壁を這う男 その四
百日紅教授の屋敷を調べた翌日の朝、私は寝床を出て着替えを済ませると朝食を食べるために事務所に入ろうと扉を開けた瞬間、部屋には煙が充満していた。
私は一瞬、火事かと思ったが、煙が晴れてきて目を凝らすと、先生が膝を抱え込んだあの奇妙な姿勢を取りながらパイプを吹かしていた。
この煙はパイプの煙らしい。窓も開けずに部屋に煙が充満するほど煙草を吹かすなんて不衛生だ。
私は窓を開けながら「先生、窓ぐらい開けましょうよ」と話しかけたが、先生は何の反応もしなかった。
その直後、大勢が階段を駆け上がる足音が聞こえてきたかと思うと、事務所に小汚ない身なりの十歳から十三歳ぐらいの六人の少年たちが入って来た。彼らを見ると、先生は立ち上がった。
「先生、この子たちは?」
「この子たちは俺に協力してくれる浮浪児集団“
先生が言うや否や、少年たちは来た時と同じように騒がしく駆け足で階段を降りていった。
「それと銀助」先生は遊撃隊の中で、一番年上らしい銀助という少年を呼び止めた。「今度からは情報を持ってきた者だけを報告に来て、他は通りで待っているんだ。いいな?」
「分かったよ、先生」と、銀助少年は階段を降りていった。
「どうして子供たちに銅鑼吉を探させるんですか?」私は再び先生に聞いた。
「俺は今、百日紅教授の奇行の謎を解くのに忙しいから、銅鑼吉探しは彼らに任せることにしたんだ。
それに、人間というのは、警察を見ただけで警戒して口が堅くなってしまう。オマケに警察は法の番人だから、法律を忠実に守ろうとして動きに制限がかかる。
だが、銀助たちは浮浪児という立場を最大限に活かして、法に縛られることもなく、どこにでも潜り込むことが出来るのさ」
先生はそう言うと、鳥羽青年から借りた日記を手にした。「さて、日記を読んで分かったことから、百日紅教授の身に何が起こっているかを推測してみたぞ」
先生は黒板に日付を書くと、学生に講義をする講師のような口調で話し始めた。「すでに知っているだろうが、鳥羽氏の日記によれば、彼が七月二日に木箱を触ったことで教授が怒り狂ったと書かれている。それ以来、十一日、二十日と九日目ごとに教授の感情の起伏が激しかったり、ろい助が教授に噛み付こうとするなど、異変が起こっていることが分かる。一番新しいのは九月四日と五日だが、その前は八月二十六日で、これも九日目だ。こうなると、これは偶然じゃなくて明らかに規則的に起こっていることだとハッキリ言える」
私はうなずいた。「病気の発作だとしても、規則正しすぎますね。まるで、副作用の強い薬を服用しているような……」
「その通り。恐らく教授は研究室に籠って、何かの薬の開発をしていたと思われる。そして、その薬を服用した結果、教授は副作用を起こして廊下を四足歩行で歩いたり、壁を這って三階まで登ったりするようになったんだろう。ろい助が教授に噛み付こうとするようになったのも、その薬が原因だろうな」
先生のあまりにも突拍子な推測に、私は呆気に取られた。「・・・・・・先生、本気で言っているんですか?そんな薬があるわけないじゃないですか」
「ワトソンくん。不可能なことを消去していって、例えそれがあり得なくても、そこに残ったものが真実なんだ。
まァ、次の火曜日までは何の展開もないだろうから、じっくり謎を解明することにしよう」
翌日、餅家町遊撃隊の正彦少年が〈ニニ一乙〉にやって来た。
「先生。頼まれてたモン、見付けてきたぜ」と正彦少年は先生に一枚の紙を渡した。
「ご苦労。これで菓子でも買って皆で仲良く分けるんだぞ」先生に小銭を渡されると、正彦少年は満面の笑みを見せて帰っていった。
先生が渡された紙切れを拡げたので、私も横から覗いた。紙には『
「これが百日紅教授に木箱を送っている銅鑼吉という人の住所ですか?」
「ああ、そうだ。珍しい名前だから、思っていた通り探させるのは簡単だったな」
「銅鑼吉はよろず屋だったんですね。だけど、大学教授とよろず屋がどう繋がるんでしょうか?」
私が聞いても、先生は聞こえていないようだった。まるで“心ここにあらず”といった感じで、黙りこくっていた。先生にも大学教授とよろず屋がどう関わっているのかが分からないから、思考にふけっているんだろう。
それから数日間、先生は椅子に深く腰をかけて膝を抱え込んで黙って一点だけを見つめてパイプを吹かせたりしていた。
最初は、どこか余裕ぶった感じの先生だったが、火曜日が近づくにつれて部屋の中をウロチョロ歩き回ったりして落ち着かない様子だった。
そして、月曜日の晩になっても何も分からず、先生はイライラした様子でパイプの吸い口をガリガリ噛みながら煙を出し続けていた。私はその様子を黙って見ていた。先生の仮説が正しければ、百日紅教授は何らかの薬を服用した結果、獣のような動きをしたり、壁を這ってよじ登るようになったそうだが、私にはどうしても信じられなかった。その仮説が正しかったとして、何故、教授はそんな怪しげな薬を服用しているのかも分からなかった。
私は寝る前に夕刊を広げて目を通すと、ある記事が目に入った。それは帝都の動物園から雄の猿が盗まれたという事件だった。
「虎井手警部が言ってた猿の盗難事件って、これか。また動物園から盗まれたみたいだ。でも、雄猿だけを盗んで何をしたいんだろう?飼育でもするのかな?」
私は独り言のようにつぶやいて、新聞を閉じようかと思った瞬間、先生は急にガバッと立ち上がり新聞を奪うように取り上げると、まじまじと読んだ。
「ど、どうしたんですか?」
新聞を読み終えると、先生はうつむいたまま部屋をウロウロと歩き回った。しばらくすると、口を手で覆いながら、蒼ざめたような興奮したような顔になって淡々と語り始めた。
「ワトソンくん、礼を言うぞ。君の言葉から、この事件の突破口が見えてきた。最近、刺激的な事件が起きなかったせいで、俺の頭脳は完全に鈍ってしまったようだ。・・・・・・君は百日紅教授の髪の生え際を見たか?」
「髪の生え際ですか?い、いいえ。見てませんけど・・・・・・」
「屋敷に飾ってある肖像画から見るに、教授は髪の毛が薄くなりつつあったのに、この前会ったときには毛の量がわずかながら増えていた。
それに、手の甲だ。教授の手の甲の毛は人間とは違う毛並みだった。あれは確か……、いや、そんなハズは無い。だが、にわかには信じられなくても、不可能なことを消去して、それがあり得なくても残ったものが真実だからな。クソッ!こんな簡単なことを見逃すなんて、俺としたことが迂闊だった!」
と、先生は珍しく声を少し荒げたが、すぐに落ち着いた。
「ワトソンくん、もし俺が事件の推理に手こずっているようだったら、耳元で『銅鑼吉』とささやいてくれないか?」
「わ、分かりました……」
「事件の全貌が見えて来たら、あとは行動に移すのみだ。明日は教授の屋敷に行く前に確かめたいことがあるから、君も付いてきたまえ」
「どこに行くんです?」
「銅鑼吉の店にだ。元・軍医の君の力が必要なんだ。念のために銃を持っていけ」
「そ、そんな物が必要なんですか?」
「ああ、何が起こるか分からないからな。明日は忙しくなるぞ」そう言うと、先生は初めて会ったときに壁に試し撃ちしていた杖型の銃を手にして、手入れを始めた。
私も銃の手入れをしようかと思ったが、もう夜も遅いので明日にすることにして、寝床に入った。
翌日、朝になったので起きると先生は出かけていた。私は朝食を済ませると銃の手入れをし始めた。よろず屋の店に行くだけなのに、銃が必要になるなんてこれから一体、何が起こるのだろうと考えながら先生の帰りを待っていた。昼頃になると、先生が戻って来た。
「先生、どこへ行ってきたんですか?」
「猿が盗まれた動物園にだ。鮮やかな手口だったよ」
「猿?百日紅教授の奇行には猿の盗難事件が関係していたんですか?」
私の質問に答える間もなく、先生のスチホから着信音が鳴った。先生が電話に出ると、拡声器状態にして私にも会話が聴こえるようにすると、鳥羽氏の声が聴こえてきた。
『宝積寺先生、今日も帝都から教授宛ての小包みが届きました。例によって、開封禁止の十字の印が書いてあったので、教授はすぐに自分の部屋に持って行ってしまいました』
「そうか。鳥羽氏、今晩にはその箱の中身と教授の奇行の原因が分かるはずだ。物的証拠が必要だから、教授が奇行を起こすところを見張っておく必要がある。そのためには、君にも寝ずの番をして教授に動きがあったら、俺に連絡してくれ。俺たちも外から、屋敷を見張るが邸内に警備をする人間はいるか?」
『馬小屋を寝床にしている
「それなら侵入は楽そうだな。夜までは何も起こらないハズだから、それまではゆっくりしていろ」
先生はスチホを切ると、私の方に向き直った。「ワトソンくん、夜になったら俺たちはまず、銅鑼吉の店に行くぞ。そこが片付いたら、次は百日紅教授の屋敷だ。それまでは、しっかり休んでおけ」そう言うと、先生は長椅子に横になると熟睡してしまった。
私は百日紅教授と猿の盗難事件が、どう関係しているのかが聞けずじまいだったが、起こすのも気が引けたので、このまま寝かせておくことにした。
そして、夜になり私たちは銃を懐に仕舞い、銅鑼吉が住む小間町に向かった。鹿撃ち帽を被り杖型の猟銃を持った鋭い眼光をした先生の姿は、まさしく狩人だった。
小間町の通りは薄暗く人っ子いない寂しげな感じがした。正彦少年に渡された紙に書かれた住所をたどり、〈よろず屋銅鑼吉〉に着くと先生は店の戸の前に座り込んだ。
先生は懐から革袋を取り出して、それを広げると針金や金梃子やら、針金が数本出てきた。
どう見ても、空き巣に入る道具にしか見えなかったので、私は嫌な予感しかしなかった。
「先生。まさか、店に忍び込む気ですか?」
「ああ、そうだ」
「『そうだ』って、それは犯罪ですよ!良いんですか、警察の顧問がそんなことをして?」
「大声を出すんじゃない。心配するな、やましいことを隠しているのは向こうだから、万が一、俺たちが返り討ちにあったとしても警察に連絡するような真似はしないさ。まァ、そうはならないけどな」
そう言いながら先生は鍵穴に針金を挿し込んでカチャカチャと動かすと、ガチャリという音がして、戸を静かに引いた。先生が抜き足差し足で店の中に入ったので、私も同じようにあとに続いた。
店内の棚には大量の雑貨や壺、瓶が入っていた。他には、鳥の剥製も置いてあった。店の奥に進むと、ある臭いに気付いた。
それは、戦場で嫌というほど嗅いだ臭い──血の臭いだった。ただ、それ以外にも別の臭いもした。これは牧場や動物園で嗅いだことがある獣臭だ
「何ですか、この店は?銅鑼吉は精肉屋もやってるんですか?」
私が小声で呟くと、先生は口に人差し指を当てて喋るなという身振りをしたので、私は黙って歩くことにした。
奥に進めば進むほど、血なまぐさい臭いと獣臭が混じった嫌な臭いが充満してきた。そして、先生が奥にある扉に手をかけて少しだけ開けると、何と、部屋の中には檻に入れられた様々な猿たちが騒いでいた。
その猿たちに囲まれる形で、面長で瓶底眼鏡をかけた背の高い老人が立っていた。
すると、裏口の扉が開く音がして、ゴロツキのような男が何やら布にくるんだ四角い物を大事そうに抱えて入ってきた。
「遅いぞ、銅鑼吉」と老人が言った。どうやら、あのゴロツキ風の男が例の銅鑼吉らしい。
「そう言うなって。動物園から盗むのは簡単じゃねェんだからよ」
銅鑼吉はそう言いながら持っていた布を解くと、中からは篭に入った猿が出てきたではないか。猿はぐっすりと眠っていた。
「さてと、それじゃあ始めようとするかの」老人が篭から猿を取り出して小刀を握った瞬間、先生が部屋に飛び込んだ。
「二人とも、動くな!両手を上げてこっちを向け」先生は杖を二人に向けると、二人組は驚いた。
「何だ、お前ら!警察か?」銅鑼吉が叫んだ。
「俺は宝積寺 進、警視廰の顧問だ。そして、後ろにいるのは助手のワトソンくんだ。俺が手に持っているのは、杖型の銃だ。ワトソンくんも元・軍医だから、射撃の心得はあるぞ」
そう言われて、私も先生を真似て銃を二人に向けた。銅鑼吉は素直に手を上げたが、老人は手に持っている小刀を離そうとはしなかった。
「そんな物で銃に立ち向かおうなんて、馬鹿な考えは捨てた方がいいぞ。さあ、無駄な抵抗は止めて、大人しく従ってもらおうか」
先生がそう言うと、老人は観念したかのように、やっと小刀を離して両手を上に挙げた。
「よし、そのまま後ろを向け」先生に銃を向けられながら、二人は命令に従った。そのまま、先生は檻まで誘導すると「この中に入れ」と言った。その檻には大型霊長類の
「入れって、この中に入るのか!?大猩々がいるのに!」銅鑼吉たちは蒼ざめた顔になった。
だが、先生はそんなことはお構いなしと言わんばかりにと冷徹な態度を取った。
「安心しろ。大猩々は温厚な性格だ。大人しくしていれば、危害を加える事はない。さあ、とっとと入れ」
哀れな悪党二人を大猩々の檻に入れると、先生はスチホを取り出して電話をかけた。
「警部か?俺だ俺。振り込め詐欺じゃない、宝積寺だ。忙しい時に悪いな。だが、緊急事態なんだ。例の猿の盗難事件の犯人を捕まえたから、至急、小間町の百四十四番地にある〈よろず屋の銅鑼吉〉という店に警官を向かわせてくれ。
それと、郡司刑事を連れて今すぐ倫敦駅まで来い。詳しい話はあとで話すから今すぐに来るんだぞ。いいな」
一方的に話して電話を切ると、先生は私の方に振り向いた。「ワトソンくん、いよいよ大詰めだ。俺たちも帝都駅へ向かうぞ」
「は、はい。でも、これから、何が始まるっていうんですか?一体、百日紅教授の身には何が起こっているんですか?」
「世にも奇妙な事件が起こるんだよ。物的証拠以外にも、警察が直接現場にいないと信じてもらえない、そのぐらい奇妙な事件がこれから起こるんだ。さあ、急げワトソンくん!グズグズしちゃいられないぞ」
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