第7話  六月   出会い(encounter) 7

 蒼乃の部屋は家の二階。同じ階には家を出る前に使っていた兄白杜の部屋もあるが、その部屋は兄の死後も片付けられることなく、開かずの間になっている。

 これまで蒼乃は、兄が家に残していった、古いけど使えそうな家電製品や様々な参考書や専門書を探すために、年に何度か足を運んでいるが、死後に訪れたことはない。両親も部屋を片付けなくてはならないことは理解しているらしいが、その踏ん切りがつかない、と言うのが現実のようだ。

 蒼乃はそんな閉ざされた白杜の部屋の前を通ると、自分の部屋の扉の引き戸を開いた。

 阿仁家は父親がかなり趣味を全面に出して建てられた日本家屋のため、蒼乃の部屋も畳敷きで、椅子もなければベッドもない。座るのは座布団ざぶとんだし寝る時は布団だ。

 その部屋にあって異色を放っているのが、エアコンとワードローブとローボードを改造して作った巨大な文机ふみづくえの上に乗った蒼乃自作のデスクトップ型のパソコンだ。

 蒼乃は鞄を文机の上に置くと、ワードローブの扉を開け、さらに下の引き出しを開けた。

 服装の傾向に関して言えば、蒼乃のワードローブは圧倒的にパンツが占める。

 だがこれは蒼乃のファッションの傾向がパンツ派と言う訳ではなく、結果的にこうなっただけだ。 

 蒼乃の身長は女性の平均よりも高いので、服のサイズも限られる。特価品やバーゲン品を探しても、まず蒼乃に合うサイズの物は見つからない。だが蒼乃の身長は男性の視点ではごくごく平均的なものなので、男性用なら特価品もバーゲン品もり取り見取りだ。

 結果経済的観点で蒼乃のワードローブには、女性でも着られる男性用服ユニセツクスが並ぶことになる。

 蒼乃は動き安さを考えて細身のスキニージーンズに淡い黄色のシャツを着込むと、スマホだけを持って部屋を後にした。外は未だ初夏の陽光で明るいがすでに五時近く、夕闇の気配が近づいてきている。

 蒼乃自身ただでさえ何一つ理解できていない訳の分からないことを、確認しながらやっているのだ。これに明るさの制限が加わったら、手元が覚束おぼつなくなるだろう。

 服装をあらためた蒼乃は庭先にとって返すと、縁台のルーズリーフにもう一度目を通しながら指先確認する。

「えーと、ガソリンコックを開けて、チョークも引っ張った。ニュートラルランプが点灯しているから、これでエンジンをかける……で間違いないよね。それでエンジンをかけるために、車体右側のキックペダルを倒して、NS-1にまたがると……」

 車体右側からはペダルが二本でているが、その内倒れる・・・のは前方のペダルのみだ。

 蒼乃は車体前方のペダルを倒すと、自転車に乗るように車体の左側面に回った。

 蒼乃自身はバイクに左右どちらからまたがるのか正しいか知らないが、サイドスタンドが車体左側についている上、少なくても自動車同様バイクも左車線を走ることを考えれば、左から乗るほうが安全だろう。

 スカートからパンツに履き替えているので、誰の目もはばかることなく蒼乃は足を後ろに跳ね上げると、足をリアカウルの上を滑らしてNS-1にまたがった。

 この時ごく平均的な身長の女性ライダーが蒼乃を見ていれば、そこには羨望の視線が含まれるかもしれない。

 蒼乃の言う中途半端な高身長だが、その身長のおかげで蒼乃の両足はべったり地面についている。

 バイクには自転車のようにサドルを上下に調整する機能などないから、低身長の女性ライダーにとって足つきは大きな悩みとなることが多い。特にNS-1のようなレーサーレプリカはシート高の調整はほぼ絶望的だ。女性ライダーの中には信号待ちの際、両足を着けずに片足をステップに乗せたまま、もう片方の足でバイクを支える者も珍しくはない。

 そこまでして乗りたいか? その問いに肯定的な答えを出すか、それとも否定的な答えを出すか。

 だが今の蒼乃は答えを出すどころか、そのはるか以前の場所に立って悪戦苦闘の真っ最中だ。

 NS-1にまたがった蒼乃はルーズリーフに目を通すと、エンジン内のピストンを上死点じょうしてんに合わせてからペダルを思いっきり踏み下ろすように書いてある。

上死点じょうしてん? 上の死点があると言うことは下にも死点がある? これってピストンが上がりきった位置が上死点じょうしてん、下がりきった位置が下死点かしてんってことかな?」

 書かれた文字からそう推測した蒼乃は、キックペダルを試しに軽く踏んでみると途中から抵抗を感じる。もしこのペダルとピストンが連動ししているとするなら、多分ピストンはシリンダー内のこの位置にあるのだろう。

 そこで蒼乃はペダルをちょこちょこ踏んでみると、抵抗位置が上へと上がってくるのを感じた。おそらくこれは、シリンダー内でピストンが上へ動いているのだろう。

 こうやってピストンの位置を調整して、最も高い位置で抵抗を感じるようにすればそこがピストンの上死点じょうしてんと位置と言うことに違いない。

「よーし、後はここからペダルを踏み下ろせばいいのね」

 蒼乃は緊張で乾く唇を舌で湿らせると、ペダルを踏み下ろそうとしてその足を止めた。

「これ、足のどこで踏めばいいのよ?」

 キックペダルと言えば聞こえはいいが、現実には太さ一センチ強のL字に曲がったただの鉄の棒だ。

 この棒を足の裏のどこで踏むのが正しいのか。蒼乃の行動がフリーズした。

 踏める場所は大まかに分けて三カ所。爪先、土踏まず、踵と言った所だ。

 一体どこで踏み下ろすのが正解なのだろう?

 蒼乃はエンジンについて詳しくはないが、おそらくピストンの上下運動をクランクを使って回転運動に変換し動力にしているぐらいは予測がつく。

 このあたりの構造は自転車も同じだ。ピストンの上下運動を、自転車は人間の二本の足が担い、それをクランクを通じて回転運動に変え車輪を回す。

 バイクはこの人間の足の部分をエンジンに置き換えた物で、そしてそのための動力として、自転車は人間の体力を、バイクはガソリンの燃焼を必要とする。

 そこまで考えれば後は簡単だ。自転車を走らせる時、ますペダルを踏む。それも最初は慣性ががかかってないので、より強く踏まなくてはならない。

 おそらくキックペダルを踏めと言うのは、それと同じなのだろう。最初の動き出しには、強い力が必要だから、エンジンを動かすのにガソリンの燃焼だけでは足りず、人力も併用すると言うことだ。

 と言うことは、勢いよくキックペダルを踏んだ方がピストンはスムーズに動き出すと言うことになる。

「これは……梃子テコの原理を利用してるのかな?」

 蒼乃は頭の中でぼんやりと概念図がいねんずのようなものを書いてみる。

 キックペダルの片側が足。もう片側がクランクで、クランクはピストンと連結している。そしてその中心に来るのががペダルの根元だ。

 これは梃子テコの形そのものだ。根元の支点してんを中心に力点である足を踏みこめば、反対にある作用点さようてんがクランクを動かし、ピストンの上下運動が始まる。

 そして梃子テコの原理の法則は、力点りきてんにかかる力×距離=作用点さようてんにかかる力×距離だから、かかる力が双方そうほう同じなら、距離が長い方が軽い力で釣り合いが取れることになり、それはすなわち力点りきてん支点してんの距離が長ければ長いほど、作用点さようてんに大きな力を伝えると言うことだ。

 そして今回の場合、力点りきてんにかかる力は蒼乃の足。それも効率よく体重をかけられる場所と言うと、もっとも断面積が小さく体重を乗せられる場所と言うこと。それは蒼乃の足首直下と言うことになる。

 そうなると足首から先は力点とは関係ない。それなら支点してんへの距離を稼ぐために、ペダルの延長線に使うのがベストだ。

「そうなると、足首を固定してペダルに爪先を乗せた状態で足を踏み下ろすのが一番力が加わると言うことか。……すごい、物理法則だ」

 蒼乃は頭の中で検証して、多分力学上りきがくじょう間違っていないと結論づけると、思わず感心したように感想をもらした。

 これまで様々な物理法則や計算式を学校で習ったし受験で勉強もしたが、現実にその法則を自分自身が検証して納得して実践で使うのは初めてのような気がする。

 蒼乃は大きく息を吸うと、力を込めて足を踏み下ろした。

「えいっ!」

 だがその瞬間、キックペダルが下りきる前に爪先がペダルから滑って外れ、跳ね戻ったペダルに蒼乃のすねが激突した。もちろんキックペダルは真下まで下り切っていないのだから、エンジンもかかるはずがない。

 蒼乃はまたがっていたNS-1からゆっくり下りると、そのままその場にしゃがみ込んだ。

「い……いひゃい……」

 足を打ったのは向こうすね、いわゆる弁慶の泣き所と言う箇所だ。蒼乃はしゃがみ込んだまましばらく肩をふるわせていたが、やがてよろよろと立ち上がると、そのままNS-1の車体右側面に回り込みキックペダルに目を近づけた。

「な、何なのよ! このペダル! マジでただの鉄の棒じゃない! 滑り止めぐらいつけときなさいよ!」

 痛みからか、それとも恥ずかしさからか、蒼乃は普段の自分からは見受けられない激昂した声を張り上げた。

 よく確認しなかったが、NS-1のキックペダルは足を置く部分が車体と平行に溝が盛り上げられていた。

 これでは盛り上がった溝が、何の抵抗物にもなっていないどころか、むしろ逆にレールの働きをしている。力を込めれば込めるほど、力は真下にではなく前方か後方へと逃げ、結果蒼乃のような目に合うことになる。

「しかもさりげなく、STARTERとか刻まれているのがムカツク! ただの鉄の棒の分際で、何がSTARTERよ。ゴムの滑り止めくらいつけれないの!」

 蒼乃は不機嫌そうにぶつぶつつぶやくが、メーカーのホンダにすれば、スタート時にしか使わないキックペダルに、余計な気や金を回していられないと言った所かもしれない。

「あ~もう、この怒り、どこへぶつければいいのよ!」

 蒼乃はぶつぶつつぶやきながら再びNS-1にまたがると、あらためてキックペダルに足を下ろして考える。

 足を滑らせた理由は多分力みすぎたせいだろう。しかもエンジンなどかけたことがないから、それに対する萎縮いしゅくも加わり自爆した。初心者が一番よくやる失敗だ。

「今度は慎重にキックしないと……けどそれだと逆にびびってうまくいかないかも。ここは安全マージンを確実にとって、大胆に攻めるべきか……」

 そもそも一発でかかる保障もないのだ。なるべく考えることは減らした方がいいだろうと判断して、蒼乃はペダルの上に土踏まずを乗せた。

 そして大きく息を吸い込むと、体重を乗せて一気に足を踏み下ろした。

 その瞬間伝わる、確かな抵抗とクランクが回転する感覚。

 だがそれだけだ。エンジンはわずかに震えただけで、ウンともスンとも言わずもくして何も語らない。

「……ま、一発でかかるとは思ってないけどさ……」

 数秒の静寂の後、蒼乃は小さくつぶやくと、気まずそうにうつむいた。

 服を着替え、足をしこたま痛打し、結局この体たらくはどう見ても失笑ものだ。

 蒼乃はそっと顔を上げて周囲に誰もいないことを確認すると、密かに安堵の息をもらした。実際個人の庭先を覗き込むような不審者などいようはずもないのだが、それでも蒼乃はそのことを考えないではいられなかった。

 蒼乃は一つ深呼吸すると改めて足をペダルに乗せ、気合いと共に足を踏み下ろした。

「せーのっ!」

 だが今度もクランクが空転する感触が伝わり、エンジンは変わらず黙ったままだ。蒼乃は立て続けにペダルを踏むが、状況は全く変わらない。むしろ連続して踏むとピストンの上死点じょうしてんが狂ってキックがスッポ抜ける。

「……まったく……なんで……かからないの……」

 もう何発キックを蹴り込んだか分からない。息も絶え絶えになって蒼乃はハンドルにもたれかかった。そもそもこんな簡単な作業が、身体にこたえるとは思いもしなかった。

 蒼乃は眼鏡キャラで運動が苦手と思われがちだが、決してそんなことはない。体力だって人並み以上にある。

 だからこのキックだって、所詮しょうせん足を踏み下ろすだけなのだから楽勝、と思っていた。

 だが実際やってみると全く違っていた。足をただ踏み下ろすのと、力を込めて踏み下ろすのでは筋肉に対する負担が全然違う。そもそも普段、力を込めて・・・・・足を踏み下ろす機会などありはしない。

 慣れない運動に足の筋肉はすぐに限界に達し、悲鳴をあげる。その度に蒼乃は肩で大きく息をしながら休息を取る。

 そんなことを四度も繰り返せば、さすがに嫌になってくる。夕暮れ間近とは言え、季節は初夏。額には玉のような汗が浮かび、蒼乃はその汗を袖口でぬぐった。

あっつうー。タオル持ってくるんだった……」

 たまらず蒼乃はペダルから足を下ろし、空をあおいだ。

「オートバイを使おうとするたびにこれじゃ、普段使いはとうてい無理よね」

 祈は蒼乃にNS-1に乗ればと言ったが、さすがにこれでは乗る気にもならない。すでにエンジンをかけるだけで一時間以上かかっているのだ。

「瀬鹿さんが言った、絶滅種と言うのも分かるわ……こんなん乗ってられないわよ」

 もはや苦笑すら浮かばない。本当に兄の白杜はこのNS-1こんな物に乗っていたのだろうか?

 そう考えた瞬間、蒼乃は考え込んだ。

 自分は乗れないと判断したが、兄は乗っていた。そして実際NS-1は市場で売られ、祈曰くプレミアがついている言うくらいだから、乗れないと言うことはないはずだ。

「つまり本来ならもっと簡単にエンジンが掛かると? これは単に私がエンジンをかけることができないだけ? もしかして私、手順を何か間違えた?」

 蒼乃はNS-1にまたがったままあらためて祈のルーズリーフに目を通した。

「……エンジンのかけ方……事前の手順……キー回して……燃料コック回して……チョークも引いた……後はキックするだけよね……」

 そこまで確認した蒼乃は、さらに下に、どうしてもエンジンがかからない時、と言う項目があることに気がついた。

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