壁を這う男 その参

 翌日、私たちは早起きをして朝食を早々に済ませると、百日紅邸がある剣津町に行くために身支度を始めた。

 先生は鳶外套とんびコートを羽織って、鹿撃ち帽を被った風変りな外出着になった。


「何で鹿撃ち帽を被るんですか?狩りに行くわけでもないのに」


「俺にとっては、事件の調査は犯人という獲物を仕留めるから、狩りも同然なんだよ。さァ、ワトソンくん。冒険の始まりだ」

 

 〈二二一乙〉を出て帝都駅の剣津行きの列車に乗ると、先生は提琴ビオロンの話をし始めた。先生は趣味で提琴の演奏をしているだけあって、音楽への造詣がかなり深かった。呉茂名クレモナの提琴のことや素寅楴張臼ストラヂバリウス天帝アマーティの違いを楽しそうに語った。が、私は音楽には疎い方なので、あまり楽しい時間とは言えなかった。


「先生、あれだけ興味深そうだったのに、事件については何も考えていないんですか?」


 私がそう聞くと、先生はこう答えた。


「材料が足りない。材料を集めないうちに捜査を始めるのは愚かな事だ。判断を誤るからな」

 

 結局、私は列車の中だけでなく、剣津駅を降りて馬車で百日紅邸に着くまでの間、ずっと先生から提琴の話を聞かされ続けた。

 百日紅邸は外壁が蔦に覆われた和洋折衷の三階建ての屋敷だった。馬車から降りると鳥羽氏といすゞ嬢が出迎えてくれた。


「お待ちしておりました先生、ワトソンさん」


「鳥羽氏、教授はいないだろうな?」


「はい。昨日、お話しした通り、お昼までは戻らない予定です」


「それじゃあ、早速、いすゞ嬢の部屋を見させてもらうぞ」


 先生は挨拶もそこそこにして、駆け足で屋敷に入っていたので、私たちも後を追いかけた。屋敷に入ると、階段の踊り場に飾られた初老の男性の肖像画が眼に付いた。恐らく、この老人が問題の百日紅教授だろう。

 私たちは三階まで上がると、右から二番目の部屋がいすゞ嬢の部屋だと教わり、その部屋に入った。先生は窓を開けて虫眼鏡を取り出すと、身を乗り出すようにして窓や外壁を念入りに調べ始めた。


「いすゞ嬢が言っていたように、蔦が剥がれている部分があるな。教授はこれを縄の代わりにして壁を這って登ったんだろう」


 私は蔦を引っ張って、その強度を確かめた。


「確かに、この蔦はかなり丈夫ですね。でも、これを縄代わりに登るのは教授のようなお年寄りには厳しいんじゃないでしょうか?」


「そうだな。蔦以外にも窓の上には送水管があるから、完全に足場が無いわけじゃないが、ここにブラ下がるのも至難の業だ」


 そう言うと先生は黙り込んでしまった。百日紅教授がどうやって、三階までよじ登っていったのかを考え込んでいるようだ。その時、屋敷の前に馬車が止まるのが見えた。それを見た瞬間、いすゞ嬢の顔が青ざめた。


「大変!あの馬車は父のです。いつもより早く帰ってきたようですわ」


 慌てるいすゞ嬢とは対照的に、先生は落ち着いた口調で「丁度いい、このまま教授に挨拶をすることにしよう」と言った。


「でも、見ず知らずの人間が家に訪ねていたら不審に思われるんじゃ・・・・・・」と私は不安になった。


「鳥羽氏。最近、教授が酷い興奮状態だった日はあったか?」


 先生の質問に鳥羽氏は慌てて日記を取り出した。「は、はい。えーと、最近だと八月二十六日がそうでした」


「好都合だ。そういう状態のときは記憶がおぼろげだから、会う約束があったので来たと言えばいい。それに向こうがどう反応するかで、教授が病気かどうかも分かるからな」


 そう言うと、先生は駆け足で階段を降りていったので、私たちも後に続いた。一階の踊り場まで来ると、玄関が開いて百日紅教授が入ってきた。


「いすゞ、鳥羽くん。今日は早めに戻れたから───」と百日紅教授は言いかけて、私たちに気が付くと不思議そうな顔をした。「おや、どちら様ですかな?」


 百日紅教授は肖像画と同じで、賢さを感じさせる広い額の持ち主だった。背が高くて威厳を感じさせる口ひげを蓄えていて、毛深い眉毛の下からは私たちを警戒する鋭く威圧的な眼光を放っていた。


「はじめまして、百日紅教授。俺は警視廰の顧問をしている宝積寺 進と申します。こっちは元・軍医のワトソンくんです」


「ホウシャクジ?」百日紅教授の目が警戒から敵意に変わったように見えた。「確か、警視廰には顧問探偵がいると聞いたことがありますが、あなたの事でしたか。それで、その顧問が我が家に何のようですかな?」


「妙だな。俺の記憶が正しければ、用があるのはあなたの方だったと思うのですが?」


「私が?」百日紅教授は驚いた様子だった。


「ええ。ある人から剣津大学の百日紅教授が俺に用事があると聞かされたので、ここへ訪ねてきたんですがね」


「一体誰ですかな、そんなことを言ったのは?」声色からも、教授が私たちを警戒しているのは明らかだった。


「それは言えませんね。俺の記憶違いなら、その人にもあなたにも迷惑をかけたくないから、このまま退散しますよ」


「あなたの話が本当かどうか確かめたいので、手紙などはお持ちですかな?」


「ありませんね」


「それは要するに、あなたをお招きしたのは私だという証拠がないということでしょうか?」百日紅教授の声が段々、苛立ち混じりになってきた。


「その質問にも答えられませんね。探偵には守秘義務というのがあるので」


 次の瞬間、百日紅教授は顔を真っ赤にして声を荒げた。「鳥羽くん!この二人は私に招かれて訪ねてきたと言っているが、私の手紙の中に宝積寺という人物へ宛てたものがあったかね!?」


「い、いえ。多分、無かったと思いますが・・・・・・」鳥羽氏は委縮しながら答えた。


「フン、やはりな!こうなると君の話はますます疑わしいな。出まかせを並べおって!!誰かに頼まれて私を調べに来たんだろう!」


「どうやら、何かの手違いがあったみたいだな」と先生は、ワザとらしく肩をすくめた。「ワトソンくん、ここにいる理由がないようだから、お暇しようとするか」


 先生が玄関を出たので私も慌てて付いていくと、百日紅教授が鬼の形相で追いかけてきた。「貴様!そんなことで済むと思っているのか!私は警視廰の幹部とは親しいから、貴様らが無断で屋敷に入り込んだことを話せば、不法侵入罪で訴えることも出来るんだぞ!」


「俺はその警視廰の顧問なんだがな」と、先生が悪態をつくような口調で言った。


 先生の態度に百日紅教授は激昂して、馬小屋に近付いた。そこには鎖で繋がれた犬がいた。この犬が百日紅教授に噛み付いただろう。


「とっとと失せろ!さもなくば犬を放すぞ!この犬は貴様らのようなコソ泥まがいの人間には容赦せんからな!」


 あまりにも乱暴な百日紅教授の態度に、私は思わずカチンときてしまった。


「言われなくても帰りますよ。あなたみたいな人間がいる所に長居はしたくありませんからね」


「何だと若造めが!生意気な口を叩きおって!」


 百日紅教授はますます顔を真っ赤にして目を充血させて、歯を剥き出しにしながら怒り狂った。その横では同じように、ろい助が牙を剥いて唸り声を上げていた。

 鳥羽氏といすゞ嬢が教授を宥めている間に、私たちは屋敷を出た。駅まで続く道を歩いているときも、私の腹の虫は治まらなかった。


「そう怒るな。俺の出かたもお粗末すぎた。あれじゃあ、警戒するなという方が無理だ」苛立つ私とは対照的に、先生は冷静だった。


「だからって、あんな風に罵倒しなくてもいいじゃないですか。あんなに短気な性格で、よく大学教授が務まりますよね」


「だが、いすゞ嬢の部屋を調べることと、教授に直接会って話をするという目的は達成できた。それだけでも十分収穫はあったさ」


 ここで「宝積寺先生!ワトソンさん!」と、ふいに呼ばれたので、振り返ると鳥羽氏が追いかけてきた。息を切らせながら、私たちのそばに来ると呼吸を整えた。


「先ほどは失礼いたしました。教授が失礼なことをしてしまって……」


 百日紅教授の代わりに頭を下げる鳥羽氏を見て、私は腹が立っていた自分が恥ずかしくなってしまった。


「いえ、気にしないで下さい。僕の方こそ失礼な発言をしてしまって謝ります。それにしても、物凄い剣幕でしたね。鳥羽さんが例の木箱に触った時も、あんな風だったんですか?」


「いいえ、僕が木箱に触った時でも、あそこまで怒りはしませんでした。何だか、日に日に感情の起伏が激しくなってるんです。僕といすゞさんが心配になるのも分かるでしょう?

 それで、教授に会ってみて何か感じましたか?ワトソンさん、やっぱり教授は何かの病気なのでしょうか?」


「そうですね・・・・・・。まだ推測ですけど、恐らく百日紅教授は心の病にかかっているんだと思います」


「と、言いますと?」


「教授は亜里子さんに振られて心に深い傷を負いました。それを忘れるために、研究室に籠って研究に打ち込んだけど、気持ちが晴れることは無かったから、自分の思い通りにならないと酷い癇癪を起こすようになってしまったんだと思います。犬のろい助が教授に噛み付くようになったのは……、言いづらいですけど憂さ晴らしのために、虐待をしているんじゃないでしょうか」


「いや、違うな」と先生が言った。「そんな単純な事じゃないと思う」


「どうして、そう思うんですか?」


「教授が求婚を断られて、その傷心で周囲の人間に八つ当たりするだけならワトソンくんの仮説でも成り立つ。だが、教授が真夜中に獣のような動きをするのも失恋が原因なのか?例え、ヤケ酒を呑んでそんな奇行を起こしたとしても、三階まで壁を這って登るなんてことは出来ないだろうな」


「う~ん、確かに……」私はぐうの音も出なかった。


「それに、分からないことがまだ二つもある」


「何ですか?」


「教授宛ての木箱だ。何故、教授はそんなに木箱を触れられることを嫌う?一体中身は何なんだ?窓以外に箱も調べられれば良かったんだがな……」


「もしかしたら、亜里子さんのことが諦めきれなくて、年下の女性と恋人になる方法とかが書いてある本を天贈あまぞんで購入したんじゃないでしょうか?そんな物を地位のある人が見られたら恥ずかしいでしょうし」


 と、私は仮説を立てたものの、変な空気が流れてしまい気恥ずかしくなったので話題を変えた。


「あと、もう一つ分からないことって何ですか?」


「犬が教授に噛み付くようになった理由だ」


「だから、それは教授がろい助を───」


「いや、虐待はしていない。犬の体に傷跡は無かった。なのに、犬は教授に敵意を剥き出しにしていた。さっきも、教授は俺たちに犬をけしかけようとしたが、あのろい助という犬は逆に、教授に噛み付こうとしていた。

 犬の性格は飼われている家庭に反映するんだ。陰気な家に人懐っこく陽気な犬がいるか?逆に幸福な家庭に惨めな犬はいない。気性の激しい人間に飼われている犬は人にやたらと吠えて、危険な人間の犬は危険だ。

 だが、ろい助はある日を境に教授に対してだけ凶暴になるようになった。だから、教授の奇行と犬の凶暴化は必ず関係しているんだ」


「そんなモノなんですかねェ……」私は訝しんだ。


 と、ここで鳥羽氏が懐から紙を取り出した。「忘れるところでした。教授は今朝、手紙を書いていました。それが木箱を送ってくる帝都からの人に宛てたものらしかったので、隙を見て吸い取り紙を取ったんです。こんなことは、教授にお世話になっている身としては、あるまじき行為だというのは分かっていますけど、こうなってはやむを得ませんから……」


 鳥羽氏は私たちに吸い取り紙を見せてくれた。そこには、『銅鑼吉』という珍しい名前が書かれていた。


「これは、“どらきち”と読むんだろうな。これだけ珍しい名前なら探すのは簡単そうだ。鳥羽氏、教授が犬に噛まれた日が詳細に書かれている君の日記を借りてもいいか?最初は事件とは無関係と思っていたが、今は事件を解く鍵になりそうなんだ」


「分かりました。教授のためでしたら何でもします」鳥羽氏は先生に日記を渡した。


「俺たちは、これ以上ここにいても何の収穫もなさそうだから、午後には帝都に戻る。俺の予想が合っていれば今度の火曜日あたりに、また何か起こるだろうな。

 そのときには、もう一度ここに来るから、それまでは辛抱してくれ。それと、ろい助が教授に噛みつかないように注意しておけ」


「はい。それじゃあ、僕はこの辺で失礼します。そろそろ戻らないと教授に怪しまれるので」


 鳥羽氏と別れた後、私たちは剣津町にある〈市松亭〉という食堂で遅めの昼食を摂ってから帝都に戻った。


 〈二二一乙〉に帰ると真麻さんから「お客様がお見えになっています」と言われた。


 二階に上がって事務所に入ると中には、何と警察官が二人も立っていた。一人は角ばった顔の厳つい男で、もう一人は新米警官という感じの青年だった。


「やっと帰ってきたか。待ちくたびれましたぞ、先生」と角ばった顔の警官が野太い声で言った。警官は私に気が付くと不思議そうな顔をした。「ん?お前さんは見かけねェツラだな」


「お互い初対面だったな」と先生が言った。「警部、彼はワトソンくんといって日清戦争帰りのしがない元・軍医で今はうちの居候だ。

 で、こっちの角ばった顔が虎井手錠次とらいで じょうじ警部で、頼りなさそうな方は郡司友康ぐんじ ともやす巡査だ。

 この二人は能無しの上に、俺のやり方に批判的な警察官の中じゃ数少ない理解者なんだが、警部は科学が進歩した今でも“刑事の勘と読み”なんて根拠のない捜査方法を未だに信じているんだ。郡司巡査も警官になり立てだから捜査に関しては素人同然でね。だから、捜査に行き詰ると二人揃って俺に泣きついてくるのさ」


「ちょっと、そんな言い方ないでしょう」と郡司巡査は顔をしかめた。


「お互い酷い紹介をされましたね・・・・・・」私は協力者───それも警察をこき下ろす先生に呆れかえった。


「そうだな。まァ、今後ともよろしく頼むぜ軍医殿」と虎井手警部は言った。私は正確には“元・軍医”なのだが。


「で、警部たちは一体何しに来たんだ?」と、先生は聞いた。


「百日紅教授から警視廰に苦情が来たんですよ。教授は大変腹を立てていましてな。『宝積寺という警視廰の顧問が無断で屋敷に押しかけてきた』って言ってよ、それで注意しに来たんです。しかも、先生は教授をまるで犯罪者を見るかのような眼で見ていたそうじゃないですか」


「警部。これにはちゃんと理由があって───」と私は弁解しようとするも、警部に遮られた。


「勿論、先生が意味もなく人の家に入ることをしないのは百も承知だ。だがよ、百日紅教授は警察幹部とも太い繋がりを持っているから、苦情を無視するわけにはいかねェんですよ」


「とにかく、言うことは言いましたからね。これ以上教授を怒らせるような真似はしないで下さいよ。僕たちも、こんな使いっパシリみたいな仕事は嫌なんですからね」と郡司巡査が愚痴混じりに釘を刺した。


 二人が事務所を出ようとしたとき、虎井手警部が振り返った。「そうだ、忘れる所だった。百日紅教授のことを調べる代わりに、最近多発している猿の盗難事件の捜査に力を貸してくれませんか?」


「猿の盗難?」私は首をかしげた。


「ええ。最近、帝都の動物園から猿が盗まれる事件が何件も起こっているんだよ。それも、大人の雄猿だけを盗むんだ。俺たちも必死に捜査してるんだが、犯人ホシがまだ捕まらなくてよ……。それで、先生に協力してほしいんだよ。どうですか先生。興味が湧きませんか?」


「断る。猿の盗難事件の捜査なんて、俺の仕事じゃない」と先生はあっさり断ってしまった。


「言うと思いましたよ。……ま、気が変わったら連絡してくだせェ。行くぞ友康トモ


 警部たちが事務所を出た後、しばしば沈黙が流れた。


「どうします?このまま教授の身辺調査をやめるんですか?」私は先生に問うた。


「やめるわけないだろう。俺は一度始めた捜査は、謎を解き明かすまで絶対にやめないんだよ。警察を介入させてまで、調査を妨害しようとするなんて、よっぽど後ろめたいことがあるんだろうな。

 この依頼、ますます面白くなってきたぞ」と、先生は不敵な笑みを浮かべた。

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