樒 しきみ

 移動から数週間が経った。ステンドグラスの下で藍は曙を待っていた。ロビーは相変わらず多くの神が行き交っていた。日が暮れて夜が始まったばかりなので、ステンドグラスは室内の柔らかな証明を浴びて静謐にそこにあった。


 藍は銀色の細いバンドの腕時計に目を落とす。シンプルな文字盤の上で華奢な針がちょうど六時を指す。


「よお。待ったか?」


 藍の前に現れた曙は、デザイナーの作業場で身に着けていた汚れたワイシャツではなく、落ち着いた雰囲気のきちんとしたスーツに身を包んでネクタイを締めていた。


「いや、時間ちょうどだ」


「じゃあ、行こうぜ」


 二人は連れ立ってエレベーターホールへ向かい、一つのエレベーターの呼び出しボタンを押した。


 天界と地上の間には神のみが利用する鉄道が走っていて、職場のエレベーターの一つに乗れば、その鉄道に乗ることができる駅にたどり着くことができる。


 すぐにエレベーターが着き、二人は乗り込む。エレベーターはチン、と音を立てて閉まり、静かに下降していった。数分でまた扉が開く。エレベーターから下りた二人を待ち受ける風景は、空に浮かぶ無人駅であった。


 柱に貼り付けられた時刻表によると、あと5分ほどで地上行きの列車が到着するようだった。群青がさよならを告げて、青藍せいらん紺青こんじょうが混じりあう。一番星が見えた。西の低い空には細い三日月が、まるで空に引っ搔いた傷のように金色だった。


くれさん、やっぱりきれいな空を描くな」


 感嘆のため息とともに曙はつぶやく。暮は二人の先輩であった。


「そうだね」


 藍は頷いた。時間帯が瞑と近いため、実際に暮の描いた空の中に行くこと今までなかった。管理員になるといいこともあるな、と藍はひそかに思った。


 列車が着いた。二人が乗り込むと列車のドアは閉まり、なめらかに出発した。眼下の街の明かりが近づいてくる。やがて列車はなめらかに速度を落とす。凪いだ海の上、鳥居の前に列車は止まった。この神社が神の鉄道の終着駅なのであった。


 神の列車は人間には見えない。しかし、時々神社にやってくる人間の中には、鏡のように凪いだ海に、空と同じ色のインクを一滴垂らしたかのような美しい揺らぎを見る者もいるらしい。


 二人は列車を降りて駅のホームにある鳥居をくぐる。曙は藍を神の食事処へと案内した。


 案内されたのは大きな窓から純和風な庭の見える個室だった。席は三つあり、すでに席に着いているものがいた。


しきみさん。いらっしゃったんですか」


 藍が言うと、席に着いていた女性が顔を上げる。紺色のスーツを着て、首元に細いネックレスが見える。緩やかに巻いた長い髪の間から上品な口元が微笑みかける。


「昨日、曙くんに呼ばれたの。久しぶりにいろいろお話させてもらおうと思って」


 二人が席に着くと、グラスが運ばれてきた。透明な液体は、観る角度によってさまざまな色に見えた。


「今朝の虹です。どうぞお召し上がりください」


 三人は乾杯をしてグラスに口をつけた。虹色の水はひんやりとしたまろやかさを持って藍の喉を通っていった。神に味はわからないが、美しいものを見ることは心が満たされるような気分になる。ある意味、神は芸術というものを食べて生きている。


「さて、月日は風みたいに流れていくね。すぐにたくさんのものが変わっていって、戻らない」


 樒が少し湿った唇を開いて言う。


「瞑くんは、たしかもう、瞑ではないんだっけ」


「そうです。これからは管理員の藍として仕事をすることに」


「そう。あんなに仕事熱心で職人肌だった瞑くんにとって、移動は気の進むことじゃなかったんじゃない?前さ、瞑くんがダブルブッキングした時に、急だったし私のほうの依頼はそこまで気にしなくてもいいよって言ったのに、瞑くんたら一時間通り雨を振らせてその後急に快晴にして、おまけに虹と彩雲の演出をするっていうめちゃくちゃな仕事したことあったよね」


 樒は昔のことを思い出して笑った。


「その日は、ある男の子が転校する前に好きな女の子に告白しなくちゃならなかったんです。雨が降ってきてそれをきっかけに傘を渡す、それを叶えるには雨を降らせなくちゃならなかった。しかし、同じ町にはその日が命日の女性がいたんです。どうしても晴れた空の下で死なせてあげたかった」


「虹と彩雲はさすがに空見上げて笑っちゃったよ」


「私の仕事は人間の幸せを創ることです」


「わかってるよ。完璧に美しい空だった」


 樒はまだ少し微笑みながら言って、一口グラスの中身を飲む。


「こいつ、ぶれないんすよ。移動した後もまっすぐやってます。俺にはできないな」


 曙は言った。


「違う、お前にもできる。やろうとしてないだけだ。絵の技術はあるのになんでもかんでもサイコロを振るお前の勤務態度はずっと気に入らなかった」


 藍はむっとして曙に言う。


「まだサイコロやってたんだ」


 樒は笑う。曙は何度か軽く頷く。


「依頼に真剣に向き合うことも大事なことはそりゃ俺だってわかってるさ。でも、所詮俺たちは空一つ。それしか創れないんだよ」


「そうだ。だけど、できることは全部やるべきだ。その日晴れていたら幸せになった人間がいる。その日曇りなら、雨なら、雪なら、それで幸せになれる人間がいるはずなんだ」


 曙は藍の目を見た。


「俺たちは神だ。神だけれども、全部の人間の人生に関与することなんかできない。誰を一番に幸せにしたらいいかなんかわからないし決められない。でも空は何もしてなくたってずっとそこにあるんだし、なんらかの色がついてる。俺はサイコロを振る。その目は常に平等で公平だ。幸せにできる人間がいるかもしれないし、いないかもしれない。出た目に従って俺は全力で絵を描く。人間を幸せにするために絵を描く。俺は人間を幸せにするためにサイコロを振るのさ」


「お前とはわかりあえそうもない」


「そうかな」


 日本風な庭で、鹿威しししおどしがカコンと音を立てた。さらさらという岩に染み入る水音がする。


「まあ、なにはともあれ、久々に見た二人がまだ仲良しそうでよかったよ」


 樒は言った。


「そう見えます?」


 樒は黒色のビジネスバッグに手を突っ込み、思わず顔をしかめる藍と、肩をすくめる曙の前に一枚の封筒を差し出した。


「瞑くんの役目が変わっただけじゃなくて、実は私の周りだって変わってるんだ。月に叢雲花に風ってところだね」


 曙が封筒を開けて中の書類に目を通す。藍はその横から覗く。


「えっ、くちなしさんが……」


「そう、来月引退するんだ」


 桅は地の神の一人で、ベテランだった。空の神である二人も名前を知っているし、人間の幸せへの細やかな心遣いや対応はあこがれの対象だった。藍は数年前会ったことがあったが、とても優しく、頼りがいのある包容力を持っていて、仕事が素晴らしく上手かった。


「今度、送別会をやるからぜひ来てみてよ」


 たくさんのものが絶えず変わっていく。一瞬として同じ空がないように、一瞬一瞬が不可逆な今なのである。


 気が付けば、夜は濃藍こいあいが混ざって深さを増していた。

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