第9話  六月   出会い(encounter) 9

 蒼乃は握っていた手をゆっくり開いてみたが、その手はわずかに震えている。

 その震えの意味は、ただの痺れなのか、それとも恐怖なのか、畏怖なのか、はたまた興奮なのか、蒼乃にも判断がつかなかった。

 蒼乃が呆然と見つめる先で、スロットルから手を離したNS-1は気持ちよく穏やかな八ビートの鼻歌を歌っていた。先ほどの怒声どせいなどまるで嘘のような、まるで穏やかな微笑みを浮かべるかのように。

「……おとなしいフリして、とんでもない……」

 一瞬蒼乃の脳裏に祈の姿が浮かび、苦笑した。なんとなく祈がオートバイでなくバイクと呼ぶのが、理解できた気がする。

 バイクの方が語数が少なく経済的とか、いんの最後があいう・・・になるので格好がいいと言うのもあるが、何よりもオートバイと言う単語に含まれる長音符がこの存在・・には似つかわしくないからだ。

 蒼乃はそっとスロットルを握ると、今度は慎重にゆっくりとグリップを回してみる。

 途端に回転計の針がじわりと上がり、それに伴いエンジンはさながら鼻歌からJ-POP、を歌い出し、消音器サイレンサーからはその歌声に合わせて白煙がスモークのように後方に排出されていく。

 だが蒼乃はそれに構わずさらにスロットルをゆっくりと開いていく。

 四千、五千、六千、七千……。エンジン内部で起こる切れ目のない連続した爆発音は、住宅地ではどう考えても迷惑きわまりない爆音を振りまく。

 だがNS-1はご機嫌そのものだ。軽やかでリズミカルなJ-POPを歌っていたNS-1は、スロットルを開くにつれ喜びに狂ったような哄笑こうしょうをあげて高速十六ビートのロックを叫んでいる。

「……はは……スゴイ……まるで多重人格だ……」

 わずかなスロットルの開閉で、そのたびに全く違った叫びシャウトをあげる。

 それはまさに正気から狂気への飛翔ひしょう。おだやかな微笑みが、一瞬で狂気を感じる笑みへと転じ、果ては暴力的な哄笑こうしょうを放つ。

脳をさぶる高音? 腹に響く重低音? そのいずれも違う。暴力を感じさせる激しい中音が、胸のど真ん中を貫く。

 蒼乃はその激しい中叫びに恐怖を覚えながら、もう一方で背筋せすじを何かがゾクゾクと駆け上がって来るものを感じた。

 多分これは快感ではなく、好奇心こうきしん。見たことも経験したこともない何かに触れ、NS-1同様に蒼乃の心も何かを叫びたがっているのだ。

 一体何を……? 叫びたいって、私は何を叫びたいの?

 蒼乃はその疑問を感じた瞬間スロットルを戻し、全身から力を抜いて大きくため息をついた。

「兄さん……これに乗っていたのか……」

 このNS-1は五〇cc。自動車の免許についてくる権利おまけで乗れる、日本でもっとも小型のバイク。

 でも原付バイクに乗るのが目的なら、このNS-1でなくてもいいはずだ。

 NS-1の生産はとうに終わり、それゆえ希少価値があるバイクと言っていたのは祈だ。そしてNS-1を購入する金額を出せば、原付の新車が買えるとも言っていた。

 そのNS-1に兄が乗っていたと言うことは、兄は自らの意思でこのNS-1を選択し、購入したのではないだろうか。 

 なぜ兄はこのNS-1を選んだのだろう。

 蒼乃はそっとNS-1のかたわらを離れると、庭の縁台に再び腰を下ろす。そしてその視線の先ではNS-1が、機嫌良く小気味良い八ビートを奏でている。

「兄さんが選んだ、NS-1バイクか……」

 蒼乃は先ほどからずーっと疑問に感じている思いを口にしてみた。

 兄はなぜNS-1に乗っていたのか。乗って何をしようとしたのか。そして乗って何を見ようとして、何を見たのか。

 蒼乃と兄の白杜の関係は極めて希薄きはくだ。ただでさえ年が離れている上、蒼乃が学校に行き始めた頃には、兄は家を出ていた。だから蒼乃自身、兄との思い出などほとんどない。

 家族とは両親だけ。薄情に聞こえるかもしれないが、それが自分にとっての偽らざる本心だと疑いもしなかった。

 兄の白杜とは血縁上の、もしくは戸籍の上での兄妹きょうだいでしかない。そう思っていた。

 そしてそれがただの自分勝手な浅はかな思い込みだったことを知ったのが、兄が死んだ後のことだ。

 蒼乃はいなくなって初めて、兄の存在を強く意識するようになった。だがもう兄にその思いも声も手も届くことはない。ないのだと思っていた。

 でもそう思うのは早計そうけいかもしれない。

 確かにもう自分のことを、兄に届けることはできない。だが兄が何を思い、考え、見たのか、その痕跡こんせきを探すことはできるのかもしれない。少なくてもこの兄が残したバイクに乗ることができれば、兄が見た景色を自分も見て感じることができるのではないだろうか。

「兄さんの遺産……」

 蒼乃は小さくつぶやくと、縁台から立ち上がりNS-1のキーを回してエンジンを切った。

 その瞬間周囲に静寂が戻り、あらためて蒼乃の脳裏に騒音の二文字が浮かぶ。

「なんかエンジンがかかった時はうるさいと思ったけど、結構すぐに慣れるものね。でも乗るなら、いろいろ近所に気を遣わないといけないかな」

 蒼乃はそうつぶやきながらハンドルを左に目一杯めいっぱい切ってハンドルロックをかけると、キーシリンダーからキーを引き抜き抜いた。

 これまではよく分からなかったからキーを挿しっぱなしだったが、さすがに今はそれは危ないことくらい分かっている。

 蒼乃はエンジンの火を落とされ静まりかえったNS-1を一瞥すると、スマホを取り出し画面に目を落とした。

「もうすぐ六時か……今ならまだ暗くなる前に帰ってこれるかな?」

 蒼乃はそうつぶやくと家の駐輪場に止めてある自分の通学用の自転車に歩み寄り、スタンドを蹴飛けとばして外した。

 そしてそのまま押しながら門を開けて家の外に出ると、そこへ帰宅した母親とばったり出くわす。

「あ、母さん、お帰り」

「なに? 蒼ちゃん、どっか出かけるの?」

 そう訊ねる母親の口調には幾分詰問いくぶんきつもんの色が見て取れたのは、明らかに夕暮れが迫る時間だからだろう。いくら一年で一番日が長い時期とは言え、もう半時もすれば完全に日が暮れる。

 蒼乃もそのことを理解しているので、心配そうな母親ににこやかに応じた。

「ちょっと駅前の本屋に行ってくるね。買い物済ませたら、すぐ帰ってくるから。あ、何かついでに買ってくる物とかある?」

「大丈夫よ、買い物済ませてきたから。それよりも早く帰ってきなさい」

 もともと蒼乃は読書家であることもあって、蒼乃が本屋へ行くと言えばそれ以上追求されることはない。母親はそれ以上何も言わずに蒼乃と入れ違いに家の中へと姿を消す。

 蒼乃はその後ろ姿を見送ってから自転車のサドルにまたがると、なんとなくNS-1のキックペダルを踏んだ時のことを思い浮かべながら、自転車のペダルに足をおろした。


  ◇  ◇  ◇


 翌朝、祈は学校へ登校してくると、蒼乃はすでに自分の席である窓際の一番前の席に座ってなにやら本を広げていた。

 ちなみに蒼乃の登校時間は、日によってかなりまちまちである。昼食の弁当を家から持参すれば登校時間は早くなるが、逆にコンビニなどで調達する時などはかなり遅れる。

 蒼乃、美弥、祈の三人の中で、一番登校時間が安定してるのは祈であり、祈は学校では不真面目ふまじめな生徒のように思われているが、遅刻欠席はほとんど見られない。三人の中で遅刻数が一番多いのは美弥で、美弥はホームルーム開始のチャイムと同時に教室に駆け込んでくることが大半だ。

 通学用の鞄を肩越しに担いで登校した祈は、蒼乃に家に帰ってからNS-1のエンジン始動に成功したのかを聞きたい衝動しょうどうに駆られたが、結局その思いをため息と共に心の奥底にしまい込んだ。

 確かに自分はNS-1の希少さを理解しているし、それだけに興味もある。だが蒼乃は違う。何より売り払う気でいたのだから、NS-1に興味など持たないだろう。一応五、六限の授業の合間にレジメなど作ったが、これまでの経験では結局そのレジメも無駄なお世話で終わるのが関の山だった。

 それに蒼乃のNS-1は死んだ兄の形見と言っていたし、そのことに第三者の自分がとやかく口を出すのは、非礼だろう。

 結局祈は肩を竦めると蒼乃の席の横の通路を通って、自分の席へ向かおうとした。蒼乃が座る列の一番後ろが祈の席だ。

 おそらく一限の予習でもしてるんだろう。本を開げている蒼乃の姿にそう判断した祈は、黙ってその横を通って自分の席へ向かおうとして、ふとその足を止めた。

 あれ? 今いんちょーが開いてたの、原付の教本じゃね? 

 てっきり教科書かと思ったが、教科書にしては薄すぎる。足を止めた祈はそっと肩越しに顔を蒼乃に向けると、蒼乃のが開いているのは紛れもなく原付の免許取得の教本だった。

 その教本を読み込んでいる蒼乃の姿に、思わず呆然ぼうぜんとなる祈。やがてそんな祈の視線に気がつき蒼乃が顔を上げた。

「あ、おはようございます。瀬鹿さん、昨日のアドバイ、すごい助かったわ。ありがとう」

「あ、ああ。参考になったならなによりだよ……」

 所詮しょせん自分の話など二束三文にそくさんもんにしか聞いてないだろうなと思っていた祈は、目が合うなり蒼乃に礼を言われて思わす面食めんくらうが、気を取り直して蒼乃の手の中の教本を指さした。

「それよりいんちょー、その本って?」

 それを聞いて祈はわずかに頬を赤らめ恥ずかしそうに身体を縮めた。さすがに昨日の今日での変節へんせつぶりには自分でも軽薄けいはくさを覚える。

「昨日本屋で、教本買ってみたんだけど……ね」

「へぇ。いいじゃんいいじゃん。免許取る気になったのか?」

「まだ本当に取るって決めてないし、それに取れるかどうかも自信ないけど……とりあえず勉強してもいいかなって思っただけけ」

「いんちょーなら、ちょっと勉強すりゃー取れるさ」

 祈は機嫌良くそう言うと、そのまま空いていた蒼乃の隣の席に腰を下ろした。

「で、どのくらい進んだ?」

 そう言って蒼乃の中の教本を指さす祈に、蒼乃は困ったような苦笑を浮かべた。

「まーだ、全然。思ったよりもずいぶん難しいわ」

「そっか? 見せてみ」

 祈は蒼乃から教本を受け取ると、パラパラとめくってみる。

 総ページ数は二〇〇ページほど。その内の半分が交通法規で残り半分が予想問題。何の変哲もないよくある教本で、交通法規の所には付箋ふせんが貼られていた。

「瀬鹿さん昨日合格率は八〇パーセントって言ってたけど、私受かる自信全然ないわ。免許持ってる人って、どう言う勉強してるの?」

「さぁ? オレもまだ勉強してないから分からねーけど、でも原付の合格率八〇パーセントって言うのは確か公式発表だぜ。だからテストが難しいとは思えないけどな」

「……教本が悪いのかしら? 買い直した方がいいのかな?」

「テストの内容はもう何十年も変わってないって話だから、それほど教本に差が出るとは思えないけど……」

 祈はそう言ってページをめくっていたが、ふと法規のページに、これでもかと貼られた付箋ふせんの数の多さが気になった。

 これを張ったのは持ち主の蒼乃だろうし、この付箋ふせん付数は蒼乃の真面目な性格を物語っている証しだろう。だが祈の予想が正しいなら、こんな勉強方法では間違いなく蒼乃の免許取得は無理だ。

「なぁいんちょー、もしかしてこの教本、頭から交通法規を覚えようとしてないか?」

「え? でも交通法規って、覚えないといけないんでしょ?」

 祈の指摘に思わず蒼乃は眉根を寄せるが、祈はそれを見て苦笑を浮かべる。

「でもいんちょーの目的は免許を取ることだろ。免許を取るのに、交通法規を全部覚えようなんて奴はいねーよ。そんなのトンカツを食うために、豚小屋に放火するようなもんだ」

 祈は蒼乃に教本を返しながら、さらに続けて言った。

「この教本の後ろ半分に予想模試が十個ついてるから、とりあえず三つくらいやってみな。ただの○×問題だから、休み時間にでもやればいい」

「模試やれって、本当に私何も分からないんだけど……」

「いいんだよ、点数を取ることが目的じゃないから。言うなれば過去問やって傾向けいこうを知る、みたいな? クイズだと思って気楽にやってみな」

 そう言った祈の視界の端に息を切らして教室に飛び込んでくる美弥の姿が映り、祈は立ち上がった。美弥が教室に飛び込んで来たと言うことは、そろそろホームルームが始まる時間だ。

「多分三つもやれば、オレの言いたかったこと分かると思うぞ。分かったらそこを中心に教本で勉強するんだ。いんちょーならそれで受かるよ」

「ちょっと待って、瀬鹿さん……」

 蒼乃は自分の席へ向かおうとする祈を咄嗟とっさに呼び止めると、祈は肩越しに振り返った。

「ん?」

「あの……瀬鹿さん、昨日もだけど、ありがとう……」

 自分の席から立ち上がり緊張した面持おももちで礼を言う蒼乃に、祈は一瞬考えた後言った。

いのりでいいぞ、いんちょー」

「え?」

 一瞬祈の言った言葉の意味が分からず思わず聞き返す蒼乃に、祈はわずかに不機嫌そうな表情を浮かべた。

「ウチ、実家がつく酒屋ざかやでな。だからオレにとって瀬鹿って言うのは、名字と言うより屋号やごうなんだ。だからいのりって名前で呼んでくれよ」

 その瞬間、蒼乃は身体から緊張の糸がほぐれるのを感じ、その感覚に蒼乃の口元に自然と笑みが浮かんだ。

「あの……じゃぁ、ありがとう、祈さん」

 そんな蒼乃の表情の変化に、祈の顔から不機嫌さが消え、代わりにニカッと笑った。

敬称さん、もいらね。呼び捨てでいいぜ」

 祈の肩越しに広がった屈託くったくのない笑み。その笑みをどこかまぶしく感じながら、蒼乃はどこか心地よい高揚感こうようかんが広がる感覚を覚えた。

「どしたの蒼乃? なんかニマニマしてるけど、なんかいいことあったの?」

 そこに息をすっかりととのえた美弥が、蒼乃に声をかけてきた。見かけに反して美弥は中学時代チアリーディング部でまれた上に、毎日遅刻をかけてマラソン&徒競走ダッシュを繰り返しているせいで身体能力は極めて高く、切らした息もすぐに回復する。

「瀬鹿となんかあったの?」

 祈が美弥に気がついたように、美弥もまた祈が蒼乃の隣に座っていたことに気がついたのだろう。

 祈に視線を投げかける美弥の声に、わずかな剣呑けんのんな響きを感じた蒼乃はあわてて美弥に言った。

「別になにもないわよ。昨日いのりからもらったアドバイスが役に立ったんで、そのお礼を言ってただけ」

 だがそれを聞くなり美弥の表情から一瞬で剣が消え、逆に好奇心めいた笑みが浮かんだ。

「ふーん……いのり……ねぇ」

「な、なによ、別にいいでしょ!」

「みゃあは悪いなんて言ってないよ。でも蒼乃と瀬鹿って意外な取り合わせだよねぇ」

 美弥が指摘するなり蒼乃の頬が朱に染まり、蒼乃はあわててそっぽを向く。それを見ながら美弥は頭の後ろで腕を組むと、楽しそうな笑みを浮かべた。

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