第8話  六月   出会い(encounter) 8

 その項目に跳ね上がる心臓。期待を込めて目を通す蒼乃。

 だが次の瞬間、蒼乃はNS-1のタンクに身体を伏せてうめいた。

「つ、使えね~。死んでも踏め! 死ぬまで踏め! 根性入れて、とにかく踏んで踏みまくれ! ガッツだぜ!! って何のアドバイスにもなってないわよ……」

 ちなみに、ガッツだぜ!! と言うのは一九九〇年代に活躍したロックバンド、ウルフルズが歌った名曲だ。発売は九五年十二月だから、しくも蒼乃のNS-1と同年である。

 祈がそれを意図してルーズリーフに書き込んだのかは分からないが、どっちにしろ蒼乃はそのような根性論の信奉者しんぽうしゃではない。蒼乃にすれば根性などオカルトの範疇はんちゅうだであり、二十一世紀の現代人が頼るべきは科学文明の方だ。

 蒼乃はNS-1から下りると、尻のポケットに突っ込んでいたスマホを手に取った。今の時代、知りたい情報などいくらでもネットに転がってるはずだ。

 だが十五分ほどスマホをいじった結果、蒼乃はさらに絶望的な感覚にとらわれた。

「じょ……情報が多すぎる……」

 ネットでは、基本的にキックでエンジンがかからない理由と言うのはなく、かからない場合は別の理由があるようだ。

「燃料系、吸気系、点火系、電装系……今の状態じゃ、疑えばきりがない……。でもまぁ一番疑わしいのはプラグがかぶったって奴ね」

 項目で言えば点火系にあたるのだろう。ようするにエンジン内でガソリンに着火するための点火プラグが、エンジン始動に失敗し続けるとガソリンで濡れて着火できなくなるらしい。こうなるとプラグについたガソリンが乾くまで始動することはできない。

 幸いガソリンの揮発きはつ温度は低いので、プラグが乾くのは思ったよりも早いらしいのだが、それを確認するにはプラグを外すか、祈が書いたようにキックし続けるしかないようだ。

 エンジンがかかれば、プラグが乾いた証拠と言うことだ。

「プラグの外し方なんか知らないし、結局は踏み続けろってことじゃないの……やってられるか!」

 やってられるか、と言っても、今の蒼乃にやれるのはキックペダルを踏むことしかない。

 そんな蒼乃の脳裏に一瞬、あきらめるか、と言う思いがよぎる。あきらめてこのNS-1をクズ鉄として処分する。処分と言っても、二、三万くらいにはなると見積みつもれば、まるっきりの赤字にはならないだろう。

「でもなぁ、ここまで苦労して処分って言うのもねぇ。なんか瀬鹿さんに悪いし……」

 根性論かと思った祈の言葉もネットを検索した限り正しいようだし、ここであっさりやめるのはさすがに悪い気がする。

「しゃぁないなー、もう少し頑張るか」

 蒼乃のは屈伸くっしんして軽く準備運動をした後、NS-1にまたがりキックペダルに足を乗せた。

「まぁ今日中にエンジンをかける必要もないんだし……疲れたら今日はここまでかな。また明日、瀬鹿さんにエンジンのかけ方聞いてみよう」

 蒼乃はそんなことをつぶやきながら、祈のルーズリーフをメーターとスクリーンの間に突っ込むと、慎重に足をペダルの乗せる。

 そして気合いを込めて一気にペダルを踏み下ろした瞬間、スロットルを握っていた右手がずるりと滑った。

 もともと右の握りグリツプはハンドルと同時にスロットルを兼任し、右手をひねるとそれに応じて握りグリツプも回転するようになっている。エンジンをかける際、蒼乃はスロットルが動かないように手首を固定してエンジンペダルを踏んでいたのだが、疲労のあまり注意がわずかにおろそかになっていた。

 ペダルを踏むと同時に蒼乃は右手を滑らせたため、スロットルが半分ほど解放される。蒼乃は咄嗟とっさに身体を支えるが、その瞬間蒼乃の足にクランクが勢いよく回転する感触が伝わり、蒼乃尻の下で、爆音と共にエンジンが突然荒々しく目を覚ました。

「は? 何? 何が起きたの?」

 傾いた身体を起こした蒼乃は、突然前触れもなくかかったNS-1のエンジンに、思わず呆然となった。だがそんな蒼乃の様子をよそに、エンジンの回転計は六千回転を差し、背後の消音器サイレンサーからはエンジンの爆音に合わせて、祈が言ったように迷惑な白い煙が煙幕のように周囲にはき出されている。

 その様子を見ながら、蒼乃は自問した。

 今私は、一体何をした?

 自分がやったことと言えば、キックしようとした瞬間右手を滑らしたぐらいだ。

 蒼乃は自分の握った右手を開くと、そこに目を落とした。これまで行ってきた行動と違ったのはこの右手を滑らせ、スロットルが半分開いたこと。

 蒼乃はしばらく考えた後、恐る恐る右手でスロットルをわずかに回してみた。

 とたんにエンジンはさらなる爆音を奏で、消音器サイレンサーからは真っ白い排気煙が盛大に噴き上がる。

 その白煙の量は、知らない人が見れば紛れもなくどこかが壊れていると錯覚するだろう。

 だがそれを見て、蒼乃は合点がてんが言ったかのように笑みを浮かべた。

「ははは……そうか……多分そうなんだ」

 NS-1のエンジンがかからなかった理由。多分それはガソリンの供給量が、エンジン始動に足りていなかったのだろう。

 蒼乃はエンジンをかける前にガソリンコックを開いた。と言うことは、それまでガソリンはその先にはなかったことになる。コックを開けば確かにガソリンは流れるが、それだけではエンジン始動には不十分だったのだ。結果ガソリンが足らない状態で蒼乃は必死にキックした訳で、それではエンジンがかからないのも道理だ。

 今回エンジンがかかったのは、蒼乃が手を滑らせたことでスロットルが開き、始動に必要な量のガソリンが燃焼室エンジンに送られて初爆がおきたのだろう。

「産業革命の頃からある単純な仕組みのくせに、動かすのにこんな繊細な注意が必要なのね……。これが内燃機関エンジン……か」

 蒼乃は疲れたように大きく息をつくと、NS-1の回転計を見てから肩越しに背後を振り返った。

 回転計は六千を差し、消音器サイレンサーからはエンジンの咆吼ほうこうに合わせて白煙が絶え間なく吐き出されている。

 祈は二ストの欠点は爆音と白煙と言っていたが、確かに祈が言ったようにエンジンの音は紛れもなく爆音だし、白煙もかなりひどい。さらに言えば白煙に混じるオイルの臭いも鼻につく。これが常時じょうじばらまかれれば、嫌な顔をする人は確かに多そうだ。

「これが二ストのオートバイが、生産中止になった原因だって言ってたわね」

 法律の犠牲者と言う言葉があるが、蒼乃自身その対象と原因の二つを同時に目撃したと言うのは、これまでの十六年間で初めての経験であり、感想を言えば確かに今の世では迷惑のそしりは免れないだろう。

 消音器サイレンサーから出る白煙もそうだが、何よりオイルの臭いは決してかぐわしい物ではない。音に関しても電気自動車が持てはやされる昨今の世情を考えれば、明らかに百八〇度逆行している。

「そもそもエンジンの回転って、こんな高くていいの?」

 メーターは一応一万二千回転からが危険域レツド・ゾーンとなっているから、六千回転はまだ安全域セーフゾーンなのだろうが、乗っていて不安を感じるのは紛れもない事実だ。

 先ほどわずかにスロットルをひねったが、そのわずかなひねりでも回転計の針は敏感に反応して驚くほど白煙を噴き上げた。

 これでは迂闊うかつにスロットルを開けられない。先ほどの感覚では、全開にしたらメーターの針は振り切れそうだ。

 だがそんな心配をする蒼乃の目の前で、次の瞬間回転計の針が目に見えて下がっていく。

「え? 何? 今度は何が起きたの?」

 自分は何もしてないわよ、そんなことを心の中で主張しながら何かミスを犯したのではと危惧した蒼乃は、祈のルーズリーフを咄嗟とっさに手に取るとそこに目を落とした。

 確か祈のルーズリーフには、エンジンがかかった後のこともいくつかの事柄が記されていたはずだ。

「えーと……あった。エンジンがかかったあとは、回転が落ち着くのを待て? ってことはこのままほっとけってこと?」

 思わず首をひねる蒼乃。そしてさらに先を読み進める。

「やがてエンジンが苦しみだしたらチョークレバーを戻すって……機械が苦しむ? それってなんかの擬人化流行り?」

 エンジンをまるで生物か何かのように記してある祈のアドバイスに、蒼乃は困ったような表情を浮かべた。確かに最近では戦艦やら刀やらを擬人化モエ化して、まるで人格を有した人間のように描く文化が一部で流行っているが、容姿からは想像もできないが祈もそちら側の人間と言うことだろうか。

 だがエンジンの擬人化モエ化というのは聞いたことがない。そもそもそんなニッチな需要があるのだろうか。

 蒼乃がそんなことに思いを馳せている間に回転計の針は降下を続け、やがて二千回転を切ったあたりでふらふらと止まと、そこから痙攣けいれんしたように針が小刻みに揺れ出した。

 しかも爆発が不規則になり、エンジンもまるで咳き込むような症状を見せ始める。

 このままではエンジンが止まる。そう思った蒼乃は、祈の言ったエンジンが苦しみ出すと言うのが、このことを指しているのだろうと察した。

「あー、確かにエンジンが苦しく咳き込んでるように見えるわ。瀬鹿さん、うまいこと言うわねぇ」

 それともオートバイ乗りの間では、そう言う表現を使うのだろうか?

 蒼乃はそんなことを考えながらチョークを戻すと、これまでひどい喘息ぜんそくを起こしていたかかのようにあえいでいたNS-1のエンジンは、打って変わって軽やかなリズムをかなでだした。

 その豹変ひょうへん具合に蒼乃は面食らいながらNS-1から離れると、そのまま疲れたように縁台に腰を下ろした。

 ずいぶん悪戦苦闘したが、多分この姿がNS-1の本来のものなのだろう。

 確かにうるさく感じるエンジンだが、よく聞いてみれば軽やかに八ビートを刻み、そのリズムを意識すれば決して不快ではない。あれほど消音器サイレンサーから吐き出されれていた白煙も、回転が落ち着けばほとんど気にならなくなっていた。

「瀬鹿さんが言うほど、ひどいとは思わないけどなぁ」

 蒼乃は縁台に座ったまま手を後ろについてNS-1を眺めるが、おそらくこのあたりは個人差があるのだろう。

 世の中には子供が遊ぶ声にうるさいと激怒する、そんな人間もいる。

 それに消音器サイレンサーから出る白煙は、国の環境基準を満たしていないのは紛れもない事実だ。

 山の中の一軒家ならともかく、住宅街ではそれなりに気を遣わなくてはならないだろう。

「まぁ、とにかく無事エンジンがかかることは確認できたんだがから、クズ鉄って買い叩かれることはないはずね」

 蒼乃は住宅地でいつまでもエンジンをかけたままにしているのも迷惑と思い、エンジンを切ろうと立ち上がった。時刻は午後五時半を回り、一時間半以上もNS-1と格闘していたことになる。

 時間的にもそろそろ母親がパートから帰ってくるだろう。そしてNS-1のエンジンがかかっているところを見れば、どう言うことかと説明を要求されるに決まっている。

 それはどう考えても面倒くさい。それなら母親が帰ってくる前に撤収てっしゅうして知らん顔決め込むのが得策と言うものだ。

「結構時間食ったわね。やっぱり初めてのことをやろうとすると、時間かかるわ」

 オートバイの止め方はキーを左に回せばいい。これは祈に一番最初に口で説明されたことで、いきなり切ってもエンジンが壊れることはないらしい。

 パソコンなどは決まった手順で電源を落とさないと、次に起動した時にいろいろとチエックが入ったりエラーが生じたりするが、オートバイはそんな心配はないとのことだった。

 蒼乃はキーを回そうと手を伸ばすが、ふとその手を止めた。

学校帰りに祈が、ルーズリーフを自分に渡しながら言った言葉を思い出したのだ。

「ニュートラルに入っていれば、エンジンをどれだけ回してもバイクが走ったりしないからな。だから安心してエンジンかけてみな」

 祈は確かにそう言った。と言うことは、ニュートラルランプが点灯しているこのNS-1は、今何をしてもどうにかなることはない、と言うことではないか?

 蒼乃は恐る恐るスロットルグリップを握りしめると、なんとなく周囲を見回しながら勢いよくひねった。 

 次の瞬間回転計の針が一気にパンと七千回転まで跳ね上がり、蒼乃は周囲から一切の音がかき消えたのを感じた。だがそのことに蒼乃が驚く間もなく、静寂の中突如とつじょ発生した暴風に包まれ、吹き飛ばされそうになるのを覚え、蒼乃は咄嗟とっさに四肢に力を入れる。

 そして次の瞬間、爆音と共に蒼乃の周囲から消えたと思った音が戻った。

 これまで体験したことのない爆音が衝撃となって、蒼乃の頭を貫くではなく、腹を揺らすでもなく、胸の中心を激しくえぐりながら駆け抜けた。それはさながら咆吼ほうこうだった。それを聞いただけで弱者じゃくしゃなら気死きししかねない力ある咆吼エグゾストノート

 蒼乃が悲鳴を上げなかったのは、僥倖ぎょうこうだっただろう。蒼乃は咄嗟とっさにスロットルから手を離すと、思わず二歩ほど遠ざかった。

「す、すご……」

 蒼乃は胸の前で拳を握りしめた。手にはまだスロットルを開いた時の感触が残っているし、蒼乃の身体も胸を貫かれた排気音エグゾストノートの衝撃を覚えている。

 確かにNS-1の排気量は、バイクで言えば最低排気量の五〇ccでしかいない。だが静音せいおんが叫ばれる昨今、蒼乃にすればこれまで体験したこともない音の暴力だった。

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