第6話  六月   出会い(encounter) 6

  ◇   ◇  ◇


部活も委員会活動にも参加していない蒼乃が、普段家に帰ってくるのは午後四時過ぎだ。

 ましてや今は六月。一年でもっとも昼が長い時節であり、蒼乃が家に着いた時、太陽はまだ十分中天で昼の日射しを放っていた。

「ただいまー」

 そう言いながら玄関の引き戸を引いた蒼乃なのだが、玄関先には誰の靴も並んでいない。

 どうやら父親はもちろん、母親もパートから帰宅していないようだ。

 蒼乃は玄関先に自分の通学鞄を置くと、そのまま庭先へと回った。

 そこにあるのは一台のバイク。クラスメートの瀬鹿祈に言う所のNS-1と言う名を持つホンダのバイクだ。

「瀬賀さんはこのバイク原付って言ってたけど、これ本当に原付なのかな?」

 蒼乃に取って原付と言えばスクーターであり、それと比べればNS-1は全長で三〇センチ以上大きい。蒼乃は馬と象と言ってスクーターとNS-1の大きさの比較して笑われたが、感覚的にはやはりそれくらいの差に感じる。

 少なくても、原付と言う同じカテゴリーで一緒くたにするのは無理があるように思う。

「多分この大きなフレームと、大きな二つ目のヘッドライトでそう見えるんだと思うけど」

 真っ黒いエンジンを抱え込む銀色の幅広のフレームに、ほぼ赤一色ロズホワイトで塗られたフロントカウルに装着された大きな丸目二灯のライト。

 特にフロントの二つ目のヘッドライトは、NS-1後期型の大きな特徴だ。

 蒼乃はそのカウルに触れようとして、その手をその寸前で止めたのは、一種の大きな機械が放つ特有の空気に畏怖し恐怖を感じたからかも知れない。

「まず重要なのは、エンジンがかかるか……だったわよね」

 NS-1に触れようとして手を引っ込めた蒼乃は、そんな自分を鼓舞するようにあえて言葉を声に出すと、とりあえずNS-1の周りを一週する。しかし、素人の蒼乃に何が分かる訳でもない。ただこれからこのバイクのエンジンをかけることを考えると、未知の恐ろしさを感じる。

 それは見たこともない異世界の動物魔獣を前にした、新米冒険者の心境だ。

 蒼乃はポケットから綺麗に折りたたまれたルーズリーフを取り出すと、それを広げた。

 これは放課後に祈が渡してくれた物で、バイクのエンジンのかけ方がかかれているらしい。

 どうやら祈は五限と六限を使ってこのレジメを作っていたらしく、帰りしなにこのレジメを渡され恐縮する蒼乃に、祈は好きでやったことだと、むしろ得意げに笑っていた。

 蒼乃はその時のわずかに含羞がんしゅうを含んだ祈の笑顔を思い浮かべ、小さくため息をついた。

 祈は内部生に加えあまり良い話しも聞かなかったから、蒼乃としてはなるべく関わらないようにしてきたが、それはただ単に自分が狭量だっただけなのかもしれない。

 蒼乃自身、自分はそれなりに社交性はあるほうだと思っているのだが、少なくても今日はその自信が木っ端微塵こっぱみじんに砕かれたことを自覚するしかない。

 少なくても自分一人では、間違いなく祈に声などかけなかった。その点は美弥に感謝するしかないし、また美弥のあけすけのない性格をもっと見習うべきだろう。

 蒼乃は自己反省しつつ、祈から渡されたルーズリーフに目を落とすと、そこにはあの祈の容姿からは想像できない流麗な文字で、かろうじてバイクに見えるイラスト共にエンジン始動の仕方がかかれていた。

「まず鍵をキーシリンダーに挿すんだけど、もう挿さってるから……キーを右に回す?」

 NS-1には昨日家の運ばれた時から、キーシリンダーに鍵が挿したままになっている。

 シリンダーには、Lock OFF ONの文字が刻まれており、蒼乃はおっかなびっくり鍵をONに回すと、速度計と回転計の下部にあるオレンジと緑のランプが点灯した。

「これ緑がニュートラルで、オレンジがスタンドってかいてあるけど……他にも点灯してないランプがある……」

 目をこらすとそちらはOILとSPEEDとかかれているが、蒼乃は点灯してないならとりあえずは無視してよいと判断した。

 多分だが、OILは足らなくなったら点灯しSPEEDは速度超過を知らせるものだろう。免許がなくエンジン始動までしかできない現在、どうでもいい代物だ。

 それよりも緑とオレンジのランプが点灯したと言うことは、少なくてもバッテリーは生きていると言うことらしい。

「次にガソリンを確認してから、燃料供給コックを開くと……」

 NS-1には燃料計がないからガソリンの有無は車体を揺らして確認しろと、すさまじくアナログな指示に面食らいながら、蒼乃は燃料コックを探す。コックの位置はよく分からないが、イラストによるとバイク左側面のシート下あたりに、丸がつけられていた。

「イラストだとこの付近のどっかにあるはずだけど……これかな?」

 蒼乃は、NS-1のシートと一体になったリアカウルの真ん中付近にあいた切り欠きの中にそれらしいコックを見つけると、そのコックを燃料の導管と平行になるように回した。導管に対してコックを横にすればとじるで縦にすればひらくなのは、国際規格である。それは水道だろうとガスだろうとみな同じだ。

「次にチョークレバーを引くと書いてあるけど……チョークって何?」

 蒼乃は思わず首をひねった。蒼乃の場合、チョークと言われて思い出すのは黒板に板書するための白墨だ。

 だがいくら何でも白墨を、バイクの始動に使うとは考えられない。

 するとこれは同音異義語って奴だろうか? 蒼乃はとりあえずチョークという言葉にアルファベットを当てはめ、ありそうな単語を頭に中で検索する。

「チョーク……choke? こんな単語あったっけ?」

 少なくても受験英語にはないと思う。通学鞄の中には英和辞書が入っているが、玄関まで取りに行くのが面倒くさい。

 とりあえずルーズリーフに書かれた、このあたり・・・・・を参考にバイクを覗き込むとシルバーグレーのフレームに黄色い三角のシールが張られていることに気がつき、それにはChoke!の文字が書かれていた。

「この三角が場所を示す矢印とするなら、チョークレバーはこの下なのかな?」

 蒼乃がフレームの下に手を差し入れると、確かにそこには直径二センチほどの円形のレバーがあり、引っ張り出せるようになっている。

「これ……かな?」

 試しに指で引いてみると、ほんの少し飛び出てきた。力はほとんど必要なかったが、それが逆に不安を感じさせる。

「これでいいのいかな? この程度で何がどう変わるか、全然分からないけど……」

 エンジン横で座り込んでいた蒼乃は、立ち上がると首をひねった。祈のルーズリーフによれば、これでエンジンをかける前段階が全部終了し、後はエンジンをかけるだけらしい。

 バイクにまたがって、車体右側面にあるキックスターターレバーを蹴り下ろせばエンジンがかかるとのことだ。エンジンに、何も問題がなければ。

「つまりこのNS-1の価値が、ここで決まるってことね」

 この兄の残したNS-1が、オートバイたり得るのか、それともただのクズ鉄になり果てたのか。エンジンのかからない不動車なら、買えて中古のグラボがせいぜいだ。

 蒼乃は思わず緊張を和らげるために一つ大きく深呼吸すると、NS-1にまたがろうとしてその動きを止めた。

「これ、どうやってまたがるの?」

 蒼乃が通学用に使っている自転車は、サドルの前のフレームが自転車下部に向かって弧を描いているため、そのフレームをまたいでサドルに腰を下ろすことができる。

 だがNS-1はシートの前にタンクがあり、しかもそのタンクの下にはエンジンがある。当然自転車同様の方法で、シートに腰を下ろせはしない。

 これはどう考えても前からまたがるのは不可能だ。

 そう判断した蒼乃は肩越しに背後を振り返った。前からが無理なら後ろから足を回すしかない。以前テレビで見たロードバイク型の自転車が、確かそんな乗り方をしてたのを思いだし、蒼乃はバランスを崩さないように両手でハンドルを握ると、右足を勢いよく後方へ振り上げ、そのまま固まった。

 ……これは……一歩間違えるとスカートの中が丸見えになるのでは?

 現在蒼乃がいるのは自宅の庭だから、蒼乃のスカートの中を見れる人間はいないし、現実にもスカートの長さや足を上げる角度を気をつければそんなことはそうそう起きるアクシデントではないと思うが、だからと言って街中で行えば煽情的行為ハレンチと指摘されるだろう。

 蒼乃は表情を硬くすると、振り上げた足を下ろし、ハンドルからも手を離した。

「やばい……いくら何でも軽率けいそつだったわ」

 言いながらも頬が朱に染まっていくのが分かる。この場所が家の庭で誰も見ていなかったから良い物の、これを街中でやっていたら、絶好のシャッターチャンスを提供しただろう。

 蒼乃は世間で女性がオートバイに乗らず、スクーターに乗る姿を多く見る原因を、なんとなく理解した。少なくてもスカートを履いている限り、この乗り方はできない。それならオートバイよりも、どんな出で立ちでも乗れるスクーターを選ぶだろう。

 女性の傾向として、身にまとったり、つけたりする物はファッションだが、それ以外はただの道具だ。道具である以上求めるのは利便性、快適性、合理性であり、それならパンツルックでしか乗れないオートバイよりも、どんな服装でも乗れるスクーターを選ぶ。さらに言えば、天候に左右されずにスピードもさほど出ず、小型の上に荷物も人も運べるのに維持費の安い軽自動車が一番だ。

 NS-1を語る祈を、美弥はロマンチストとからかったが、逆に言えばそうでも言わないと祈の心情を理解できなかったからでもある。ロマンチストでない限り、普通はただの機械のかたまりに感情移入などしない。

「しゃぁない、着替えてくるか」

 蒼乃は大きくため息をついてつぶやいた。家に誰もいないので玄関先に鞄を放っておいても怒られないとふんだのだが、結局自室に戻らなくては先に進めないようだ。

 蒼乃はルーズリーフを縁台に置くと、風で飛ばされないよう重し代わりの植木鉢を置いて、玄関の鞄を回収して自室へ向かった。

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