

 さすがにここまでくると蒼乃にも一連の流れが分かっているので、エンストしてもいちいちシフトをニュートラルに戻していない。一速に入れたままクラッチを切ってエンジンをかけ直している。

 そしてエンジンがかかればその後は回転計を凝視ぎょうしして、回転計の針が落ちたところでフットブレーキの開放と同時にクラッチをつないで、次の瞬間エンストする。

 ひたすらこれの繰り返しだ。本来回転計を凝視ぎょうしするなど完全に前方不注意なのだが、そんな事実は最早もはや蒼乃の頭の中から、夏の日射しにあぶられて綺麗きれいさっぱり蒸発していた。

 はっきり言って、もう蒼乃の心はバッキバキに折れていると言ってもいい。エンストさせるたびに、自分には無理なんだ、あきらめようと心の中で叫んでいる。

 それなのにエンストするたびに身体が勝手にキックペダルを下ろして、ペダルを踏み込んでいるのはなぜなのだろう?

 兄の形見だから? 乗りたいから? くやしいから? 負けたくないから?

 そんな感情はは何一つない。別に自分はこのバイクに遺恨いこんも何もない。確かに兄と言う存在が自分の心をめているのは事実だが、それは何もこのバイクを通さなくてはならないものではないはずだ。

「そもそも私はバイクに乗りたいなどと思ったことは一度もない!」

 暑さと疲労で、最早もはや声に出す元気も残ってない蒼乃がうつむいて口の中で叫ぶと、 汗がしずくとなってNS-1のタンクの上に降り落ちる。だが両の手はハンドルを握ったままで、なぜか足は今もキックペダルを踏んでエンジンをかけているのだ。

 そしてさらに三〇分。潰れたファミレスの玄関先の階段に座り込んで、パイロン代わりに持ってきたペットボトルのお茶を、まずそうに飲んでいる蒼乃の姿があった。

 実際真夏の日にあぶられたお茶はぬるく、飲めばむしろ汗が噴き出てくる。

「やっぱりズブの素人しろうとがミッションバイクに乗ろうって言うのが間違いだったのかな……」

 蒼乃は飲み終えたペットボトルのキャップを閉めると、手を後ろについて疲れたように空を見上げた。

 今NS-1は、ファミレスの建物に沿ってできた日陰に止めてある。

 結局NS-1を一メートルと進ませられない蒼乃だが、蒼乃自身がを上げるよりも早く、NS-1の方がを上げた。水温異常を知らせる警告灯が点灯したのだ。

 だがそれも無理はないだろう。気温はすでに三〇度を超えている。その中エンジンをかけては回転をあげ、そこでエンスト。それを繰り返せばラジエターの液温が上がるのは当然だし、液温を下げるには走ってラジエターに風を当てなくてはならない。

 パソコンで言えば、ファンを回さずにパソコンを稼働かどうさせるようなものだ。そんなことをすれば、CPUは熱暴走を起こして強制終了シヤツトダウンするに決まっている。

 警告灯ですんでいると言うことは、まだ致命的な不具合は発生してない。

 そう判断した蒼乃は、とりあえずNS-1を日陰に止めて様子を見ることにした。

「押してきて、押して帰るのか……」

 空を見上げながら、そうつぶやく蒼乃。意外なことに心にくやしいと言う気持ちはわいてこない。あるのはただの無常観むじょうかん。蒼乃はちょっと前に似た感覚を味わったことを思い出した。

「そう言えば受験に失敗した時、なんか同じような感じだったなぁ」

 あの時もくやしさや悲しさよりも、こんなものかと言う気持ちの方が強かった。

 蒼乃はあの時、受験失敗と言う事実に自分よりも周囲が動揺していたので、自分はそれに乗り損なったと考えていたのだが、もしかしたらあれが自分にとってのだったのかもしれない。

 生来せいらい蒼乃は負けん気も強くなければ対抗心もあまり強くない。人ときそうのはもっと苦手で、だからこそテストで学年主席トツプを取った時も、嬉しさよりも困惑の方がはるかに大きかった。

 蒼乃は一つ首を振ると、立ち上がった。これだけやってダメなのだから、何か根本的なところで間違えてるのかもしれない。

 そもそも三週間バイクの勉強をしたと言っても、手順を確認した後はひたすら動画を見ていたぐらいで、しかも発進の動画に使われているのは中型のバイクばかりだった。

「四〇〇と五〇じゃそもそも馬力からして違うものね。四〇〇の発進が五〇じゃ通用しないのかもしれない」

 どのみちこれから気温はどんどん上がる。警告灯がともった以上、これからはオーバーヒートの心配もしなくてはならない。

「帰ろう、そしてシャワーを浴びて忘れよう」

 蒼乃は大きく伸びをすると、腰をポンポンと叩いた。すでに着ている物は汗を吸って重く、キックのやり過ぎで足腰はガタガタなのが分かる。クラッチを握りっぱなしの左手はもう握力をほとんど感じられない。

 明日は筋肉痛になるな。そんなことを思いながら蒼乃は、かたわらに置いておいたスマホに手を伸ばした。

 スマホには蒼乃が、NS-1の液温が下がるまでの暇つぶしに見ていた動画が流れていて、その画面には一速に入れることなく半クラのままバイクを走らせるライダーが映っていた。しかも半クラの状態なら、ブレーキをかけて完全停車してもエンストしないと言っている。

 蒼乃はそれをしばらく見たあと、ため息をついた。

「四〇〇のしかもスロットルワークなんか関係なく、半クラにすれば走り出すほど馬力があればそりゃ簡単よね」

 そして苦笑を浮かべて、地面に転がっているからのペットボトルに手を伸ばそうとしてふとその手を止めた。

「……あれ? 私、今何を言った?」

 蒼乃は伸ばそうとしていた手を引っ込めると、あらためてスマホの画面を凝視ぎょうしする。

 画面の中のライダーは、半クラにしたままフットブレーキをかけたりゆるめたりしてバイクを停車、再発進を繰り返していた。

 蒼乃はそっとスマホを地面に置くと、画面の中のライダと同じように身体をトレースしてみる。すなわち左手を軽く握ったまま、右足の爪先つまさきを上げ下げする。

 その瞬間気がついた。これまで自分が繰り返してきた動きと、明らかに違っている。

「も、もしかして、コレ?」

 蒼乃はスマホをポケットに突っ込むとそのままNS-1に駆け寄った。

 警告灯がついてすぐに停車してそれからおよそ二十分。果たしてラジエターがどれだけ冷えているか分からないが、そこは祈るしかない。

 蒼乃はミラーに引っかけていたヘルメットをかぶると、ハンドルとスクリーンの間に突っ込んでおいたグラブをはめ、サイドスタンドを蹴飛ばして外し、一気にNS-1を夏空の下へと押し出した。 

 すでにうち捨てられたかのようなファミレスの駐車場は、太陽の輻射熱ふくしゃねつであぶられたフライパンのような熱気を放っている。

 そんな中蒼乃は素早くNS-1にまたがると、挿しっぱなしだったキーを回した。

「お願いだから、冷えててよ」

 蒼乃は祈るように口の中でつぶやきつつキックペダルを右足で下ろす。すでに蒼乃は今日だけでこの行程を何十回も繰り返してるので、この程度は手を使わずとも足先だけで行えるくらいに熟達じゅくたつしていた。

 そしてキック一発、エンジンは爆音と共に目覚め、その瞬間蒼乃がスロットルを開けると回転計の針は一気に六千回転まで跳ね上がる。

「よし、警告灯はつかないわね。頼むからもう少しだけつかないでよ」

 回転計の中にある水温異常を知らせる警告灯が赤く灯らないのを確認すると、蒼乃はクラッチを切ってギヤを一速に入れた。

 そして一回空ぶかし。その音を耳の奥に感じながら、左足を地面につけて蒼乃はこれまで行ってきた自分の動きと、スマホで見た動画の違和感を頭の中で比較する。

 私はとんでもなく間違っていたような気がする……。

 蒼乃は緊張のためかわずかに白く曇るフェイスシールドを気にしながら、エンジンの回転を五千まであげて半クラの位置を探る。

 そして回転計の針がふわっと四千に落ちた瞬間、クラッチレバーを握る手を固定したまま、右足で踏んでいたフットブレーキを離した。

 そのとたんブレーキのくびきから開放されたNS-1は、待ち望んでいたかのような素直さでいとも簡単にスルスルと前に進み出した。

 蒼乃は自転車に乗る時を思い浮かべ、ある程度スピードが乗ったところで左足をステップに乗せ、それに合わせそこでクラッチレバーを離すと、NS-1は何の問題もなく軽快けいかいに走り出した。

 一体これまでのエンスト地獄は何だったのか。思わず叫びたくなるほどの、それは呆気あっけない発進だ。

 蒼乃はスロットルをわずかに開けて速度を上げると、クラッチを再び握り左の爪先つまさきを跳ね上げ二速へ入れる。いったん走り出してしまえば、通常半クラッチは必要ない。シフト操作はクラッチを握って離す間に行えばいいし、それこそそのギアの適正回転値であればクラッチ操作をせずに爪先つまさきだけでギアを変えることができる。

 そして蒼乃は二速のまま目線をわずかに右へ切った。

 本来ほんらい目標のために置いてあったパイロン代わりのペットボトルは、中身を飲んでしまったためもうそこにはない。蒼乃は仮想かそうのペットボトルを脳裏に思い浮かべ、そこへめがけてNS-1をかたむけるとNS-1は蒼乃ののままにを描いて旋回せんかいする。

 そして直線。距離にしてほんの三〇メートルほどだが、それでもNS-1は自転車とは比べものにならない加速を見せると、今度は左回りにするどく旋回せんかいした。

 自転車もそうだが低速時よりも高速時の方が安定性を増す。特にバイクは自転車よりも重量が重いので、一度ふらつくと回復に時間もかかるし危険でもある。

 速く曲がろうとすれば旋回半径せんかいはんけいは大きくなって危険だし、かと言って低速で旋回せんかいすればバランスを崩して転倒する。バイクとはそう言う乗り物だ。

 蒼乃は仮想かそうのパイロン相手にくるりと一周すると、元の位置に戻りギアを二速から一速に落としてからクラッチを切ってブレーキをかけていったん停車した。

「よし……もう一回」

 そして再びエンジンの回転をあげながら半クラにすると、NS-1は苦もなく走り出す。

 蒼乃はそのまま同じ軌道きどうを描いて戻ると、さらにそれを二度ほど繰り返し、最後の一周は直線距離を長く取って三速までシフトアップ、、カーブに入る直前でクラッチを切ってシフトダウン。カーブを右手のブレーキレバーで速度調整しつつ、立ち上がりでスロットルを開いて回転をあげると、NS-1は心地ここちよく加速して元の場所へと戻ってきた。

 そこで蒼乃はスロットルをオフにすると同時にクラッチを切って一速へ。そしてNS-1が完全に停車する直前に爪先つまさきを跳ね上げてシフトをニュートラルへ入れた。

 どう言う仕組みか蒼乃にはよく分からないが、ニュートラルの位置は一速と二速の間にあるらしく、この位置へは止まるか止まらないかの超低速の時にしか入らないらしい。

 とにかくニュートラルに入れてしまえば、ハンドルから手を離しても何の問題もなくエンジンは回り続けてくれる。

 ニュートラルに入ったのを緑色にともるランプで確認した蒼乃は、手をハンドルから離すと小さく叫んだ。

「やったぞ! やった! ようやく分かったわよ! これよ、これが半クラよ! 私はようやく突き止めたわ!」

 蒼乃は、これまでずっと半クラで発進すると思っていた。だが正しくは、半クラにしたままで発進する、だったのだ。蒼乃はクラッチレバーを離すタイミングが早く、回転が動力として車輪に完全に伝わっていなかったため、NS-1はエンストしていたのだ。

 さらに蒼乃はズブの素人しろうとだけに、右足と左手の動きが無意識むいしき同調どうちょうしてしまい、レバーを離すタイミングがさらに早くなってしまっていた。

 しかも事前に調べたネットの中には、嘘か本当か教習所ではフットブレーキを離した瞬間左レバーを離すと言う書き込みもあった。だが実際はブレーキを離した瞬間、クラッチレバーはまだ半クラの位置にある・・・・・・・・・・・、のが正しいのだろう。少なくてもNS-1は、ブレーキと半クラッチの同時リリースではエンストしてしまっていた。

「ハハハ……苦労したわ。でもついに発進できたもんね。それにシフトも三速まで上げられたし、ざまぁみろよ」

 哄笑こうしょうを上げながら、蒼乃は誰に向けて言ってるのか分からない台詞せりふく。

「ざまぁみろ! ざまぁみろ! ざまぁみろぉ!」

 午前中とは言え太陽が十分に昇り切った真夏の炎天下、エンストする度に汗まみれになって何度エンジンをかけ直しただろう。その行為ははたから見れば、客もいないのに滑稽こっけいな芸を演じているバカな道化師ピエロだ。

 しかも発進できなかった原因が、わずか〇、五秒にも満たない時間、半クラを維持しなかったからと言う、これまた嘲笑ちょうしょうされても仕方無い理由だ。

 もしもこれが自分のことでなければ、蒼乃だって何をやってるのかとバカにしただろう。

 兄さんもこんな苦労をしたのかな……。

 蒼乃の脳裏にそんな思いが浮かぶが、同時におそらくそれはないだろうとも思った。もしもバイク経験者が一人でもそばにいれば、蒼乃のおかしているミスに気がつくからだ。

 常識で考えれば、これまでバイクに興味などなかった一介いっかいの女子高生が、誰の力も借りずに一人で試行錯誤しこうさくごしてマニュアルバイクに乗ろうとするなどありえない。

 だがその事実こそが蒼乃の現実だ。どんなに悪戦苦闘しようとも、一人でトライ&エラーを繰り返し、自分の物にしていくしかない。

 そしてその成果を蒼乃は今確実に身体にきざみ込んだ。

「暑いー、それに疲れたー、シャワー浴びたいー」

 蒼乃はかぶっていたヘルメットを脱ぐと、多量の汗が顔を伝わってタンクではじける。

 その汗のしずくをしばらく見ていた蒼乃の心中しんちゅうに、締め付けられるような得体えたいの知れない感情がわき上がった。

 蒼乃は脱いだヘルメットを右手にぶら下げたまま、振りしぼるようにつぶやいた。

「ちっくしょう……何よコレ……たったの一人で、こんなのバカじゃないの……」

 その瞬間顔を伝う汗に混じって、蒼乃の目から涙があふれた。

 蒼乃自身、この涙がなんなのか分からなかった。くやしかったのか、それとも嬉し涙なのか。亡き兄への思いが感極かんきわまったのか、NS-1を発進できなかった理由に、ただただ情けなさを感じたからなのか。

 タンクの上に降り注ぐ汗と涙が混じった液体。蒼乃は顔を上げると、そこには高く澄んだ青空が広がり、羊を思わせる白い夏の雲が浮かんでいる。

「暑くて、目から汗が流れるぜ……って昔マンガで見たなぁ」

 蒼乃はヘルメットをタンクの上に置くと、力ない笑い声を上げた。

 この日、気象庁は関東地方の梅雨つゆがあけたことを発表した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る