晩 ばん
次に依頼が入っていたのは、
晩のブースは壁と天井すべてが黒に塗られている。近づいてよく見ればその黒の中にかすかに濃淡が見える。天井には細かな銀粉がちりばめられ、黒の世界のなかで、美しい星空となって輝いていた。
キャンバスも椅子も、画材を置く棚も、すべてが黒いものを置いていて、夜の中にいるような錯覚を覚える。晩は黒いワイシャツ、スラックスを着て、その上から黒のパーカーを着ていた。おまけに黒のマスクをしている。黒いパレットの上に黒の絵の具を絞り出す姿はもはや何をやっているかよく見えない。
「ああ……、瞑くん。いらっしゃい」
晩は縹と藍に気付いて振り返る。とろんとした目と柔和そうな顔が二人を捕らえる。
「あの、私はもう瞑ではなく、藍なのです」
藍が今日、会うデザイナーすべてに言っていることを言ってメモを渡すと、晩は藍の顔を見て何度かゆっくりと瞬きをした。
「……そう。瞑くん、デザイナー辞めちゃったんだ」
「移動があったんです。空様がそうおっしゃって」
藍が説明すると、晩は少し首をかしげるようなしぐさをした。
「そう。瞑くんの描く絵、すごくきれいだったけどな。……なんていうか、芸術に妥協しないっていうか、どこまでも真摯に美しさを描こうとするっていうか……僕はデザイナーの中では一番だと勝手に思ってた」
先輩の言葉に嬉しくなる。お礼を言おうと藍は口を開きかけたが、晩が言葉を続けたのでそれを呑みこまなくてはならなかった。
「でも、空様がそう言ったのなら、きっと、……瞑くんは空の神に向いていなかったんだろうね」
「先輩、それはなぜですか?」
晩は持ったままだった絵筆の尻を顎につけ、少し天井を仰ぐようにして少しの沈黙の後にゆっくりと言った。
「……瞑くんがデザイナーを始めたとき、僕は確かこういうことを君に教えたと思う。……良い作品を創れ。創った作品を見て、それがもし良い作品なのならば、その作品は少なくとも誰か一人の人生をなんらかの形で変えていなくてはならない……」
「覚えています」
「瞑くんは、いや、藍くんはまだ、良い作品を創れていないんだと、……藍くんのできる中で一番の作品は創ったことがないんだと思う」
「どういうことですか?私の作品はどの人間の人生も変えることができなかったということですか?」
藍は尋ねるが、晩は依然天井を仰いだままだった。少しの沈黙の後でまた晩が続ける。
「藍くんが良い作品を創るために、デザイナーという役目は合っていなかった。……そういうことなんじゃないかな」
「よくわかりません」
晩は首をかしげた。
「ただ、思いついたことを言っただけ。……僕もよくわからない」
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