sideシエル 『剣士失格』



 初めて冒険者としてダンジョンに潜った時、シエルはダンジョンを臭いと思った。



 無理もなく、洞窟内は常に湿気っており、瘴気も滞留している。

 シエルが感じたものは古くなり流されていないまま滞った水の臭気なのだが、それが未熟なシエルにわかるはずもなかった。

 それからどんなダンジョンに潜っても、あの臭気を思い出す。

 平気そうな顔をして、雑談しながらダンジョン奥深くへ潜っていく仲間が信じられなかった。

 吐かないようにするだけで精一杯だった。


 あれからシエルは何も変わっていない。

 今も吐き気に耐えている。




 ダンジョンの岩場から結露した水滴が滴る。

 音に反応して逃げる虫型のモンスター。

 シエルは腰に佩いた剣の柄の位置を直した。何度直しても気になってしまう。

 ソロでダンジョンを攻略するのであれば、最奥部ではなく、宝箱の出現確率の高い区域を探索するのが常だ。

 最初からダンジョンコアを抜き取って攻略する気などない。

 かつて高位の魔族の建築家がデザインしたというダンジョンは、一定周期で宝箱がリポップされる。

 人間を賭けの対象にして楽しむための施設だったという噂もあるが、数千年前の真実など、もう誰も覚えていないし、シエルも興味がない。

 そんなものより、今日の宿代の方が大切だった。


 ほんの少し、無理のない範囲で低位の魔物を倒し、その報酬で安宿暮らし。

 現実を知り自分の分を弁えた冒険者の誰もがその暮らしを願う。

 だが、すぐに思い知る。

 そんな甘い話はないのだと。

 Cランク以下の冒険者の宿代は高額だ。

 常にダンジョンに潜り続けていなければすぐに枯渇する。

 野宿などしようものなら、冒険者のライセンスを提示しても自警団員に捕縛される。

 そうかと思えば、Aランク冒険者の宿代はジュース一本分程度だ。

 Aランクにもなれば、奥深くの手つかずの財宝を回収し多額の報酬を得ているのに。

 なぜか。


 宿屋の気持ちになってみればわかる。

 ダラダラとダンジョンを潜っては大した成果も上げず、気が向いた時にダンジョンに潜りそうでなければ部屋を占領して昼過ぎまで寝ている。

 そんなやつは邪魔なのだ。

 Aランク冒険者が貴重な財宝を持ち帰れば街が潤う。

 宿屋が高額な代金を受け取らなくても、街全体に金が余ればそれは宿屋の手元にも入ってくる。実質的な支払いがそれなのだ。

 街への貢献度が高いのであれば、貴重な部屋を埋めてもらう価値も出る。

 だが、名も無い一般冒険者に宿泊させて満室にしてしまい、Aランク冒険者に提供する部屋がないなどということはあってはならない。

 それを見越して空き室をストックしておいたとしても、空きがあると聞きつけた不良冒険者に多少のキズがあってもいいから宿泊させろと言われればそれまで。

 だったら最初から、低ランク冒険者の宿泊費を吊り上げてしまえばいい。

 Cランク冒険者でも、その金額を支払えるのであれば『客』たる資格ありと見なしてやる。支払えないのならどこへなりとも消え失せろ。


 ――誰が考えたのか知らないが。

 おかげで数十年前までは賑やかしとして存在できたにわか冒険者たちが、宿代を求めて実力不相応なダンジョンに潜り戦死する事例が後を絶たない。

 どこかの誰かが考えた冴えたやり方のせいで、

 今日も迷宮の奥で一宿一飯が欲しかっただけの誰かが死ぬ。


 だからシエルは思う。

 いつかおとぎ話のように、白馬に乗ったヒーローが現れて、この現実から自分を救い出してくれたらいいと。

 悪臭漂うダンジョンになんか潜らなくていい、街で平和に静かに慎ましく暮らせればそれでいい。

 魔術の才能がないという消去法で、掌が擦り切れるばかりの剣など握らなくてもいい。

 そんな日がくればいい。

 そう思いながら、虚ろな気持ちで、

 シエルは今日も剣を手に取った。




 獲物はシェルスパイダー。

 希少な鉱石を背負った、亀と蜘蛛を合成したようなモンスター。

 小型犬程度の大きさで素早く、遠距離から粘着糸や毒針で攻撃してくる。

 しかも甲羅の隙間から毒ガスを噴射してくる上に、短時間なら滑空飛行もする。

 剣士との相性は、悪い。

 粘着糸でこちらの機動力を奪われる可能性が高く、その糸を回避したとしても自分のポジションをかなり限定される。

 しかも遠距離から射出される毒針は視認しづらい上にこれも毒を帯びており皮膚をかすめただけでも視力が一時的に低下する。

 仮に接近できても毒ガスを撒かれて逃げられる。

 Bランク冒険者から討伐推奨とされるランク帯のモンスター。

 攻略方法は簡単で、どこのギルドでもすぐに教えてくれる。


 剣士は無理せず、魔法使いに倒してもらいましょう!



 ――それができないから困ってるの!



 最後に残った自分の相棒は死んだ。新たに自分と組んでくれる魔法使いもいない。

 当然だとシエルは思う。自分には、他者が剣士に求めてくるスキルがない。

 敵の攻撃を回避して切り込む機動力。炎も氷も弾く外骨格を打ち砕く豪腕。敵の弱点部位を正確に貫く刺突力。千本針のような連続投擲を阻み斬り払う防空制圏。

 何もない。

 岩壁を這っていたシェルスパイダーの八つの目がこちらを向いた。

 それと同時に、隙間から新たに二匹這い出てくる。

 臆病風とはよく言ったもので。

 その瞬間に、シエルの首筋をさっと冷たい風が抜けていった。

 剣士は自信が全てだと誰かが言っていた。

 シエルもそう思う。

 だから、その瞬間、シエルはダブルバインドに陥った。

 このシェルスパイダーを倒して宿代にしなければならないという現実と、


 ――嫌だ。

 逃げたい。


 その本音と。


 おそらくこの数十年で、露と散っていった数え切れないほどの冒険者と同じように、

 シエルは棒立ちとなり、襲いかかってくるシェルスパイダーの大きく開かれた顎、その銀色に輝く牙をただ見つめるだけの人形と化した。しかも最悪な一手を打った。

 目をつむった。

 戦場で、誰一人頼れるものなどない剣士が。



 助けて欲しい。

 誰でもいいから。

 この敵からだけじゃなくて、

 この世に蔓延るすべての邪悪から、

 私を、私だけを、

 守って欲しい――



 瞬間。

 風のように現れたその剣士が、シェルスパイダー討伐の手本を見せた。

 まず一刀のもとに一匹目のシェルスパイダーを両断した。魔物特有の複雑化し半ば融解した臓器を撒き散らしながら弾け飛んだそれに構わず、剣士は足下近くまで愛剣を斬り流した。

 空気が動く。

 逃げようと毒ガスを噴射したシェルスパイダーだったが、そのガスが男の剣にまとわりつくように絡み取られた。剣速で減圧した空間にガスが吸い込まれる。

 おかげでその男はマスクもしていない素顔のまま、毒を喰らわずにシェルスパイダーに接近していた。その黒い瞳が逃走に失敗し空中で身もだえするだけの存在に成り果てた敵を見た。

 今度のはさらに速かった。

 シエルが目を開けた時には、雷電のごとく迸った剣撃によって残った二匹の毒蜘蛛が真っ二つにぶち裂かれて壁に激突した後だった。粘液と、それに混じる小さな鉱石が、ゆっくりと地面に滴っていく。

 男の剣は、死神の指揮杖のように、柄も鞘も黒かった。

 ――黒剣。


 その場にへたり込み、まだ握っていた剣を情けなく、愛の欠片もなく取り落として。

 シエルは大きく息を吸った。吐く息が震えた。

 助かった。

 助かった――


 黒剣の剣士が、臆病風の剣士を見下ろしている。


「どうしてなんだろうな」


 剣を払って、鞘に収める。

 それが何に対しての疑問だったのか。

 呼吸するだけで精一杯の、その時のシエルには、わからなかった。

 あの酒場の一件を除けば。

 それが、ジャルムとシエルの物語の、始まりだった。


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