宵 よい
「夕方は夕焼けとも夜ともつかない微妙な時間帯だ。だからといって繋ぎであることに甘んじて単純なグラデーションばかりで表現していてもだめだ。日本では夕焼けと夜の間をさす時間がちゃんと言葉として認識されているんだ。宵、そういう名前の一つの時間があるんだ。宵は夕方でも夜でもないんだ。宵にしか出せない色をもっと出してください」
藍は宵にキャンバスを突き返した。宵は唇を少しひん曲げるようにして立っている。3度目のリジェクトに不満を募らせているようだった。
「お言葉ですが、先輩。この作品はすべての規定値をちゃんと満たしていますよね。依頼内容にもちゃんと適合していますし、正直もう直す必要ないんじゃないかなって思います」
「宵、私たちの仕事は、」
「ああ、はい、人間の幸せを創ること、ですよね」
言いかけた藍の言葉を遮って宵は言う。
「先輩は本当にそればっかり言いますけど、こだわり続けてたら切りがないです。これ以上こだわることはつまり、インクをこれ以上使うということです。人間の幸せのために僕らがちゃんとデザインしていかないといけないのはわかってますけど、正直、今日の宵の時間は30分もないですし、これ以上の固執は必要ないと思います」
「時間の長短じゃないって何度言ったらわかるんだ。依頼をちゃんと見たのか?今日はある夫婦の結婚25周年なんだ。冷めかけている二人の仲を温めるのは夕暮れの日没を一緒に見るその瞬間だ」
藍は言ったが、宵にはもうその言葉は伝わっていないことが察せられ、黙った。口うるさい先輩と思われているのだろう。口うるさく、しかもデザイナーを辞めさせられた先輩。
「……わかった。今日はこれでいいです。次の作品に取り掛かってください」
藍はキャンバスを抱えて自分のデスクに戻った。
「浮かない顔だね。どうしたの?」
縹が声をかけてくる。クリップボードを抱えている。見回りが終わったところなのだろう。
「後輩が最後まで作品にこだわりをもって仕上げてくれなくて」
そうこぼした藍の手元のキャンバスを縹は覗き込む。
「ロマンチックな夕方だね。私はわりと好きだけど」
「私もこの絵は別に嫌いではないんです。しかし、なんていうか……」
「そっか、藍くんは前まですごく上手なデザイナーだったから細かいことが気になっちゃうんだね。まあ、管理員やってるとどう見ても手抜きの作品とか、新人のお粗末な作品も空に反映しなくちゃならないときが時々やって来るよ。時間は決まっているから反映するしかない。美しさという際限なき探求を口実にして、乱してはならない秩序を無視することはできないからね。そうなったときが私たちの仕事。今ある絵をどうロマンチックに見せるか。どれほどロマンチックに人間に届けられるか考えるの」
「私たちの仕事」
つぶやく藍に縹は頷く。
「そう。それが絵を描く以外のことをやっている管理員の役目」
藍はキャンバスを見下ろした。目立って悪い点はないが、同時に良い点もあまりない、そつのない絵がそこにあった。
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