第2話 初恋に浮かれた聖女

 胡桃は浮かれていた。

 異世界――いいえ、自分がいるべき本当の世界に戻ってきて、運命の人と出会えた。しかもそれがめっちゃイケメン。

 元の世界では男子に縁がなかった。というか、見下されているのが分かっていたから近づかなかった。

「お前の母親、真夜中に男とホテルに入っていくの見たぜ」

 そう伝えてきた男子がいたが、それは善意だったのか悪意だったのか。他の人もいる前で言ったのだから善意であっても迷惑でしかなかったが。

 ホテルってどんなところ? よく利用するの? 何で父親以外の人と入るの? どうして母親が夜中に家にいないの?

 好奇心を刺激されたクラスメートが矢継ぎ早に質問してきたが、母親と胡桃がごっちゃになって聞かれるのも堪えがたかった。それに何でと言われても胡桃自身が知りたいことだ。どうして父母は仲が悪いのだろう。どうして自分の家は普通ではないのだろう。そんな事情を面白がって聞いてくるクラスメートには嫌悪感しかない。

 お前も利用したいなら一緒に行ってやってもいいぜ。

 そんな風に冗談めかして言う男子がいたが、気持ち悪くて仕方なかった。中学生なのに同級生を無料ホステス扱いするとは。性欲がやばいのはお前のほうだと言ってやればよかったと今になって思う。


 地獄みたいな環境にいた男達と違って、ミゲルはひたすら紳士で優しかった。顔が良いだけでもときめいてしまうのに、甘い言葉を何度もくれたらそりゃあ恋に落ちる。



 神殿に戻った胡桃は、週に三日ほどはどこそこの有力者だの領主だの有名人だのが病気や怪我で運ばれて来るのを治癒し、一日は完全な休日を過ごす。そして残った三日はミゲルとのデートを楽しむ日々を送っていた。

 植物園らしき場所で施設の人に案内されながら高価な花を巡る一日や、海辺で観光客に混じって遊ぶ一日。貴族でも滅多に取れない観劇のチケットを持って王族しか入ることを許されないはずの桟敷席で観覧。実に優雅な日々だった。自分は選ばれた存在なのだから当然とふんぞり返っていた。高価な花を私室に飾りたいとミゲルに買わせ、肌が焼けるからと常にミゲルに傘を持たせ、桟敷席でも飲み物や食べ物を運ぶのはミゲルの仕事だった。だって私は偉いもの。

 だが華やかな日々に気を取られて胡桃は気づかなかった。

 ミゲルは、決して二人きりにならない場所でしかデートをしないことに。しかも暗くなる前に必ず帰るのだ。


 一度、不審に思った胡桃が「恋人は夜の時間も遊ぶものでは?」 と聞いたことがある。ミゲルは「聖女はおませさんですね。成人していないのにそれはいけないことですよ」 と笑った。

 胡桃は母親がそうだったからつい聞いてしまったと思い至って顔から火が出るほど恥ずかしくなった。そういう遊び人な知人が身近にいると白状したも同然だ。以来ミゲルとのデートに文句を言うことはしなくなった。文句どころか「自分を大切にしてくれている」 と感動すらしていた。


 そう、自分は大切にされている。ミゲルと視察という名目でデートする以外で神殿を出られず、閉じ込められたような環境は、貴重な聖女を守るため。ミゲルは胡桃とデートする時以外でも大神官の仕事で外に自由に行っているけれど、一番偉い人だから一番忙しいのだろうと納得している。鳥かごの鳥のような自分と、自由に羽ばたける鳥のようなミゲル。自分がいない時はどうしてるだろうとは思っていた。


 ある日、侍女のおしゃべりで、王都では恋人の刺繍入りのハンカチを持つのが流行りだと知った。

 胡桃は早速侍女に命じて刺繍を習う。

 なんでも大神官の象徴は黄色い薔薇なのだという。下品ではない程度に小さく、けれど黄色い薔薇であると分かるようには適度な大きさで。細かい作業は苦手だが、離れていても自分のことを思ってほしいとロマンチックなところがある胡桃は一生懸命縫った。


 そんなある日、週に一回行われるミサに聖女として参加し、刺繍で傷ついた手を隠すためしていたレースの手袋を置き忘れたことに気づき、慌てて神殿に戻った時だった。


 暑いとついつい外しちゃうんだよね、失敗失敗。最後まで残っている神官さんとかが忘れ物に気づいてるかな?

 神殿に入ると、二人の神官がだるそうに何事かを会話していた。


「……それにしても、大神官様もお可哀想に」

「聖女のことですよね。あれは……ね」


 胡桃は片づけを行っていた下級神官がそう噂しているのを聞いてしまった。大神官、つまりはミゲルのこと。聖女。それは自分しかいない。

 ミゲルが聖女のことで可哀想って、どういうこと?


「仕方ないとはいえ、聖女はまだまだ子供っぽい。成人した大人が無理矢理付き合っても子守にしか思えないだろう」

「というか、聖女様は本気でミゲル様が自分に惚れているなんて思ってるんですかね?」

「逆に聞くが、そう思っていないように見えるか? 週の半分近くを遊興に過ごす聖女だぞ? ここがどういう場所か全く分かってない。神に生涯を捧げた者だけが神殿に入るべきだというのに」


 それまで能天気に過ごしていた胡桃だったが、実は自分はそんなに歓迎されていない存在だと知って頭を殴られたかのようなショックを受けた。続けて多大な羞恥心に襲われた。迷惑に思われているのも知らずに気ままに過ごしてたんだ、私。ここの場所の意味も考えずに遊びほうけて……。で、でもミゲルが運命だって。成人したら結婚するって。それが聖女だって言ってたのに。


「王命とはいえ、ミゲル様は気の毒ですよね」

「万が一にも聖女の機嫌をそこねて、今後の召喚の儀に妙な影響があったら困るからな。馬鹿の機嫌をひたすら取り続ける苦行のストレスは計り知れないよ」


 胡桃は忘れ物を取るのを諦めて自室に戻った。その日は夕食も取らずに寝込んだ。

 心配したミゲルが「聖女様がお疲れのあまり横になっていると聞いて。いかがされましたか?」 と訪ねてきた。

 全部嘘だったのかと怒鳴ってやりたかった。けど怒鳴ったところで何が変わるんだろう。

 ミゲルだって被害者だ。しかも神殿仲間から同情されるくらい。対して胡桃は加害者に分類されている。神殿の都合も考えずに長らく遊びほうけていたから。

 騙したと喚いたところで誰が同情してくれるだろう。

 それに、それに真実を知っているぞと伝えたら、ミゲルはもう優しくしてくれないんだろうか。


「何でもないの。ちょっと疲れただけ」

「そうですか……。あとで侍女に行って、食べやすいものを部屋に運ばせましょう」


 変わらず優しいミゲルが去ったあと、胡桃は日記に本音をぶちまけた。言葉は通じるけど文字は通じないこの異世界なら誰に見られようが困ることはない。


『最低』

『人を騙して楽しかったか』

『私は元の世界を捨てさせられたのに』

『私は聖女なのよ、無礼を働くなんて許せない』


 ひとしきり書きなぐると、段々自分の中から反論が起きる。


『でも彼だって本意じゃなかった。王命って言ってたし』

『そもそも子供に本気で恋愛するってよくよく考えたらやばくない? そういう振りをしているほうがよっぽどまともだよね』

『元の世界に戻れなくてもどうともしないじゃん。未練がひとつもないんだし』

『少なくともみんな人前では聖女様って崇めてくれるし、毎日あったかいご飯と清潔な寝床と綺麗な服が着られるし、ミゲルのことがあってもなくても元の世界よりずっと良い環境なんだよね……』

『偽りの優しさをくれたミゲルだけど、じゃあ私はミゲルに何かしてあげたっけ? 運命の人だし聖女様だからって要求するばっかだったような。唯一ミゲルにあげようとしてる刺繍ハンカチも、浮気防止のアイテムにするつもりだったし』

『……地位を笠に着て偉ぶってばっかり? これって振られても仕方なくない?』


 冷静になると、聖女になってからというものすっかり調子に乗っていた自分のやばさのほうが目について胡桃は頭を抱えた。

 いくら可哀想な事情があっても、長年偉そうにされて実害被ってたら誰でも嫌うよね……。

 ふと、故郷で母親にいつも言われていた言葉が蘇る。

「あんたがいなければ離婚できたのに」

 結局自分という人間は、どこの世界でも足かせにしかなってないんだな……。

 いや、せめてここでは常識ある人間でいたい。やり直せるなら、今からでも立派な聖女になりたい。

 ミゲルの運命の人でなくても、この世界なら自分には聖女という存在意義がある。何も無かった元の世界と比べてそれがどれだけ有り難いか。

 胡桃は早速明日からミゲルと距離を取ろうと決めた。嫌がられていると知ってまで以前と同じ付き合いを続けるほど心臓に毛は生えていない。

 ふと、机の上のハンカチが目に入る。

 黄色い薔薇の刺繍がほどこされたハンカチは昨日で完成していた。自画自賛ではあるがよく出来ていると思う。けれど、嫌いな女に念のこもったハンカチなんか送られても引くだけだよね、と胡桃は引き出しの奥にしまった。そしてぽつりと呟く。


「一年かあ」


 それは胡桃がこの世界に来てから経っていた年月だった。つまりミゲルとの交際期間。いや、交際している振りをしていただけだから、そう言うのは正確ではないかもしれない。ともかく、ミゲルと知り合って疑似恋人になって一年だ。運命の恋だと思っていた初恋は、一年で消えた。



「大神官様」

 そう胡桃に呼び止められたミゲルは一瞬違和感を覚えたが、小娘相手の違和感なんて大したことではないだろうと放置した。

 胡桃はいつもミゲルと呼んでいた。役職名で呼んだことは一度もない。まして様付けで呼ぶことも。

「どうしました聖女様」

 そう返事された胡桃はあることに気づいて納得していた。

 この人、一度も私の名前を呼んだことがない。ずっと役職名で呼んでいた。仕事で恋人の振りしてるだけなんだから、そりゃそうだよね……。

 軋む心を叱咤して、胡桃はミゲルに訴える。

「大神官様、私、気づいたのです」

「ええと、何にでしょうか」

「私、聖女だというのにあまりにも堕落した日々を送っていると。いくら大神官様と一緒にいるのが楽しいからって、週の半分近くも遊び歩くなんて聖女としてもってのほか。これからは休日以外、毎日病人や怪我人を治療しようと思うのです。聖女とは本来そういうものでしょう?」


 ミゲルは意外には思ったが、そのほうが都合が良いなとすぐ考えた。

 神官仲間からはあまりに聖女らしくないと度々苦情が出ているのは事実。外に出られない、異性と付き合えない立場の自分達と違って、偉い立場の聖女が好き勝手やって腹が立つという嫉妬もあるとは思うが。

 何より自分も最近気になる女性が出来たため、聖女をうまいこと追い払えないかと思案していたのだ。まさに渡りに船。


「素晴らしいお考えですね。私も聖女様相手に浮かれておりました。今後は会うことも控えましょう。今まで言わずにおりましたが、身分低い者から遊びすぎだと言われることもありましたので」

「……はい」

「ではそのように。私は仕事に戻ります」


 去っていくミゲルの背を見て、週に三回はデートしていた仲だったのに、このあっさりとした終わり方。本当に情の欠片も無い関係だったのだなと胡桃の目が潤んだ。


 しかし悲しみにひたってはいられない。

 ミゲルと交際をやめるなら説明しておかなければいけない人達がいる。聖女の専属侍女達だ。

 何をどう説明されたのか、胡桃を将来の大神官の妻として扱う侍女しかいない。若いうちから媚びを打っておこうという算段なのかもしれない。

 事実上破局した今、そんな聖女の侍女が嫌なら辞めても構わないと伝えるべきだろう。

 でもどう説明したのものか。別れるって決定的なこと言った訳でもないし……。

 思い悩んで侍女達の様子を見に彼女達の部屋に行くと、そこでは壮絶な苛めがおこっていた。


「どうしたの? 飲みなさいよ」

「そうよ。先輩達が心をこめてお茶を入れたのに」


 何やら不穏な空気が流れていたので、思わず盗み見すると、長くこの場にいる侍女達が最近入った新人に虫の入ったお茶を飲ませようとしていた。


「い、嫌です……」

「何その態度。新人の癖に先輩を馬鹿にするとは良い度胸ね」

「成金の平民が生意気なのよ。いいから黙って飲みなさいよ!」


 新人が無理矢理押さえつけられて飲まされようしているのを見て、胡桃も黙っていられなかった。


「何してるの」


 突然の聖女の登場に動揺が走る。だが侍女頭の女はすぐに気を取り直し弁明した。


「これは聖女様。このような所にいらっしゃるとは思いませんでした。いえ、新人があまりに無礼なので、ちょっと躾を……」

「虫入りのお茶を飲ませるのが躾なの? 初めて聞いたわ」

「せ、聖女様はご存じないかもしれませんが、これは田舎の特産なのです。悪いのは見た目だけですよ。私達は新人に度胸をつけようと……」

「嫌がらせじゃないの? ふーん……じゃあまず貴方が飲んでくれない?」

「え」

「どうしたの? 悪いものではないんでしょう。さあ早く」


 ごまかしがきかないと思った侍女頭は大きな声で聖女も新人も怒鳴りつける。


「今更正義の味方気取り? 良い人ぶってんじゃないよ! 遊び歩いてばかりの浮かれ聖女が!」

 やっぱり世間ではそういう認識なのか、と胡桃は確証を得てしまった。分かってはいたけれど直接罵倒されると中々くるものがある。だが悲しむのはあとだ。

「そうね、浮かれ聖女だったわね。貴方達もそんな浮かれ聖女に従うのは苦痛でしょう。苛めで憂さ晴らしするくらいにはストレスが溜まっていたようだし。いいわ。退職金は出すから出て行ってちょうだい」

 15になったばかりの胡桃だが、精一杯大人の出来る女っぽく振る舞う。一年も人を傅かせる立場でいただけあって、それなりに無理のない演技だった。

 苛めをしていた侍女達は「貴族である私達を追い出すなんて、平民の肩を持つのですか」 と口々に言った。元の世界で平凡以下の一般人でしかなかった胡桃は新人に感情移入してしまう。

「じゃあ貴族なら平民に何をしてもいいと? そんな考えがまかり通ったら国は崩壊する。私はそう思う」

 漫画で軽く読んだ程度だけど、庶民を侮っていた王妃が革命を起こされて転落したケースは知っている。落ちる時は本当に一瞬なのだ。だがそんな心境を知らない侍女達は「聖女の地位を享受して置きながらダブスタ? やってられない」 と次々去っていった。

 残ったのは新人のみだった。


「あ、あの……」

 か細い声だ。そばかすだらけの顔が一層平民感を出している。何となく、元の世界で浮いていた自分を思い出す。

「余計なことだったかしら」

「い、いいえ! ありがとうございます聖女様! まさか聖女様があんな風に仰ってくれるだなんて……。私、親に言われて花嫁修業の一環でここに来たんですけど、平民出身だからってあることないこと言われて、苛められてばかりで、でも貴族じゃないから仕方ないって思ってたのに……私、一生聖女様についていきます!」

 そんな大層な人間ではない、と思ったものの、これから以前と180度違う生き方をするのだからこれくらい忠誠心を持ってくれる人が必要ではないかとも思ってしまう。


「貴方、名前は?」

「あ、これは失礼しました。私はソフィアと申します、聖女様」

「ソフィアね。覚えたわ。知らないかもしれないけれど、私の名前は胡桃っていうの」

「胡桃様と仰るのですね。でも恐れ多いので普段は聖女様と呼ばせて頂きます」

「それでいいわ。ねえソフィア。私、貴方を重用しようと思うの。ついてきてくれる?」

「もちろんです、聖女様!」



 侍女はこれまで十人いた。それがソフィアを除いて全員辞めてしまった。その異常事態にミゲルに次ぐ地位にある高齢の神官が訪ねて来て「私はアレホと申します。何でも侍女が一斉に辞めたとか……何かトラブルでもございましたか?」 と恐る恐る聞いてきた。

「トラブルじゃないわ。ただ、私なんかに侍女が多すぎたの」

「と言いますと?」

「これからは聖女の仕事に専念するつもりです。だから侍女はソフィア一人で結構。アレホ様、病人も怪我人も、この世界にはたくさんいるのでしょう? どんどん私に回してください」


 それまで世間では何故か王族と婚姻もせず、清廉な聖職者だけがいるはずの神殿に所属している割に、やたらと遊んでばかりの聖女というネガティブな印象の強かった胡桃だが、ある時から人が変わったように治療に精を出すようになり、世間の目も少しずつ変わっていった。


「格安で治療してくれるんだよ。時間内なら何人でも」

「へー、前までは王族しか治療してくれなかったのにねえ」

「でもこの一年は何だったんだろうね」

「異世界から来たんだろう? 環境の違いに慣れてなかっただけかもしれない」

「何にせよ。金さえ払えば病気が治せるっていうのは有り難い。金が無い人間には神殿への労働力提供でも良いっていう融通の利きっぷりだしさ」


 世間でそんな声が出始めていたが、最初無料で奉仕しようとした胡桃を「タダにしたら侮ってくる人間ばかりになる」 とソフィアが強くとめ、病状に応じて値段を設定、更にお金の無い場合の代替案などはすべてソフィアが考えた。父親が有力商人というソフィアならではだ。なのに評判はすべて胡桃のもの。これで良いのかと聞く胡桃に「主人の評判は侍女の評判です!」 とにっこり答えるソフィア。商売人としての才能だけでなく、侍女としても優秀で、胡桃に良い化粧水、栄養価の高い食物、毎晩の香油を刷り込むマッサージと、太い実家をいかしての仕えっぷりが見事だった。胡桃にとってこの世界で一番信頼できる相手といえば、最初はミゲルだったが今やすっかりソフィアになっていた。



 そんなある日、ソフィアが胡桃の部屋の掃除をして、黄色い薔薇の刺繍がされたハンカチを見つけた。

 大神官の象徴であるそれ。大神官に贈るものなのだろうと察しがついたが、それならどうして引き出しの奥なんかに? と疑問に思い、持って行って胡桃に聞いた。神殿から出られない身だから渡せないというなら、自分が渡しに行こうかとも提案した。

 胡桃は悩んだが、常々誰かに聞いてほしいと思っていたのもあり、ミゲルと恋人のつもりだったが、向こうは王命で仕方なく付き合っているだけだったと分かって渡せなくなったと笑い話のつもりで語った。

 ソフィアは激怒した。

 いわく、世間では聖女と大神官は恋仲だとなっている。自分もそう信じていた。違うというならじゃああの噂は本当なのかと。

 噂とは何だと胡桃が聞くと、ミゲルはここ最近、侯爵令嬢のエリーとかいう女性にぞっこんなのだと。聖女という相手がいるんだから性質の悪いゴシップだと思っていたが、聖女と恋人じゃないというなら事実じゃないか、と。

 元々付き合ってないのだから浮気ではないと胡桃が笑いながら言ったが、ソフィアはこのままではまずいことになると言う。

 その時は意味が分からなかったが、数日後、父親の伝手で市井の噂を調べたソフィアがこんな話をした。

「最近、庶民の浮気男の間では『聖女は浮気に寛容なんだからお前も寛容になれ』 と言うのが流行りみたいですよ。悪い有名税ですね……」

 胡桃は困惑した。有名人になるとこんなことの責任まで負わされるのかと。ともかく何も悪くない女性を苦しめるのは本意ではないし、ちゃんと付き合っている者同士の浮気は普通に絶許だ。何とかミゲルに人目につくような遊びはやめてほしいと伝えようと思うが、神殿から出られない以上何をどうしていいのやらだ。庶民に向かって何の弁解も出来ない。いや、弁解するならそもそもミゲルと付き合っていないということを話さなくてはいけなくて、でもそれは王命だから王家にしたら都合の悪いであろう話を許すかどうか……。

「私の名前をお使いください。聖女様自身だと何かと角が立つでしょう?」

 申し訳ないとは思いつつソフィアに甘えることにした。ソフィアは笑って許してくれた。


 その後、ミゲルには聖女の筆頭侍女から「主人を差し置いて堂々と浮気とはどういうことだ。するなとは言わないが、既に世間に面白おかしく噂されている。もう少し控えめにしたらどうか」 という言い分の書状が来た。届けに来たのはあのアレホだ。

 アレホもまたミゲルの浮気には手を焼いていた。そもそも大神官が恋愛するなと言いたくなる。とはいえミゲルは大神官になった経緯が経緯だからと強く言うことも出来ないでいた。

 胃を痛くしているアレホの前で、ミゲルは手に持った書状を勢いよく破り捨てた。

「大神官様!? 何をなさいます!」

「不快だ。侍女ごときが生意気な。主人が何とも言ってこないのに侍女が他人の、しかも大神官の事情に関わってくるな。無礼にも程がある」

 アレホは開いた口が塞がらなかった。そもそも神殿関係者は恋愛禁止だ。聖女が堂々とそれを破るから彼女は顰蹙を買ってミゲルは同情されたというのに。聖女が聖女らしくなって評判があがったところでどうして大神官が恋愛などするのか。世間的にはお前の浮気だぞ。アレホは痛む頭を抱えながら進言する。


「し、しかしですね、聖女様も他の女性と堂々と遊ばれたと知られたら傷つくでしょうから……」

「? 聖女は知らないのだろう? 神殿に閉じ込められているのだし」

「え? あ、あの……」

「こんなもの侍女が勝手に言っているだけだ。無視すればいい。知らなければ全員平和でいられる。まったく、知らない所で色々言われるとか、エリーが可哀想だ」


 アレホは呆気にとられた。

 侍女が知っているのにその主人が知らない訳ないだろ。と思ったが、ミゲルが下級貴族の三男の出身だったことを思い出してハッとする。

 嫡男でないし魔力量の多さをあてにして、食い扶持減らしのために両親はミゲルを幼少から神殿に預けていたと聞く。だからまともな教育も受けてないし人の心の機微に疎い。

 そして大神官が何故40以上でなれる地位なのか分かった。20代には荷が重すぎる。社会経験無いから一度やらかすと大変なことになる。それに若いとこのようにすぐのぼせ上がる。ミゲルは大神官になるべきではなかった。

 だがアレホにはどうにも出来ない。ミゲルは孫のような年齢でも上司だ。何より王命でその地位についた。これ以上抗議しようものなら物理的に首が飛ぶ。

 了解しました、と蚊の鳴くような声で言って退出し、ミゲルはこう言っていたとソフィアに伝えた。

 あいつ逆切れかましましたよ、とソフィアが胡桃に伝えると、胡桃は落ち込むどころか逆に笑っていた。

 凄いね、恋に溺れるってこういうことなんだね。ちょっと前の自分を見ているみたいで笑える。自分がそうだったんだから大神官を責められないよ。むしろ彼も同じになってくれてホッとしたかも。とにかく関係者が抗議したって事実は残ったんだから、この件はこれでおしまいにしよう。

 ソフィアはきっと侍女の自分を気遣って気丈に振る舞っているのだと思ったが、胡桃は素だ。

 感動で泣きながら部屋を退出しようとした時、あの黄色い薔薇のハンカチを預かったままなのに気づく。埃を被っていたので洗濯したのだ。

「胡桃様、そういえば刺繍入りのハンカチですが、いかがいたしましょう」

「……うーん。もういっそ捨てたほうがいいのかな」

「あの、よければ私に任せていただけませんか?」

「ソフィアに? そうだね。そのほうがいいかも」

「ありがとうございます」


 ソフィアは思っていた。

 ミゲルめ。私の敬愛する主人によくも無礼を働いてくれたな。心情的には今すぐ破り捨ててやりたいくらいだけど、仮にも聖女様がお手ずから縫ったもの。それだけでも家宝に出来るくらい価値はあるし、それに……。

「もしかしたら何かの役に立つかもしれないもの」

 ソフィアは匂い袋とともに箱にいれ、大切に大切に保管した。



 ミゲルの浮気騒動以降は特に事件もなく、胡桃は穏やかな毎日を過ごしていた。


 元の世界で母親のことであれこれ言われ、息をひそめて生活するような毎日とは大違いだ。毎日患者が訪ねて来たり、急患が運ばれて来たりでそれなりに忙しいけれど、このままの日々が永遠に続いてもいいのに。このままソフィアが傍にいて、私は優秀な聖女を一生懸命演じる。そのままある日ぽっくり死ねたら最高の人生だな。


 胡桃は日記にそんなことを書いていた。

 自分が良い聖女なんて少しも思っていないし、休日以外仕事漬けなのは、そうするほうが何も考えずに済むから。

 世間では素晴らしい聖女様って言われてるらしい。人並みにある承認欲求はそれで完全に満たされる。これでいいんだ。


 日記を閉じた。ベッドに横になる。

 ふと気づいた。明日でここに来てから二年になると。

 でもだからといって何だという話だ。去年は、ミゲルの真実に気づいて酷く傷ついた。縁起が悪い日でもある。まあ二年目だし、特に何もなく終わるだろう。


 だが、変事というのはいつも突然やってくるものだ。

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