第3話 王太子の憂鬱

 胡桃が異世界に来てから二年経ったその日、胡桃のいる神殿に急患が来た。

 全身大火傷を負った男性だ。服は焦げてボロボロ。肌という肌は焼けただれているが、かろうじて体格から男性と分かる。それくらい酷い状態だった。

 何でも木造の屋敷に落雷が落ち、それが原因で火災が発生。男性は逃げ遅れ、護衛が救出した時にはこの状態だったと。

 胡桃はその時は別の患者の世話をしており、すぐには運ばれて来た男性のもとへは行けなかった。

 火傷を負った男性は他の神官達が応急処置にあたっていた。男性にとって運の悪いことに、その神官達は口が軽く、更に悪気なく人を傷つけることを言う人間だった。


「おい見ろよこの患者。もう長くないんじゃね?」

「どれどれ……うわー酷いな。俺だったら生き残っても死にたくなるよ。火傷って痕が残るんだろ?」

「それにこれじゃいくら聖女様でも間に合わないんじゃないか? 以前も地滑りで倒木に下半身を粉砕された患者は無理だったしな」

 こんな火傷じゃ意識もあるまいと侮っていたから好き放題していた。


「しぬんですか」


 突然、神官二人の耳に人の声が聞こえた。


「まにあいませんか」


 患者だ。意識があった。しかもばっちり聞こえてた。

 やばいと絶句する二人のところに、ようやく聖女が訪れた。

 遅くなってすみませんと言う胡桃に何があったかは一切告げず、神官達は気まずさのあまり用事を思い出したとそそくさと去る。中々の卑怯者だ。

 胡桃は普段から怪我や病気の悪化した患者は見慣れているため、酷い状態に引く様子もなく安心するように語りかけた。


「もう大丈夫ですよ。今から治しますから」

「……いいんです」

「え?」

「もう、いいんです」

「何言ってるんですか。待ってる人もいるでしょう? さあ、手を握りますよ」


 聖女の力は使う度に強くなるらしい。効果は同じだが、治るスピードが違う。

 胡桃が手を握るとみるみるうちに皮膚が再生され、火傷が軽いものになっていく。何度か試してみて分かったが、酷い怪我は初回の治療ではどうしても肌に痕が残ってしまう。だが何回か治癒魔法を重ねがけしていくと、最終的には跡形もなく綺麗になるのだ。この人には何回か来てもらうことになるだろうなと治療しながら思う。


 やがて痕は酷いが、動くのに支障がないくらいに身体が回復した。

 改めて患者を見ると、面影から銀髪で翠目の美丈夫だと見当がついた。胡桃はどうも見覚えがあるような気がしてならない。だが「どこかで会ったことあるか」 なんてナンパのようなことを神殿で言うのは憚られた。

「生きてる……?」

 患者は自分の身体をぺたぺたと触って無事なことを確認した。胡桃も無事に治療が終わって安堵の笑みを浮かべる。他に異常がないか確認すると、ささっと身体に清潔な布をかけて裸を見られないようにした。

「はい。でも火傷痕が気になりますよね。期間を置いて何回か治癒魔法をかければ綺麗になりますよ。次回はいついらっしゃいますか?」

「……あ、家族に、確認しないと」

「そうですか。ではお名前を伺っても? 仰っていただければ優先的にお通しすることができます」

「……」

 患者は黙ってしまった。胡桃は「ああ、言いにくい事情があるんだな」 と察する。浮気相手といる時に怪我をして緊急搬送、なんてことが今までにも数件あった。こういう時の対処はソフィアに教えて貰った。

「じゃあ次回からは暗号で確認を取りますので、五桁以上の数字を決めてください。書かれた紙を受付に見せてくだされば私が行きます」

「は、はい……」



 いくら容体の酷い患者であっても、胡桃にとっては数か月に一回くらいは診る程度の患者だった。なので分かれたあとも特に思い出すこともない。

 だが胡桃に治療された患者はずっとぐるぐると胡桃のことが頭から離れなかった。神殿から出る時に迎えの使者がついており、大声で呼ばれた。

「ご無事でしたかマルシオ様!」


 そう、患者は王太子であるマルシオだった。

 世間では、特に高齢のものほど王太子は聖女と結婚するものと思っている人間が多い。マルシオは公爵令嬢ベリンダと結婚すると決めているのだが、いくら言っても先祖代々続いてきた慣習による認識は簡単には変えられない。するとベリンダが正妻から寝取る悪女のように言われ始める。やむなく数少ない逢瀬もひと気のない場所にしてひっそりと恋を楽しんでいた。

 が、ある大嵐の晩、これも情緒があると古い屋敷で逢瀬を楽しんでいたら屋敷に雷が落ちた。そして運悪く発火。屋敷は凄まじい勢いで燃え始めた。愛する人を守ろうとベリンダを先に逃がそうとしたのだが、べリンダは狂乱して一人で先に逃げてしまった。初動が遅れたマルシオはともかく逃げようとはしたものの、逃げた先でベリンダと一緒にいるところを見られたらまた世間にとやかく言われると、脱出をためらってしまった。だが火は想像以上に燃え広がり、マルシオはあっという間に火に囲まれた。護衛達が外で待機していたものの、興奮状態であらぬ方向に走っていくベリンダを追うことに意識がそれてしまい、救出が遅くなってしまった。やっと助け出された時にはマルシオは虫の息だった。

 本音を言うと聖女の治療を受けたくなかった。自分が彼女に何をしたかは自分が一番よく分かっている。だがもう選択肢がなかった。それに否定する余裕もない。

 大人しく聖女を待っていたら下級神官に言葉の暴力を浴びせられた。

 

 不思議と、恨む気持ちは湧かなかった。

 聖女のこと以外で人に恥じるようなことをした覚えはないが、逆に言えば聖女のことは自分に非があると思っていた。

 本来なら王宮で暮らしているはずの聖女を、神殿に押し込めてリーズナブルな医者扱いしている。先祖が怒っているのだ、と言われれば納得してしまうだろう。

 何より元々死にそうだった自分がまた死にそうになるのは、もはや死ぬのが天命のように思えた。酷い死に方をすれば先祖もさすがに同情してくれるだろう。このまま死んでしまいたい。

 そんな弱気なマルシオを一蹴するように、聖女は死の淵から救いだした。

 回復したマルシオににこりと微笑みかけたその顔は、普段マルシオの周りにいる令嬢達に比べれば特に美人でもないのに、何故か見惚れてしまった。

 彼女からどこの誰かと尋ねられても、とても答えらなかった。あの王太子だと知られれば彼女は態度を変えるだろうか? しかし彼女はそんな空気すら察して名乗らないでいいようにしてくれた。その心遣いには思わず感心してしまう。

 結局王宮に帰るまでの間、ずっと聖女のことを考えていた。


 王宮についてすぐベリンダからの使者が訪ねてきた。使者いわく、動揺のあまり貴方から離れてしまったことを後悔している。謝らせてほしいと言っているそうだ。

 そう言われて今までは暇さえあればベリンダのことを考えていたのに、使者と会うまで彼女を忘れていたことに気づいた。マルシオは彼女が自分を置いて逃げたとは思っていなかった。あんな緊急事態、誰だって混乱するだろう。非常時に思いもよらない行動をとってしまったことは彼女が一番気に病んでいるはずだ。

 幸い会うことに支障はなかったのですぐベリンダの屋敷に向かうことになった。

 だが出迎えたベリンダは、顔にも身体にも醜い火傷痕が残るマルシオを見て引きつったような声をもらし、気分が悪いからとさっさと部屋に引っ込んでしまった。

 マルシオとしては傷つかないはずがなかった。だが聖女が特別なだけで、普通の女性はああ反応するのが普通なんだと自分を納得させた。

 お茶だけごちそうになり、帰る前に挨拶だけしようと部屋に向かうとすすり泣くような声が聞こえた。本当に体調が悪かったのかと部屋に入ろうとしたところでベリンダの声が聞こえる。

「以前の骸骨のような姿よりもっと酷いわ。あれじゃゾンビよ。腐った死体が歩いてる。王妃になるのは夢だったけど、あんな気持ち悪い姿の王の隣に並ぶくらいなら死んだほうがマシだわ。もう嫌、せっかく自慢できる男の人になったと思ったのに」

 マルシオは聞かなかったことにした。あれはどうしようもない事故だったんだ。今の自分は確かに醜い。急に容姿が変わった恋人を見れば誰だって狼狽する。だから彼女にも同情の余地がある。

 だが冷めた心は戻りそうにない。自分だって傷つかない訳じゃない。

 聖女はそんなそぶりも全く見せなかったのに、長く付き合ったベリンダがよりにもよって……。

 



 ベリンダと距離をとるのに反比例するように、マルシオは聖女のもとに通った。

 すると判明する、聖女の超激務体制。午前は朝の九時から十一時半まで。午後は一時から五時までひっきりなしに訪れる患者を診ている。

 火傷痕の治療の際に思わず「疲れないのか」 と聞いてしまったが、「でも治癒魔法が使えるのは私しかいませんから」 とはぐらかされた。

 誰かが強制的に圧力でもかけないと過労死するまで働くんじゃないか。そう思ったマルシオは神殿に圧をかけて休憩時間を増加させた。また治療費も底上げさせた。また金持ちの年寄りに多い、大した病気でもないけど聖女に診てもらうのがステータスだからで立ち寄る連中は裏で脅した。

 胡桃はなんだか最近ゆっくりできてるような? と疑問符を浮かべていたが、侍女のソフィアはこうなってホッとしていた。胡桃が働きすぎなのは分かっていた。でもミゲルの浮気騒動のあとの胡桃ときたら、働いていないと息ができないとばかりに聖女の仕事に没頭していた。少し仕事を控えたらと言っても、今はこうしていたいからの一点張り。侍女ごときがどうして止められようか。しかも神官達はお布施が増えるから素晴らしいとばかりに聖女を煽る煽る。アレホは一応止めようとしたが、数の暴力には逆らえなかった。そんな逆風がやっと止まった。しかし誰が聖女を心配してくれているんだと探ると、なんとあの王太子にいきついた。


 ソフィアはミゲルの次にマルシオが地雷だった。

 お前が大人しく聖女を娶らないからミゲルにしわ寄せがいって、聖女もそんなミゲルに付き合ったために不幸になったんだろうがと。事実を知ったソフィアの行動は早かった。聖女は神殿では医者も同然だ。医者が患者のことを知るのは当然の権利だ。胡桃の優しさに甘えて正体を知られないままとんずらする魂胆なんだろうが、そうは問屋が卸さん!


「聖女様、あの火傷痕の患者さん、まだ診る気なんですか?」

「なんてこと言うのソフィア。あの火傷痕で生活するのは大変でしょう」

「あいつ王太子ですよ? 王太子マルシオ。聖女と結婚したくないからって大神官に丸投げした最低男です、諸悪の根源です!」

「……? 王太子と私が結婚? え? どういうこと?」


 異世界に来て二年と少しの胡桃。この世界の仕組みがまだ分かっていなかった。

 この時になってやっと聖女は王太子を治療して結婚するために呼ばれているのだと理解した胡桃だが、事実を知っても嬉しくなかった。

 実質二人の男から裏切りを受けているのか、と思うと悲しいだけだった。


 ただマルシオの前ではそんなことはおくびにも出さず。ひたすら良き聖女として努めていた。

 そんな胡桃を見ていたマルシオは、いつしか恋心を自覚していた。自分が何者か知らないだろうに、自分のあんな酷い状態も見たのに何て優しいんだろう。恋愛は容姿じゃない、心だ。胡桃の穏やかな笑顔をずっと見て居られたらどんなに幸せだろう。聖女とか関係なく、優しい胡桃が好きだ。結婚するなら胡桃がいい。

 しかしそれが叶わないことは自分が一番よく分かっていた。

 ミゲルがいる。ベリンダと結ばれるために聖女にあてがった男。最初の一年は悪評が立つくらいデート三昧だったと聞いている。彼がいる以上は……って、あれ? ミゲルは今何をしているんだ? 神殿にもいないで何を?

 簡単に調べると出てくる出てくる、侯爵令嬢エリーとの浮気話。神殿にも帰らず遊び歩いているらしい。お前大神官だろ。聖女の時は被害者扱いしてもらえたから大丈夫とでも思ってるのか。

 仮にも聖女という人がいながら何していると怒りたくなったが、考えてみれば自分が押し付けた関係だ。しかも聖女がいながら、というなら過去の自分にも当てはまる。王太子は聖女と婚姻するのが慣例だというのに、それをあっさりと破った自分。しかも先日まで散々ベリンダといちゃついていた。一番責められるべきなのは誰だろうか。

 マルシオは後悔していた。聖女がどこまで知っているか知らないが、彼女を本当に思うなら彼女の不幸の起点である自分は、治療が終わり次第目の前から消えたほうが彼女のためではないか。

 しかしそうしたくともミゲルの現状が酷くて見過ごせない。聖女はミゲルの浮気は知っているのだろうか? 報告を聞く限り、ミゲルは明らかに聖女を嫌っている。好いた女にする行動じゃない。聖女を誘惑しろ、結婚しろと命令したのは自分だ。とするとミゲルは散々遊んだあとにしれっと好きでもない聖女と結婚するのだろうか。今の扱いを見るだけでも結婚したからといって聖女に優しくなるとは思えない。これではあまりにも聖女が……。ともかく隠れ家にいるミゲルを見つけ次第、命令の撤回をしなければならない。そして出来ればその前に……。

 正体を明かして、聖女に告解と告白をしたい。



「もう大丈夫ですよ。治療は今回で終わりです」

 マルシオはそう胡桃に言われて喜ぶよりも絶望が襲った。治療が終われば胡桃に会いに来る口実が無くなる。

「あ、あの、聖女様、あの……」

「?」

「そ、その、僕、悩みが、あって……」

 肝心な時に口が回らないのが恥ずかしかった。令嬢達とはスマートに話していたのに、本命相手にはこうなってしまうのかと気づく。

「分かりました。身体の治療がメインですけれど、同じくらい心の治療も大事ですものね。ただ専門外なので失礼もあるかもしれませんけれど……」

 マルシオは喜んだ。そして助手などの目がある医務室を去って中庭を歩く。


「悩みとはなんでしょうか」

「悩みというか、言わなくてはいけないことが貴方にあって……」

「それは……」

「黙っていて申し訳ない。僕はこの国の王太子、マルシオ・アルコルタ。貴方がこの世界に来て最初に治療した人間です」

 騙していたのかと怒るか、それとも悲しんで泣くか。聖女の反応はマルシオの予想のどれとも違っていた。

「知っています。私に忠実な侍女が教えてくれました」

「え……」

「でもそれのどこが悩むことなのかは私にはよく分かりません。私は貴方が誰であっても治療しましたよ」

 聖女はいたって落ち着いていた。まるで興味がないかのように。

 いやそれはおかしい。憎むか恨むかしてもいいはず。それだけのことをしたのだから。

「話はそれだけですか? 申し訳ありませんが、次の患者が控えていますので……」

 あからさまに会話を終わりにしたい空気を感じ取り、マルシオは慌てて引き留める。

「待ってください、僕達、数分も話していないじゃないですか。前から思っていましたが、貴方は働き過ぎですよ。困っている人を助ける貴方は素晴らしいけれど、貴方自身の幸せをもっと考えても……」

 その言葉を聞いた胡桃はぷっと吹き出した。心底おかしそうだ。

「私の幸せ? ないですよ、そんなの。だって王族の方に嫌がられた聖女ですもの。せめて治療に精を出さなきゃ、私に価値なんてないじゃないですか」

 元の世界でも嫌われ、この世界でもたらい回しのすえに相手にされなくなった胡桃は自身のアイデンティティを聖女である事に求めた。

「……私に残った最後の存在意義まで奪うのですか? 貴方が」


 マルシオは絶句した。自分より年下の少女をここまで追い詰めていたことに。

 気が付けばマルシオは中庭で一人になっていた。思わずうずくまって泣いてしまう。

 違う、違う。こんなことを望んでいたんじゃない。こんな……。

 たまたま通りがかったソフィアがその情けないともいえる姿を見て、すたすたと近寄ったかと思うと生乾きの洗濯物を投げつけた。乾いているのもあるのに生乾きをチョイスしたのは完全に嫌がらせだ。

「悲劇のヒーローぶるならそれで涙ふいてください。まったく、元凶のくせになんで自分に悲しむ権利があると思ってるのやら」

 マルシオには不敬だとソフィアを罰するくらいの権力があった。が、それを行使したらただでさえ地を這う好感度の胡桃は、もう笑いかけることすらなくなるだろう。

 地道に罪を償うしかないのだ。



 マルシオは神殿には来なくなった。治療がやっと終わったんですね、せいせいしましたとソフィアは笑っていた。

 しかしマルシオが来なくなったその日から、神殿には送り主不明の届け物やら莫大な寄付やらが相次いだ。

 胡桃はそれが誰の仕業か分かっていた。伝手がないとソフィアの実家でも手に入らないような果物、高価な宝石、一流の職人が作ったと思われるドレスや靴まで。

 口に入れることはなかったし、宝石やドレスもクローゼットにしまったきり一度も袖を通さない。まともに使ったら妙な既成事実を作らせそうで面倒だ。それに贅沢なんかしてまた浮かれ聖女なんて呼ばれたくない。

 贈り物が無駄だと知るや、送り主は今度は手紙を送ってきた。ほとんどが当たり障りない季節の話。王族のくせにつまんない話題だなと思いつつ、そんなものでも、神殿から出られない身としてはちょっとだけ嬉しく感じてしまうのが悔しかった。

 ある日、送られた手紙が百通を超えたとソフィアが言った。根負けして結局返事を書いた。

 書いている最中に思う。神殿から出られない自分が書ける話題なんて限られている。それを気遣ってああいう内容になったのかな、と。

 やり取りが十通を越える頃、慰問という形で会いに行ってもいいかと手紙が来た。聖女にそれを止める権利はありませんよ、と返した。


 その日に急患が来たため、マルシオの対応はやむなく若い見習い巫女が行うことになった。胡桃としては親切のつもりだった。

 見習いは玉の輿にのりたいと常々言っていた。マルシオはその条件にぴったり。それに見習いは自分より若くて美しい。いっそなびいて二度と来なくなればいいのに。変な希望は持ちたくない。


 急患はすぐ治療され、ソフィアを伴ってマルシオのところに行くと案の定というか見習いはマルシオに言い寄っていた。

「マルシオ様、私、マルシオ様とは運命だと思うんですぅ」

「……そうかな」

「きゃー、クールで素敵! でも最近王家と神殿が対立気味って噂を聞いたんですけど、そんな中わざわざ神殿に来るってことは、やっぱり聖女を引き取りに来たんですか? 結婚するために?」

「さあね。でもそんな噂を聞いているのに、君はよく僕を誘惑する気になれるね」

「えー、知らないんですか? 今代の聖女は浮気に寛容なんですよ! 聖女も最初の一年は大神官様とラブラブだったけれど、今じゃ女のところに行って滅多に帰らないミゲル様を気にする様子もないし。これが正妻の余裕ってやつなんですかねー。という訳で、誰に怒られる訳でもないし、私と楽しみましょうよ」


 まだ聖女は浮気に寛容なんて話を信じる人がいたのかと胡桃は聞いていて頭が痛くなった。ソフィアがあの時まずいと言った意味が今になってよく分かる。隣のソフィアは小娘が事情をよく知らん癖に適当なこと言いやがってと怒り心頭な顔をしていた。


「……そう。そうかもね」


 突然見習いに同調し出すマルシオの声に、ああやっぱりかという気持ちになる。


「確かに君と出会えたのは運命かもしれない。君は美しい。好みだ。王妃になる覚悟はあるかい?」

「え、本当ですか!? 私が王妃に……!」

「ところで、貴族っていうのは結婚と恋愛は別って知ってる? 君は愛人は何人くらいが許せる?」

「……は? え?」

「聖女のことを持ち出すくらいだ、君も寛容なんだろう? 浮気は男の嗜みだ。当然うるさく言わずに我慢してくれるね?」

 突然無茶苦茶なことを言い出して熱でも出たのかと心配する胡桃をよそに、見習いはブチ切れた。

「何よ! 最低! 浮気なんてされて嬉しい女がいる訳ないでしょ! 結婚したなら私一筋になってよ! 女を馬鹿にしてるんじゃないわよ!」

 怒りだす見習いとは正反対に、マルシオは冷めた目で言い放った。

「……じゃあ君にとって上司にあたる聖女はなんなんだ? 女じゃなければ人間でもないのか? というか、君は自分が嫌がることを人に押し付けるのか? 聖女と婚姻するかもしれない男を誘惑するってそういうことだろう」

 見習いの少女はハッとした顔になったあと、バツが悪くて気まずそうな表情になった。マルシオはたたみかける。

「君が自分で言ったように、浮気されて傷つかない人間なんていない。いるとしたらそもそも恋愛関係でないか、立場上表に出せず、必死で隠しているかだ」

 マルシオはこれ以上少女の傍にいるのもお互い気まずかろうと立ち上がる。そして去り際に一つだけ訂正した。

「先程は浮気は男の嗜みだ、なんて言ったけれど、結婚したらお互い相手のために生きるべきだと僕は考えている。君も、そういう相手が見つかるといいね」

 マルシオが部屋から出る。胡桃は今彼と会うのが照れくさく思えて、咄嗟にソフィアと一緒に隠れた。隠れている間、完膚なきまでに振られた見習いの少女の泣き声が響いた。

 恋に浮かれてやらかした経験のある胡桃は気の毒な、と思ったが、胡桃に心酔するソフィアは自業自得だざまあみろ今日は良いワイン開けちゃおっとと考えていた。最初に先輩侍女に苛められたのは価値観の違いが大きすぎたこともあるのかもしれない。


 この日から、胡桃の中でマルシオはひたすらどうでもいい人(患者でないなら)からちょっとだけ誠実かもしれない人にランクアップした。


 文通にお互いの詳しい近況が書かれるようになったある日、ミゲルが胡桃の部屋に訪れた。

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